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「お疲れ様でございました。お部屋までご案内いたします」
仕事を終えて、舞台を降りたあたしに侍女服のお姉さんが声をかけてくれた。
「お願いします」
息を整えながら後をついていく。あたしが舞台を降りても、拍手だけなのは、観客が王族と貴族だけだからだ。普段なら名前を呼ばれたり、感想を叫んでくれたり、あたしも手を振って応えたりする。そんなやりとりがないのは新鮮で少し寂しい気もしたけれど、感慨深い気持ちの方が大きかった。これからは同じ舞台が増えて、すぐに慣れるんだ。そう期待で興奮していた。普段の舞台も大好きだけれど。
扉を開けてくれる案内の人に「ありがとうございます」と言うと、ドアを閉めてから、「私たちも大ファンなのです」と、少しはにかんだ笑顔で言ってもらえた。それが嬉しくて、思わず照れてしまった。
「まさか、王子様の婚約者サマがあたしの大ファンだなんてびっくりです」
大広間から出て、広い廊下で腕を伸ばす。
今日は皇太子殿下の婚約者様のお披露目会だ。こんな所に庶民のあたしがいるなんて本来なら有り得ないことだけれど、あたしはこれでも巷で大人気の踊り子なのだ。婚約者の侯爵令嬢があたしの大ファンだということで、あたしが呼ばれたというわけ。異例の大抜擢だった。
控室として割り当てられた部屋に戻って、着替えてからストレッチをして帰ろうと案内の人の後をついて歩く。
もちろん王宮に呼ばれたのも、王族に謁見――もといあたしの踊りを披露したのも、初めて。いつかは王宮で踊りを披露できるくらいに上り詰めてやるとは思っていたけれど、こんなに早く実現するとは思わなかった。
あたしって、もしかしてやっぱり天才?
なんてね。
いつでも初心を忘れるなってママの口癖だった。あたしはそれを忘れない。
でも少しは自惚れてもいいかな。これが自信になったのは確かだから。
巷で大人気とはいえ、まだまだ若輩者。すごい踊り子のお姉さま方たちがたくさんいる。あたしはそのお姉さま方たちを超える踊り子になる。ただ、同世代ではあたしが随一の踊り子なのは間違いない。初心は忘れていないわよ。事実を述べただけ。
考え事をしながら歩いていたせいか、先の角で曲がってしまったのか、案内の人が見当たらない。慌てて角を覗き込もうと駆け寄ると、曲がってきた人とぶつかってしまった。
「わぁっ」
ドスンと尻もちをつくと、上に何かかぶさってきた。重たいやら、ムニっと胸を鷲掴みにされるやら、思わず悲鳴をあげそうになった。
鼻をぶつけたあたしは痛みに耐えながら目を開ける。
あたしの胸元に確かに男性らしき頭が乗っていた。
「あ、あ、あ、あなたちょっと早く退きなさいよ!!」
羞恥に顔を赤らめて体をよじると、その人は私の胸を掴んだまま起き上がった。
「いたい!」
「いや、失礼」
その人はパッと手を離し、その場で曲がったメガネを直す。
「ヘンタ……!」
イを言おうとしたら、案内の人が慌てて駆け寄ってきた。
「エレノーラさま、申し訳ありません。って大丈夫ですか!?」
案内の人の手を借りて立ち上がると、ぶつかったメガネの人も立ち上がり、服の裾をパッパッと払っている。
「どうも寝不足で申し訳ない」
あたしの顔を見てお辞儀をしたと思ったら、そのままフラフラと立ち去ってしまった。
「エレノーラさま、大丈夫でしたか」
案内の人は、あたしに怪我がないか確認してくれた。ぶつかって転んだだけだし、庶民にそこまで気を使わなくてもいいのに。胸掴まれたけど。
「あたしも考え事をしていて見失っちゃったから。すみませんでした」
それにしたってあの男、どういうことなの?
