第十五章 開戦(七)
白馬津の戦いの後……
緒戦で早々と二枚看板を討ち取られながらも、袁紹軍はさらに攻勢を強め、次々と渡河点を奪い、軍を上陸させていく。
渡河を果たした袁紹軍は、総勢四十五万にまで膨れ上がっていた。
夏侯惇ら諸将は各地に散らばり迎撃に当たったが……やはり数の不利は覆せず、早々に撤退を選択する。
しかし、交戦を最小限に控えたことにより曹操軍にも大きな被害は出ておらず、両陣営共に当初の勢力を保ったまま戦局は推移する。
大きな戦も無いまま着実に南下を進める袁紹と、許都に追い詰められていく曹操。
劣勢に立たされた曹操は、許都へ続く最後の関門である、官渡に大規模な陣を敷く。
官渡に築かれた城塞は、曹操軍の技術力の粋を結集して建造されたもの。
曹操は予め、官渡で雌雄を決する腹積もりだった。
白馬津から許都に引き上げる際も決して安全な帰路……とはいなかった。
別方面から上陸した袁紹軍の奇襲を受け、何度も危機に陥った。
その度に、鬼神のごとき戦いぶりで危難を跳ね除けたのが、関羽である。
彼や張遼達が守る曹操に、袁紹軍は傷一つつけることすら出来なかった。
関羽は、曹操軍の将として、十全以上の働きをして見せた。
そんな関羽の奮戦もあって、曹操は無事官渡まで辿り着くことができた。
夕焼けが大地を朱く染める。
小高い丘の上に立ち、曹操、関羽、張遼は馬に跨がり、沈みゆく夕日を眺めていた。
「此度のそなたの働き、見事であったぞ、関羽よ」
張遼を挟んだ隣側にいる関羽に、賛辞を送る曹操。
「で……どうであったか? 余の下で刃を振るった感想は」
関羽はしばし沈黙していたが、やがて自分の率直な気持ちを口にした。
「この関羽……戦に愉悦を感じたのは初めてのことでございます。
今も、この手が、次なる戦を求めて震えております……」
曹操の下での戦は、今まで関羽が体験したことのないものだった。
これほど純粋に戦のみに没頭できたことなどほぼ皆無だった。
青龍偃月刀を振るう度、血が滾り、心が燃え上がるあの昂揚感。
劉備の下では決して得られない熱い戦いに、関羽は完全に陶酔していた。
「それがそなたの真の姿だ。
人は、真実の己と向き合い、その魂に最もふさわしい道を歩むべきだ。
それこそが人にとって幸福だと余は考える。
関羽よ、そなたの武は、才は、更なる高みを求めて内で滾っているはずだ。
そしてその場を与えてやれるのは、この曹操をおいて他におるまい」
曹操の言葉を、関羽は否定出来なかった。
曹操には才がある。覇気がある。関羽という人間の力を余さず引き出すだけの器がある。
そして関羽自身も、己の力を存分に振るえる主を求めている。
武人・関雲長にとっての理想の主は、劉玄徳ではない……この男、曹孟徳だ。
「……確かに、貴殿の下にいれば、私は満ち足りた生涯を送れるでしょうな……」
「そうだ。真実そなたを幸せにできるのは、この余だけだ」
「ええ……それは認めましょう……しかし」
関羽は、ここで一拍置いて、こう続ける。
「だからこそ、私は貴殿と同じ道は歩めない」
静かな、それでいてはっきりした拒絶の言葉。
曹操に動揺の色はない。依然その顔には、穏やかな笑顔が張り付いている。
「この関羽、戦に愉悦や幸福を求めてはならぬと考えます。
戦とは、辛く、苦しく、忌むべきもの……そうでなければなりませぬ。
そのことを忘れてしまっては、この世界から争いを無くし、真の平和をもたらすことなどできませぬ」
「それが、そなたの……いや、劉備の夢とやらか?」
関羽は無言で頷いた。
「人の営みから争いは切り離せぬ。そなたならば、心得ていよう」
「はい……私とて、一滴の血も流さず、天下を平定できるとは思っておりません……
平和が訪れた後も、それを維持するのがどれほど難しいかということも……」
人のいるところには必ず争いが生じる。
幾多の戦場を渡り歩き、人間の業を見続けてきた関羽には、決して覆すことの出来ない人の真理であった。
「ですが、私は諦めたくはない。絶望するわけにはいかない」
何が正義かもわからぬ闇の世界で闘争に明け暮れ、世を儚み、全てに絶望していた自分の前に、あの男は現れた。
彼が抱いた夢……途方もなく大きく、決して揺らぐことのない夢が、関羽を闇の底から救い出した。
