第十六章 江東の小覇王(一)
時は遡り、渾元暦199年。
揚州……
江東制覇を目指して躍進を続ける孫策は、長江にいる黄祖の船団に強襲をかける。
黄祖はかつて孫策の父、孫堅が最期の戦で戦った相手であり、孫堅の弔い合戦でもあった。
首領の黄祖を始め、水賊上がりの者が大半を占め、水上戦を得意とする黄祖軍だったが、
同じく水上での調練を積んで来た孫策軍の猛威の前に、一方的に撃ち破れられていった。
「お、親分! また一隻船が沈みましたぜ!」
慌てふためく部下の報告を聞いても、黄祖は豪快に笑い飛ばした。
「ゲララララララ! やりやがるな! 孫家の稚魚めが!!」
油で揚げた蟹を殻ごと丸齧りにする。
余裕を見せているが、彼は今の戦況を楽観視しているわけではない。
確かに孫策は強い。
四将軍を始めとする、父の代から付き従う優秀な将兵、各地の戦争で引き入れた者達からなる軍勢、孫策の片腕にして、天才軍師、周瑜の存在。
それら全てを、総大将・孫策の人間的な魅力が取り纏め、一つの巨大な力へと収斂されている。
かつては主君だった袁術の軍勢も、彼の失墜と同時にほぼ全て吸収している。
その規模たるや、もはやただの新興勢力ではない。
それだけではない……今の孫策には勢いがある。
江東一帯を電撃的に制圧した孫策の躍進ぶりは、単なる運や実力だけでは説明できない。
孫策は時代に愛されている。天の流れに乗った孫策の覇業は、もはや止めることはできない。
「時化の海に船を出す馬鹿はいねぇ……今の孫策は、嵐の海だ。
逆らったって無駄なだけさ。嵐が静まるまで待つのが、賢い船乗りってもんだ」
自身の経験を元に語りながら、酒を飲み干す黄祖。
「劉表への義理ならもう十分だろ。おめぇら、引き上げるぞ!!」
荊州の統治者、劉表の配下である黄祖は、彼の命令で孫策軍と戦っていた。
しかし、前線で戦い、孫策に撃破されたのは、皆劉表から与えられた兵卒ばかり。
黄祖自身の兵は、ほとんど損なわれていなかった。
劉表は自分を利用しているが、それはこちらとて同じこと。
むざむざ捨て石にされて死ぬつもりはない。
水賊上がりの彼は、豪放磊落な一方で、乱世を生き抜くしたたかさも兼ね備えていた。
こちらの被害を最小限に留めたまま、船を後退させようとした時……
「黄祖ぉぉぉぉぉ!!」
「んが?」
太陽を背にして天空を舞い、切り掛かってくる影が一つ。
黄祖は右腕で素早く腰の刀を抜き放つと、上空からの一撃を受け止める。
甲高い金属音が鳴り、黄祖より一回り小さい襲撃者は跳ね飛ばされ、甲板に着地する。
「て、てめぇはっ!!」
豊かな金髪に碧い瞳、漲るような若さとはきを備えた青年は、高らかに叫ぶ。
「我が名は孫策! 字は伯符!
我が父孫堅の仇、黄祖! 今こそ貴様をこの手で討つ!!」
自分に刃を突き付ける孫策を、黄祖は鼻で笑い飛ばす。
「ゲララララララ!! 吠えるな、若造!!
