チャンスはどこから
「だから深雪は、下とか後ろばっかり見てないで、前だけ見てなさい。 絶対にチャンスを逃さない様に」
「はい・・・・・」
一人では迷子になってしまうような成瀬家の廊下を、成瀬からの教育を受けながら歩いて進むこと数分。
先導する成瀬が、唐突に左手に見えた部屋のドアを開けた。
そのまま躊躇いなく部屋の中に入っていくので、深雪は恐る恐るその後に続く。
部屋の中は、大物女優の楽屋の様なメイクルームとなっていた。白を基調としており、ライトの効果もあって思わず目が眩む。
深雪が「うわあ」と感嘆の声を上げていると、その傍らで成瀬は、きょろきょろと室内を見回した後「あれ?」と眉を顰めた。
「いないわね」
「誰が?」
成瀬の呟きに深雪が質問すると、彼女は自身が左手につけていた細工の細かい腕時計に視線を落としながら口を開いた。
「私の母親。 深雪の髪のセットやってもらおうと思って」
「あれ、成瀬ちゃんがやってくれるんじゃないんだ」
「何で私? そんな器用なこと、できないし」
いっそ清々しく言ってのける成瀬には、最早何も言うことができない。
深雪は控えめに「そうだね・・・」といって頷いた。
「もう、しょうがないわねえ・・・・」
そう言うと、成瀬はくるりと踵を返して部屋を出て行こうとする。
どこに行くのかと、深雪がその後に続こうとした時、成瀬は退室する手前でこちらを振り返った。
そして、びしっと人差し指をこちらに差し向けてくる。
「ちょっと探してくるから。 深雪はここで大人しく待っていなさい」
「りょ、了解です・・・・・」
有無を言わせない成瀬の声色に、深雪は細かく頷いて大人しくこの部屋で待つことにした。
広い部屋に一人取り残されてしまい、深雪は暫く室内を意味もなくぐるぐる歩きまわっていたが、最終的に装飾の美しいドレッサーの前で立ち止まった。
城の様な邸宅の、広い部屋の、美しいドレッサーの鏡に映った自分の顔は、いつにも増して平凡さが際立っているように見えた。
どれだけ着飾っても、自分には似合わない場所だなと自嘲気味に笑っていると、部屋の入口の方向に人の気配を感じた。
はっとして振り返ると、丁度部屋に入ってきた人影と目が合った。
「あら、可愛い子を見つけちゃった」
「え、えっと・・・・・」
部屋に入ってきたのは、花柄のワンピースに身を包んだ可愛らしい女性だった。柔らかそうな暗めの茶髪をしたその女性は、ゆったりとした足取りで深雪の元まで近寄ってきた。
恐らく、成瀬家の家人なのであろう。深雪は一人でここにいる状況を説明しようと口を開いたが、うまく説明できずに結局押し黙る。
目の前まで来た女性は、本当に可愛らしい人だった。大きな瞳は女性の顔立ちを幼くさせていたが、醸し出す雰囲気は上品な夫人を思わせる。
ひょっとしてこの人は、と思っていると、目の前の女性がにこりと微笑んできた。
「深雪ちゃんよね? いつも、娘と仲良くしてくれてありがとうね」
その挨拶に、深雪の背がしゃんと伸びた。
「な、成瀬ちゃんのお母様!」
思わず「お母様」と言ってしまう程、彼女は上品な人だった。
成瀬の母親は、深雪の反応を見て更に笑みを深めた。
同姓でもドキドキしてしまうその容貌は、流石成瀬の母親と言うべきか。
成瀬に比べて険が無い為、雰囲気は全く違うが、同じ種類の美形であることは確かだった。
深雪がすっかり見惚れてしまっていると、彼女は「そういえば」と部屋の中をぐるりと見回した。
「羽澄がいないのね? どこ行っちゃったのかしら」
「あの、さっきお母様を探しに行ってしまって・・・・・」
ここまでの経緯と共に深雪が説明すると、成瀬の母親は「あら、そう」と言ってまた笑った。
それから、徐にドレッサーの前の椅子を引いて、深雪を手招いた。
「いらっしゃい、深雪ちゃん。 髪のセットをしてあげるわ」
成瀬の母親の早速の申し出に、深雪は気遅れて直ぐにはその場を動けなかった。
それよりも、成瀬を呼び戻した方が良いのではと提案したが、成瀬の母親は緩やかに首を左右に振った。
「いいわよ。 暫くすれば、あの子もここに戻ってくるでしょう。 時間がもったいないから、深雪ちゃんは準備しちゃいましょ」
そう言って軽くウインクをかまされてしまえば、深雪もNOとは言えない。
恐る恐る、ドレッサーの前の椅子に腰かけた。
「今更だけど、髪を触られるのは平気?」
「は、はいっ」
一応のお伺いを立てた成瀬の母親は、優しい手つきで深雪の髪に触れた。
最初は緊張していた深雪だったが、成瀬の母親のあまりの手際の良さに、途中から完全に感動してしまっていた。
鏡に映る自分の姿が、今までに見たことのないものになっていくのを呆然と眺める。
