第十六章 江東の小覇王(四)
孫策は報告を聞くや否や、矢のように屋敷を飛び出していった。
武将の脚力で地を駆け、瞬く間に現場へと到着する。
「ちぃ……」
彼が目の当たりにしたのは、見るも無惨な光景だった。
城壁の岩がまとめて崩れ、近くの民家を押し潰している。
既に多くの兵が岩の除去および救命活動に当たっているが、住民の生存は絶望的に思えた。
それでも孫策は、一瞬たりとも脚を止めなかった。持ち出した剣を手に、必死の形相で突き進む。
「おめぇら、どけぇっ!!」
「そ、孫策様!」
兵士達は度肝を抜かれた。自分達の主君が、こんな事故現場に姿を現したからだ。
「うらあぁっ!!」
渾身の一太刀を岩に振り下ろす。さすがに武将だけあってその膂力は一般兵とは比べ物にならない。
「孫策様、貴方様が、こんな……」
「今はんなこと気にしてる場合じゃねーだろ!
それに、この下にいるのは孫呉の民、俺の民だ!
だったら! 王である俺が助けるのは当然のことだぁ!!」
返答しながら岩に手を突っ込み、岩盤を剥ぎ取る。
民を思う孫策の言葉と行動に心打たれたのか……兵士達は孫策と共に救助に当たる。
「こういう力仕事なら、俺の出番だな」
次の瞬間、孫策の倍以上の力で、岩が吹き飛ばされた。
「黄蓋!」
精悍な笑顔を見せるのは、孫軍随一の強力自慢、黄蓋だった。
「孫堅殿が生きておられたら、きっと同じことをした……
孫策様! やっぱりあんたは最高の主君だぜ!!」
民草の窮状を見るに見兼ねて飛び出す……自分の民を我が子同然に思う彼こそ、黄蓋にとっての理想の主だった。
「黄蓋……絶対、助けるぞ!!」
「はい!!」
孫策と黄蓋の助力もあってか、岩石の除去作業は驚くほど早く進んだ。
それによって、下敷きにされた人々を全員生きて救出することができた。しかし……
「もう手遅れだと!?」
「はい……辛うじて息はありますが、皆酷い怪我で、このままでは力尽きるのも時間の問題……
それに、医師の数も足りておらず、満足な備えもないこの場所では……」
「畜生っ!せっかく助け出したってのに!!」
悔しさのあまり、地面に拳を叩きつける孫策。
今の彼は、己の無力さを嫌と言うほど痛感していた。衝動に突き動かされるままに叫ぶ。
「誰か……医者はいねーのか!!」
「お呼びでやんすか?」
慟哭のような声に応えたのは、実におっとりとした返事だった。
予想外の返答に驚きつつ、声のした方へと振り返る孫策。
だがそこにいたのは、医師には見えない奇抜な服装をした人物だった。
どぎつい赤紫色の着物を羽織り、口には紅を注している。
長く伸ばした黒髪を頭の右側で縛っており、黒い色眼鏡をかけている。
女のような装いゆえか、性別は判然としない。
「あんた……医者なのか?」
「へい、あちきは華佗、字は元化と言いやす。通りすがりのケチな医者でやんすよ」
どう見ても胡散臭い人物である。
しかし、今の孫策はそれこそ藁にも縋りたい心地だった。
「な、なら話は早ぇ! あいつらを助けるのに、力を貸してくれねぇか?」
「もちろん、そのつもりでやんすよ。失礼……」
華佗と名乗った自称医者は負傷者の集まる場所へと向かう。
皆、彼に期待しているわけではなかった。
それでも、今は人手が増えてくれることを、心から有り難く思っていた。
だが……この男の存在が奇跡を呼び起こすことになる。
「そいじゃ、ちゃっちゃと終わらせやしょう」
そう言って華佗は、袖の下から長い針を取り出した。
「ふぅ、ざっとこんなもんすかね」
大手術を終え、一息つく華佗。
彼の周囲には、処置を完全に終えた患者達が並んでいる。そして全員、息をしていた。
「全員助かりそうだって!?本当か!?」
「は、はい……私も信じられませんが……」
報告をする兵士な顔は驚愕で固まっていた。
彼らが目の当たりにした、華佗の手術は、まさに神業というべきものだったのだ。
