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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十四章 訣別(九)

 甘かった――!


 背後からは蹄の音が絶え間なく聞こえ、耳の傍を矢が通り抜けて行く。


「兄貴ーっ! まだ生きてるかぁーっ!!」

「おう! 今この耳に大層な耳飾りを貰いそうだったがなぁ!!」


 矢が掠って血が流れる耳を押さえて、劉備は大声で叫ぶ。

 現在彼は、曹操軍を相手に必死の逃避行の真っ最中であった。

 曹操に反旗を翻し、徐州を手に入れたのもつかの間……その天下は長く続かなかった。

 

 袁紹と盟を結んだ直後、曹操は自ら劉備討伐に乗り出してきた。

 その数はたったの千ながらも、電光石火の奇襲と、先の先まで見通した用兵術によって、劉備軍は一夜にして壊滅的な損害を被ってしまう。


 兵力で勝るとはいえ、ずっと劉備に付き従ってきた兵はごく僅か。

 後は劉備の声望を慕い、あるいは曹操に反感や遺恨を持つ徐州の民だ。

 だが劉備にはわかっていた……

 深い考えもなく、流されるままに集まってきた民は、実に離れやすいものであるということを……


 その予測通り、曹操軍に中核を叩かれた劉備軍は、いとも簡単に瓦解した。

 統率が行き届いていない群衆は、たちまち恐慌状態に陥る。

 例え千の兵でも、その裏についているのは三十万の大軍勢だ。

 少し脅し付けられれば、彼らは呆気なく降伏した。

 まして軍を率いているのは、人心掌握の鬼才、曹操だ。

 煽動と懐柔を織り交ぜて、 一夜にして徐州の大半を奪回してしまった。


 せめてもう少し時間があれば……そんな後悔が無意味なことはわかっている。

 曹操は、劉備が徐州を完全に平定していない時期を見計らって攻めてきたのだ。

 今徐州を落とせば、袁紹の南下を警戒して手を出して来ない……そんな甘い見積もりに縋った結果がこれだ。

 何もかもが甘すぎた。


 分かっていたはずだった。これが曹操だ。

 容易くこちらの思考の上を行く行動力。

 戦争の常道を理解しながらも、それを簡単に乗り越える決断力。

 その桁違いの才の前では、抗うことさえ許されない。


「ちっくしょう……」


 暗闇の中、劉備の逃走劇は続く。

 どこへ逃げても捕捉されそうな恐怖が常に付き纏っている。

 実際、曹操はこちらの動きを見通しているかのように兵を動かし、確実にこちらに打撃を与えてくる。

 小沛城は既に陥落した。自分を守って、大勢の将兵が命を落とした。


 かつて呂布に徐州を奪われた時と同じく、手に入れた大半のものを失って逃げ出している。 三十万の大軍を誇る曹操を相手にしても、決して屈服すまいと誓った。

 しかし、現実は十万はおろかたった千の兵を相手に無様に逃げ惑っている。

 これが当然の結果だ。悔しさや憎しみを捨てて、ただ現実を受け入れる。

 これからも抗い続けるために。

 今自分の傍にいるのは、的廬てきろと張飛だけだ。

 関羽には下丕城の守りを任せたのだが、思うにこれが失策だった。

 いや、曹操のこと。こちらに間諜を忍ばせ、関羽と離れた隙を突いて攻め込んだのかもしれない。


 今、この戦場には曹操がいる。見方によっては、総大将を討ち取れる千載一隅の好機に思える。

 的廬の空間転移と張飛の武力を組み合わせれば、曹操一人を討つことも可能かもしれない。

 だが、それは窮地に陥った者が縋り付く甘い誘惑だ。

 きっと曹操は、劉備が自分一人を狙った逆襲に転じることを期待している。

 逃げる敵よりも、攻めてくる敵を捕らえる方がずっと容易い。

 その事も計算して、曹操は自ら軍を率いてきたのかもしれない。

 勝利のためなら、自身を餌とすることも厭わない。それが曹操という男だ。


 張飛は、何度も曹操への突撃を志願した。

 だが、劉備は頑として拒絶した。

 もしも、それで事態が好転するならば、自分のためなら何でもするこの義弟を使い潰すことを躊躇いはしないだろう。

 劉備は既に、逃げるために二人の妻を捨てている。

 されど、劉備の戦は、曹操一人を倒して終わるものではない。

 袁紹を初めとする残る群雄との戦い、天下統一後の混乱の鎮圧……

 その時、信頼できる暴力……関羽と張飛の武は必要不可欠なものだ。

 天下への道は、彼ら二人無くして昇りつめられない。

 親愛や情義ではなく……最も役立つ人間どうぐだからこそ劉備は彼らを守らなければならなかった。

 それは愛など遥かに凌駕する覚悟であった。


(雲長……俺は生きるぞ……だから、てめぇも死ぬんじゃねぇぞ! 何が何でも生き残れ!)