その頃から、劉備の夢は、関羽の夢となったのだ。
自分自身を裏切ることなど、できようはずもない。
「曹操殿、我らの夢を笑われるか?出来もしない絵空事だと……」
「いや、笑いはせぬよ」
はっきりと告げる曹操。
「余は、人に成し得ぬことなど何もないと考えておる。
人の器に限界などない。人の成長に果てなどない。
決して折れぬ意志さえあれば、どんなことでも成し遂げられよう」
彼は知っている。人間という種が、あらゆる不可能を跳ね退けてきたことを。
だからこそ、曹操は人間を深く愛している。
全ての人間が己の才覚を発揮出来る世界を創ろうとしているのだ。
「だが……そなたらの夢は、余の目指す場所ではない」
「………………」
「余は、人間の本質まで否定しようとは思わぬ。争いは人間の罪などではない。
存在を構成する一部だ。闘争なき世界に進歩はなく、未来もない。
余の宿願は、人が人の手で進化していける世界を創ることなのだからのう」
どちらがより不可能か、現実的かという問題ではない。
目指している場所がそもそも違うのだ。
曹操も、人類の行く末を真剣に考えており、最も相応しいと思える未来を思い描いている。 関羽は感じ入ったように深く頷く。
彼が曹操の下に降ったのも、ただ生き延びるためだけではない。
一時的ながらも、曹操を仕えるに足る男として認めたからだ。
(張遼殿……良き主を見つけられたな……)
心からそう思う。だが、自分はあくまで劉備の臣だ。
それに、武というものの捉え方も、自分は彼らとは異なっている。
「関羽、そなたの本質は武人だ。武と闘争は決して切り離せぬ。
そなたは、己を否定して生きていくつもりなのか?」
「貴殿が看破した通り……私の中には、闘争を求める狂おしいほどの情念があります。
しかし、それに溺れるわけには行きません。
武人など、何処まで行っても所詮は人殺しでしかない……
己のために刃を振るっていては、いずれその真理を見失ってしまう。
私は咎人のままでいい……
罪を背負い、苦しみもがきながら、戦っていきたい……我が兄、劉玄徳の下で」
関羽の言葉には、強い決意が込められていた。
「どこまでも己に厳しい男よな、関羽。
だが、それはそなたの“理性”が選んだ道だ。
そなたの本能は、やはり戦を求めているはずだ。
理性と本能の食い違いは、いずれそなたという人間を破滅させるぞ」
確信を持って告げる曹操。だが、関羽も退かずに答える。
「ならば、私は壊れるまで、己が本性と戦っていくまで」
「己との戦いに終わりはないぞ。矛盾と苦難に満ちた生を送ることになる」
「元より覚悟の上……」
その程度の苦しみなど、物の数ではない。
長兄が歩もうとしている茨の道に比べれば……
(関羽よ……お前は恐ろしく強く……そしてまた、弱い男だ)
傍らにいる好敵手を見ながら張遼は考える。
自ら苦難に満ちた生を選ぶ関羽は、確かに並外れた覚悟の持ち主だ。
一方で、彼は酷く弱い人間だ。
命を奪う罪悪感に囚われるあまり、自身も苦しみや痛みを味わわなければ、戦うことが出来ないのだから。
その点が、武人であることを完全に受け入れている自分との違いだ。
されど、違いはあっても優劣はない。
張遼は、強さも弱さも含めて関羽という男を尊敬していた。
だが、それで手心を加えるほど、自分は甘くない。
「関羽よ。いかな理由があれ、曹操様に反旗を翻すと言うのなら……
この張遼が、今この場で斬り捨てる」
大輪刀を握り、鋭い殺意を向ける張遼。
こうなることを予期していたのか、関羽は即座に臨戦態勢に入る。
場の空気は、既に戦場のそれに変わっていた。
関羽が曹操との別離を表明した時点で、彼は曹操軍の敵になっている。
さらに、曹操は関羽から十数歩ほど離れた距離にいる。
その気になれば、即座に首を刎ねられる。間に張遼がいなければ……の話だが。
それでも、一歩間違えれば曹操軍が瓦解しかねない状況である。
異様な空気が場を支配していた。
関羽は考える……確かに、今は曹操を仕留める千載一遇の好機である。
ここまで曹操に近寄れる機会は、もう二度とあるまい。
この場で曹操を仕留めることが出来れば、歴史は変わる。主、劉備の益にもなるはずだ。
情義を捨て、己を一個の戦闘兵器と見なす。
