第十五章 開戦(四)
袁紹軍の誰にとっても、この戦は衝撃的な幕開けとなった。
袁紹軍でも抜きん出た技量を誇る二枚看板の一人、顔良が、いきなり曹操軍の将として現れた関羽に一刀の下に切り伏せられたのだ。
袁紹軍の将兵は、あまりの衝撃に声も出ない。
だが、誰よりも強く打ちのめされたのは、劉備と張飛の二人だった。
彼らの眼に、両断された顔良の姿は映っていない。
ただ、青龍刀を持つ黒い将軍にのみ視線を注いでいる。
遠目ながらもはっきりとわかる。あの男は自分達の兄弟、関雲長だ。
「雲長……」
「なんでだよ……なんで兄貴が曹操んところにいるんだよ!」
必ず生きていると信じていた。
だがまさか、この戦場で、しかも敵として現れるなど想像も出来なかった。
張飛が愕然となる中、劉備はすぐに衝撃から覚め、すんなりと状況を飲み込む。
予測はしていた……関羽が生き残る状況として、曹操に降伏したということは、十分に有り得る。
大方、自分の妻あたりを人質に取られたのだろう。
人材好きな曹操なら、関羽に興味を示してもおかしくない。
許都にいた頃も、何かと関羽について聞いてきた記憶がある。
「兄貴――――ッ!!」
「待て! 行くな、益徳!!」
関羽の下へ駆け出そうとした張飛を劉備は素早く制止する。
「雲長は別に裏切ったわけじゃねぇよ。それに……」
付き合いが長いからこそわかる。今の関羽は、静かながらも闘志に満ちている……
「今のあいつにゃ近づくな……巻き添えを喰うぞ」
ひとたび戦場に解き放たれた以上、彼がどれだけ苛烈に戦うか……劉備はよく知っている。
大嵐が起こる前兆を、感じずにはいられなかった。
不思議なほど気分は落ち着いていた。
降った軍での初陣だというのに、余分な気負いも緊張も感じない。
先程敵将の胴体を断ち切った感触が、まだ手に残っている。
敵将が突っ込んで来た時も、冷静に相手の動きだけを見て、攻撃後の隙を見逃さず確実に仕留めた。
……いつ以来だろうか。背後を一切気にすることなく、己の戦いにのみ集中できたのは。
思考が鮮明になると共に、自身の内に、激しい闘志が渦を巻いているのが感じられる。
己の未知なる部分が目覚めるのを感じながら、関羽はすぐさま、新たな部下に命令を下す。
「私に続け! 敵軍を掃討する!!」
青龍刀に付着した顔良の血を払い、関羽の隊は敵陣に突っ込む。
顔良を討ち取られた衝撃で、袁紹軍は浮足立っていた。
それは、関羽を相手にするなら致命的な隙であった。
最も、彼らが万全だったとしても、結果は変わらなかっただろう。
関羽が青龍刀を薙いだ瞬間、十数の兵がまとめて斬り飛ばされた。
返す刀でさらに十の兵が吹き飛ぶ。戦列が崩れたところに後続の兵が突っ込み、傷口をさらに拡げる。
(見事な兵達だ……!)
関羽は内心感嘆していた。
初めて率いる兵ながらも、彼らは関羽の采配に完璧に従い、思い通りの動きをする。
普段からこの規模の戦にも対応できるように鍛えられているのだろう。
細かい指示を飛ばさずとも、全員が隊列を乱すことなく、かつ独自の判断で最適な動きを取っている。
率いる側からすれば、これだけ頼もしい軍はいない。
まるで長い間戦を共にしてきたような信頼感が、曹操の軍にはある。
関羽率いる部隊は、関羽を先陣に据えた一点突破陣形で縦横無尽に駆け抜け、圧倒的多数の袁紹軍をずたずたに切り裂いていった。
それはあたかも、巨獣の体内に潜り込み、内部を駆け巡る一匹の龍であった。
数に任せて囲む込もうとするが、関羽の勢いを止めることは出来ず、たちまち包囲を突き破られ、外側から撃滅される。
その戦いぶりに、味方は驚嘆し、敵は恐慌している。その中で、張合ただ一人は純粋な感動で武神の戦を見つめていた。
「素晴らしいよ。将も兵も一体となり、一匹の黒い龍と化している。
あえて名付けるなら【黒龍陣】といったところか。
巨大な敵を全く恐れず挑むその姿……何と気高く、美しいことか……」
恍惚に浸る張合。
曹操も張遼も、感嘆の念で関羽の戦を眺めている。
敵味方問わず、戦場にいるもの全ての心を揺り動かした関羽の戦だが……実は、一番心を揺らしていたのは関羽本人だった。
敵は決して弱くない。兵の練度ならば、こちらとそれほど大差ない。
よく守りを固め、いつでも攻撃に移れる機能的な陣形を取っている。
にも関わらず、こうまで一方的な戦いになっている。これは何を意味するのか……
(そこまで……差があるというのか?)