全員に素早く麻酔針を刺し、同時に手術を行う。
目にも留まらぬ速さで動き、誰か一人の治療に遅れがでることはなく、全員を均一に、かつ高速で治療していく。
傷口の縫合は迅速にして正確無比。まるで傷が高速で再生しているようだった。
「ふぅ、とりあえず峠は越えたでやんす。
後は絶対安静にして、耐えず看護を続けることを勧めるでやんす」
「あ、ああ……しかしあんた、すげぇな……」
「あちきは、まだまだ修行中の身でやんすよ。
だから、こうして全国を流離って、腕を磨いているでやんす」
「あれで修行中って……信じられねぇ……」
「医の道は険しく、終わりはないでやんす。
できるだけ多くの命を救いたいでやんすからねぇ」
そう言って、華佗は再び患者の下へと戻る。
容姿こそ奇抜だが、その腕前と人の命を救いたいという気持ちは本物だ。
そんな彼に、孫策は敬意を抱いた。
やがて、大勢の医者が現場に到着した。
華佗の手術を目の当たりにした者達は、一様に驚嘆した。
彼らの働きもあって、怪我人達は皆一命を取り留めた。
あれだけの惨事から考えると、まさに奇跡と呼ぶ他ない結末である。
「自己紹介がまだだったな。俺は孫策、字は伯符。
あんたみたいな人と知り合えて、嬉しいぜ」
「存じ上げておりやす。御殿様に、面と向かって話のできる身分でもありやせんが……」
「とんでもねぇよ。あんたは俺の民の命を救ってくれた。
俺にとってもあんたは命の恩人だ。あんたとは、対等の友になりたいと思っている」
優れた腕と人格を持つ者への尊敬と憧れを込めて、孫策は華佗に手を差し延べる。
その人懐っこい笑顔に華佗も微笑み返す。
「民の苦しみを自分のことのように思う心……あちきこそ、貴方様には感服しやした。
貴方様のために腕を振るえたこと、光栄に思うでありんす」
色眼鏡を外し、赤い隈取りを施した裸眼を見せる華佗。
そして、孫策に応えて手を伸ばし、堅い握手を交わした。
それから……華佗は患者を完治するまで孫呉の地に留まることになった。
孫策としてはもっと色んなことを話したかったが、治療の邪魔はするまいと自重した。
その代わり、周瑜に対して華佗のことをたっぷり語って聞かせた。
「いやぁ、とにかく凄ぇんだよ。針を刺した途端、痛がってた怪我人が静かになって、
その間にてきぱきと手術を終えちまうんだな。
ありゃあ人間業じゃねぇ。まぁ、きっと武将なんだろうがよ」
よほど感動していたのか、喜々として語る孫策。
話を聞いていた周瑜は、そんな純心な親友を微笑ましく思いつつ……あることに思い当たっていた。
「華佗という名前に、神業めいた医の腕前……
どうやら神医、華佗で間違いなさそうだな」
「神医?」
あの凄腕にはふさわしい異名である。
「拠点を持たず各地を放浪し、優れた腕で多くの人々を救っている、幻の名医だ。
これまでも、助かる見込みのない重体患者を、何人も救ってきたらしい。
お前も目にした、全身麻酔の法……“麻沸散”は、
この広い中華でも華佗にしか使えない秘法中の秘法だ」
「へぇ……そんなに凄ぇ人だったんだ……」
眼を輝かせる孫策。彼の中で、華佗への憧れはますます膨れ上がっていった。
「全く……すぐにでもかだに弟子入りしかねない勢いだな」
「何たって神医だぜ? お前も興味あんだろ?」
「まぁ……な」
あらゆる学問を修めた周瑜は、医学にも通じている。
孫策の言う通り……彼も華佗には強い興味を抱いていた。
(もし……彼が十年前も孫軍にいれば……
大殿を、孫堅様を救うことも出来たのではあるまいか……)
過去を覆すことはできないことはわかっている。しかし……
「ところで、伯符……昨日の事故は、華佗殿やお前たち救護に当たった者はもちろんだが……
他にも大きな役割をした者がいるのだぞ」
「え?」
「何故、事故が起こってあんなに早く兵士達が救援にきたのか……
