第十六章 江東の小覇王(二)
渾元暦200年。
豫州・官渡にて袁紹と曹操の戦いが始まった頃……
荊州、揚州など南に拠点を置く群雄達は、一つの選択を迫られていた。
彼らは袁と曹、どちらにも属さず中立を保っていたが……激変する時代の流れは、いつまでもそんな傍観を許しはしなかった。
大軍勢を有する袁紹は、南の群雄に圧力をかけ、兵を挙げて曹操を挟撃するよう命じる。
もしこの命令を拒絶すれば、官渡攻略後、直ちに攻め滅ぼすという脅しをつけて……
荊州、襄陽……
「困りました……実に困りましたねぇ。この状況は……」
荊州の統治者、劉表は、方形の卓の上に描かれた中華の地図を眺めて嘆息する。
地図の上には、官渡を挟んで二つの大きな駒が向かい合っている。
南の方面には、それより小さな駒が並べられていた。
「多くの犠牲の末、長く続いた不毛な大乱も、ようやく終わりが見え始めています。
袁紹さんと曹操さん……どちらかが勝利して、中原から争いが消えるのは歓迎すべきことなのですが……
よりによって、この荊州を巻き込もうだなんて……」
およそ正気の沙汰ではない、これだから文化を解さない愚物どもは。
劉表の呆れ顔はそう語っていた。
「そりゃ、孫策さんは強い軍隊を持っていますから、脅しにも屈せず中立を保っていられるでしょうよ。
あの人は、隙あらば自分が中原を制覇しようという野心を持っておられますしね。
ですが、私達はどうなるのです。
文化の発展と保全だけを目的として、これまで極力、戦を控えてきた私達の志は。
今ここで私達を戦に駆り出そうとするのは、その志が踏みにじられることを意味するのですよ」
よくもここまで舌が回るものだ……劉表を見ながら“彼”は思う。
戦を控えていたと言っても、それは表向きのこと。
これまでも、張繍や黄祖に自分の兵を貸し与え、彼らを使って曹操や孫策の命を狙ってきた。
専守防衛などという謳い文句は、ただの偽装に過ぎない。
「私の望みは荊州の末永い平穏、ただそれだけだというのに……
戦火を逃れた人々が、平和と文化を求めて集まった安息の地……
この乱世では、彼らのささやかな幸せを守ることすらも、許されないというのですか……」
半分は本音かもしれないが……彼が挙兵を渋っている理由は別にある。
彼が見据えているのは大戦後のこと。
曹操と袁紹が争い疲れた後、温存していた兵力を用いて一気に中原を統一……
とまでは行かずとも、兵力を背景に大きな影響力を及ぼすことが狙いなのだ。
それに、現状では袁紹の圧倒的有利とはいえ、戦とは生き物。
どんな奇跡が起こって曹操が勝つことになるかわからない。
その時、勝った方の勢力と敵対していれば、後々まずいことになる。
ここに来ても、劉表は徹底的に“待ち”と“中立”の姿勢を貫いている。
「されど、やはり時代の流れというものはあります。仮に兵を挙げたとしましょう。
その時、この荊州の守りはどうなりますか。
すぐ傍には、この地と私の命を虎視眈々と狙うケダモノ……いえ、孫策さんがいらっしゃるというのに」
心底軽蔑しきったような吐息を漏らす劉表。
「私も、再三休戦の話を持ちかけているのですが、あの人は耳を貸そうとしません。
若さと野心に溢れるあまり、自分には何でもできると思い込んでいるのです。
戦うだけが全てではない。曹操さんも袁紹さんも分かっておられない。
何故、人は上ばかりを目指すのでしょうか……
もっと下を見て、この地上に咲き誇る、文化という花々に目を送るべきです。
