第三章 二節
風が吹いている。
なびく髪を耳にかけながら、佐保は二人のやりとりを注視していた。意味のわからない言葉もあったが、屋敷に客人がいるのは理解する。
「玉蘭。佐保を」
急に名前が出てきて佐保は驚いた。李彗は玉蘭から佐保に視線を移して言う。
「佐保、先に入りなさい」
有無を言わさない様子に思わず佐保は頷き、玉蘭に連れられ中に入った。佐保は後ろを振り返る。李彗は中空を見据えたまま、こちらを向いてはいなかった。
李彗が部屋に入ると、中央に置かれた机の前で、白ひげの老爺と厳しい顔つきの壮年の男が立っていた。
「苑海、それに曹達か」
そう呼ぶ李彗に、老爺――苑海は目を細め、一礼した。苑海の隣にいる曹達も頭を垂れた。
「一年ぶりでしょうか。お久しゅうございます、若君」苑海は顔を上げる。「お元気そうで、何よりでございます」
「お前も息災であったか」
李彗は言いながら二人に着座をすすめ、自らも腰を落ちつけた。
苑海が笑う。「なかなか迎えがきませんで。もはや死に損ないの部類ですかな」
「よくここまで来たな」
溜め息まじりの李彗の口調は、ねぎらいの感情がこもっていないと丸わかりだった。しかし苑海は気にせず微笑んでいる。気難しい表情をしていた曹達は、ようやく言葉を発した。
「若君、久しくあられる。再会を懐かしむのもほどほどに、申しあげたい」
すると苑海が机の湯飲みに手を伸ばして言った。
「興趣をそえて本題に入るのもよかろうて。曹達殿の気みじかなことよ」
「私も気の長いほうではない」
李彗は言って、部屋の入り口で控えていた伍祝と博朴に目配せをした。心得たように彼らの行動は迅速で、隅で茶器の準備をしていた蓉秋も二人とともに部屋を辞した。
「……これでは老いぼれに勝ち目はありませんのう。しかたない」
様子を見ていた苑海が苦笑する。彼は茶をひとくち飲んで湯飲みを戻すと、笑みを消して隙のない顔つきになった。
「まずは、こたびの拝謁のかないましたこと、まことに重畳にございます。若君におかれましては、略儀と相成り申した無礼についで、言上のお許しを請いとうございます」
「結論から言え」くどい口上に李彗はあきれ、それだけ促した。
「では」苑海は一息おく。「内示をあずかっております。仙籍を許す、と。若君には今一度、お戻りいただきたく……」
しばらく黙っていた李彗は「時宜か」と声を出した。
苑海が大いに頷く。
李彗は目を閉じ、ゆっくり開けると言った。「私の考えが変わったと言えば……どうする?」
「何を」と、眉根を寄せて声をあげた曹達。
「ほう」苑海は問うた。「つまりは、ここで余生を過ごされると?」
「そうだな」
「若君。ならば、何のための……!」
怒りのあまり曹達は言葉を失い、代わりに苑海が話をした。
「道を正し、救うべきと思われませぬか」
李彗は答える。「ではきくが、いたずらに民を陥れる我々はいかにして申し開きする」
「なるほど」苑海が頷いた。「しかしすべては必定。今しがたのお言葉が、私どもへの戯れならいざ知らず、民の行く末をご想像なされたかとお尋ねしたい」
「父君のために功を挙げ、尽くすが子の命であろう。その名は伊達か」
曹達の興奮冷めやらぬ口調に、李彗は嘆息してみせる。
「安易な挑発にのるほど、私は愚かしく見えているようだ」
「そうも言っておられませぬ」苑海も溜め息を吐いた。
曹達が説明する。「このほど賦役の見直しがされた。それに伴い成人の年齢を引き下げては、ますますの苛斂に勤しむ愚策ぶり。民を弄するも、はなはだしい」
李彗はあいづちもなく眉根を寄せ、目を閉じた。
東青国では、成人男女が税を納めると規定している。それは主に労働からなる賦役と金銭からなる税収で成立していた。賦役における労働は、子供を頭数に入れてはいない。が、子供と定義する年齢を下げたのなら、世帯あたりの成人人数が増え、結果、税の負担と労働が増える。