それは、不足の事態にも対応できるよう、連絡網が隅々まで行き届いていたからだ」
「それって、お前が作ったんじゃねぇのか?」
「確かに俺も発案に関わってはいるが……
実際に都市の治安維持や災害対策の制度を整えたのは、別の人間だ」
「誰なんだよ、そいつは……」
周瑜は微笑んで、答えを口にする。
「孫権殿だよ」
「仲謀……が?」
弟の名前を出され、意外で仕方がないといった顔つきをしている。
「全く、大した人物だよ君の弟殿は。
国家の在り方、民衆の統治というものをよくわかっている。
十分、一人前の政治家だよ。というかお前、知らなかったのか」
「あ、ああ……最近あんま顔を合わすこともねーし。
あいつがよく重臣連中のところに通っているのは知っていたが……
てっきり勉強しに行っているもんだと……」
「そう。彼は毎日のように重臣達と関わり、議論を交わしている。
ところが、弟殿の明晰さや、新鮮な意見に、重臣達の方が感心してしまってね。
勉強しに行くつもりが、今では重臣達に頼られてすらいるよ」
「はぁ……あいつがねぇ……確かに、昔から頭はよかったが……」
「彼も成長しているんだ。お前の知らない間にな。
時代は流れている……私も、呂蒙や凌統達を見ていると、つくづく思うよ」
「もう、俺達も若くないってことなのかねぇ……」
孫策は、天を仰いで自嘲するようにつぶやく。
「黄昏れるにはまだ早過ぎるぞ、伯符。
だが、喜ぶべきことじゃないか。彼らがいれば、孫呉の未来は明るい」
「ああ……そいつらの未来を守るためにも、今、俺達が頑張らねぇとな……」
孫家の別邸にて、孫権は大量の書類相手に取り組んでいた。
これらは全て、民や兵士達から集まった要望書である。
彼は一枚一枚に目を通し、これらの意見を取り入れた新しい法の草案を作成している最中だった。
「まーだお仕事っすか? 相変わらず精が出るっすねぇ」
冷やかすように話しかけてくるのは、孫家の食客、諸葛瑾である。
しかし、彼は主人が働いていると言うのに何もしようとせず、床に寝転がっている。
「でーもー、働きづめは体によくないっすよ?
ちょっとは息抜きした方がいいと思うっすけどねぇ」
「兄上は……曹操と戦うために、もうすぐ許都に発ってしまうかもしれないんだ。
その間、この都を守るのは私達の役目だ。のんびりなどしていられないさ」
「ふーん……仲謀様は本当に頑張り屋さんなんすねぇ……」
そう……自分に出来るのはこれぐらいのことだ。
自分は人一倍努力して、ようやく一人前になれる。
それでも、まだまだ力不足を実感する日々が続いている。
せめて兄の留守ぐらい預かれないようでは、孫家の人間に相応しくない。
「ところで、今孫呉には華佗っていうすげぇ医者が来ているらしいっすよ?」
「華佗……」
「へいへい、何でも昨日の事故で大怪我を負った民を全員助けちゃったとか……
神医と呼ばれるほどの人なら、俺っちも一度診てもらいたいっすねぇ」
「そうね。確かに貴方には医者が必要ね。
その怠け癖を、どうにかして矯正してもらいたいところだわ」
女の声が聞こえた瞬間、瑾は驚いて飛び上がる。
そこには、孫策、孫権の妹、孫尚香が立っていた。
「ありー……お嬢さま……」
いつも通りの端正な顔立ちだが、その内では酷く憤慨していることに、瑾はすぐに気づいた。
「瑾……お兄さまが働いているというのに、貴方はぐうたら寝てばかりで、
あまつさえお兄さまのお仕事の邪魔をするとは何事ですか!」
手にした日傘の先で、瑾の頬を突く。
「ひゃ、ひゃい、しゅみません……!」
「でも、確かに働きすぎではありますわね。
少しは気分転換に、外に散歩に出られてはいかがかしら?」
「ああ、なるほど、お嬢さまはそれが目的で……痛たたたた!」
さらに傘の先端を押し付けられる瑾。
「ねぇ、お兄さま、どうですの?」
