主張
涙をこぼすノアに目線を合わせて謝罪を伝えた。
そして先ほどのノアの行動に淡い期待を込めて、怖がらせないようにゆっくりと声を掛けながら左手を差し伸べた。
「ノアちゃん……嫌いなはずなのに、歩み寄ってくれてありがとう。
とてもとーっても、嬉しかったよ。
私も……近づいてもいいかな? 近くで……一緒に遊びたいの」
ノアが手を取ってくれるかはわからないが、何かが変わる気がしたのだ。
故に、手を差し出さずにはいられなかった。
私の淡い期待が届いたのか、ノアの手がピクリと動いたその時、それはクリスチャンの言葉によって遮られてしまった。
「いけません」
「え、で、でも……」
「マリアンヌ様がノア様に近づくなど、いけません。ご自身が何をされたのか、もうお忘れですか」
「忘れてはないけど……でも、ノアちゃんも近づこうとしてくれたし……」
「ノア様が何を思って近づこうとしたかは存じませんが、マリアンヌ様からノア様に近づくことは、いかなる場合も許されざることです」
「……」
たしかに、クリスチャンの言う事は最もだ。
そのあまりにも厳しい言葉に、ノアに差し伸ばした左手は力なく下がっていき、頭さえも下がってしまう。
先ほどまであんなに嬉しくて、喜ばしい出来事があったというのに、今はキュッと胸を締め付けられる思いだ。
思わず、胸を掴んでしまうほどに。
あの時、逃げずにいたら――。
つい先ほどの自分の行動に後悔さえ覚える。
私がクリスチャンの厳しさに俯いていると、人の動く気配がした。
何事かと顔を上げると、ノアがクリスチャンの足元におり、彼のズボンの裾を引っ張りながら首を振っているのだ。
「ノア様、マリアンヌ様を叱るなと……そう、仰られるのですか?」
「……」
「あんな目に遭われたのに……お声も出ないほど傷つけられたのに……許すのですか?」
クリスチャンの言葉に最初の方は頷いていたノアだが、最後の問いには頷く事はなく、俯いてしまった。
かと思えば、再び泣きそうな表情でこちらに視線を向けてきたのだ。
おそらく返答に困っているのだろう。
私に視線を合わせては俯き、再び視線を合わせてくる。
それを何度か繰り返すのだ。
何か返事をしなければいけないと思っているのだろうか。
それとも、返事をして私にまたひどい事をされるのではと考えているのだろうか。
――ノアちゃんの泣きそうな表情だけでは、考えている事まではわからない……。
でも、それでも……私が思う事は――。
「許しは……いらないよ。
それはノアちゃんだけじゃなくて、レオン君や使用人の皆も同じことだよ。
上辺だけの関係でも、心の奥底では恨んでいてもいい。
ただ一つ、ノアちゃんに言う事があれば――」
「……」
「ありがとう。クリスチャンから庇ってくれて。
とても嬉しかったよ」
――それだけで、さっきまで落ち込んでた心はどっか行っちゃったな。
単純だろうか。
たとえそう思われたとしても、本当に嬉しかったのだ。
返答も許しもなくていい。
全く要らないと言えば嘘になる。
だが、今日のノアの行動だけで今後も頑張れる。
それほど衝撃でもあり嬉しくもある、大きな変化の日なのだから。
「さて、他にもやる事あるし、子ども達との会える時間もとっくに過ぎているし、私はここで失礼するわね」
そう言ってお菓子を入れていたバスケットや絵本を手に持ち、部屋を出ようと踵を返す。
ドアの前まで歩を進めると、部屋を出る前にくるっと体を子ども達の方に向けた。
「それじゃ、レオン君、ノアちゃん、またメガホンを使って読み聞かせをするからね~!!
それと、今夜も昨日みたいに夕食を一緒するからね~!
クリスチャンや皆にも再度宣戦布告します!
私、マリアンヌは、今後も諦めない事をここに誓います! 以上!」
「マリアンヌ様、その道具のせいか先ほどよりも声が大きいですよ!
ヘタをすると近所迷惑になりかねません!」
「おっと、それはごめんあそばせ」
話すときにメガホンを使ったのだが、読み聞かせの時より声が張ったのか、隣にいたニコラが耳を抑えながら訴えてくる。
ニコラに謝罪を述べたのち、部屋の中の皆に手を振って書斎を後にした。
それは、書斎を出て廊下を歩き始めた時だった。
背後から大きな音が鳴ったのと同時に、呼び止められる声がしたのだ。
振り返ると、声の主はなんとレオンだった。
「お待ちください、マリアンヌ様」
「どうしたの?」
「どうして……今さらこんなにも俺たちに構うのですか。
どうして……そんな、仲良くなりたいなんて言えるのですか」
「それは……」
レオンに引き留められ、彼に体を向ける。
すると彼は、俯きながら主張を始めた。
「ノアは優しいから……きっとマリアンヌ様を許そうと思い始めています。
でも今さら……今さらそんな、母親みたいな事やめてくれませんか」
「レオン君、あの……」
静かではあるが、少しだけ口調が強い。
レオンに声を掛けようとするが、それさえも遮られてしまう。
再び声を掛けようとした時、レオンは俯いていた顔を勢いよく上げた。
その表情は、今まで見た険しい表情の中でひと際険しさを持つものだった。
「俺たちに母親はいらない! 今までだっていなくてもなんとかやってきたんだ!
母親なんていなくても大丈夫なんだ! 今さら……今さら母親みたいな事しないでください!」
レオンは力強く言い放ち、駆け足で書斎へと戻っていった。
――今までも険しい表情は見てきたけど、今回はいつにも増してだったな……。
レオンの表情や言葉が幾度も頭の中をよぎりながら、私もその場を後にしたのだった。