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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十五章 開戦(五)

 現在、張遼率いる五千の兵が、二万の袁紹軍と交戦している。

 一人で万の敵を屠れる張遼ならば、この数が相手でも互角以上に渡り合える。

 関羽は張合と実質一対一で交戦中だ。

 一方、五万から分岐した文醜率いる三万は、曹操のいる本隊へと移動している。

 曹操を守る兵は、新たに白馬城から出撃した兵を加えておよそ一万……

 しかし、許楮、楽進といった強者がおり、更に曹操自らが率いているとなれば、その戦力は二、三倍にはなろう。

 混戦状態となれば、曹操ただ一人に的を絞るのは難しい。

 敵も、指揮官である文醜に最大の注意を払ってくるだろう。

 だが、それを全て理解した上で、文醜には必勝の策があった。


「だぁらぁぁぁぁぁっ!!」


 楽進の拳打で、十数の兵士がまとめて吹っ飛ぶ。


「んあぁぁぁぁぁ!!」


 許楮の鉄球も、多数の敵を相手にしてその暴威を最大に発揮している。

 曹操は自ら指揮を取り、効果的な用兵で敵陣を崩壊に追いやっている。


(さすがは袁紹様が認めた男……)


 指揮官としての才は、自分よりもずっと勝っている。認めざるを得ない。

 今も戦闘に集中しながらも、文醜への注意を怠らない。

 あの琥珀色の瞳は、戦場の全てを把握しているように思えてくる。


(曹操、確かに貴様は優れた才の持ち主だ……だからこそ、貴様はここで死なねばならぬ。

 貴様のような卑しい出自の人間が優れているなど、

 我らの築く新たな時代に、あってはならんのだ!)


 文醜が曹操の抹殺に固執するのは、単に血の優位を証明したいだけではない。

 もっと単純な、自分本位な理由のためだ。

 彼が目指しているのは、この戦における勝利だけではない。

 そんなものは既に決定している。曹操がどれだけ足掻こうが、彼我の戦力差は明らか。

 最終的には袁紹が勝利する。それはもはや歴史の必然だ。

 袁紹は、帝位につく星の下に生まれている。

 文醜の狙いは、袁紹が創る新時代において、彼につぐ地位を手に入れることだ。

 早くから袁紹に仕え、多大な戦果を上げた自分ならば、まず大将軍の地位は堅いだろう。

 だが、もしも曹操が死なず、生きて袁紹に下った場合は……非常にまずい事態になる。

 袁紹は何故か曹操を気に入っている。

 もし曹操が袁紹に降伏すれば、袁紹は彼を重用するだろう。

 何故なら、敵味方問わず袁紹が最も評価している人物が、曹操なのだから。 

 実際、もし曹操が自分に下っていたら……と口走ったことが何度もある。


 文醜よりも上の地位に据えるかもしれない……それだけは何としても阻止しなければ。

 曹操軍が疲弊して降伏する前に、曹操を始末するのだ。

 曹操自らが戦場に出ている今は、最大の好機と言ってよい。

 先発隊に選ばれたのは僥倖だったが、もし指名されなければ、強行手段を使ってでも先陣に加わるつもりでいた。


「曹操……貴様は確実にここで仕留める!」


 どんな手を使ってでも……例えどれだけの兵を失っても……

 曹操一人を討ち取れば、袁紹軍の勝利であり、文醜の勝利だ。

 曹操は、今も文醜に注意を払い続けている。


 仕掛けてくれば、こちらを罠に嵌める腹積もりだろう。だが、そうはさせない。

 この場合にも、多数の兵を有する自分が優位となる。

 実に単純な方法……自軍の兵を壁として、自分の姿を覆い隠すのだ。

 文醜軍の陣形は、最初からこの壁を造るために組まれていた。

 しかし、これだけでは身を隠すだけで、曹操に直接仕掛けることができない……そう思えるだろう。

 曹操も、同じように考え、文醜が人の壁から飛び出してくるのを待っている。

 文醜の得意技は騎馬の加速から繰り出される、突撃槍を用いた刺突で、その稲妻のごとき速さから“雷槍らいそう”と称されている。

 曹操も当然それには最大の警戒を払っているはず……だがそれこそが、曹操の命取りとなる。


(曹操……貴様に教えてやろう……真の“雷槍”を……!)


