第二章 二節
「筆すらまともに持てぬとは嘆かわしいな、立木佐保」
机に向かって文字の練習をしていた佐保の上から声が落ちてきた。彼女の右隣には飛泉が立っており、しきりに佐保の手もとをのぞいては小言を口にしている。
「練習中です」
佐保は言い返すも、小筆を持つ手に思わず力をこめてしまい、書き損じた。
飛泉がすぐに反応する。「まったく、見苦しい文字だ」
すると今度は佐保の左側から声が飛んできた。
「僕は実の兄の言葉遣いが嘆かわしくて、聞き苦しいよ……まったく」
彼女が振り向くと、博朴は「そう思うでしょう?」と同意を求めた。困り顔で笑んだ佐保に、博朴は彼女よりもわかりやすく笑みを作る。
「佐保さんは優しいですね。ついでに言うと飛泉は易しいね、いろいろと」
その笑顔がますます意地の悪いものとなると、右側から悪態が聞こえた。だが博朴は気にとめず、さっさと話を変えていく。
「佐保さん。玉蘭殿から姓名の書き方を教えてもらったそうですね。ぜひ拝見したいのですが」
彼女は頷き、筆先を硯海に浸した。ほどよく墨汁を含ませ、両側からの視線を感じつつも慎重に書きだす。
少しして佐保は筆を置き、ほっと息を吐いた。「できました」
文字に起こした「立木佐保」は、今まで数えきれないほど書いてきたものとは違い、どこかしっくりとこない。
「しかたないほど、へたくそだな」飛泉が指摘する。
わかっていることを言われ、佐保は口を結んだまま両手を膝にのせた。博朴は飛泉をあきれた目で見たが、佐保に向き直り、文字を指さした。
「これが姓、これが名ですね」
佐保は頷き、尋ねる。「ここでは本名をあまり使わないのですよね」
「そうです。普段は字で生活していますね」
字――ついこのあいだ、佐保は玉蘭から聞いた。そこで合点がいったのだ。最初に会ったとき玉蘭は、佐保の名をどう呼べばよいか口にしていた。こちらの世界では、本来の姓名が使われるのは戸籍や公的な届出をする特別な場合がほとんどだという。
博朴はつけ足した。「名乗るときも通常ならそれで十分ですよ」
「皆さんも字ですか?」
「まあ、そのようなものです」
博朴が答えると、黙っていた飛泉が佐保の書いた文字を見ながらうなった。
「おい、へたくそ。ここの書き方が違う」
へたくそ、という呼び名は聞き捨てならなかったが、佐保はつとめて穏やかに「どこですか」と尋ねた。
「ここ」飛泉は紙に指を置き、トントンと場所を示す。
佐保は首をかしげた。どこがどう間違っているのかわからない。いっこうに返事をしない佐保にしびれを切らしたのか、飛泉が筆を取った。彼女の文字の隣に手本を書く。
「まったく。お前の頭のなかはどうなっている。浮かんだものを書けるのではないのか」
佐保は困った顔で話した。「そうしているつもりですが、なんだか違うんです」
「意味がわからん」飛泉はすげなく言って筆を置く。
佐保は悩みながら説明した。「ちゃんと書こうとしていると、向こうで使っていた字……漢字というのですが、それと似ていたり似ていなかったりして……。混乱すると漢字とまざってよくわからない字になるし、書き順もわからなくなって……」
「結果、へたくそなわけか」
佐保の言葉を止めて、飛泉は勝手に結論づけた。佐保は「はあ」と曖昧な返答をして口を閉じる。言葉はわかっても、文字が読みづらいのだ。頭に浮かぶのを書いてもどこかが違う。まるで英語のブロック体と筆記体の差だろうか。読めるようで読めない、書けるようで書けない、まさに佐保の状況はそれだった。黙りこんだ佐保を見て、博朴がとりなすように会話に入る。
「まあ、識字率は高いわけでもないですし、話せるならよほどのことがないかぎり、異客であると見わけられませんよ」
「早々に言い訳を用意するのは怠惰を招く」飛泉が厳しい口調で返した。
佐保は、飛泉の書いた「立木佐保」を眺めて考えた。言葉に関して、佐保がもとからわからない単語については、いくら佐保の知る言語に訳されても意味まではつかめなかった。佐保がその言葉の意味を知らなければ、理解できない。それは通常の語学習得と同様の理屈だったので、語彙を増やせば何の問題もなくなるはずである。どこに行っても結局は勉強だ、と佐保は思った。しかし今となっては嫌いな授業ですら懐かしい。そう考えていると、ふと彼女の心に疑問が差した。
「なぜ、帰れないんでしょう」
帰れないと知らされてからようやく問いかけが生まれた。口にするには遅いくらいの言葉だった。
「は?」と、双子の声が重なる。