「………………」
ちょうど仕事も一段落ついたのか……孫権は筆を置き、妹の提案を受けることにした。
「ありがとうございますわ♪」
「何、自分の足で市井を歩いて、民の生活を直に眼にするのも、必要なことだからな」
「まぁ……あくまで仕事の一環なんですわね。でも、それで構いませんわ。早速出かけましょう!」
瑾の伸ばした前髪の間から見える尚香は、眼に見てうきうきしていた。
孫権と尚香が散歩に出かけた後……孫権の部屋には、瑾一人だけが残された。
掌の上に頭を置き、涅槃の姿勢を取って横になっている。
「ま……仲謀様が息抜きしてくれりゃ俺っちはそれでいいんですけどね。
一人ぼっちってのも、結構寂しいっすねぇ……」
付いていけば良かったとも思うが、世にも稀な美男美女兄妹の間に、
自分のような小汚い影みたいなものが混ざるのもどうかと考え直す。
「だからといって……」
瑾は、後ろを振り返らずに言葉を発する。
「あんたみたいなのと二人きりってのも、お断りなんすけどね?」
彼の背後には、紫色の狼を模した仮面を被った怪人が、忽然と現れていた。
瑾は全く動じていない。それどころか、まるで旧知の仲であるかのように語りかける。
「……あんたとは、二度と会うことはない……そう思っていたっすよ」
「私とて同じだ。だが、そうもいかなくなった……」
「一体何の用っすか。さっさと済ませて欲しいっすね」
露骨に嫌そうに話しかける瑾。
「なぁに……簡単なことだ」
仮面の男……“狼顧の相”は、実に淡々と言い放った。
「私は今日……孫伯符を抹殺する」
「………………」
そんな衝撃の一言を聞かされたのにも関わらず、瑾に全く動した様子は無かった。
「だから、私の邪魔をするな。言いたいことはそれだけだ」
瑾は興味なさげに耳に指を突っ込んでいたが……
「ま……あんたが何を考えていようと、俺っちにとっちゃ興味の無いことっす。
けど……」
突如、その声音が変化する。
「仲謀お坊ちゃまに手を出すことだけは、許さないっすよ?
もし、あのお人の命まで奪おうというんなら……
あんたを、殺す」
最後の一言には、明確な殺意が込められていた。
単なる脅しではない。現実に、この男は自分を殺せるだけの力を持っている。
本気で戦おうと思えば、はっきり言って彼の“弟”よりもずっと恐ろしい相手だ。
だが……その心配は杞憂に終わったようだ。
「くくくくく……そうか、今は孫権についているのか」
「それが……どうしたっすか?」
「安心しろ……私とお前の利害はぶつからない……
何故なら、私の計画通りに進めば、孫仲謀は王の座につき、
この呉を繁栄に導いた上で、天寿を全うすることができるのだからな」
「………………」
予言めいた台詞だが、瑾はそれを出鱈目だとは思わなかった。
「もう一度確認する……お前は、孫策が殺されても一向に構わんと言うんだな?」
「そうっす。俺っちは、仲謀お坊ちゃまさえ生き延びて下されば、それでいいんすよ。
後は誰が死のうが生きようが……どうでもいいことっすから」
はっきりと言ってのける瑾。
孫権の傍にいること……今の彼にとって、重要なのはそれだけだ。
「そうか……」
狼顧の相は、黒衣を翻して立ち去ろうとする。
「興味が無い」と言ったのは本心からか……瑾は最後まで、男のいる方へ振り向こうとはしなかった。
「………………」
いつもながら、何を考えているのか分からない男だ。そういう点では“妹”と良く似ている。
だが、それでいい……この男とは、不干渉を保つのが一番の上策。味方に取り込む必要など無い。
敵にしても味方にしても、最悪の結果しかもたらさない……諸葛子瑜とは、そういう男だ。
彼は思う……自分は神になるべき人間だが……
もしも、“悪魔”なるものがこの世に存在するならば……
それは、今呑気に寝そべっている、この男のことなのだろう、と……