 突撃槍ランスを構え、雷槍を繰り出す姿勢に入る文醜。

 細心の注意を払い、曹操と直線で繋がる方向に向きを固定する。

 しかしこれでは、姿を隠す人の壁が邪魔となって馬を走らせられない。

 壁が崩れた瞬間、文醜は走りだす……


(そう考えているのだろう、曹操……

 違う……違うんだよ。それが貴様の油断だ……いいか、私の雷槍はなぁ!)

 

 槍の柄を捻った瞬間……槍の両側が割れ、翼のように展開する。

 両翼の先端には太い弦が結ばれ、槍本体との間で真っ直ぐに張られている。

 文醜の突撃槍は、瞬く間に長大な石弓に変形した。

 この改造槍は、一年ほどまえに技術者に造らせたが、以後今日この日まで一度も使っていない。

 全ては仕掛けが他に漏洩しないようにするため……ここぞという時のための奥の手だった。

 そして、曹操抹殺こそは何が何でも果たさねばならない、最優先事項。

 戦闘中ずっと引き絞られていた弦は、最大の緊張に達している。


(くたばれ! 曹操!)


 普段の彼らしからぬ汚い言葉が放たれると同時に、突撃槍の先端が、矢か銃弾のように射出される。

 発射された円錐形の先端は、正面の兵士を貫いて、曹操目掛けて飛んでいく。

 文醜は最初から自身を守る兵を犠牲にして曹操を撃つつもりでいた。

 高速で飛んでいく槍は、四、五人の体を貫通したところで威力が落ちることはない。

 雷の魔槍は、確実に曹操の命を奪い去る……





「どうしたのかな?君の力はこんなものなのかい?軍神殿」


 不可解なまでに機敏な動きで、関羽を翻弄する張合。

 これしきの窮地で焦る関羽ではない……しかし、自分がまずい状況にあるのは理解していた。

 未だ双方とも傷を負っていないが、こちらの斬撃は余裕を持ってかわされているのに対し、相手の刺突は正確無比。

 紙一重でかわすのが精一杯だ。

 眼前の相手を絶えず注視しているにも関わらず、張合が剣を振るう瞬間を見逃してしまう。 いつの間にか刃が飛んで来るのだ。相手の攻撃を見極められない。

 何か、こちらの意識を反らす細工や仕掛けがあるのだろうか……

 目に見えない針を飛ばし、痛みで一瞬隙を作る。

 意識を飛ばす無臭の毒を、知らぬ間に嗅がせている。方法は色々と考えられるが……



 実のところ、種も仕掛けも存在しなかった。

 張合は馬を操り剣を振るう以外のいかなる小細工も使っていない。

 更に言えば、張合は目に見えない速さで剣を振れるような、特別秀でた身体能力を持っているわけではない。

 文醜のように、剣に仕掛けがあるわけでもない。


 ただ、彼には人並み外れた能力があった。


 それは、“観察力”である。


 あらゆるものの美しさを見極めながら生きてきた張合は、一目見ただけで構造や特徴、物の本質を把握する眼を持つ。

 その審美眼は、生きている人間の動作にも及ぶ。

 彼にかかれば、人間の細かな癖や呼吸の間隔など、その者の性質を余さず見透かすことができるのだ。

 人間は誰でも、どれだけ集中していても、必ず意識を失う一瞬がある。

 癖や呼吸……様々な要因が重なって、回避不可能な死角を生み出してしまうのだ。

 それは刹那に満たない時間であり、他者はおろか本人にすら認識不可能なものだ。

 だが、張合はその瞬間を正確に把握できる。

 また、相手の筋肉の微妙な動きから、次の斬撃の軌道を予測できる。

 見えない剣を繰り出せるのも、全ては“意識の死角”を突いたがゆえ。

 侯成を仕留めた時も、同様の手で首を刎ねたのだ。




 しかし……張合は内心感嘆していた。