あたしの、大事な胸に顔を突っ込んでおいて、しかも鷲掴みにした挙句、何事もなかったかのように申し訳ないの一言で済ませて去って行った。
部屋に戻るまで後わずかだったけれど、頭の中は、なんなのあいつ! で占められていた。
王宮の表門に1番近い(まぁ庶民だし、巷で人気者とはいえまだまだひよっ子踊り子のあたしに割り当てられるならもちろんこういう端っこのお部屋は妥当でしょう)部屋で着替えを済ます。
案内の人が、王子様からお礼のお言葉がナントカと言っていたから、もうしばらく待っている。
水を飲んで、ストレッチをしながら思い出すのは先ほどぶつかってきたあの男だ。顔はよく見えなかったけれど、大きいレンズの眼鏡にもっさりとした深い茶色の髪。服装は噂に聞く研究員の人たちが着るローブのようだった。
あたしの胸は国中の男が釘付けになる(だいぶ盛ってはいるけれど、そのくらい大事な商売道具よ)というのに、顔も赤くせず(このあいだ、あたしが微笑みかけた男の子は顔を真っ赤にしてた)、動揺した様子もなく(好きだーって叫ばれたから、ありがとって投げキスしたらその人が倒れた)、特に関心も持たずに去られた事に怒っているのだ。
だって年頃の娘の胸を掴むなんて有り得る?
衣装は確かに普通の洋服よりも肌の露出が多くて布面積が少ない。見てもらうことが仕事だから、見られることには慣れている。でも、さわられることは違うじゃない。慣れるとか慣れないとかじゃなくて、男の人に胸をさわられたの、初めてなの!
恥ずかしいし、知らない人にさわられた嫌悪感もあるし、なのにあの人あたしのことを知らないみたいだし。ましてや胸をさわったというか掴んだ事実を認識していない気がするの!
さわられたという事実にかなり動揺して指先が冷たくなっていたけれど、深呼吸をしてストレッチをしていたら少し落ち着いた。思い返していたおかげでだんだんイライラしてきたけれど。
一発殴らせてもらいたい。殴るまではいかなくても、あたしの顔を覚えさせて、あたしのファンにさせないことには気が済まないな!
会うこともないだろう人に、心の中で拳を振り下ろす。
その時、コンコンとドアを叩く音がして、「失礼します」とさっきの侍女さんが入ってきた。
「王子殿下からお礼の文です」
さっと目の前に出された紙を受け取る。あたしの舞台のチラシとは比べ物にならないくらいしっとりとした紙だった。
「ありがとうございます……?」
報酬のことでも書いてあるのかな? と目を通す。今日はありがとうからはじまり、あたしを見る侯爵令嬢がどれだけ美しかったかが書かれ(のろけ?)、そなたが羨ましいので友だちになって欲しい、当分の間は王宮の客人としてもてなす、と書いてあった。
「へ?」
読み終わって最初に出た言葉がこれだった。侍女さんの顔には『心中お察しします』と書かれていた。
「あの、これ、どういうことですか」
「殿下はエレノーラさまに王宮にご滞在いただくようにと」
「はぁ、それはまたどうして……」
あたしが羨ましいので友だちになって欲しいってどういうことですか。
「侯爵令嬢のお心を掴むためにエレノーラさまにご協力願いたいということなのです」
少し困ったように眉毛を下げる。
婚約したのに?
王子様の考えることはさっぱりわからん!
でもそんなの、あたしに断る権利なんてないんでしょう。
「お礼は出ますか?」
ついつい、がっついた質問が出てしまった。あたしだって生活がある。王宮にいる間は踊りの収入がなくなるということだし、ずっと王宮で雇ってもらえるというわけではないのだ。
「それについても殿下からお話したいとのことでしたので、また改めてお知らせさせていただきます」
なんともまぁ、ふわふわした感じであたしを囲おう(言葉が悪いわね)と思っているのね。
「とりあえず今日は帰ってもいいんですよね?」
雲の上の人の考えることはよくわからないなぁ。でもそれもまた、あたしの踊り子キャリアに箔が着くというものよね。良さそうと思ったら、飛び込んでみなくちゃ。まだまだ上を目指す身なんだから。
「もちろんです。馬車をご用意しておりますので、お支度ができましたらお声がけください」
そう言って、侍女さんはグラスに水を入れてくれた。紅茶セットを用意してもらっていたけれど、水をお願いしたのはあたしだ。貴族の令嬢じゃないから、踊った後に紅茶は飲まない。
せっかく入れてもらった水を飲み干して、衣装ケースを抱えて「帰ります」と馬車まで案内してもらった。