争いという野蛮な行為から得るものは何もありません。
長江を赤く染めるほどの血を流したところで、そこに残るのは果て無き憎しみと例えようもない虚無だけです。
その反面……文化は人の荒んだ心を潤し、豊かにします。
文化があるからこそ、人は愛や徳を知り、協調の精神を学べるのです。
文化こそが、この中華に繁栄と平穏をもたらす唯一の手段なのです。ですが……」
劉表は、地図の上の袁紹と曹操を表す駒を動かし、間近まで移動させる。
「悲しむべきことに、これから起こる大戦争を止めることはできないでしょう。
しかし、どちらかが勝利して、全てを手中に収める……それでは今までと何も変わりません。
勝利者の野心は、また新たな争いを呼び起こすでしょう。
この戦の結末は、彼らがそれを通じて、争いの無意味さを理解するようなもので無ければならないのです。
どれだけ死力を尽くして戦ったところで、先に待つものは滅びでしかないと、あらゆる人々に理解させる必要があるのです。
争い、傷つき、斃れ伏した人々に、私は文化という光を与えます。
彼らの眼には、救世の光に映ることでしょう。
人は文化の尊さと争いの虚しさを学び、真の平和へと歩みを進めるのです……」
半ば陶酔しながら語る劉表。
しかし、彼の描く物語も、全ての敵対勢力を無力化し、中華を自分の色に染め上げる覇業であることには変わりないのだ。
「袁紹さんと曹操さんには、お互いに痛みを分かち合ってもらう必要があります。
そのためにも、貴方の働きには期待させていただきますよ」
劉表は、先ほどから話しかけている“彼”の名を呼ぶ。
「ねぇ、賈栩さん?」
賈文和は、劉表の微笑みに呼応して、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いやはや、本当に感心しましたよ。降伏を装って、曹操さんの下に潜り込む貴方の策略を聞かされた時には」
一年前……賈栩は突然に劉表の下を訪れ、袁と曹、どちらにつくか悩んでいた彼にある献策をした。
それは、主である張繍と共に曹操に投降し、軍の中枢に入り込み……
袁紹と曹操が共倒れになるよう、内部から仕向けて行くという策だった。
袁紹と曹操には、大きな戦力の開きがあり、曹操はまず間違いなく自分達の申し出を受けると言った。
更に曹操は人材登用に熱心であるから、必ず自分を重用する……そうしてみせると賈栩は豪語した。
実際、賈栩と張繍の投降は、すんなり受け入れられた。
続けて、曹操と袁紹と共倒れに持ち込む策について、こう説明した。
「世間では、曹操軍の圧倒的不利と言われているようですが……
実のところ、曹操の持ちうる兵力は、袁紹とそれほど大差があるわけでもないのです」
「ほう?」
「彼には、およそ三十万の青州兵がいますからね。
彼らを動員すれば、数の上では何とか袁紹と渡り合えるでしょう。
ですが……彼らは屯田制のため、各地の田畑で防衛に当たっています。
彼らを全て戦に動員することは、屯田制の消滅を招き、やがては領土の支配体制を根底から崩壊させます。
ですから、曹操は、最後の最後まで彼らを温存しつつ、少ない兵力で袁紹を凌ぐつもりでしょう。
しかし、私は曹操に、全兵力を投入して袁紹と戦うよう進言いたします。
さすれば、袁紹との戦は激しい消耗戦となりましょう。
最終的にどちらが勝つにしても、劉表様、貴方の望み通りの状況が出来上がります」
「なるほど……しかし、そんな策を曹操さんが受け入れますか?