 これまで何度も呼吸の際を狙って仕掛けているのに、関羽がまだ生きているという事実にだ。

 並の相手ならとっくに終わっているはず。

 関羽の意識は、張合に反応できていない。にも関わらず、関羽が致命傷を避けられているのは、彼の体に刻まれた反射神経の賜物だ。

 長い戦いを潜り抜けた末に、積み重ねられた豊富な戦闘経験が、関羽を助けている。

 危機が迫った瞬間、頭で認識するよりも早く体が反応するのだ。

 だから、意識の外からの攻撃でもかわせる。


(おまけに……)


 これまでは余裕でかわせていた斬撃が、徐々に速くなっている。

 青龍刀の切っ先が、紫の頭髪を掠める。

 観察力に長けた張合は、この事態も冷静に受け止めることが出来た。

 関羽は成長しているのだ。この短時間で。しかも急激な速度で。

 戦いの中で、関羽の集中力は磨耗されるどころか一層強くなっている。

 それによって、これまで僅かに垣間見せていた無意識の隙が、徐々に短くなっていく。

 やがて、関羽から付け入る隙は完全に無くなるだろう。

 追い詰められているのは自分……張合はその事実を早くも認識していた。

 彼とて武人。戦場には、自分の常識を超える相手がいることぐらい、よく理解している。

 むしろ、そういった規格外の逸材を観察したいがために、彼は戦場に出ているのだ。


(全く……君は本当に素晴らしいよ、【義侠の軍神】殿……

 ボクの想像を越え、期待に応えるその武に、敬意を払おうじゃないか……)



 とにかく、この敵一人にいつまでも構っているわけにはいかない。

 張遼は五千の兵で二万の軍と戦い、曹操の一万も三万の軍勢に襲われている。

 数では圧倒的だが、曹操軍は将の質で何とか持ちこたえている。

 だが、ここで自分が再び戦線に戻れば、この劣勢を五分以上に盛り返せる。

 今の自分は、将軍としての責任感と確たる自信に漲っていた。

 ここで彼は気付く……自分が心の底から本気で曹操軍の勝利のために戦おうとしていることに……


(馬鹿な!私は、長兄のために戦うと誓ったはず……

 これは私にとって、望まぬ戦であるはずだ!)


 しかし、心の中でいくら否定しても、内から溢れる戦闘衝動は止められない。

 最高の敵を相手に、命を擦り減らす闘争に、例えようもない充足感を得ている。


(誰のためでもよいというのか! 

 仕える主が誰であろうが、掲げる大義が何であろうが関係ない……

 ただ、己の使命感を満足させられる戦があればそれでいい……

 それが私の本性だというのか!)


 曹操の自信に満ちた笑みが脳裏に浮かぶ。

 彼は、このことを最初から見抜いていたのだろうか。だとすれば、私は……



「!!」


 関羽の青龍刀を、初めて長剣で受け止める。

 分かっていても避けられない一撃。

 今や、関羽は自らの死角を完全に封殺してしまっている。

 しかも……


(何て重い一撃だい……たった一度受けただけで、腕が痺れちゃったよ)


 やはり、身体能力においては歴然とした差がある。

 打ち合いになれば不利になるのは明白だ。

 張合の武器は、長さと軽さを重視した長剣である。

 槍ほど重くなく、ただの剣よりもずっと長い。

 離れた間合いから素早い刺突を繰り出すには最適の武器だ。

 敵の攻撃をかわして一方的に攻撃する、張合の戦法に合っている。

 ただし、その分耐久性に劣るため、守勢に回ると極めて脆い弱点を有していた。


(それに、君は……)


 張合の紫の瞳に映る関羽は……凄絶な笑みを張り付けていた。


(全く、何て愉しそうに戦うんだい……!)