それは、すぐには受け入れられない仮定だった。
関羽はずっと、劣勢の中で戦ってきた。
目の前の敵よりも、他の守るべき対象に集中していた方が多かった。
だから、己の強さを再認識する機会などほとんどなかったのだ。
戦場で自分の強さに自惚れるほど、関羽は未熟な武人ではない。
だが、それでも認めざるを得ない。
敵の強さを冷静に把握しているからこそ、はっきりとわかる。
自分は、強い。
後ろを憂いなく任せられる優秀な兵がいて、足手まといとなる護衛対象がいないことが、これほとまで己の武を開花させるとは。
関羽にとって、それは未知なる衝撃だった。
そして同時に……己が強さに昂揚している自分も、冷静に認識している。
青龍刀を振るう度に体が、心が熱くなる。
それでいて、頭はどこまでも冷たく研ぎ澄まされていく。
これが、武神の領域――
獅子奮迅、国士無双の活躍を見せる関羽に、劉備は驚き戸惑う様子を見せながらも、内心では黒い笑みを浮かべていた。
(へへへ……雲長よぉ……お前って奴は意外と頭柔らかいよなぁ。
とりあえず褒めてやるぜ!
そうやって曹操んところで戦っていれば、身の安全は保証されるし、何より袁紹軍の戦力を削ることが出来る!)
劉備にとって最も理想的な結末は、袁紹と曹操が互角に戦い、どちらが勝つにせよ両軍が激しく疲弊した状態で戦争を終わらせることだ。
中原を制覇した相手でも、瀕死の軍ならば、こちらにも勝ち目は出てくる。
所謂漁夫の利を狙うのだ。大戦の後は何かと混乱するもの。
劉備と同じことを考えている者も多くいるだろう。
だが、そんな絶対的な強者のいない泥沼の状況下ならば、勝ち残れる自信はある。
目的を果たすまで決して諦めない生き汚さと、天下に懸ける執念ならば、誰にも負けない。
そんな自分の長所は、混迷した状況でこそ最大に活かせる。
曹操の下を離れたのも、単なる訣別の意志だけではない。
戦後の混乱を考えれば、地位や領地に縛られず動きやすい身分を保つ方が都合がいいからだ。
曹操も、洛陽炎上と董卓死後の混乱に乗じて、ここまでのし上がったのだ。
あの時の自分には、兵力も声望も機会も何もかもが足りなかったが……今は違う。
今度は自分が全てを勝ち取る番だ。
劉備はこの戦で、徹底して両軍を疲弊させる方向で動くつもりでいた。
その際、今の関羽の立ち位置は理想的だ。
関羽は袁紹軍を崩し、自分と張飛は曹操軍を削る。
敵にも味方にも自分の仲間がいることになるのだ。本心では、笑わずにはいられなかった。
「くそ! 雲長の野郎! 義兄弟の誓いを破り、曹操に寝返りやがって!」
周りを信じさせるため、口では毒づいて見せる。
その上で、張飛に近づき小声で話し掛ける。
「わかってんな? 雲長の邪魔にならねぇよう、こっそりあいつから離れるんだ」
今ここで自分達が顔を合わせるのは、お互いにとって都合が悪い。
下手に手を抜けば、内通を疑われる。
その点、皆が関羽の強さに目を奪われ、劉備のことなど忘れているのは都合がよかった。
「あ、ああ……」
震えの混じった声で答える張飛。
「いいぜ、そうやって茫然自失のふりしてな。
それとも、まだ驚いてんのか? ま、どっちでもいいや」
これでも義兄だ。言葉に出さずとも、関羽があえて曹操側に居ると信じていることぐらいわかる。
周りを騙すための芝居を打とうとしているのだ。
その切り替えの速さと関羽への信頼は、さすが長兄というべきだろう。しかし……
「な、なぁ、兄貴……雲長兄貴は、本当に戻ってくるんだよな……?」
「そういうことを今あんま言うんじゃねぇよ。もしかしてお前、疑ってんのか?」
「い、いや……」
いついかなる時も義兄を信じる。それができないようでは義兄弟失格だ。その点では、長兄は間違いなく正しい。
「けどよぉ……雲長兄貴の顔、よく見てみろよ」
「ああ?」
言われるがままに関羽を見て、劉備は息を飲む。
「俺ぁ、あんなに楽しそうに戦う雲長兄貴、見たことねぇんだよ……」
敵陣に突入し青龍刀を振るう関羽は……笑っていた。
これまで、戦場で一度も笑うことなどなかった、あの関羽が……
劉備の下にいた頃からは考えられないほど、生き生きと戦っている。
その姿には、劉備も沈黙せざるを得なかった。
「正直言って怖ぇよ……雲長兄貴が、俺らの手の届かないところまでいっちまいそうな気がして……」
震える声で、張飛は呟く。
「おお……これが関雲長の戦いか!」
侯成は感嘆していた。
彼はかつて呂布軍に所属していたが、呂布を見限って曹操に寝返った将である。
下丕城の戦では、曹操と内通して城攻めを有利にした。
張遼の同僚であり、彼とほぼ同期に曹操に下っている。
(あの張遼が好敵手と認めた男……なるほど、凄まじい武よ!)