まして、貴方は曹操軍では新参者……それほど大きな発言権が与えられるかどうか……」
「曹操に、新参やかつて敵であったことなど関係ありませんよ。
有効な策ならば、誰の案であろうと採用します。
そんな男だからこそ、かつて彼の命を狙った私を許し、軍師として登用したのですよ」
「寛大な心と柔軟な思考……芸術にとっても大切なことです。
つくづく、戦場に立たせるには惜しい人ですね」
心底残念そうに、劉表は呟いた。
「私は曹操にこう告げます……
実は既に劉表様と密約を結んでおり、兵力十万を動員できる用意がある、と……
これで兵力ではほぼ互角。
貴方の支援があると分かれば、曹操も安心して総力戦を挑めるというわけです。しかし……」
「おっと、そこから先は言わずとも良いですよ。
私はあくまで、荒廃した世界に然るべき秩序をもたらしたいだけですからね」
「ええ……そうでしたね」
無論、曹操との約定など守るつもりはない。
どちらが勝とうが、温存していた兵力で天下を取る筋書きに変わりはない。
劉表は決して認めようとしないが、勝つために謀を弄ぶ彼はまさしく野心家であった。
「ですが……この策には一つ問題があります。
両軍を首尾よく共倒れに出来たとしても……
劉表様以外の勢力がこちらに牙を剥き、天下に手をかければ、全てが水泡に帰します。
それだけは避けなければなりません。その敵とは……」
「孫策さん……ですね?」
その名を口にする劉表の顔が、一瞬だけ不快な色に曇った。
「はい。そこで、劉表様に頼みがあります。
貴方の手で、どうにかして彼を排除してもらいたいのです」
「ふむ……貴方は内側から曹操さんを崩し、私には孫策さんを討て……と仰るのですね?」
「その通りです。手段は問いません。暗殺するなり何なり、手はいくらでもあるでしょう。
風の噂では、彼の父・孫堅も、貴方が手を掛けたと聞いておりますし……」
「ちょっと待ってください。
そんな噂は、孫策さん達が流している根も葉もない出鱈目です。
それに、暗殺だなんて……私は、そんな汚い手段を取るのは御免被りますよ。
日の当たらない場所での血生臭い命の取り合いなど……文化的ではありません」
先ほどまで曹操を罠に嵌める策を話し合っていたというのに、一転してこの態度……
賈栩は内心呆れ果てていた。それほどまでに、この男は体面を取り繕いたいのだろうか。
しかし、劉表は続けてこんなことを言い出す。
「……ですが。孫策さんは、ここ数年の急激な領土拡張でかなり怨みを買っています。
そのせいで何か悲しむべき事件が……起こるかも……しれませんねぇ……」
遠い目で上を見上げて語る劉表。
それを見て、今度は笑い出しそうになる。
結局、この男は自分でその“悲しい事件”を起こすつもりなのだ。
彼が口にする台詞は全てが綺麗事だ。
しかし、それに背く行動を取ることに全く躊躇いがない。
恐らくは……意識的にやっているのではあるまい。
彼は本気で、外面だけ良くしておけば、それで文化的になるのだと思っている。
この異質さと冷酷さこそが……元来戦を好まぬ彼が、長年荊州の主に留まっていられただろう。
「その件に関しては、また後日話し合いましょう。
とにかく、貴方は曹操さんの信用を得ることを考えてください。
よろしくお願いしますよ。賈栩さん」
「はい……」
このまま曹操の下に取り入り、劉表の都合のいいように戦局を動かす……
真っ平御免だった。
今まで劉表に話したことは、一から十までほぼ全て“嘘”である。
自分で語っておきながら、この作戦は多くの不確定要素をはらんでいる。
まず、共倒れを狙うといっても、そう都合よく両陣営が疲弊するはずがない。
漁夫の利を狙うには、あまりに危険な賭けである。
それに、あの曹操をそんな簡単に騙しおおせるとは思えない。
加えて……劉表のような男に天下を渡すのは、賈栩の美意識が許さなかった。
賈栩は曹操を裏切って劉表の味方をするつもりなどない。
あの降伏は、偽りではなく紛れもない本心である。
当然、曹操には全く別の策を進言するつもりだ。
