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異境譚  作者: おでき
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第二章 五節

 基本的な生活様式への慣れに一月以上を要した佐保にとって、新たな学習とその習得は遅々としていた。今も、投げだしたくなる衝動に駆られながら、彼女は机に向かっている。

「なんだ、この奇怪な文字は」

 彼女がそう思うのは、ひとえに飛泉の発言にあった。

「練習中です」

 何度も使い続けている返答は、反射のように備わっていた。筆を持つ手に集中したい佐保だが、脇から飛んでくる言葉は気遣いのかけらもない。

「団子を作れとも、虫を這わせろとも助言した覚えはないぞ」飛泉が言った。

「練習中です」口にしながらも、佐保は書いた文字をしげしげと見つめる。

 確かに彼の言葉は言いえて妙だった。一点にだまができたり、小筆のあとがにじんだりと、文字のそこかしこが奇妙なのは書いた本人にも十分わかる。

 しかしながら、たびたび彼女を小馬鹿にする飛泉も、李彗が様子を見にくれば大人しいものだ。これならば李彗も同席してほしいと思うが、同時に、学んでいる姿を見られるのには抵抗がある。失敗を披露するのが嫌なのだと佐保自身は考えていた。

 新しい環境に順応しようとし、複雑な文字を勉強し、洗濯板に苦戦し、農作物を育て、知恵と知識を基礎から頭につめていく。生活のすべを身につけるなか、特に文字の読み書きについては多くの時間を費やしており、近頃は飛泉が勉強をみていた。そのため佐保は、いっこうに軟化することのない彼の態度と憎まれ口にも耐性が生まれつつある。そうして一日が終わるのだ。ここには遊ぶ場所も、出かける場所も、何もない。

 だからなのか、単調な暮らしにおいてはおしゃべりの時間が大きな娯楽に思えてくる。

 ある日、いつものごとく字を教えていた飛泉と入れ替わりで、蓉秋が部屋を訪れた。手には橙色の果実が乗っている。彼女から一つもらった佐保は礼を言い、食べてみた。

香橘(こうきつ)っていってね。甘いだろう?」

 蓉秋の言葉に、佐保はみかんを思いだした。形、味、匂い、すべてがそっくりである。ほのかな酸味と果汁の甘みを口にすると、懐かしい気持ちになった。

 佐保から離れた蓉秋は、机に置かれた紙に目をやる。

「簡単な文字はうまくなったじゃないか」

「あんまり進歩ないですけれど」

 肩をすくめて苦笑する佐保に、蓉秋は「なに、ゆっくり学んだらいいさ」と、のんびりした口調で言った。

「はい」佐保が答える。

 彼女はようやく、自分の力で得ていく作業をおもしろいと思い始めていた。

 佐保の返事に、蓉秋も香橘の皮をむきながら話をする。

「飛泉もね、なんだかんだで楽しそうだから」

「はあ」食べようとしていた手を止め、佐保は言った。

 飛泉を思い浮かべるも、不機嫌な顔しか出てこない。しかしきっと母親には、息子のあの表情からでも楽しい雰囲気を見いだせるのだろう、と彼女は納得しておく。

「まあ、もの珍しいのもあるんだろうけど。根気よくつきあってくれるさ」

「……はあ」

「ああ見えて気が長いから」

 それには返事をせず、彼女は黙々と香橘を食べだした。


 いつの間にか季節が替わろうとしていた。といっても気温にさしたる変化はなく、亢県は年中過ごしやすい。農作物の収穫にも自生の食料採取にも恵まれ、最近の佐保はそういった手伝いをしている。今日もまた、李彗と食用の植物をとりに出た。採取した山菜や果実を入れる籠を馬の両脇腹に吊るし、李彗が手綱を引く。佐保は馬をはさんで反対側を歩いた。

 しばらくして李彗が手綱を枝に引っかけ、身の丈の倍ほど高さがある木々を分け入って進んだ。奥には実のなる樹木があり、二人は近寄った。

「これは初めて見ました」彼の後ろから歩いてきた佐保は樹木を見て言う。

「羅漢樹だ」小刀を持った李彗は、手際よく実をいくつか枝から切り離した。

 果形は彼の手におさまるほど小さな球体で、なめらかな表面は茶色とも緑ともつかない色だ。

「食べられますか」

「生食には向かないがな」

 佐保の質問に答えながら、李彗は馬へ視線をやった。吊るした籠はどちらも中身がいっぱいだった。

「あの」佐保は持っていたハンカチを取りだす。「これ、使いましょう」

 彼女の示したものに、李彗はすぐさま「待て」と声を出した。制された佐保は李彗を見上げる。

「よい。それは、しまえ」李彗が言った。

 見せられたハンカチは、彼女のいた世界から持ちこまれた数少ないものだ。彼でなくとも、肌身離さず忍ばせているのだろうと容易に想像できる。だが佐保は、李彗の気遣いに応えるつもりはないらしかった。

「いいんです」ハンカチを広げた佐保が、穏やかに言う。

「しかし……」

 李彗が探るような視線を佐保に向けると、彼女はより具体的な言葉で提案してみせた。

「これに包んで持って帰りましょう」

 李彗は、ためらう。「大事なものだろう」

 佐保は肯定とも否定ともつかない曖昧な動きで首をかしげ、彼の手から奪うように取った果実をハンカチに包んでいった。

「帰りましょう、李彗さん。私、おなかがすきました」

 困ったような笑みを浮かべる佐保に、李彗は一度口を開いて閉じる。そして、目を細めると「ああ」と頷いた。二人は帰路につく。

 それからしばらくして、佐保はこの世界にきて初めて季節をひとつ越した。

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