張遼の気持ちはよく分かる。関羽の戦いには華がある。
心を熱くし、武人の魂を揺り動かす華が。
関羽と張遼……呂布なき今、中華の武を牽引していくのは彼らだ。
そして自分も、彼らを追いかけていく。
呂布の下では得られなかった、武人の本懐を満たせる時を目指して……
「行くぞ! 我らも関羽将軍に続くのだ!!」
関羽の援護をすべく、彼も部隊を率いて袁紹軍へと奇襲をかける。
未来への希望に燃えて、声を張り上げた瞬間……
侯成の首は、胴体から離れて飛んでいった。
「とりあえず、こちらも将一人……これでどうにか釣り合いが取れたかな?」
紫髪の青年は、剣についた侯成の血を払うと、つい先程人を殺めたとは思えないほど、優雅で穏やかな笑みを浮かべた。
今度は曹操軍が衝撃を受ける番だった。
逆に、混乱の極みにあった袁紹軍は、元通りの戦意を取り戻す。
「美しい戦いだ……これが演舞なら、いつまでも見ていたいところだけど……
ここは戦場、あまり好き放題させるわけには行かないね」
袁紹軍の将、張合。彼が顔良に代わって指揮を執ることで、戦局は一変する。
「!」
青龍偃月刀の斬撃が空を切った瞬間、関羽は敵の狙いを悟った。
関羽が近づいた途端、袁紹軍は潮が引くように後退していく。
別の方面に狙いを定めても同じこと。青龍刀が、敵の血で染まることはなかった。
数に任せて押し潰そうとした先程までとは違い、徹底して逃げの一手を打っている。
十倍以上の大軍が、関羽ただ一人を恐れて逃げ惑っている。端からはそう映ることだろう。
もはやどうあっても関羽は止められない……そう思えている。
だが、それで自惚れる関羽ではない。
彼は、袁紹軍の後退に隠された意図を早期に読み取っていた。
これは逃げているのではない。包囲を広げているのだ。
このままでは、関羽の部隊は大きな袁紹軍の輪の中に取り残される。
そうなれば、後は逃げながらひたすら矢や鉄砲を撃ち続けるだけだ。
自分は生き残れるだろうが、他の兵士達は全滅を免れない。関羽の決断は早かった。
「全隊、殿より後退せよ!」
まだ退路が閉ざされぬ内に迅速に後退し、一旦仕切り直す。
「おっと、そうはさせないよ……」
白と紫の影が、関羽と背後の兵との間に割って入る。
これで、関羽は自身の兵と切り離されてしまった。
「私に構うな! 副長の指示に従い、各々が生き残ることを考えよ!」
そう叫びながら、眼前の敵に集中する。
張合は左手で前髪を払いながらも、右手の剣は絶えず関羽に突き付けられている。飄々としているようで、まるで隙がない。
「やぁ、【義侠の軍神】殿。ボクの名は張合、字は儁乂。
さっきの戦いぶりは実に見事だったよ。
ボクは君に興味が沸いた……君となら、美しい戦いを愉しめそうだ……!」
不思議な男だ。放つ言葉は戦意に満ち溢れたものだが、彼からは武人特有の闘気がまるで感じられない。
およそ戦場に立つには似つかわしくない端麗な容姿も、得体の知れなさに拍車をかけている。
しかし、相手がいかなる使い手だろうと関係ない。持てる限りの力で戦うまでだ。
「我が名は関羽! 字は雲長! 張合殿、いざ参る!」
「うふふ……共に踊ろうじゃないか。美しい演舞をね!」
関羽が張合と一対一になったのを見て取った曹操は、すぐさま傍らの張遼に指示を飛ばす。
「張遼、兵五千を率いて関羽の隊を援護せよ!」
「承知!」
「次は、そなたが将器を見せ付ける番ぞ」
「心得ております。関羽のあの戦いを見せられた後となれば、奮起しないわけには参りませぬ!」
曹操の護衛を許楮、楽進に任せ、兵を率いて前線へと突撃する。