 人間の本質を見通す張合にはよくわかる。今の関羽こそ……彼本来の姿なのだと……


(もっと本当の君をさらけ出したいところだけど……

 さすがにこれ以上続けるとボクが危ない。悪いけど、ここで終わらせるよっ!)


 張合は関羽が青龍刀を一度引いたのを見て、好機とばかりに叫ぶ。


「咲き誇れ! 絢舞けんぶ紫艶華しえんか!」





った!)


 雷槍の切っ先は、自軍の兵四人を貫いて、真っ直ぐ曹操へと飛んでいく。

 そう確信した瞬間……


「させねぇっ!!」


 楽進が素早く曹操の警護に戻る。だが、彼の拳では曹操まで届かない。

 文醜はそれも計算した上で、雷槍を射ったのだ。

 だが……文醜は、予想だにしない光景を目の当たりにする。

 楽進の拳が突如として伸び、槍の穂先を掴み取ったのだ。


(な!?)


 必殺の策が破られ、文醜は愕然となる。

 そんな文醜をよそに、見事主君の命を救った楽進は大きな声で叫ぶ。


「曹操様――っ! 仰る通り、文醜あいつ、飛び道具使って来やしたぜ!」

「うむ、やはりの。よくやったぞ、楽進よ」


 楽進の発言に、文醜は更に衝撃を受ける。

 曹操は、文醜が飛び道具を使うことを読んでいたというのか。

 だから楽進も、いち早く反応することが出来たというのか。

 雷槍の秘密が漏れていた? いや、それはありえない。

 この槍の仕掛けを知る者は、自分と改造を担当した技術者だけのはずだ。なのに何故……


「おい文醜よ! いずこかに隠れておるのであろうが、よく聞け!

 槍に機械からくり仕掛けを施して余を抹殺しようとするとは、意外に遊び心豊かな奴よ。気に入った!」

(あ、遊びだと……!)


 曹操の言葉は、自分を嘲る挑発にしか聞こえなかった。

 だが曹操は、続けてこう言い放つ。


「だが残念……余の眼にかかれば、それしきの絡繰からくりはお見通しよ。

 そなたの槍は、いかにも改造しやすそうだったからのう」


 西洋の槍を模して作られた文醜の槍は、長い円錐形をしており、普通の槍よりもやや短く、太い。

 その分、内部に仕掛けを施しやすくなっている。

 曹操はそこに以前から着目していたのだ。


「良いか。この曹孟徳、ただ一つだけ中華一だと自負していることがある」


 曹操は、言葉通り自信たっぷりに言い放つ。


「それは、中華一の遊び人だということだ!

 遊び心で、この余に敵うと思うでないぞ!!」


 曹操の想像力に限界はない。

 何にでも興味を抱き、それを心から楽しむ姿勢が、相手の策を見通し、予想もつかない作戦を生み出すのだ。

 “遊び心”こそが、曹操の強さの根源なのだ。




「くっ……ふざけおって!」

「悪ふざけこそ余の十八番おはこだ。

 そういった勝負なら、いくらでも受けてたつぞ?」


 曹操のあからさまな挑発に乗る気はない。

 壁となる兵はまだいくらもいる。

 ここは一旦退いて、再び同じ手で奴の息の根を……



「だらぁぁぁぁぁぁッ!!」


 そう考えた瞬間、踊りかかって来る楽進が視界に入る。

 さすがに今の狙撃で位置がばれた。すぐさま突撃槍の切っ先を戻し、迎撃に移る。


「殴り合いだけが取り得の喧嘩屋が! 貴様如き、私の敵ではないわ!」


 楽進の拳に比べて自分の槍は遥かに長い。

 この距離からなら、あっさりと串刺しにできるだろう。

 雷の如き迅さで、槍を突き出したその時……


「!!」


 咄嗟に素早く身を引く文醜。彼の鼻先には、鉄の拳が間近に迫っていた。

 

