好きな人の隣で
逃げるようにしてトイレに駆け込んだ深雪は、洗面台の大きな鏡の前で大きく深呼吸していた。
鏡の中の自分と向き合うこと五分程、漸く気持ちが落ち着いてきたところで、ふっと小さく息を吐き出した。
ソースが口についていたというだけでも恥ずかしいのに、それを好きな人の手で拭われるなんて、思い出しただけでも頭が沸騰する。
このままトイレに引きこもっていたい気分だったが、あまり長い時間席を外すと心配されてしまうかもしれない。
深雪は“大丈夫”と自分に言い聞かせながら、恐る恐るトイレを後にした。
部屋に戻る途中の角で、後ろから小さく呼び止められた。
「深雪ちゃん」
「杏香さん!」
振り向けば、美麗な笑みを浮かべる杏香がこちらに向かって歩み寄って来ていた。
杏香は深雪の元まで辿り着くと、更に笑みを深めた。
「今日は来てくれてありがとうね。 沢山お友達も連れて来てもらっちゃって」
「いえ! お誘い頂いて、ありがとうございました。とっても美味しいです」
深々と頭を下げる深雪に、杏香が「本当にありがとう」と口にしてきた。
心なしかしみじみとした「ありがとう」だったので、深雪は少しだけ不思議に思って首を傾げた。
そんな深雪の様子に、杏香がくすりと笑う。
「日路と蓮季。 仲良くしてくれてありがとうね。 二人とも楽しそうで安心したわ」
そう言って、杏香が安堵の表情を浮かべる。
離れて暮らす弟たちのことを、杏香なりに気にかけていて心配なのだろう。
いくら日路がしっかりしていると言っても、未だ高校二年生。社会人の杏香としては、どこまでいっても、危なっかしい弟でしかないのかもしれない。
「いえ、そんなっ。 むしろ、私が良くして頂いていて・・・・・」
深雪はふるふると首を横に振ってへりくだる。
実際、仲良くしてもらっているのは深雪の方だ。日路も蓮季も、他の皆も。こんな何の取り柄もない自分と付き合ってくれるなど、なんて心の広い人たちなのだろうと、いつもありがたさに頭が上がらない。
深雪が謙遜して小さくなっていると、杏香は深雪の両肩にその手をふわりと乗せてきた。
「これからも、仲良くしてあげてくれる?」
視線だけで他人をノックダウンできそうな杏香に見つめられて、NOと言える人間なんて絶対に居ない。
「も、勿論ですっ」
「あ、私とも仲良くしてね」
ばっちりウインクをかませられ、深雪は完敗してすっかり見惚れてしまう。美しいにもほどがある。
しかし、見惚れている途中で、杏香が「あ、でも」と前置いてその表情を歪めた。
「今回、千里は来なかったのよねー。 あの生ガキをいじめ倒してやりたかったのに」
「あはは・・・・・」
杏香が、悔しそうに舌を鳴らす。深雪としては、苦笑いを浮かべるしかない。
ふと、千里のことを思い浮かべてみた。
学校見学の時に一度会ったきりだが、あの不遜な言動は脳裏にこびりついて離れない。
今回、千里は来ないと聞いて、正直ほっとしていたのが深雪の本心である。彼が来ると成瀬の機嫌も悪いだろうし、次は何を言われるのかとびびってしまう。
けれど、杏香にとっては大事な弟。会いたかっただろうなと深雪が思っていると、杏香は意味深な笑みを浮かべた。。
「ま、とっておきを用意してるんだけどね」
「?」
とっておきとは、何のことだろう。気になったが、それからすぐに杏香が「そろそろ戻らなきゃ」と言って手を振ってきたので、そのまま何も聞けず彼女を見送った。
深雪は疑問を抱きながら、日路たちが待つ部屋へと戻った。
***
深雪がトイレに発って十分ほどしたころ、日路が心配そうに時間を確認した。
「立花、遅くないか? 具合悪くなってたり・・・・・」
「深雪なら大丈夫なので。 大神先輩は、大人しく座っててください」
今にも深雪を探しに行きそうな日路を、成瀬が冷めた口調で窘める。
成瀬に止められては、日路も振り切っていくことはできない。そわそわとしながらも、探しに行くのは諦めた様だった。
二人のやりとりを見ていた頼来は、肩を揺らして笑いながらグラスに口を付ける。
「日路は心配性だな。 お兄ちゃん気質が出ちゃってるよ」
「うるさいよ」
日路に一言でバッサリと切られた頼来は、話の矛先を弟の蓮季に向ける。
「実際どうよ、蓮季。 日路はちょっと、心配性が過ぎると思わん?」
「んー、どうかな」
回答に困ったフリをしながら笑う蓮季の隣で、黒田が羨望の眼差しを蓮季に向けた。
「いいなあ、蓮季。 お兄ちゃんがいて。 僕、一人っ子だし」
「お、バメちゃん一人っ子? 俺も俺も~」
「頼来に聞いてないし」
うざいノリの頼来を成瀬が仕留めにかかる。
頼来からの質問から逃れるようにして、蓮季は隣に座る千太郎に話を振った。
「千太郎君は、兄弟いるの?」
「・・・・・姉が一人」
なるべく面倒な話には関わらない様にと、鳴りを潜めていた千太郎が、ぼそりと小さな声で答える。
「姉がいるのは一緒だね」とはにかむ蓮季と、暫く弟あるあるを話し合っていると、二人が話す様子を凝視していた黒田が、徐に小さく手を挙げた。
「ねえねえ、双葉君」
「何?」
名前を呼ばれた千太郎が反応すると、黒田がそのくりくりとした瞳を、上目遣いにして言葉を続けた。
「僕も双葉君のこと、千太郎君って呼んでもいーい?」
「・・・・・」
あまりに可愛らしいおねだりに、千太郎は直ぐには反応せず、押し黙っていた。
暫くして、視線を逸らしながら口を開く。
「別に、いいけど」
「やったあ。 ありがとうっ」
短い千太郎の返事に、黒田が本当に嬉しそうに笑顔を浮かべる。
至極平静に見える千太郎に向かって、成瀬が信じられないものを見たかのように小さな悲鳴を上げた。
「千太郎が照れてる!?」
「これで照れてんのか。 成瀬にしかわかんねーな」
驚愕する成瀬に頼来が苦笑したところで、部屋のドアが外から開かれた。
遠慮がちに顔を出したのは、漸く戻ってきた深雪である。
「た、ただいま戻りました・・・・・」
「遅かったわね」
成瀬に声をかけられた深雪が着席すると、隣に座る日路が優しく微笑んできた。
「お帰り」
「た、ただいまですっ」
正直未だ、目を合わせられないほどには恥ずかしさが残っていた。
深雪は直接日路の顔も見られず、途方に暮れながらその後の時間を過ごしたのだった。




