第二章 一節
部屋で養生の日々が続く佐保は、最近よく玉蘭としゃべっていた。といってもたわいない話はできず、玉蘭の用意した地図や書物から、この世界に関する説明を受けるだけだ。佐保は少しずつ自身の置かれている状況を知っていった。
まず四つの大陸を東青、北玄、西白、南朱の四国が治め、そのほか十数の国は独立国、もしくは四国の保護国として存在しているという。玉蘭は、ここが東青国だと教えた。
寝台に座っていた佐保は、書物を広げて机に向かう玉蘭を眺めながら、今しがた聞いていた言葉を頭のなかで繰り返した。そして、やはりという思いを抱く。告げられた国名の字面が浮かぶのだ。
佐保は口を開いた。「言葉が浮かんでくるんです、頭のなかに。玉蘭さんの名前も、国名も……合っているかはわかりませんが」
書物をめくっていた玉蘭は、その手を止めると佐保へ向き直った。
「言葉がおわかりになるのでしょう?」
玉蘭の質問に、佐保は肯定した。出会ってからの会話において、わからない言葉はあれど意味を聞けば問題なく理解できた。佐保は、玉蘭らの言葉が日本語に聞こえていたし、佐保自身も日本語で受け答えしているつもりだった。しかし玉蘭が言うには、佐保がこちらの言語を使っているのだという。
「なぜ、言葉が通じるのですか」
佐保は首をかしげた。彼女にはその仕組みがまったく解せなかった。
玉蘭は書物を閉じて、静かに告げる。「天地開闢を記した書物には、この世界をおつくりになられた皇天と神仙の力によって、異世界からこの地へと引きつけられる者があるとされています」
「……開闢?」
開闢という字は今回も例外なく彼女の頭に浮かんだが、その意味がわからず尋ねてみる。
「世界の始まりのことです」玉蘭は答えた。
「待ってください。神様とか仙人とか、そんな……現実的じゃないわ」
頭を振って困惑の表情を浮かべる佐保の前で、玉蘭はしっかりとした口調で言いきった。
「異客の出現……その事態を起こせるのは、人知のおよばぬ、すなわち人にあらざる存在だけでありましょう」
佐保は提示された情報に内心うなりながらも、確かめるようにつぶやく。
「神様がいて、その神様が異世界から人間を……ということですか?」
「おおむね、その解釈でかまいません」
まっすぐに見つめる玉蘭から、佐保は視線をそらし下を向いて考えた。一種の神隠しのようなものだろうか。
玉蘭が再び話しかけたので、佐保は顔を上げた。
「こちらの言葉を解すのは、天の、世を超越せしめし力の一環かと。発音方法や単語、文の成り立ちを自ら覚えずとも、おそらく、佐保さんが話せるというのと文字が浮かぶといったたぐいは、そこに起因します」
佐保は再びうつむいた。どうやら、知らぬまま別の言語をあやつっていたらしい。それには多少の気味悪さを覚えるが、意思疎通に関しては心配ないようだ。しかしいつ話せなくなるともしれないので、読み書きなどの習得は必要だろう。こうして冷静に、順応していく方法を考える自身を、佐保はおかしく思った。彼女はどこかいびつな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「どうして、神様が異世界に人を引っ張りこむのですか」
異客はなぜ発生するのか。勝手に異世界へと連れられた理不尽さだけを味わい、目的も理由も知ることができないでいる。
佐保は玉蘭の言葉を待った。しかし玉蘭は伏し目がちに、首をゆっくり横へ何度か振っただけだった。その無言の答えに、佐保も何も言わず窓辺へと視線をずらす。曇天の空だった。
しばらくして玉蘭が退出すると、雨が降り始めた。こんな天気は、あの衝撃的な事実を知らされた日以来だ。そのせいか佐保は輪をかけて憂鬱な気持ちになり、外を見るのをやめて横になった。が、先ほどの話がよみがえって胸のうちにすべりこんでくる。
玉蘭は、さも当然のように神や仙人などの非科学的な存在で世界を説いていた。きっと、古事記や日本書紀に書かれている世界の成り立ちを妄信しているようなものなのかもしれない。
佐保は弱った声でうめく。「馬鹿馬鹿しい」
超越的な力によって連れてこられたというのが事実なら、どこに複雑な気持ちを吐露し晴らせばいいのか。
「馬鹿じゃないの」
誰を責めれば、何に当たれば満たされるのかわからず、佐保は再び苦々しげにつぶやき布団をぎゅっと握りしめた。
いつの間にか雨音は消えていた。寝台から窓を見やると、濃い藍の空に月が輝いていた。雨あがりの気配が揺曳して、ひんやりとした空気に夜のもの悲しさをはらんでいる。佐保は枕もとに腕時計とハンカチを置いて、布団の上に差す月明かりを眺めた。
「牀前月光を看る……」
きっと故郷への思慕はこういうものだろうか、と続きをつぶやく。受験勉強や学校のテストのために暗記した結果がこんな場所で登場してきた。