今時、んな陳腐な台詞吐いてんじゃねぇよ。
それに、てめぇの親父がおっ死んだのは、俺の預かり知らねぇことだ。
仇討ちがしてぇなら、よそを当たりな」
憎まれ口を叩きながらも、黄祖は冷静に状況を把握する。
前線で戦っている部隊は全て陽動……真の狙いは、総大将自ら敵の本陣を衝くことだったのだ。
黄祖の反論を聞いた孫策は、先程までの真剣な表情から、年相応の若者らしい軽い笑顔に変わる。
「ああ、わかっているさ。俺も別にあんたに恨みがあるわけじゃない。
けど、あんたを仇扱いした方が、色々と格好がつくだろう?」
事実、孫堅の弔い合戦ということで、孫策軍の士気は恐ろしく高まっている。
これも全て、孫策の計算通りだというのか。
「ゲラッ! 大義名分を作るためかよ! てめぇも中々の悪じゃねぇか」
だが、黄祖はよく知っている。
大義を戦争の道具として利用できる者こそ、実は強いということを……
「だが、所詮はケツの青い無鉄砲なガキだ。
たった一人で乗り込んで来て、生きて帰れると思ってんのか?」
黄祖の周囲にいる配下が、一斉に武器を手にとる。
だが、三十人近い敵を前にしても、孫策の余裕は崩れなかった。
「無鉄砲か……張昭によく言われるよ……けど、別に俺一人ってわけでもねぇんだぜ」
次の瞬間、断末魔と共に黄祖の兵が水上に落下する。
女のように白い肌、真ん中で分けた黒髪を長く伸ばし、青い戦装束を身に纏った美青年が、数名の兵を伴って船上に現れた。
「遅ぇぞ、公瑾」
「伯符、お前が先走りすぎなんだ。後で張昭殿に何を言われるか……」
「てめぇ、周瑜か!」
孫策軍の若き天才、周瑜。
その知略は言うに及ばず、武においても並の将を遥かに上回る才覚を有しているという。
周ゆは、腰にさげた長い刀を抜き放つ。
刀身が長く、反り返っている、中原ではあまり見られない刀剣である。
「大恩ある大殿の仇、黄祖!
劉表の庇護下で、水賊まがいの略奪を繰り返す貴様を捨て置くことはできん!
今日が貴様の落日だ。白衛隊は私に続け!殿をお守りし、敵を殲滅せよ!」
「わかりました!周瑜様!!」
周ゆに付き従う兵の一人が、熱気に満ちた声で返答する。
彼の名は呂蒙、字は子明。
白い装束を纏った周瑜の直属の配下、白衛隊に、若くして抜擢された俊才である。
ざんばらにした銀髪の下には、情熱を宿した緑色の瞳が煌々と輝いている。
刀を握りしめ、真っ先に敵陣に切り込んでいく。
「うおお!!覚悟しやがれ!水賊どもぉ!!」
(おうおう、いつもながら熱いねぇ。けど、公瑾はもっと張り切っているだろうぜ)
子供の頃からの付き合いだから分かる。
表向きは冷静沈着でも、周瑜の内には黄祖への怒りと憎しみが煮えたぎっていることを。
今ではある程度割り切っている自分と違い、周瑜はまだ孫堅の死を引きずっている。
親代わりであった孫堅への尊崇の念は、自分よりもずっと上だろう。
孫堅暗殺に関わった者を、全て抹殺せねば治まらないほどだ。
しかしそれでいて、決して冷静さを失ったり、判断を誤ったりしないのが周瑜という男だ。
彼の中では、激情と理性が完全に分割されている。
感情に流されることなく、その場その場で最適の判断を下すことができるのだ。
だからこそ、孫策は周瑜に全幅の信頼を寄せている。
「ガキどもが! どこまでも調子に乗りやがって!」
「はっ、これからは、もう俺達ガキの時代なんだよ。
オッサンこそ、いい年こいていつまでも水賊気取ってねぇで、とっとと隠居しな……
長江の川底にな!」
次の瞬間、孫策はひとっ飛びで黄祖の前まで斬り掛かる。
黄祖も蛮刀で応戦するも、その洗練された剣技に内心舌を巻く。
(ふん、総大将自ら戦うと言っても、考え無しの命知らずってわけじゃなさそうだな)
これが総大将の椅子で安穏としている男の剣なのか。
鎌鼬のように鋭く、野生の虎のごとき烈しさを備えている。
賊である自分達に近い、上品な型など存在しない、野獣の剣。
ただの命知らずではない。
その自信を裏付ける圧倒的な才覚と若さゆえの身体能力が、この男にはある。
こういう“本当に強い男”と張り合っても益などはない……黄祖はそれをよく知っている。
十数回ほど孫策の剣を弾いたところで、黄祖は大きく退く。
「やれやれ、やってらんねぇよ。ガキはガキでも、育ち盛りの若虎とはな!」
「へっ、まだまだ喰い足りねぇからよ……あんたの喉笛に食らいつかせてもらうぜ!」
虎の牙を獲物に突き立てんと、さらに前へと踏み込む。
片方だけの眼でそれを見た黄祖は、髭の下の口許を歪ませる。
「ゲラッ! ガキはガキ同士、仲良くじゃれあってな!!」
次の瞬間……孫策目掛けて鈍色の刃が飛んでくる。
孫策は咄嗟に身を屈め、首が飛ぶのを免れる。
「なんだ、てめぇは……」
その子供は、忽然と姿を現した。
不老年齢がある以上、見た目で実年齢は量れないが、とにかく見た目はまだ十歳前後と思しき子供である。
耳を覆い隠すほどに伸ばした白髪の下には、猫科の動物を思わせる銀色の瞳が妖しい光を放っていた。
鼻の下から足まで白い布ですっぽり包まれており、表情を伺うことはできない。
その手には鎖が握られ、鎖の先には碇型の刃物が備わっている。あれが、先程自分を襲った凶器の正体だ。
「ゲララララララ! よぉし甘寧!
