人生に、一度きりのバレンタイン~恋編~
朝にチョコレートを渡すことのできなかった深雪は、それから何度かタイミングをとろうと試みた。しかし、うまく時間が合わず、すれ違いばかりであっという間に時間が過ぎて行く。
いつもはもっと簡単に、日路を校内で探すことができているのに。今日に限って、姿を見かけることができない。
唯一、お昼休みに日路の教室まで会いに行った時は、女子生徒にチョコレートを貰っている姿を遠目から見ることはできたが、その中に入っていくことはどうしてもできなかった。
結局、渡せないまま放課後になってしまう。
「どうしよう、渡せなかった・・・・・」
容赦なく校内を駆け巡るチャイムの音が、タイムアップを告げている様な気がした。
自分の席で頭を抱える深雪に、成瀬の叱咤がとんでくる。
「まだ終わりじゃないわよ。 部活が始まる前に、行くわよ」
「あ、待ってよ成瀬ちゃん!」
日路に渡すチョコレートを入れた深雪の鞄をひったくって、ずかずかと教室を出て行く成瀬の後を、深雪は必死に追いかけた。
いつもなら、ぶすっとした顔をしながらも付いてくる筈の千太郎は、今日は珍しく追いかけては来なかった。
***
成瀬は、日路の教室に向かっている様だった。
そわそわしながら後を付いていく深雪の鼓動が、徐々に激しいものになっていく。
二年生の教室がある階までやってくると、日路は容易く見つかった。例の如く、周りには人が溢れていた。
朝から放課後まで、こんなにも大人気の日路の様子を垣間見て、改めて自分との距離の遠さを痛感する。そもそも、知り合えたのさへ偶然で、良くしてもらっているのは日路の人柄の良さのおかげなのだ。
そう考えると、バレンタインに自分がチョコレートを渡すなどという行為は、酷く滑稽な様に思えた。
大勢に囲まれる日路から遠ざかるように、一歩後退ると、その機微を感じ取った成瀬が、不意に振り向いてきた。
「深雪? 渡しに行く?」
大勢に紛れたくはないと考えていた成瀬だったが、もうチャンスがないと踏んだ様だった。
確かに、日路は今から部活だろうし、流石にそれが終わるまで待っている訳にもいかないだろう。
渡したいという思いと“私なんかが”という後ろ向きな想いがせめぎ合って、足は前にも後ろにも進まなかった。
黙ったまま微動だにしない深雪を、成瀬は同じ様に黙って見つめていた。いつもなら強引に背中を押されるところだが、どいう言う訳か、今は何も言っては来なかった。
そんなことをしているうちに、日路はその場を去っていく。深雪は、部活へと向かうその後ろ姿を、呆然と見つめた。
行ってしまった。残念なような、ほっとしたような。
深雪がふっと肩を落とすと、成瀬が無言のまま、持っていた深雪の鞄をを差し出してきた。
「ま、いいんじゃない。 バレンタインなんて、ただのイベントに過ぎないし」
「・・・・・」
成瀬が、珍しすぎる慰めの言葉をかけてくる。深雪は拍子抜けしながら、どこかで成瀬が強く背中を押してくれることを期待していた自分がいたことに気が付く。
甘えてばかりだ。何もかも。こんなに応援してくれているのに。
一緒にチョコレートをつくった時のことを思い出す。あの時の、渡したいという気持ちを。
深雪は、ばっと成瀬の手から鞄を受け取った。それから、急いで踵を返す。
「深雪!?」
突然のことに、成瀬が驚きの声を上げる。深雪は、顔だけ成瀬の方を振り向いた。
「ごめん成瀬ちゃん、先に戻ってて。 私、やっぱり先輩に渡してくるっ」
それだけを伝えて、深雪は階段を駆け下りて行った。
***
乱れた呼吸を、深雪は駐輪場で整えていた。
日路はよく、剣道場に向かうのに、この駐輪場の前を通っていく。日路は部室で着替えてから行くだろうから、ぎりぎり先回りできた筈だ。
激しく脈打つ鼓動は、急いで来た所為か、それとも他の何かが要因か。
深雪は、ぎゅっと鞄の持ち手を握る手に力を籠めた。まだ寒いはずの二月の空気は、火照った顔には心地よい程だった。
耳元でする緊張の音を振り払うように首を振った先で、待ちに待っていた人を見つけた。
「立花?」
「大神先輩・・・・・」
いつもの笑顔で、先に声をかけてくれる日路の瞳に、不安そうな顔をした自分が映り込んでいた。
名前を呼ばれただけで、きゅっと胸が掴まれたような心地になる。これは紛れもなく恋で、誤魔化しなど効きようもない。
「どうしたんだ、こんなところで。 寒くないか?」
目の前に来て、心配そうに首を傾げる日路。深雪は、口をぱくぱくと開閉させた。
言わなきゃいけないことがある。渡さなければいけないものがある。でも頭の中は思考でいっぱいで、言葉は詰まって出てこない。もどかしくて仕方がない。
焦る深雪だったが、日路は穏やかな顔で、黙って深雪が話し始めるのを待っていた。
いつもそうだ。話すのが苦手な深雪の言葉を、日路は優しく待ってくれる。
「あのっ」
言葉を発すると共に、涙が出そうになる。深雪は全身に力を籠めた。
それでも震える手で、深雪は鞄の中からチョコレートの入った箱を取り出す。日路の顔が見られず、お辞儀をしながらその箱をぐいっと彼の前に突き出した。
「これ、あの、チョコレート・・・・・バレンタインで」
自分でも何を言いたいのか、よくわからなかった。それでも、気持ちを伝えなければと勇気を振り絞った。
「あの、チョコレート、作ったので・・・・・先輩にもらってもらいたくて」
「手作りを、俺に?」
頭の上から、日路の声が降ってくる。緊張が少し解れる様な、落ち着く声色。
深雪は、恐る恐る顔を上げてみた。
「はい・・・・・えっと、日頃の感謝を・・・・・」
ここで告白までする度胸は無かったが、深雪としては、人生で一番の勇気を振り絞ったつもりだ。
ごにょごにょと話す深雪に、日路は「ははっ」と明るく笑う。
「日頃の感謝かぁ。 こっちこそありがとう。 本当に、俺が貰っていいの?」
「も、勿論です!」
寧ろ、自分の手作りを貰ってもらえるのだろうかと心配だったぐらいだ。
深雪の手から、チョコレートの箱を受け取る日路に感動して、緊張もぐっと緩んだ。
「今から部活なのに、渡しに来てごめんなさい」
「そんなこと。 気にすんなよ」
日路に笑顔を向けられると、泣きそうになる。心の中がじんわりと温かくなって、体まで熱くなった。
無事、日路にチョコレートを渡すというミッションを成し遂げた深雪。涙を堪えきった深雪は、力の入っていた肩をほっと撫で下ろす。
漸く一息つく深雪の様子を、日路は微笑んで見つめる。
「じゃあ俺、部活行くよ。 ありがとな、立花」
「いえ、こちらこそ!」
日路の後ろ姿を、清々しい気持ちで見送る。
この達成感を、伝えなければいけない人が居る。感謝を伝えなければいけない人が。
深雪は、さっと体の向きを変えて、校舎に向かっていった。