現在の状況と、自身の戦闘力を冷静に照らし合わせ、曹操抹殺の可能性を割り出す。
結果は……限りなく零に近かった。
まず、目の前には自分と同等の力を持つ張遼がいる。
彼を突破して刃を曹操に届かせることは、困難を極めよう。
一度肩を並べて戦っただけに、彼の実力はよく分かっている。
ここ数年で確かに自分は強くなったが、それは張遼も同じこと。
正面からぶつかり合って、以前のように勝ちを拾えるとは限らない。
さらに、張遼は主君を守る使命感で士気を高めている。
半ば騙し討ちのような形で襲い掛かる自分とは、精神的に大きな差があるのではないか。
ほんの些細な後ろめたさが、勝敗を分ける……それだけ両者の実力は拮抗しているのだ。
加えて、王を守る護衛は張遼一人ではない。
先刻から気付いていたが、丘の周辺には多数の伏兵が隠れ潜んでいた。
最初から、こういう展開を予期していたのだろう。王を目指す者ならば当然の用心だ。
張遼一人でも危ういのに、周囲から伏兵に襲い掛かられたら……
不安要素はまだある。手にした青龍偃月刀……これが妙に軽いのだ。
持つ感触にも違和感がある。まず間違いなく、贋物とすり替えられている。
こんな脆い武具で張遼と戦えば、命は無い。
あの抜目ない曹操のこと。関羽の離反を見越して、このぐらいの手は打って来るだろう。
空前絶後の好機にも関わらず、手を出せないもどかしさ。
そんな中、曹操が口を開いた。
「二人とも、そう気を張るでない。少なくとも余は、ここで争う気はないぞ」
勿論、こんな台詞だけで警戒を解く二人ではない。だが曹操は、関羽に対してこう告げる。
「関羽よ。人質にしていた劉備の二人の夫人だが……
実は、白馬に発つ前に解放させてもらった」
「何ですと……」
「そなたの覚悟は、人質などでは動くまい。
それに、下手に人質を殺してしまっては、そなたの怒りに油を注ぐだけ……
ゆえに人質の価値はないと見なし、解放することにしたのだ」
「………………」
「そなたは自由だ。どこへなりとも行くがよい。
最も、余の敵として現れた場合は、容赦はせぬがな」
「……かたじけない。
曹操殿、貴殿から受けた恩は決して忘れませぬ。ですが……」
「よい。次に戦場でまみえた時は、躊躇いなく命を奪うがいい。
それは余も同じことだ。ただし、また余の下で戦いたいというのなら、いつでも来るがいい。待っておるぞ」
おおらかで寛大な申し出ながらも、その奥には冷徹なまでの意志と、抜目ない計算高さが潜んでいる。
間違いなく、劉備にとって最大の敵となるだろう。
「世話になり申した……」
敵となる男に向けて、深々と頭を下げる関羽。
そして、すぐさま馬を走らせ、曹操の前から遠ざかっていった。
「やれやれ、失恋してしまったか。自信はあったのだがのう」
残念そうな、それでいて清々しい表情で関羽を見送る曹操。
「……よろしかったのですか、曹操様……?」
関羽が去っていった後、張遼は曹操に問い掛けた。
「今あやつを敵に回せば、少なからず犠牲を払うことになろう。
関羽も、自分が生き延びるために死力を尽くすはず。奴が劉備の弟ならばな」
追い詰められた獣が一番恐ろしい。
今の関羽を殺すことはたやすいが、何かの間違いで曹操に塁が及ぶかもしれない。
そんな間違いを全く起こさない自信は、張遼にはなかった。
また、袁紹との決戦が間近に迫っている今、兵力の損失は極力避けたい。
逃げる一人の将を追うのは存外に難しい。相手が関羽なら尚更だ。
大山鳴動して鼠一匹捕まえられない事態になりかねない。
「何だ、張遼。関羽と戦いたかったのか?」
「正直に申し上げますと……その通りです。
しかし、殿の判断は的確であり、これに異を唱えるつもりはありません」
今の自分は一人の武人ではなく、曹操軍の将なのだ。主君の意向に従ってこそ、将は将たりうる。
「だが、張遼よ。これで余を寛大な人間と思ったら、大間違いぞ。
余はもっと、姑息で卑劣な男であるからな」
曹操の謎のような言葉に、一瞬張遼は首を傾げるが……すぐに、傍にいる黒い影に気がつく。
影が人型をなすように、その男は起き上がる。
「ようやく己の出番というわけだな」
「于禁……」
「戦いはもう始まっているのだ。于禁、関羽を討ち取りたいというそなたの希望、叶えさせてやろう」
「ああ……」
