少しの勇気
二年生になり、自転車を停める駐輪場の位置が、一列ずれた。
深雪は自転車を手で押しながら、慎重に自転車を停める。
もう、バランスを崩して自転車をドミノ倒しにするようなへまなんてしない。今となっては、日路との出会いになった、重要なアクシデントであった訳だが、当時の冷や汗は、未だにハンドルを握る深雪の手を濡らす。
今日も、問題無く駐輪することが出来た。ほっと肩を撫で下ろしていると、そこに丁度登校してきた日路が現れる。
出会いから一年。未だ、日路を不意に見かけると緊張が全身に走る。話しかけたい気持ちと、私なんかが、という後ろ向きな気持ちがせめぎ合う。
駐輪場にはちらほら他の生徒もいたが、深雪の視線は一点、日路に向けられた。
学年が違うので、深雪が停めた位置とは離れたところに、日路は自転車をスムーズに停めた。深雪の存在には、気がついていないようである。
こちらを振り返らないだろうかと、深雪はもう用のないはずの駐輪場に佇んだ。気がついてくれさえすれば、日路はきっと挨拶をしてくれるだろう。
勿論、挨拶など深雪側からすれば良いのだが、少し離れたところにいる日路の元へ挨拶に行くような勇気は、残念ながら持ち合わせていない。
自転車の籠から鞄を取り出し、校舎に向かおうとする日路。そのまま歩いて行ってくれれば、深雪が視界に映るかもしれない。
もう少し、もう少し。
深雪の心拍数が上がる。
そして、あとほんの少しというところで、
「大神、おはよー」
駐輪場に入ってきた男子生徒の呼びかけに、名前を呼ばれた日路よりも、深雪の方が驚いてびくりと肩を揺らした。
一方で日路は、実に自然な動作で、呼びかけに応じる。
「おはよ」
深雪がいる方向とは逆側を振り向いた日路は、そのまま声をかけてきた男子生徒と歩きながら談笑を始める。
「この時間珍しいなー。 朝練は?」
「今日は無し」
完全に深雪が視界に入る範囲を外れた日路に、深雪はがっくりと肩を落とした。
どんどん遠ざかっていく日路の背中。
深雪は、一年前から進歩の無い自分に気がついて、ぎゅっと両手を握り締めた。いつも誰かに頼って、背中を押されなければ、話しかけることもできないなんて。
遠のいていく日路の背中は、そのまま深雪と日路との距離を表しているようだった。焦がれるばかりで、追いかけることができない。
なんだか、悔しい。あの時も、あの時も、頑張ってきたじゃないかと、深雪は一つ大きく深呼吸をした。
ほんの少し、勇気を出して。
「大神先輩!」
思いの他、大きな声が出た。心臓がきゅっと縮まる。
駐輪場に響いた深雪の声に、日路が目を丸くして振り返る。少し視線を彷徨わせた後、深雪を見つけて「おお、立花」と軽く手を上げた。
深雪は、震えそうになる喉に意識を集中させた。頭の中は真っ白だ。
「お、おはようございますっ」
シンプルな挨拶に日路は一瞬、虚をつかれた顔をしたが、すぐににこりと微笑んだ。
「うん、おはよう」
どうしたら、朝からそんな爽やかな笑顔ができるのか。深雪は、あまりの眩しさに目眩を覚えた。
周りには他の生徒もいたが、深雪の目にはもう日路しか映らない。視界がぎゅっと狭くなった感覚に陥った。
「朝から元気だな」
日路は更にそう続けて、軽くこちらに手を振ってくれた。言葉が出てこない深雪が、なんとか頭だけ下げて反応を示すと、最後にもう一度笑顔を見せて、昇降口の方へと消えていった。
ふっと、視界が一気に広がり、周りが鮮明になる。緊張が一気に解け、深雪はその場にしゃがみ込みそうになるのをぐっと堪えて、足を踏ん張った。
出会って一年。今の自分を見られたら「いつまで緊張するつもりか」と、成瀬あたりには呆れられそうだなと、深雪は自嘲ぎみに笑った。
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次回は11/15投稿予定です。
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