計算だって出来る
クリスの口から肯定的な言葉が聞けたはずなのに、すぐに否定的なものに変わった事。
やはり、条件が厳しいのだろうか。
「クリス、全部を採用するのは難しいってどういう事?」
「休日に関しては調整すれば何とかなります。ですが、このお金に関する事は――」
「そんな! だって、侯爵家でしょ?! お金持ちじゃないの?!」
「全部を一度にするのは厳しいという事です。
ですが、マリアンヌ様は全部を一度にしたいのでしょう?」
「出来る事なら、次の月からでも……」
「予算的な問題がありますし。ちょうど今、前月の予算整理をしているのです」
「追われている仕事?」
「そうです」
「なら……その仕事、手伝わせてくれない?」
「「「「「「?!」」」」」」
私の仕事を手伝うと言う発言に、この場にいる皆は目を丸くして固まってしまった。
「て、手伝う? 今、手伝うと仰りましたか?」
「え? うん。さっきも手伝うって言ったでしょ? 使用人の皆のために繋がる事なら、早急にしなきゃじゃない?」
「あのマリアンヌ様が……書類を手伝う?」
「マリアンヌ様って、計算できるのですか?」
「お化粧やテーブルマナーしか出来ないものだと」
「一応、ダンスも出来ましたよ」
「あ、そうだったわね」
皆は、信じられない物を見るような視線をこちらに向けてきたかと思えば、心配そうな表情に変わった。
それと同時に、何やらちょっとだけ失礼な事も言ってきたのだ。
だが私は、それほど心配はしておらず、前世での算術が活かせればと思っている。
数学は世界共通だと何かで聞いた記憶だからだ。
「計算は出来るけど」
――そっか、屋敷に関する書類の計算なら桁が大きいよね。そうだ……。
「何か計算する道具とかないの?」
転生前の世界では、機械の力を借りて簡潔に計算を行っていたが、この世界にはそう言った機械があるとはどの書物にも記載がなかった。
記載にはないだけで、実は存在するのだろうか。
計算のための機械や、普段はどういった方法で計算をしているのかクリスに尋ねてみた。
すると、思っても見なかった答えが返ってきたのだ。
「普段の計算は、このようにしております。
それから、計算のための道具……でございますね。
一応、こういうのはありますが……幾分、使い方が難しくて――」
クリスはそう言うと、紙の上にペンを走らせて普段しているような計算を見せてくれた。
そして、いつも使っているであろう机の引き出しから、使い方が難しいと言っていた道具を持ってきてくれた。
――こ、これって……そろばん? そしてさっきの計算方法はひっ算。
そう、クリスが普段している計算方法は、ひっ算を用いての計算だ。
それも、縦に二列ずつ並べての方法。
この方法を皆が日常的に使用しているというのだ。
話を聞いていると、計算しなければいけない数字は多いはずなのに、地道な方法を取っているため、時間や労力が幾分もかかる。
そして計算道具は、日本でも見かけたそろばんと同一の形で、鉄でできたような見た目だが、持ってみると軽いのだ。
色艶もあり、銀色の枠組みに銀色の串、その串に刺さっている銀色の球。
私がまじまじと見ていると、リチャードがアルミで出来ていると教えてくれた。
さらに、昔は使う人も多かったが、後世になるにつれて上手く伝えられず、今では使える人がほとんどいないと言うのだ。
――ちまちまとした計算に、そろばんが使えない……。仕事が追われているってそういう事?
「クリス、計算が必要な書類をここの机に持ってきて頂戴」
「で、ですが本当に出来るのですか? マリアンヌ様が?」
「信用がないなら、計算が終わっている書類を頂戴。
答え合わせをしてみたら信用に足るかわかるでしょう?」
「た、たしかに。承知致しました」
クリスは戸惑いつつも、計算が終わっているという書類を目の前の机にドサッと置いた。
「二月前の書類です」
「二月前って事は、当月で締めて翌月には算出をして、月末にお給料として配布……と言ったところかしら。
それが終わっているという書類ね」
「今の言葉だけで、締めからお給料配布までの流れがご理解できるとは……」
一般的な流れのはずだが、その流れを私の口から出る事が予想外だったのだろう。
この場にいる皆の驚愕する表情が崩れる事はいまだにない。
私は皆の様子を横目に、目の前の書類と向き合う。
ペンを持ち、書類に記載されている数字をパチパチと刻みよい音をたてながら、球をはじいて算出していく。
私がこうしてそろばんを使って計算が出来るのは、小学校の授業で習ったそろばんに興味を持ち、両親に頼んで珠算教室に通わせてもらっていたからだ。
その事を知らない皆は、固唾を飲んで見守っているのがなんとなく、空気として肌に感じる。
そんな空気の中でも、そろばんをはじく指を止めることなく数字をたたき出しいった。
数分かけてそろばんでの計算を終え、出た答えを紙に書き、クリスに手渡す。
クリスは受け取った紙と、以前、自身が出したであろう答えが書かれた紙とを交互に見つめる。
皆も答えが気になったのか、クリスが受け取った書類を覗き込んだ。
「すごいです。答え……合っています」
クリスの驚いた声に、紙を覗き込んでいた皆は、歓喜の声を上げてお互いに抱きしめ合った。
「やったーー! 答えが合いましたーー!」
「やりましたね! マリアンヌ様!」
「お見事でございます」
「マリアンヌ様が計算道具を使えるなんて驚きです! もしや古代人の生まれ変わりですか?!」
――人は誰しも古代人の生まれ変わりなんじゃ。
私が喜ぶよりも皆が喜ぶため、どこか冷静だった。
それにしても、すごい喜びようだ。
訳の分からない、誉め言葉なのか何なのかが飛び出るくらいに喜んでくれている。
だが、いつまでも喜んではいられない。
本番はこれからなのだ。
「さて、計算が出来る事もわかってもらえた事だし、クリスが追われている書類……改めて私に任せて欲しいの」
「……恐れ入ります」
クリスはそう言うと、机の上の過去の書類を一度片付け、新たに今現在進めている書類を置いた。