月は憎いほど皓皓と光っている。佐保は観念したように目を閉じた。その日、彼女は夢を見た。こちらの世界にきて初めての夢だった。佐保は眠りのなかで涙を流す。温かで、取り戻せない思い出ばかりがいたずらによみがえっていた。
夜と朝の境にたなびく霧が、明るみ始めた視界を白く薄く染めあげる。
佐保は、早い時間帯から朝食をとっていた。彼女の分は隣に部屋をかまえる玉蘭か蓉秋のどちらかが届けている。寝こんでいたときの部屋を自室として与えられた佐保だが、体調をもちなおした数日後には二人から必要な知識を教わることになった。しかし今までの生活模様や常識と、こちらで新たに学習していく内容の違いは彼女に困惑と歯がゆさをもたらした。現に、教えられてもそうそう覚えられないこと、うまくできないことがすでに発生している状況だ。佐保は、失敗しては落ちこんだ。玉蘭も蓉秋も「ゆっくりでいい」と見守ってくれるが、なぐさめもみじめに感じて、ますます意気消沈する。
こんなはずじゃなかった、なんでこんなところにいるんだろう――佐保はつまずくたび、その思いに駆られた。今や完全な回復の兆しを見せている体は、普通に物事をこなせる。本調子に近いと、しんどいからできないという言い訳は苦しい。郷愁感にいじけて生活力を身につけず厄介者になるのも、危険だとわかっていた。そういう者の末路は一つだ。いつか、追いだされる。
佐保は、溜め息を吐いた。椅子から立ちあがり、心地よい風を取りこむために窓辺へ寄る。すると、窓の向こうの大きな体躯が目に入った。
「栄古さん」
窓を開けて呼ぶと、栄古がやってきた。
「嬢。体の具合はいかがかな」
柔らかな声音に佐保は窓から手を伸ばし、栄古の頭を思わず撫でた。栄古はちらりと佐保を見ただけで、大人しく撫でられている。
「よくなりました、おかげさまで。いろいろとありがとうございます」
撫でていた手を止めた佐保は微笑む。彼女の返答に満足げな栄古は、声色を変えて尋ねた。
「それはそうと。短慮な言い草しおった『あれ』とはどうなった?」
聞きたいのは李彗のことだとすぐにわかった。栄古はあの場所にいなかったというのに、李彗が佐保に告げたのをどうしてか知っているようだ。
「会ったときに、お話をしました……」佐保は考えこむような仕草を見せて、最近の記憶を引きだしてみる。
――良好な体調が続いて歩き回るのも楽になってから、佐保は廊下でばったりと彼に会っていた。そのとき思わず気まずさを顔に出してしまったが、李彗は声をかけてきた。
「このあいだは悪かった」
真っ先に謝られた佐保は呆気にとられながらも、しかし首を振って、ためらいがちに切りだした。
「いえ、私こそ騒いですみませんでした。あと、運んでもらってありがとうございました。それから、あの……厚かましいですが、しばらくこちらでお世話になります。よろしくお願いします」
言い終えて頭を下げる佐保に李彗は頷き、彼女の右手に視線を移した。
「傷は消えたか?」
「すっかり」佐保は笑顔で、手のひらを示した。
そのあと少しだけ言葉を交わして二人は別れた。
それが数日前のことであったが、今のところ彼との関係は特にまずくなるわけでもなさそうだと佐保は考えている。しかしここにいられるのは屋敷の主人の厚意あってのものだから、栄古への返答も差し障りのないものがよいだろう。
佐保は言った。「李彗さんは、その……よくしてくださいます」
栄古は琥珀の双眸を閉じては開く。やがて、「そうか」と言った。心なしかひげが揺れて口もとに笑みを作っているように見える。まるで人間に似た顔の動きに、佐保は虎をじっと観察して思ったことを口にした。
「不思議」
「ふむ?」
「すごく不思議です」
栄古の顔をまじまじと見つめていると、彼女は尋ねられた。
「嬢は不思議なことは嫌いか?」
「いいえ。でも驚くことばかりは正直……」
佐保は言いよどみ、苦笑した。「正直」のあとに用意していた言葉は、聞かされた側にとって気持ちのよいものにならない。彼女は、不思議を体現した存在を前にして「疲れる」とは言えなかった。
口を結んだ佐保に、栄古は体躯をわずかに動かした。
「嬢。最初の取り組みが肝心だ。いくら積み立てていっても土台が弱ければ、築いたものは崩れ落ちる」
いったい何の話だと佐保は困惑した。意味もわからず聞いていると、栄古が続ける。
「嬢は、思いもよらぬところに土台を作らねばならなくなったわけだ」
真意をはかりかねる発言だったが、おそらくはこの世界で新たに学んでいくことを指したように聞こえた佐保は、頷いた。
風はいつの間にか凪いでいる。ぽつりぽつりと幾度か言葉を交わすと、栄古は窓辺から離れてどこかに行ってしまった。
「変なの」
去っていく虎の後ろ姿を眺めながら、佐保は小さな声でつぶやいた。