「へっ……やっぱまだまだ使いこなせてねーな……

 もう少しで、あんたの鼻っ面へし折ってやれたのによ」


 見ると、楽進の装着している手甲が、バネによって長い距離まで伸びていた。

 これは李典が改造した特殊手甲“李典螺旋拳りてんらせんけん”で、拳を放つ瞬間にバネで手甲の先の拳が飛び出す仕掛けになっていた。

 先程も、この“伸びる腕”で曹操の命を救ったのだ。

 

「もう一発喰らいな! おらぁ!!」


 今度は左の拳を繰り出す。文醜は槍を振って、バネ仕掛けの拳を弾き落とす。

 しかし、その直後、右の拳が鞭のようにしなって襲い来る。肩を強く打ち据えられる文醜。


「ぐぅ……おのれ……賊徒どもが……!」


 曹操の“遊び心”に、文醜はすっかり翻弄されていた。



 統率の乱れた袁紹軍は、曹操の巧みな指揮によって確固撃破されつつある。

 ここからどう動くべきか……曹操には許楮がぴったり護衛についている。

 大将一点狙いが通用するとは思えない。


(まだだ……まだ、終わらん!)


 奴らとて無傷ではない。必ず消耗しているはず。

 元々数においては圧倒的優位にあるのだ。

 ここは一旦退いて、玉砕覚悟の騎馬隊の突撃を何度も繰り返し、敵の軍勢を削る。

 自分はさらに後方に控え、敵が疲弊した隙を見計らい、再度曹操に奇襲をかける。

 次こそは、必ず仕留めてみせる。


「後退!後退――ッ!!」


 全軍に指示を下すと同時に自らも馬を後退させる文醜。

 思った通り楽進は深入りして来ない。

 彼と許楮には、曹操を守る役目があり、大将から離れることが出来ないからだ。


(見ておれ……すぐに貴様らも纏めて押し潰してくれる……!)


 この時、文醜はある予断に囚われていた。

 許楮、楽進のいない後方は安全である……そのことを、深く考えもせず、頭の中で決めつけてしまっていた。

 それが、己の生死を分けるとも知らず……



 夕立ゆうだちのような蹄の音が、文醜の耳に響いてくる。

 背後から砂塵を巻き上げ迫り来るそれは……



(ち、張遼!!)


