第三章 一節
佐保は、自分の名を呼ばれた気がした。こだまのように響く声はよく知っている人のものだ。懐かしく思っていると、また呼ばれた。今度は風に連れ去られたのか、小さな声だ。佐保は耳をすませる。風の音しか聞こえない。すると先ほどまで聞こえていたのがどんな声で、なぜよく知っていると思ったのか、途端にわからなくなった。
(あ、そうか)夢うつつのなか、佐保は納得した。
母が言っていた。思いだせなくなるのは声だ、と。確かにそうだ。佐保は今しがたの声を亡くなった父だと感じたが、本当にそうなのか断定できなかった。
こうして忘れていき、いつか母と姉の声も思いだせなくなる日を迎えるのだろうか。佐保は目を閉じたまま眉を寄せた。
冴え冴えとした現実感に直面した彼女の意識は、浮上を試みる。風が揺れて、花の香りが立ちのぼり、周囲の気配が変わる。木漏れ日のなかでまどろむ彼女の頭上に、ふと影が差した。佐保、と声がする。この声は現実だ。彼女は働かない思考で、そう思った。
再び呼びかけられ、佐保は目をゆっくりと開けた。横を見上げれば、木に寄りかかって立つ李彗と視線が合った。同じ木に背をあずけて座っていた佐保は、真正面に広がる景色に目を向ける。
「夢を見ていました。夢でもいいから、叶えたい願望……の夢」
李彗も前を向いた。「まさに夢見たこと、という意味か」
返答を理解した佐保はくすくすと笑い、色とりどりの花々を眺めた。ここは花の咲く山麓だ。佐保はたびたび李彗に、この場所へ連れてきてもらっていた。
「どこを見ている?」李彗がきいた。
「遠く」佐保は簡潔に答える。
二人は野花で埋めつくされた一面を同じように見ているつもりが、違った。彼の質問したとおり、佐保の視線は遠くとしか形容しきれない、どこかずっと遠いところに向けられていた。
「……半年か」李彗が、つぶやく。
佐保は前を向いたまま微笑んだ。気づけば半年。この世界で過ごし、半年も経っていた。そのあいだに収穫する作物が変わり、穏やかな季節の移ろいを生活のなかで実感している。
「人の順応って、すばらしいですね。心とは別のところにあります」
心の準備が伴わなくとも、なじむための努力をすれば否応なしに身につくものだ。半年間を思い返した佐保は、陰りのさした表情で笑う。
「この世界は、穏やかに時間が流れている気がして。きっと私には、あちらより合っているんです。だから……」
佐保の言葉が途切れた。
「人の順応は、感情とは別のところにあるだろう」
彼女の言葉を使って切り返した李彗に、佐保は微苦笑を浮かべた。
「いずれ感情を伴って、この世界を受け入れるのだと思います。だって嫌いではないもの」
そう言った佐保は、隣から離れる李彗を見て腰を上げた。
「帰るんですか?」
「かまわないなら」
短いやりとりを交わしながら、二人は休ませている馬のもとへ歩く。
「夕食前に、飛泉さんが勉強をみてくれるんです」
佐保の発言に、李彗は思いだしたことを口にした。
「そういえば、お前をほめていた」
慣れたように馬にまたがった佐保は、同じく後ろに落ち着いた李彗へと声をあげる。
「……何が目的かしら」
怪しむ佐保に、李彗は笑い声をもらして馬の腹をかかとで叩いた。
馬上で振動を感じながら、佐保は考えていた。後ろにいる李彗のことだ。最初は玉蘭と行動をともにしていたが、暮らしているうちに散策や食料採取は李彗と出かけるようになった。彼といることに、佐保は特に緊張もしなくなったが、代わりにほかの感情を抱いている。
彼のそばが心地よいと思い始めたのはいつからか。自問しようにも答えは出ず、佐保は静かに息を吐いた。佐保にとって李彗は、帰れない事実を教え、現実を突きつけた相手だ。寡黙ではないが口数の多いわけでもない彼を、以前はどことなく苦手と感じていた。見透かすような茶色の双眸もそうだ。佐保の嘘を見抜いたり、何を考えているのかわからなかったりと、彼との距離をつかめずにいた。
そうして落ち着いて考えると、ふと佐保は、ききたかったことを思いだした。
「李彗さん。ここにきて初めのうちに私、落し物をしたから外に出たいと言ったの、覚えていますか」
「ああ」
ささいなことだが、頭の隅に引っかかっていたのだ。佐保の言葉を、なぜ嘘だと確信していたのか。
それを尋ねると、彼は「語順だ」と答えた。首をかしげる佐保に、李彗は言う。
「おおかた嘘の見わけは、目と耳から判断材料を収集する。準備に余念のない嘘は暗唱したようになめらかだし、突発的な嘘は信憑性を増そうとするため口数が多くなると思うがな。とはいえ、理屈と相反するが……勘の手伝うこともある」
「そう」佐保は力の抜けたような声音で言うと、苦笑した。「でも、答えになっていません」
「だろうな」李彗が軽やかな口調で同意する。
彼はそれ以上を教えてくれないだろうと判断した佐保は、馬上から望む風景に目をやりながらあきらめまじりに質問した。
「嘘をつく人間は、ほめたものではないと思わないのですか」
「利害によるし、私情による」考える素振りも見せず、李彗は端的に答えた。
呆気ない回答に、佐保はぐるりと周囲を見渡していたのをやめてつぶやく。
「……私、ご迷惑をおかけしてばかりですね」
帰れない事実を聞いて泣きわめいたことを思いだした佐保は、李彗にばかり醜態をさらしていると感じた。こぼれた言葉は自省の念ゆえだ。
佐保の話に耳を傾けていた李彗は、ゆっくりとした口調で告げる。
「世話をやくのは苦でない」
首だけでも振り向こうとした佐保だったが、李彗が声を落として続けたので前を向いた。
「兄というのは、このようなものであったのかもしれぬな」
「はあ」佐保は返事をしながらも何かが胸をかすめた。
いつの間にか風を切って進んでいた馬が並足となり、やがて歩を止める。屋敷を目前に、佐保と李彗は馬から降りた。
彼女は李彗の隣に立つ。先ほどのやりとりから生まれた得体の知れない気持ちを自覚して、その答えを求めるように彼を見た。李彗は、彼女の視線に気づく。
「どうした」
「いえ」首を振った佐保は、足もとを見つめた。
屋敷の門の内側に踏みこむと足音が聞こえてくる。佐保は顔を上げた。玉蘭が駆けてきていた。普段の所作からは想像もつかない焦った様子に、李彗も不思議そうな顔をして、佐保と顔を見合わせる。
彼に近寄った玉蘭は、緊張した面持ちで言った。「李彗様。使者をお通ししております。火急のご用です」
李彗は反応した。二人の変化に、佐保は彼らから少しばかり下がり、距離をとる。
「なんと?」李彗の声が響いた。
短く問うた彼に、玉蘭はうやうやしく頭を垂れ、告げた。
「……仙籍を許す、と」