俺ぁ先に逃げるから、おめぇはしばらくこいつを抑えとけ!」
「………………」
甘寧と呼ばれた少年は答えない。ただその眼を、孫策に向け続けて離さない。
感情は窺い知れないが、こちらに向けられた凍てつくような殺意ははっきりとわかる。
先程も、後少し反応が遅れれば、首は胴体と繋がっていなかっただろう。
かなりの使い手であることは間違いない。
逃げていく黄祖については心配していない。
周瑜が黄祖を仕留めに走るのが、一瞬眼に入ったからだ。これで、心置きなく戦える……
(こいつは……俺が倒す!)
その刹那……布ごしでもはっきりとわかるほど、甘寧の口許が大きく歪んだ。
どす黒い殺意の波が知覚を揺さぶる。
(何だ……こいつ……)
あの子供からは、今まで体験したことのない異質さが感じられた。
間髪入れず、手にした鎖が躍動し、碇が孫策目掛けて飛んでいく。
孫策も剣を構えて応戦しようとするが……
白刃が翻り、碇が弾かれた。だがそれは、孫策の剣ではなかった。
「公瑾……!」
「………………」
孫策と甘寧の間に割って入り、孫策を守ったのは周瑜だった。
しかし、周ゆは黄祖を狙うとばかり思っていた孫策には、予想外の行動だった。
「ゲララララァ! 甘寧! もういいぞ!! 帰ってきな!!」
黄祖のだみ声が川上に響き渡る。
彼は既に別の船に乗り込み、逃げ出す準備を整えていた。
甘寧はそれを聞くと、一瞬だけ踏み止まるそぶりを見せるも、すぐに碇を向かいの船に放ち、脱出を計る。
「逃がすな、撃て!」
周瑜の叫びを聞いた孫策の兵が一斉に矢を射かけるが、甘寧は空中で器用に鎖を繰り、矢を弾き落とす。
甘寧が船に乗り込んだ時には、既に黄祖船団は孫策軍の手の届かない距離まで逃げ去っていた。
「公瑾、お前何で……あ、いや、ありがとうよ」
戸惑いながらも、まずは礼を述べる。
周瑜には彼の言いたいことは分かっていた。
何故、黄祖を狙わなかったのか? 周瑜自身にも、実はよく分かっていない。
彼も、あの子供は孫策に任せ、自分は黄祖を狙うつもりでいた。
孫策の腕を信じていたからだ。
だが……寸前で“ある直感”が働き、孫策を助けに入った。
そのせいで、まんまと黄祖を取り逃がしてしまった。自分らしくもない失敗である。
いや、本当に失敗だったのか。
(私は……伯符が殺される……そう思ったのか?)
あの子供が放つ殺意は、今まで感じたことがないほど深く、濃厚なものだった。
実力以前に、あの子供に底知れない危険性を感じとったのだ。
一歩間違えれば、何が起こってもおかしくない……そんな危険が。
(甘寧といったな……何なんだあいつは……)
その時、周瑜の背中が強く叩かれた。振り向くと、孫策は爽やかな笑顔を向けている。
「何しけた面してんだよ。黄祖の野郎は逃がしちまったが、戦自体は俺達の大勝利だ。
ここは素直に喜ぼうぜ」
「ああ……そうだな」
あそこで万が一にも孫策が殺されていたかもしれないことを考えると……自分の判断は正しかったのだろう。
黄祖も、この大敗で当分は目立った動きはできないはず。
彼の背後にいる劉表への牽制にもなった。孫策は剣を掲げて高らかに宣言する。
「おっしゃあ! 勝鬨を上げろぉ! 俺達の勝利だ!!」
孫策軍全体から、歓声が巻き起こる。
その声を聞きながら、周瑜は、孫策を後押ししている時代の風を改めて実感していた。
「ゲ――ララララ!! あー負けた負けたぁ!!」
逃亡中の船の中で、黄祖は酒をかっ喰らいながら叫ぶ。
しかし、言葉とは裏腹に悔しそうな響きは微塵もない。
「てめぇらぁ!! 憂さ晴らしに、今夜は飲み明かすぞぉ!!」
「おおおおお――――!!」
賊でありながら、彼が大勢の部下から慕われているのは、この豪放な性格ゆえだった。
宴会の席に、白髪の少年も現れる。
「おお! 甘寧! おめぇもよくやったぜ!
