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異境譚  作者: おでき
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第二章 三節

 鳥のさえずりが朝を告げる。早い起床に慣れ始めた佐保は着替えると、蓉秋や玉蘭と家事を行い、食事をした。気づけば日も上がりきり、部屋で博朴に文字を教えてもらっているところ、栄古が現れた。

「二人か。嬢、博朴」

 机に向かっていた佐保と博朴は、開け放していた扉のほうへ振り向いた。

 顔をのぞかせた栄古が入ってくる。「博朴、片割れはどうした。嬢に文字を教えると意気ごんでいたのを見たのだがな」

 博朴は楽しそうに言った。「母が連れていきましたよ。とっておきの仕事を押しつけてやるから……だそうで」

「それは立派な雑用係になろう」栄古はくっくっと喉を鳴らした。

 その会話に、佐保はつい先ほど知ったことを頭のなかで再確認した。蓉秋は、飛泉と博朴の母親だという。互いを(あざな)で呼ぶのを何度も耳にしていたので、関係性を聞いたときは驚いた。親にも字を使用するのかと疑問の佐保に、博朴は「公私が入り乱れているのです」と苦笑いしていたばかりだ。

 栄古が佐保を見上げる。「嬢。今日は李彗と行くそうだが、我もついていってかまわぬか」

 頷く佐保に、博朴は机の上の筆や紙を片づけだしながら、ちらりと栄古を見てきく。

「李彗様は厩ですか」

「ああ」栄古が答えた。

 やりとりを聞きながら佐保も机の整理を始めると、博朴が声をかける。

「佐保さん。馬は乗れますか」

 彼女は思わず片づけの手を止めた。そして「乗れない」と勢いよく首を振る。すると「そうですか……」と言葉を切った博朴は提案した。

「なら、李彗様とご一緒に」

 博朴の声を聞きながら、しかし佐保は彼を見ていなかった。彼女は栄古を見ていた。博朴の提案の合間にぽつりとつぶやいた栄古の言葉が、やけに耳に届いたからだ。

 ――二人で騎乗か、一人で騎乗か。

 栄古が告げる。「嬢、二択だ。馬と虎の、どちらがよい?」

 そのようなことがあるわけもないのに、一瞬、佐保には栄古がにやりと笑ったふうに見えた。


 佐保は、栄古と博朴に案内されて厩に来た。そこには李彗と伍祝がいた。

「ちょうどよかった。少し走らせたかったもんで。なんせ駑馬(どば)の一歩手前ですからね」

 馬を引き連れた伍祝はそう言い、李彗に手綱を渡した。

 そこへ、栄古が李彗に告げる。「我も行こう。嬢は、虎をお引き立てくださるそうだぞ」

 李彗は特に反応を示さず、伍祝は「さようで」と笑いを噛み殺した。佐保は少し困ったような面持ちでたたずんでいる。彼女に近づいた李彗は言った。

「川沿いでよいな」

 確認の意味合いが強い問い方に、佐保は「はい」と頷き、消え入りそうな口調でつけ加えた。

「目の覚めた正確な場所を、実はよく覚えていなくて……」

 彼女が目覚めたのは、川の上流だ。しかしそこに向かうのはよしとして草、木、岩と、似たような景色ばかり続くのだ、目印もつけていない状況では場所の特定は難しい。

 すると栄古が助け船を出した。「案ずるな。我と会った場所までは覚えておる。そこから上に歩こうぞ」

 安心した佐保の横で、鹿毛色の馬にまたがった李彗は栄古と佐保に用意を促す。伍祝が栄古の背に厚地の布を鞍代わりに置き、首輪に似た手綱を装着した。佐保は今さら気が引けたが、地に伏せた栄古は彼女に「かまわぬ」と言い、背中に乗るよう示した。佐保がまたがったのを確認すると、栄古はゆるりと立ちあがる。伍祝と博朴に見送られ、佐保らは屋敷をあとにした。


 思ったより悪くない乗り心地と振動の少なさに、佐保には周囲を見渡す余裕も生まれた。緑は日の光を浴びて光沢を帯び、遠くに望む山々も美しかった。

 軽快な足どりでたちまち川岸に着くと、上流をたどる。その道すがら、佐保は栄古に声をかけた。

「栄古さんも(あざな)ですか?」

 虎にも字があるのだろうか。佐保は純粋な好奇心から尋ねた。

「いかにも」栄古は答える。「姓は家格の高い親のほうを名乗るのが通例、名は公事の届に使用する。字は日常生活での呼称と区別すればよいか。だが例外もある。我は字しか持たぬし、李彗の場合は字と言いがたい」

 佐保が李彗を見ると、彼も馬上から佐保を見ており目が合ったが、互いに何か言う前に栄古が答えを出した。

「号だ」

 佐保は虎へと視線を移して「号?」と、きき返した。

「字は他者より命名されるもの、号は自ら命名するもの」栄古が簡単に説明した。

 それはつまり、李彗は自ら「李彗」であると名乗ったということだろうか。佐保が再び李彗を見上げるも、彼は黙したままだった。

「嬢。号にも字にも意味がある。名乗る意味と、名づける意味だ。嬢の世界にはなじみのないものか」

 佐保は「いいえ」と答え、首を振った。

「私のいたところでは、名前に意味を持たせるというのはありました。私も、そうです」

 ほう、と真下から関心の声が聞こえる。

「佐保……は、春を司る女神と花の名前にあります。私の姉の名前も花からとられています。私は春に生まれたので、佐保と名づけられました」

「よい名をもらったのだな」栄古が言った。

 佐保は、はにかむも肯定の笑みを作る。それきり言葉が途切れたので、彼女は馬の心地よい歩調の反復音に耳をすましていた。すると、いつの間にか川岸から離れ、周囲は低木だらけとなっていた。

 栄古が立ち止まり、告げる。「目の前だ」

 了解の合図のように、李彗が馬から降りた。

「これより先は、嬢の記憶が頼りとなるぞ。目覚めたのは岩木に囲まれた地帯と申したか」

「はい。このまま川沿いに上ると、少しそれたところに岩と深い木々がありました。時間的には、ええと、昼間を歩き通したくらいで……」

 栄古の背から降りた佐保が悩みながら言うと、「そんなにか」と李彗が口を開く。彼女が頷けば、李彗と栄古は顔を見合わせた。

「岩場があるのは、そう遠くない。足どりが緩やかでも、ここから日中を歩く距離でもないぞ」と栄古。

「麓のほうだろう」ややして、李彗がつぶやいた。

 どうやら、栄古の言ったところより先の岩場だと見当をつけたらしく、佐保が口をはさむ間もなく行き先が決まった。

「行くか」

 なりゆきを見ていた佐保は、栄古の声を聞いて再び背にまたがろうとした。が、李彗が佐保の手を取り、馬に乗るよう促す。

「あの、李彗さん」

 佐保は戸惑ったが、「このほうが速い」と李彗は一蹴して彼女の背後に立った。そうして騎乗を手伝われた佐保は、気づけば栄古と李彗を見下ろしていた。

「じっとしていろ」李彗は言うと、瞬く間に彼女の後ろへ乗りこむ。

 佐保は何もしゃべることができなかった。密接したせいで体温が感じられ、そわそわする。背後から伸びた李彗の手は手綱へと落ち着いたが、佐保には腕に囲まれたように見え、胸がとんでもなく騒ぎ始めた。

「なんと、あじけのない……」

 栄古のつぶやきのなか、佐保は羞恥を抱いてうつむく。目的地に着くまで、彼女は背中と顔が熱くてたまらなかった。

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