では何故、賈栩は劉表に曹操を裏切るような発言をしたのか。
そう……これこそが、賈文和が劉景升に仕掛けた謀なのだ。
目的はただ一つ。劉表に、孫策を暗殺させること。
全ては南の群雄を互いに合い争わせ、南から背後を突かれる危険を取り除くためだ。
上手く行けば孫策は消え、失敗しても両者の関係は更に悪化すること間違いないだろう。
そんな混乱した状況では、許都に攻め上がることすらままなるまい。
劉表は、どの道今回の戦が終わるまで動こうとはしないだろう。
彼は最初から脅威足り得なかった。
孫策の躍進で、南方がほぼ二勢力に分割された今となっては……警戒すべきは、孫策ただ一人。
だから、劉表と手を組み、孫策を排除する計画を立ち上げたのだ。
賈栩の計画は、張繍と共に曹操に降った時には始まっていた。
賈栩は劉表に、自分は本気で曹操に下るつもりはない、と言う。
だが実のところは、賈栩は曹操に本気で心酔していた。
そうとも知らず、劉表は自分と共に、曹操を陥れる計略を進めていった。
曹操、袁紹という二つの脅威が無力化することが分かれば、彼はようやく孫策討伐に重い腰を上げられる。
賈栩の狙いは、劉表をそこまで持って行くことだった。
曹操の臣下と見せかけて劉表の仲間……しかし、実体は真に曹操の臣下……
そんな“二重の裏切り”で持って、賈栩は劉表を翻弄した。
劉表は、謀を好み、なるべく自分の手を汚さずことを為そうとする人物だ。
そんな男だからこそ、賈栩は劉表を良い様に利用することが出来た。
謀で敵対勢力を弄ぶつもりで、実は自分が謀に組み込まれていたのだ。
賈栩自身にとっても、中々に痛快な話だった。
しかし……一つ気になることがある。
劉表が孫策暗殺を快諾したのはいいが、彼はどうやってそれを成すつもりなのだろう。
彼の配下に、あの孫策を始末できるような凄腕がいるとは聞いたことが無いのだが……
まぁよい。実際暗殺が成功しなくとも、
劉表と孫策との間に更なる亀裂を生じさせることが出来れば、上々の成果と言えるのだから……
「しかし、助かりましたよ。ここ最近、全く連絡が取れなくて困っていましたが……
いやはや、一番いい時期に帰って来てくださいましたね」
賈栩が立ち去った後……劉表は、暗がりにいる狼面の男に話しかける。
賈栩も知らない……孫堅暗殺の実行犯がこの男である。
九年前、孫堅の台頭を苦々しく思っていた劉表は彼に孫堅の抹殺を依頼。
彼は期待通り、孫堅暗殺を果たしてみせた。
今回も、同様の依頼をし……彼はあっさりと快諾してくれた。
「では、今回もよろしくお願いしますよ。“狼顧の相”さん」
賈栩という男……どうも胡散臭い。本気で自分のために動く気があるか怪しいものだ。
まぁ、しばらくは彼の思い通りにさせてみよう。
もし彼が自分を裏切っていたとしても構わない。
自分には“狼顧の相”がいる。いざとなれば曹操も袁紹も、彼に暗殺させればいい。
何故なら彼は……究極の文化というべき“奇跡”の使い手なのだから。
何も案ずる必要はない。
真に文化を愛し、人類の未来を憂う者にこそ、天上に昇る資格は与えられるはずだ。
劉表の依頼は、狼顧の相にとっても都合が良かった。
元より、孫策暗殺は実行するつもりだったからだ。
劉表は知らないことだろうが……狼顧の相には彼なりの事情があって今回の依頼を引き受けたのだ。
(渡りに船……いや、これも歴史の必然というべきか)
狼顧の相は、仮面の下でほくそ笑む。
自分の思惑は、決して他者には見通せない。まして、ただの人間には……
(だが……一つ問題がある……)
それは孫策自身の強さなどとは一切関係の無いことだった。
(今の孫呉には、厄介な男がいるからな……)
彼がこの世界で真に警戒しているのは、三人しかいない。
一人は既にこの世に無く、一人は行動自体が読めないので警戒する意味が薄い。
だが、もう一人はずっと孫呉に留まり続けている。
まずはその男をどうにかしなければならない。彼自身の手で。
(貂蝉と于吉を動かすのは……それからだな)
それぞれがそれぞれの思惑を抱き……黒い陰謀が、南の地で渦を巻いていた……