今日が初陣だってのに、大したもんだ!! どうだ? おめぇも一杯やるか?」
すっかり酔っ払った顔で、酒を差し出す黄祖。甘寧は、眉一つ動かさずに答える。
「いらない」
「ゲラゲララ! そうか、お子様にはまだ酒はきついか。
俺がおめぇぐらいの頃はがぶがぶ呑んでいたんだがな!」
「………………」
豪快に笑う黄祖を余所に、甘寧は興味を失ったのか、すぐに船室を後にする。
「ゲラッ! 戦場じゃあれだけうきうきしてたってのに、ノリの悪い野郎だ」
そう言いつつもさして気にした様子もなく、また酒を飲み干す。
「ねぇ、親分……あいつ一体誰なんすか?」
部下の中にはまだ甘寧の存在を知らない者も大勢いた。
黄祖は、彼と出会った時のことを思い返しながら答える。
「あーあいつはこの間漁村で拾ったガキだ。村人のほとんどが死に絶えてた村で、一人だけ生き残ってた」
この乱世では、村人の皆殺しぐらいさして珍しい光景ではない。
「へぇ……運のいいガキですね」
「違ーよ。俺も最初は、村が賊に襲われるなり、戦に巻き込まれるなりしたんだと思ったんだがな……それが、違うんだな」
「じゃあ、何で……」
黄祖は、なみなみと注がれた酒を呑みながら答える。
「ぷはっ……何でガキが一人だけ生き残ってたのか。
簡単なことだ。あいつが他の村人を、皆殺しにしたからだよ」
その話を聞いた時には、無法者の集まりである彼らも絶句した。
黄祖も最初は眼を疑った。小さな子供が、手に刃物を持ち、笑いながら女の死体を突き刺している光景を見た時には。
あれが子供の母親だったのか、殺した村人の中には子供の親族がいたのか、それはわからない。
どちらでも同じことなのかもしれない。
何故年端もいかない子供がこんな凶行に走ったのか……理由を探ることなど無意味なのだろう。
黄祖が子供の瞳から感じたものは、底無しの殺意と狂気のみだった。
「やべぇっすね、そいつ……」
「まぁな。だが、俺達無法者の世界では、“やばい”ってのは優秀さの証だ。
だから、俺ぁあいつを拾ってきた。期待通り……あいつは極上のお宝だったぜ」
「お宝っすか……」
「ああ、あいつは強い、どうしようもなくイカれてて、何もかもがぶっ壊れてやがるが……だからこそ、とんでもなく強い!
多分、まともにやり合ったら俺でも危ないぜ」
親分がそこまで言うほどの男。
先程の陰惨な話と合わせて、子分達の間では甘寧への怖れが広がっていった。
「この大乱世をのし上がっていくには、金や頭はもちろんとして、まず強い手駒が必要だ!
あいつはいずれ俺様の切り札になる。それまでじっくり育てるとするか!」
瓶に残った酒を一気に飲み干すと、立ち上って大声で言い放つ。
「確かに今の孫策は手のつけようがねぇ! 当分奴の勢いは止まらないだろう!
だがな、止まない嵐なんてねぇんだよ!
無闇やたらに生き急ぐ奴は、いつかあっさり破滅するもんだ!
その時こそ俺達の時代の始まりだぁ!
俺達ゃ卑しい賊党だ。フジツボみてぇに、いつまでも船底にへばりついて待つぜぇ!!