髪をセットしてくれている間も、成瀬の母親のお喋りは続いていた。
「高校生になってから、羽澄ってば深雪ちゃんの話ばっかりなのよ。 本当に大好きみたい」
成瀬のいないところでそんな話を聞くのは、深雪としては少しだけこそばゆい。それでも嬉しさが勝って照れ笑いが零れる。
暫く成瀬の幼いころの可愛らしいエピソードを話してくれていた成瀬の母親だったが、そのうち深雪の話を聞きたがった。
繰り出される質問に丁寧に答えていると、ふいに成瀬の母親は「ごめんなさいね」と言って、子供がするような可愛らしい笑みを浮かべた。
「あの子が友達を連れてくるなんて、珍しくって」
本当に嬉しそうに笑うその姿を見て、深雪も嬉しくなる。
「それに、学校の先輩の誕生会をやるって言うんだから。 もう私が張り切っちゃって」
日路の誕生会に、自分の家を提供しようと提案してきた成瀬が、あの時言っていた「そういうことが好きな人」というのは、きっと成瀬の母親のことだったのだろうと合点がいく。
その後も質問攻めに合っていると、遂に満を持した問いが向けられた。
「深雪ちゃんは、好きな子いるの?」
「ええ!?」
急に大きな声を上げた深雪に、成瀬の母親は手を止めずに「ふふふ」と含んだ笑いを漏らした。
「やっぱり、若い女の子と話すなら恋が良いじゃない。 いないの? 好きな子」
「え、ええと・・・・・」
深雪は言い淀だが、その反応が完全に「いる」と肯定している。
察した成瀬の母親は、子供の様に囃し立てることはしなかった。
「そう」と短く頷いて、大人の笑みを浮かべる。
「うまくいくといいわね。 チャンスを逃しちゃダメよ?」
「チャンスの神様!」
成瀬の母親が口にした「チャンス」という言葉に、深雪は先ほどの成瀬との会話を思い出して、思わず反芻していた。
意外と大きな声になってしまい、成瀬の母親がきょとんとした顔で「え?」と驚きの声を発した。
深雪は恥ずかしさに顔を赤らめながら説明する。
「あ、あの、チャンスの神様には、前髪しかないって話を、さっき成瀬ちゃんが・・・・・」
「あら、羽澄が?」
意外そうな顔をした成瀬の母親は、それからは打って変わって静かになった。
どうしたんだろうと深雪が思っている間に、ヘアセットが完了したようで、成瀬の母親が「はい、できた」と優しく微笑んだ。
意識が完全に自分の背後に向いていたので、深雪は改めて鏡に映る自分を凝視した。
そこにいたのは、先程までの冴えない姿ではなく、見たことも無い様な雰囲気の自分だった。
髪型ひとつでここまで変わるのかと、言葉もなく感激していると、成瀬の母親が櫛などを片付けながら「本当、深雪ちゃんて可愛いわね」と賛辞を述べてくれた。
こんなにストレートに褒めてもらえることは滅多にない。照れて顔を俯かせていると、深雪の肩に成瀬の母親の優しい手がふわりと乗った。
驚いてぱっと顔を上げると、鏡越しの成瀬の母親と目が合った。
「あのね、深雪ちゃん。 良いこと教えてあげるわ」
「はい?」
成瀬の母親は、たっぷり間をおいてから“良いこと”を教えてくれる。
「チャンスっていうのはね、前からだけじゃない。 横からも、後ろからも来るものなのよ」
くすりと上品に浮かべられた笑顔は、大人の女性がするそれだ。
その仕草に深雪はどきりとしながら「はいっ」と短く頷いた。
チャンスは前からだけじゃない。深雪の中ではなかなかに衝撃的な言葉だった。
成瀬が言う様に、チャンスは前からくるもので、それを逃したらもう一生掴むことができないのだと思っていた。
しかし、チャンスはどこからでもやってくるのだ。前を見ているだけでは掴み取れないチャンスがある。
深雪が新しい考えに感銘を受けていると、ひとしきり辺りを探し回ってきたらしい成瀬が部屋に戻ってきて「あ!」と大きな声を上げた。
「どこ行ってたのよ、母さん。 深雪に変なこと言ってないわよね?」
「変なことって? ねえ、それより見てよ、深雪ちゃん可愛いでしょ?」
はぐらかす成瀬の母親の態度はわざとらしかったが、成瀬はそれよりも深雪の変わりように驚いた様で、少しだけ目を大きく見開いた。
「ま、それなら大神先輩に反応してもらえるんじゃない?」
「あら、深雪ちゃんの好きな人って大神先輩って言うの? 今日来る子なのね?」
何故か一番テンションを上げる成瀬の母親に「ははは・・・」と笑いを漏らしながら、深雪はもう一度まじまじと鏡の中の自分を見つめた。
髪型だけはファッション誌から飛び出してきたようなクオリティだ。それでも浮くことが無いのは、深雪の顔立ちと今日のファッションに絶妙に髪型を合わせてくれたおかげだろう。
深雪は緊張しながらも、これから日路に会うことを想像して思わず笑みを漏らした。