 先陣を切って走るのは、間違いなくあの張遼だった。

 にわかには信じがたい。あの張遼とて、こんなに短時間で二万の軍を撃滅させられるわけがない。

 文醜の思考は、一瞬混乱状態に陥った。



 実際その通りで、張遼は敵軍二万との戦闘を切り上げ、全速で曹操の下へ戻っていた。

 その理由の一つが……関羽が復帰したことにある。


「やれやれ、少しみっともなかったかな?」


 張合は、遠くで張遼に代わって袁紹二万と戦う関羽を見ながら、自嘲するように呟く。

 最も、元より彼は勝ち負けに執着していない。

 極限の死闘の中で、相手の実力を、美しさを最大に引き出し、それを観賞できればそれで満足なのだ。

 だからあの時も、張合は迷わず撤退を選択した。常に服の中に隠し持っている煙玉、紫艶華しえんか

 あれを剣で突いて割り、大量の紫煙を発生させた。

 濃い紫色の煙に紛れて、張合は何とか逃走に成功したのだ。


「さて……後は【白銀の雷槍】殿にお任せしたいけど……

 どうにも雲行きが怪しくなって来たかな」




 張合の予感は的中した。

 張遼の軍に関羽が合流した後、彼らは直ちに曹操の本隊へと転進する。

 先頭に張遼、殿しんがりに関羽を据えたこの新たな陣形は、頭と尾、前後双方に龍のあぎとがあるようなものだった。

 追撃してくる敵は、関羽の青龍刀が薙ぎ払い、前方の敵は張遼の大輪刀が蹴散らす。

 烏合の衆に、双頭の龍を止めることは出来なかった。

 これにより、文醜の軍は曹操の軍と張遼、関羽の軍……双方に挟み撃ちされることになる。


「こ、こんなことが……!」


 文醜は動転していた。

 自分は、陽動を用いて張遼を引き離したつもりでいたが……誘き出されたのは、自分達の方だったのか。


「おぉぉのれぇぇぇぇぇぇ!!」


 真っ直ぐこちらに向かってくる張遼に立ち向かう文醜。


 同時に両側の兵に命じて、張遼に仕掛けさせる。

 元より何人がかりだろうと倒せるとは思っていない。

 彼の視界を閉ざすことができればそれでいい。

 槍を構え、張遼に狙いを定める。張遼に兵が群がる瞬間を見計らい、槍の柄を強く捻る。

 穂先が発射され、張遼目掛けて飛んでいく。

 

 だが……群がる兵は、足止めにすらならなかった。

 大輪刀を一薙ぎした瞬間、数十の兵をまとめて吹き飛ばす。

 遅れて飛来する槍も、柄の部分で弾き返した。

 張遼の反応速度を持ってすれば、ただの飛び道具を弾くことなど造作も無い。

 しかも、文醜に向けて真っ直ぐに。



「!!」

 

 文醜は、咄嗟に手にした槍で穂先を弾いてしまう。

 避けるか、受けるか……それが、彼の明暗を分けた。


 瞬く間に迫り来る、黒き鬼神。彼の頭上には、日輪の如き刃が輝いている。

 処刑台の刃が、静かに文醜に振り下ろされる――――




 この戦、文醜には普段の彼らしからぬ失策や、拙速な攻めが目立っていた。

 槍の仕掛けに固執せず、数の有利を活かしてじっくり腰を据えて戦えば、もっと違う結果になったはずだ。

 勝利を急いだのは、曹操が降伏する前に仕留めたかった理由が大きいが、

 それにしても楽進の拳の仕掛けを見抜けなかったりと、彼らしくない小さな見落としが目立っていた。



 全ての原因は……顔良の死にあった。


 顔良が生きていた頃は、文醜はいつも暴走しがちな彼の補佐に追われていた。

 文醜は常々それを疎ましく思っていたが……実は、顔良がいたからこそ、彼は冷静さを保つことができたのだ。

 文醜は本来気性が荒く、足下を見ずに道を踏み外しがちな性格である。

 だが、傍に彼以上に粗暴で考え無しな顔良がいたことで、文醜は人一倍の注意力を持って行動せざるを得なくなった。

 それは結果として、文醜自身にも良い方向に働いた。

 顔良を押さえようと沈着冷静に徹することで、普段気付かない彼の弱点も埋め合わせていたのだ。


 だからこそ、文醜は袁紹軍随一の完璧な将となることができた。

 彼が今の地位にまで昇り詰めたのは、全て顔良が近くにいたからなのだ。

 その点では、まさに彼らは二人一組の“二枚看板”であった。

 あまりにも多くの欠陥を持つため、その分相方の能力を最大限発揮させる顔良の特質。

 彼らの間に友情や信頼が欠片もなくとも、これだけは言える。


 顔良は、文醜にとって最高の相棒だったのだと。


 文醜は、最期までそれに気付くことはなかった。

 血統ゆえの誇りも、名誉への渇望も頭にない。


 彼はただ、脳天に食い込んだ後、自分を縦に真っ二つに断ち切る刃の感触を、全身で知覚するのみだった。


 両側の視界が離れていく。


 その後に訪れるものは、ただの闇――――



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