ゲェ――ララララララララララララ!!」
逃げることを卑とも恥とも思わない。一時の勝利などくれてやる。それが自分達賊の長所だ。
待ち続けることで勝利を手にする……この姿勢は、主である劉表との共通点でもあった。
単なる損得勘定だけではなく、そんな点が似通っているからこそ、黄祖は彼と手を組むことを選んだのだ。
黄祖を始め、船員が皆宴会に耽る中、甘寧は一人甲板に座りこみ、碇型の刃を見つめていた。
しかし、彼が見ているのは刃に写る自分の顔ではなく……つい先程戦場ので見えた男達のことだった。
彼の頭の中には殺すことしかない。
金のために、名誉のために、大義のために、そしてただ生きるためだけに、人は人を殺す。
世界には争いが絶えることなく、その螺旋の中で大量の死が産み落とされる。
人が人を殺める行為とは、全て闘争の結果として発生するものだ。
だが、甘寧は違う。彼は何かを目的として人を殺すのではない。
殺人そのものが目的なのだ。
いつから自分がこうなってしまったのかはわからない。
生まれついての殺人鬼か、外からの何かが自分を歪めたのか。
少なくとも彼自身は、そんな自分に負い目も引け目も感じてはいない。
彼が思いを馳せるのは、どうやって相手を殺すか、命の灯が消える時、一体何が見られるのか。
人の死に関する無上の興味、ただそれだけだった。
その結果が、故郷の漁村の大虐殺である。
あれが本当に自分の故郷だったのか、自分が殺した中に、親や兄弟がいたのか……もう忘れてしまった。
殺した時の刃の感触、死に至る人間の表情、他者の命が消える実感……そうしたことは、今も克明に覚えている。
逆に言えば、それ以外のことには一切興味がないのだ。
彼にとって全ての人間は、解体するための血肉の塊に過ぎないのだから。
しかし、彼は決して無知で愚かな人間ではなかった。
むしろ年不相応なほど賢く、狡猾だった。
出会う全ての人間を殺していては、彼自身も生きていくことはできない。
死ぬのは困る。何故なら、人を殺せなくなるからだ。
自分という観察者がいなくなれば、殺人に意味は無くなる。
彼は狂っているかもしれないが、生きるために必要な知識は全て備えている。
だから、全てを敵に回すような真似はしない。
自分を庇護してくれる人間なら、喜んで尻尾を振り、かしずいてみせる。
その相手こそが黄祖だった。彼は自分の資質を認め、切り札として自分の下に引き入れた。
甘寧としても、寝床と食いぶちが確保されるのは願ったり叶ったりだ。
それに何より……彼と共にいれば、闘争に不自由することはない。
いくらでも人を殺すことができるのだ。
この乱世は、甘寧にとって理想的な時代だった。
何しろ、いくら人間を殺しても敵視されたり、排斥されることはない。
殺せば殺すほど、よくやったと褒め讃えられるぐらいだ。
そんな幸福な時代で甘寧は、日々殺人を愉しんでいたが……
今日出会った金髪と黒髪の二人の男……彼らは、今まで自分が殺して来た者達とは明らかに違っていた。
甘寧が人を殺すのは、人を解体してその内にある“命”を見たいからだ。
それは単に血の滴る内臓であったり、その人間の断末魔だったり、生きた証のような観念的なものであったりと様々だが……
金髪と黒髪……彼らの持つ生命の輝きは、今まで殺してきた者達と比べて並外れていた。
これまで甘寧は、殺せればそれでいいと対象を選り好みすることはなかった。
だが、今日この日初めて、特定の人物に対して強い興味を持った。
彼らを殺したら何が見られるのだろうか。
どんな色の、どんな音の、どんな形の命が、そこにあるのか……
(あーあ……残念だったな……黄祖の命令が無ければ、殺せていたのに……)
しかし、主人の命令は興味よりも優先される。全ては自らの保身のため。
甘寧には、そんな冷静で現実的な部分があった。
何も焦ることはない。この世には、まだまだ殺すべき対象がいくらでもいるのだから。
(でも、いつかは……うふふふふ……ふふふふふ……)
刃に映る彼の顔は、歓喜に歪んでいた……
この年、孫策は黄祖との戦いに勝利する。
黄祖は取り逃がすものの、これによって江東・江南を制覇し、揚州をほぼ手中に収めた。
孫策はその目覚しい躍進ぶりから“江東の小覇王”と呼ばれるようになり、天下にその名を轟かせた。