守る戦も悪くないが、やはり自分は攻めの戦の方が性に合っている。
関羽の戦を見た後で血が滾っている今なら尚更だ。
張遼の軍は関羽同様、大将を先頭に立てての突撃陣形だ。
ただし、騎馬を横に広げて、囲まれないようにしている。
張遼の大輪刀が敵を薙ぎ払い、陣形が崩れたところに瀑布のごとき騎馬隊の突進が雪崩込む。
呂布軍時代、彼が得意としていた怒涛の騎馬戦術は、曹操軍に下った今も健在だった。
関羽に勝るとも劣らぬ凄まじい戦で、敵を掃討する張遼。
関羽の一点突破突撃で乱れた戦列に、この張遼の横断突撃。
五万の袁紹軍は、瞬く間に屍の山を積み重ね、傷を深くしていく。
関羽の率いていた隊を救出した後、彼らを部隊に取り込み、更に勢いを増す張遼軍。
しかし、それで形勢が逆転したわけではなかった。理由は二つある。
いかに張遼が奮戦しようとも、四倍近い兵力を前にしては、巨岩を一本の鑿で掘り砕くようなもの。
傷を負わせても、命までは届かない。
そしてもう一つは……攻めの要たる関羽が、張合ただ一人に釘付けになっていることだった。
斬撃が当たらない。これまで何度も仕掛けているが、その度に張合は巧みな馬術で攻撃を避けている。
しかし、特別動きが素早いというわけでもない。張合の動きは、至極落ち着き払ったものだ。
刃が振り下ろされる頃には、既に安全圏への退避を終えている。
まるでこちらの攻撃を事前に察知して避けているような……そんな不安が脳裏をよぎる。
その癖、敵の攻めは常に正確だ。気付いた時には、急所目掛けて刃が飛んでいる。
寸前で察知して、紙一重でかわしているとはいえ……劣勢は明らかだ。
剣は見えるのに、軌跡が見えない。
侯成を音も無く倒しただけのことはある。尋常の使い手ではない。
横薙ぎの一閃を後方へ退いて避け、神速の突きを繰り出す。
「絢舞・蜃気楼……ボクは美の観察者。
世界の外側にいるボクを捕らえることなど、決して出来ないよ」
(顔良め……足止めすら出来ずに早々に散るとは……どこまでも無様な男よ)
長年、同じ二枚看板として連れ添ってきた顔良の死を目の当たりにした文醜の胸に去来するものは、ただ侮蔑のみだった。
以前から、馬鹿力だけが取り柄の能無しだと思っていた。
あんな男と並び称されること事態、彼にとっては屈辱以外の何者でもなかった。
(袁紹軍に看板は二枚もいらん……私一人で十分だ!)
端正な顔の裏で渦巻くものは、他者への侮蔑と憎悪、そして己こそ袁紹軍一の将であるという自尊心のみだった。
だが、彼は気付いていない。
彼の歪んだ誇りや自意識は、他ならぬ顔良に影響を受けて培われたものであることを……
識者の仮面を被り、内心顔良を見下し続けていたことで、彼は自分も顔良と同類であることに気付かなかったのだ。
その証拠に……
(張合は思ったより使えるようだ。あれなら、顔良の抜けた穴を埋めてくれそうだな)
元より、顔良率いる左翼は囮に過ぎない。
いかに関羽や張遼が強いとはいえ、所詮はただ一人の将。
一部に打撃を与えることは出来ても、数万の軍全てを止めることは出来ない。
大軍の利点は、戦力を分割して動かせる点にある。
あからさまな陽動であろうとも、相手は手を出さざるを得ない。
囮とはいえ、二万の軍は、無視することの出来ない脅威なのだから。
張遼を避けて、軍を動かす文醜。狙いは最初から、曹操ただ一人だ。
兵三万を率いて曹操のいる本隊を強襲する文醜。
顔良がいなくなったことで、彼の顔には、己の本性が浮かび上がっていた。
「曹操……新時代を切り開くのは貴様ではない。我らの高貴なる血統だ」
その顔には、歪んだ笑顔が張り付いていた。