第二章 四節
馬の、土を蹴る音が途絶えた。栄古も止まった。佐保が「あ」と、声をあげたからだ。李彗の手を借り、馬から降りた彼女は口を開いた。
「ここのような気がします。きっと、この周辺のどこか、です」
岩木と、緑の濃い周囲をゆっくり見渡した佐保は、力なく笑った。
「うまくいかないものですね……少しだけ期待していました」
ありえない事態でここに連れてこられたのだ、目覚めた場所に戻ればもしかすると帰れるのでは……というわずかな期待があった。
彼女のそばで、李彗と栄古は黙している。
「ああ……」
落胆と悲痛を吐息にのせた佐保は、くずおれそうになる。しかし手前で、李彗が彼女の腕をつかんだ。佐保は李彗を見上げると、自らの腕を引いてつぶやく。
「少しだけ、一人に」
――させてほしい、という懇願は聞き届けられなかった。
「一人になりたいとは思えない」李彗が腕をつかみ返す。
佐保の視界の隅では栄古がそろりと消え、李彗と二人きりになった。
「……嘘ではありません」
弱々しく抵抗する佐保に、李彗は「そうだな」と言い、彼女を抱きよせた。佐保の背中に腕を回すと、彼は穏やかな口調で告げる。
「嘘であってほしいという私の願望だ」
佐保は、李彗の胸のなかで口もとを苦しげに緩め、泣いた。
しばらくして佐保は李彗から離れた。李彗はじっと彼女を見つめている。佐保は自身の行為にひどく動揺し、頬を赤くしていた。恥ずかしくて、しかたがない。
そこへ急に、李彗がぽつりと言った。「つらいな」
佐保は、駆けだしていた鼓動を引きずったまま考える。その言葉が無神経だとも、あるいは彼になぐさめられたとも思わなかった。たった一言で、代弁された気分だった。
「大事なものほど失うと恋しい。恋しくて、憤る」
佐保は、うわずった声できいた。「何を、おっしゃりたいんですか」
「お前は悪くない。それでいい」
たえきれず佐保がうつむく。「私……」
帰りたい、という言葉はもう吐けなかった。きっと今なら、どんなに叫びわめき散らしても、彼は何も言わず受けとめてくれるだろう。だからできなかった。佐保はその代わり、かたく両手の指を組み合わせ、つぶやいた。
「こんなの、あんまりだわ。帰れないなら、せめて……私は元気だよって伝えたいのに」
「……ああ」
李彗の声音で悟る。それすら叶わないのだ。佐保は目を強くつぶった。
「寂しい……」
向き合った感情は、彼女がずっと抱いてきたものだった。胸にくすぶる気持ちを初めて他人に吐露すると、より間近に「それ」をとらえることができる。
そうか、私はひとりなのだ、と。
佐保は唇を噛む。これ以上、泣き面をさらすのは嫌だった。熱をはらんだこめかみごと、目もとを手でぬぐう。
佐保からそっと離れた李彗は背を向け、馬の手綱を引いていた。それから近くに戻ってくると、彼は「よいか」と言った。もう少しここにいたい気持ちもあったが、佐保は馬にまたがった。
「あの、栄古さんは?」控えめな声音で彼女は尋ねる。
勝手に行ってはまずいだろうと心配したが、彼女の後ろに乗った李彗は言った。
「問題ない」
景色が動きだす。すぐそばから聞こえた声は優しげだった。
「あれは野生の猛者だぞ。においで追いつく……おそらくな」
最後のいいかげんな一言に、佐保は小さく笑った。
来た道をたどっていないのはすぐに気がついた。しばらくすると景色が急に開け、一面に広がる野花が姿を現す。どれも丈の低い種類ばかりで、馬から降りた佐保は足を踏みいれた。風に揺れるたび花弁の濃淡が波のようなうねりを起こしている。
「すごい」佐保は吐息をもらす。
ここは山麓らしく、山々と岩稜が遠く連なっていた。空は、薄い水色から青まで広がっている。晴天にさえぎるものはなく、花の色はいっそう鮮やかに映えた。
「すごく綺麗」
高揚感をにじませるも、佐保の声は先ほどの気落ちを隠しきれない。佐保が李彗へ振り向くと、彼は一言「そうか」と穏やかに告げて佐保を見守っていた。
中天から傾く日の光を浴びる頃には、帰路についた。その道すがら、栄古はふらりとそばに戻ってきた。佐保は、栄古に気遣われたことを思ったが、何も言わないでおいた。
屋敷に着くと、いつかのように伍祝と玉蘭が門前で待っている。
「おかえりなさいませ」
二人はそう言った。帰ってきた者への言葉は、むろん佐保にもかけられていた。
部屋に戻るあいだにも、親子三人で庭先にいた蓉秋や博朴に「おかえり」と言われ、顔を合わせれば嫌味ばかりの飛泉にも「帰ったか」と迎えられた。
佐保は自室に引っこむと、寝台に寝そべった。
――おかえり。
皆の言葉は胸をしめつけた。けれど、それは心地のよいものと温かな苦しさしかわいてこず、彼女はまた涙が出そうになる。
「……ただいま」
静かな部屋に佐保の声が響いた。先ほど誰にもうまく口にできなかったが、今やっと言うことができた。途端に涙があふれて止まらなくなる。
その日はろくに食べず、眠りについた。翌朝は、屋敷に住む一人々々に会いにまわった。彼女は皆に頭を下げて言った。お世話になります、と。心からの言葉だった。