「なぜ私は帰れないんですか? 言いきれる理由がわかりません」
どうして鵜呑みにしていたのか。ここで出会った彼らもそうだ。異客は帰れないと思っている。
考えこむ彼女に、博朴は答えた。
「古くからの決まり……あるいは書物にそうある、と言ってしまえばそれまでです。とうてい佐保さんが納得しかねるものだとは思いますが、それが理なのです。天……つまり皇天も神仙も、干渉しないとされています。人間の行く末を」
「干渉しないなら、異客は生まれないと思います」
もっともな理由を述べた佐保は双子を見る。反応したのは、飛泉のほうであった。
「この世界の人間の、という意味だ。ここにきた時点で、お前はもうここの人間となる。だから天はそれ以上の何かをなさらない。干渉されることもなくなる。……悪いがはっきり言ってしまうぞ。お前にはあっても、この世界の理にはない。お前を帰らせる、という理由が」
すがすがしいくらいの口調は、佐保の頭に響く。彼女は短く息を吸った。
「なんて……」
勝手な理屈。その言葉を飲みこんで、吐息とともにこわばった肩を無理やり落とすと、佐保は悔しげな顔でうつむいた。
暗くなるのが早いからか、佐保はこちらの夜を長く感じていた。夕闇には星々がきらめき、晩は月の光が照らしている。この世界でも月の存在は変わらないようで、満ち欠けを繰り返すのだと玉蘭は教えてくれた。
暦も月の動きに合わせるという。閏年はどうなるのかと佐保は思ったが、質問せずとも玉蘭が話した。月の運行だとずれが生じるので、修正のため数年に一度、十三ヶ月を一年とするらしい。呼称については、年は章暦、月は月宿、週は印、日は点で、それらには、さらに細かな呼称があった。ようは、何年何月何日というのを言葉で表すようになっていたのである。あまりの面倒さに、佐保は聞いたそばから一度で覚えようとするのをあきらめた。
(それにしても……)部屋を出た彼女は、中庭を目指す。
建物をつなぐ渡り廊下をはずれると庭や畑があった。そこに向かうまでの石畳は月光が隙間まで伸びこんで見え、夜がこれほど明るいことを知る。しかし佐保が何より驚いたのはその美しさだ。
「……綺麗な夜」
中庭にたどり着いた彼女はじっと空を眺め、先ほど胸のなかでつぶやいた言葉の続きをもらす。
堪能していると、人の近づく気配がした。振り返ってみれば、李彗が立っていた。肩口で髪を緩やかに結び、いつもより楽な格好をしている。昼間の姿を見なれていたせいもあり、佐保は気恥ずかしげに頭を下げて挨拶した。
李彗が声をかけてくる。「体が冷えるぞ」
「もう戻ります」微笑んだ佐保は、空を見上げた。「綺麗な夜空ですね。私の見たなかでは一番です」
「もとより存在する自然に美醜の基準があるのか?」
李彗の発言に言葉をつまらせた佐保はどう答えようかと苦笑して話した。
「……さあ。疲れているのかもしれません。自然を見ると癒されるので」
そうか、と言ったきり口を閉じた彼に、佐保も黙った。すると小さく笑った声が一度だけ聞こえた。
「戻るのではなかったのか」
「はい」
部屋に戻ろうとした佐保はふと立ち止まり、李彗に向き直った。彼と視線が合う。佐保は一度だけ目を伏せ、やや間をおいて顔を上げると口を開いた。
「李彗さん。ここに置いていただき、感謝しています。これからどんなにご迷惑をおかけするかわかりませんが、生活の基盤を立てられるよう努力します。それまでお世話になります。どうかよろしくお願いします」
はっきり言って先のことを考えたくはなかったが、ほかに言いようもなかった。佐保は頭を下げると、栄古の言葉を思いだした。
土台を作る、という意味。
現状を嘆いて死ぬのもできない。かといって意欲的に新たな生活を始める心持ちもない。ここから逃げてすべてを投げだすという選択肢もあったが、知らない世界でそれをして一番に困るのは自分自身だ。栄古が促したのは決意かあきらめか。佐保はぼんやりと考えた。生きていくのなら、一つずつ物事を組み立てて、こなしていく必要がある。その場所が変わっただけだ。慣れ親しんだ場所から移っただけだ。奮い立ったわけではない。少なくとも彼女には、栄古の言葉をここで生きていくための希望としては受けとれない。佐保は李彗へと視線を戻し、そのように納得してみせた。
すると、李彗が声をかける。「明日、行ってみようか。お前の、目の覚めたという場所に」
突然の提案に、佐保は目を丸くした。
「この前の散策の続きだ、佐保」
心地よい声が、わずかな夜風に消える。彼は「よい夢を」と告げ、背を向けて去った。