李彗が目を開けると、苑海の圧迫感をもつ視線と重なった。
「……お父上は心待ちにされておいでですぞ」
「重祚召される余力は、おありか」李彗が尋ねる。
それは、再度の君臨を意味していた。
苑海は答える。「叶いませぬ。いえ、叶ったとしても、長くは持たぬと」
「仙籍を……昇殿を許すというのは、そのためだ」曹達がつぎ足した。
「我らに、呼ぶ機会を与えていただきたいものです。皇嗣、と」
苑海がたたみかけ、李彗はますます眉間にしわを作った。黙る彼に、色よい返事を期待して苑海はさらに言いつのった。
「弟君を排され、天位におつきくださいませ……殿下」
室内は気味の悪いほど静まりかえっていた。
「……簒奪せよ、か」
李彗が言うと、苑海は肯定を示す。
「どうかご決断を」
李彗は返答せず、風が窓をきしませるのを聞いていた。はたしてどれくらい話しこんでいたのかすでに西日が差しており、彼は客人らの前で立ちあがる。部屋に張りつめていた緊張感が失せると、苑海が軽やかに声をかけた。
「老いぼれは言うだけ言えて幸いですが……ちと、満足にはおよびませぬ」
老爺に背を向けた李彗は、窓に寄りながら言った。
「酒でも飲んで夜を明かせ。一晩ほどなら、もてなそう」
「ありがたきお言葉。若君のお心遣い、感涙にございます」大仰な礼をとった苑海は、続きを口にした。「ですが、酒も涙も皇宮にて惜しみなく費やしとうございます」
李彗は振り向く。「ならば、船に待たせた連中と帰ったらどうだ」
近い人里でも、山を越えたその先はるかな距離にある。苑海と曹達に随行する者たちも含めれば、船を使用しているだろう。
提案を受けた苑海は目を伏せた。「長旅で従者も疲労がたたっておりますのに、そこを追いだすとは……なんと殺生な」
「……催促か」
「はて」
ぽつりと聞こえた声に李彗は観念し、口達者な老爺との言いあいを早々にあきらめた。
「わかった。従者ともども泊まり、疲れを癒したら帰れ」
よいか、ときいた李彗に、苑海はとぼけた顔をしながら両手で抱えた湯飲みをのぞきこんでいた。
「満足するまで、居座りますかな」
李彗は嘆息する。引きさがる気をなくした苑海は、手に負えない。李彗は彼の横にいる曹達を見るも、こちらも似たような性分であったのを思いだし、さらに大きく息を吐いた。
「頑固者どもが」
その声は、二人を屋敷へ招き入れるに等しかった。
「お世話になりますぞ」
同じ言葉を数ヶ月前に聞いた。あのときは心地よく思ったが、言う人間でこれほど違うものかと、苑海の勝ち誇ったような笑顔を前に、李彗はあきれはてた。
屋敷の主人から了承を得た苑海と曹達の行動は速かった。あっという間に部屋を確保すると、従者らに荷をほどかせる。
手伝いのため部屋によこされた蓉秋も出る幕がなかった。さっそくくつろいでいる二人の姿を前に、李彗のそばに控えた伍祝は苦笑しており、彼に耳打ちする。
「住みつく勢いですね」
それには李彗も同意見である。
伍祝の言葉が聞こえていたのか、苑海は声をかけた。
「ご返答によっては喜んで出て行く所存。道をお示しになられるのを、お待ち申しあげておりますぞ」
苑海の苦言は、まったくもってそのとおりだった。李彗自身もわかっている。なぜ速やかに動くべきところを、わずかでも引きのばしたのか。それは、ことを運ぶために必要な整理があるためだ――李彗はそう納得しかけたが、思わぬ影が思考にちらついたのも理解していた。いつの間に存在していたのだろう、彼は胸に浮かんできた少女の言葉をなぞらえ、自身の姿をあざけった。
「心とは別のところにあるだけだろうな」