覆面の下から吐息を漏らす于禁。張遼は、すぐに曹操の狙いを読み取る。
やはり曹操は甘くない。関羽を一時自由にしても、大人しく劉備の下に帰すつもりは毛頭ないのだ。
「奴は己が始末する……これから先、奴には一睡の安息も与えない……
昼夜問わず狙い、必ずその首刈り取ってくれる……」
鋭い爪に、己の姿を映し出す于禁。
彼の本分は暗殺者、闇に乗じての奇襲は何よりも得意とするところだ。
そして彼一人ならば、大勢の兵を割くこともない。
「文句は無いな、張遼……」
于禁の問いに対し、張遼は少しも揺るがずこう答えた。
「貴殿に殺されるようなら、所詮はそれまでの男ということだ。
それより于禁、どうも貴殿からこの役目を志願したらしいが……何故だ?」
付き合いは浅いが、自分のように強者と好んで戦いたがる人間とは思えない。
于禁は、張遼を一瞥もせずに答える。
「……己が気に入らないのは、奴のあり方だ……
関羽は武という闇の道を進みながらも、光をも求めようとしている……
実に不愉快だ……己にとってはな……
闇より生まれた奴は、いずれ闇を照らす光となるだろう……
己はそれを許せない……そうなる前に……消す」
そう言い残すと、于禁は再び影と化して関羽の追跡を開始する。
己はあくまで闇に生きる人間だ。
血と闘争が支配する闇の世界に、情義や友愛といった光は要らない。
人々に恵みを与える光も、自分にとってはただ生き苦しくなるだけだ。
自分がいつからこうなってしまったのかはわからない。
闇の底にいる期間が長すぎて、一生を土の中で暮らす蚯蚓や百足のように、いつしか闇を好み光を厭う存在になってしまった。
唯一の例外が曹操だ。あの男は、闇も光も同時に宿し、それでいて双方が混在している、今までにみたことのない人間だった。
闇でも光でもない、存在そのものが混沌であるこの男が、どのように世界を変えていくのか……
それに興味を抱き、自ら光の世界に出て、彼の傍にいることを決めたのだ。
だがここに来て、どうしても許容できない光を持つ男が現れた……関雲長である。
かつて下丕城で共同戦線を張った時から、あの男には含むものがあった。
戦場で馬を駆り、兵を率いて戦う関羽の姿は、どこか神々しく、まるで太陽のようだった。 されど、于禁にとってはただ有害な存在でしかなかった。
自分と同じく闇の世界に生きながら、その魂を堕落させることなく、内に光を宿すあの男が、于禁にはただただ疎ましかった。
先程関羽の話を聞いて、その思いはより一層強くなった。
この男はいずれ、大勢の人々の心を照らす神となる。
そうなれば、于禁の生きる闇は放逐され、ますます過ごしにくい世界になってしまう。
殺さなければならない……闇に生きる者は、決して光にはなれないことを証明するためにも。
闇の道を行きながらも気高く澄み切った魂を持つあの男を、真の闇底に引きずりこみたい。
羨望……嫉妬……それに加えて、闇で生き続けた者の歪んだ矜持のため、己は関羽の喉に爪を突き立てるのだ。
あれだけ執着していた関羽があっさり去っていったにも関わらず、曹操の中には未練も悔恨もなかった。
どんな形であれ、別離は必ず訪れる。
自分と関羽の繋がりはここまでだった、ただそれだけのことなのだ。
馬首を返し、その目を官渡へと向ける。
「さぁて、官渡に戻るぞ。余らの戦いはここからだ」
「は……!」
今頃は、荀或達が軍議の席で首を長くして待っていよう。
来たる決戦に思いを馳せ、曹操は官渡へと帰還する。
「がぁ……はぁっ!!」
苦悶と共に、血液混じりの吐瀉物を吐き出す。
例えようもない不快感と、途絶えることのない苦しみが、絶えず彼を苛み続ける。
前にこんな状態になったのは……一週間前か。
一年ほど前は、数カ月は何も平静を保つことができたというのに……
近頃は、発作が起きる間隔が短くなっている。
これまで騙し騙しやってきたが、いよいよ限界が迫っているのだろうか……
震える手で錠剤を掴み取り、口へと運ぶ。
まだだ……まだ自分は死ぬわけにはいかない。倒れ伏している暇もない。
自分には、今この時を生きなければならない理由があるのだ……
彼は再び苦悶の叫びを上げる。
他に誰もいない暗い室内で彼は己の体を蝕む悪魔と必死に戦っていた。
<第十五章 開戦 完>