 頭上を矢が通り過ぎる。

 髪の毛が焼ける臭いが鼻をかすめる。

 また、死にかけた。これで一体何度目だろうか。

 それでも、自分はまだ生きている。

 生きている以上は、何を犠牲にしてでも、生き延びることに執着する。

 それが劉玄徳の生き方だ。

 曹操に勝てる可能性は、ほとんど無に近い。だが、彼の下につく可能性は、完全なる零なのだ。


「生きてやる! 俺は生きてやるぞ! そんで曹操! 必ずてめぇを……」


 今は、ただの負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

 だが、同時にそれは、曹操に対する不退転の決意の現れだった。






 小沛城……


 城の外に出た隙を突いて、劉備軍を敗走させた曹操は、小沛城へと帰還する。

 曹操は自ら劉備軍を強襲する間、張遼に沛城攻略を命じた。

 彼が率いる兵はたったの百だったが、その勇名も手伝って、城は速やかに降伏した。

 かつて呂布軍に所属し、仁義の将として知られる張遼は、徐州の民からそれなりに慕われていた。

 曹操が彼を選抜したのは、武勇だけでなくそういった理由も大きい。

 城にやって来る曹操を、張遼は城門前で出迎えた。


「援軍に来たつもりだったが……既に陥落させた後であったか」

「ご帰還、お待ちしておりました」


 両手を合わせて一礼する張遼。その硬軟混ざった類い稀なる武人に、曹操は改めて感嘆する。


「見事であった。最も、そなたからすればいささか物足りぬ戦であったか?」

「いえ……このご夫人が、速やかに降伏を決断してくださったお陰です」


「あんたが曹操かい」


 張遼が紹介する前に女は声をあげた。

 糜夫人は煙管きせるを口から離し、紫煙を吐き出す。


「噂通りの、愛らしい坊やじゃないか」

 

 曹操をまるで恐れぬ物言いと共に前へ出るび夫人。

 曹操は、特に気分を害した様子もなく、むしろ好ましげな視線を送っている。


「劉備の奥方殿か」

「第二夫人だよ。妾みたいなもんさね」

「その噂、劉備から聞いたのか?」

「うんにゃ。手のつけられない糞餓鬼とは言っていたがね。

 たく、自分のことを棚に上げてよく言うよ。どっちが餓鬼だい」


 毒づく夫人に、曹操は笑い返す。

 女の身でこの乱世を生き抜くには、相当の苦労があったろう。

 さばさばした態度はそれゆえのものだ。

 曹操は、この夫人に敬意を払い対等に接していた。


「それで……どうなんだい? あの男は死んだのかい?」

「さて……淵、どうであった?」


 曹操は、傍らの夏侯淵に目をやる。


「未だ劉備の死体は確認できておりません。恐らくは北へ逃げ去ったものと思われます」


 それを聞いたび夫人は、天を仰いで煙を吐き出す。


「全くしぶとい男だよ。あのままくたばってくれた方が清々したんだがね……」

「そなたらを助けに戻って来るとは考えぬのか?」


 そう聞かれた糜夫人は、面食らったように目をぱちくりさせていたが、やがてけらけらと笑い出す。


「あはははは!あのろくでなしがそんな格好いい男のはずがないだろう。

 いつまでも夢見る乙女じゃいられない。

 あたしらは見捨てられたんだよ。妻なんて、幾らでも替えのきくお荷物だからねぇ」


 その乾いた語り口からは、悲観している様子は感じられない。

 ただ、乱世の常識をあるがままに受け入れている。


「ただ……あの子は悲しむだろうねぇ……」


 この時だけは寂しそうな顔つきで、明後日の方向を見つめている。

 甘夫人は、今も城の中で震えながら、劉備の無事を祈っている。


「夢だか何だか知らないけど、せっかく掴んだ左将軍の地位を蹴って、それでボロ負けした揚句女まで泣かせてちゃあ世話ないよ。

 あの子にゃ悪いが、死んで当然のろくでなしだね」


 悪し様に劉備を罵る糜夫人だったが……


「そうやって劉備を貶めておけば、余の心証が良くなる……

 それもそなたの処世術かの?」


 糜夫人は一瞬だけ固まるが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。


「あんたは誰にでもそんな人の心を見透かすような言い方をするのかい。

 言っちゃ何だが、嫌われるよ」

「む……すまぬ」


 夏侯淵は一瞬驚く。曹操が人に対してこうも素直に謝るなど、久しぶりのことだったからだ。


「あんたは大層頭がよくて戦が上手いそうだけど、自惚れちゃいけないよ。

 女心ってのは、どんな戦よりも深くて複雑なんだからね」

「うむ、肝に銘じておこう」

 

 表も裏も、打算も感情も、全てが渾然一体となっているのが人間だ。

 どちらが真実ということはない。

 曹操はやや苦笑すると、表情を改めてこう告げる。


「そなたらには、今しばし不自由を強いることとなる。

 されど、その後の身の安全は保障しよう」

「好きにおしよ」


 この時点で、糜夫人は、自分達がどのように利用されるのか察していた。

 劉備は、この展開を予期していたのだろうか。

 甘夫人のことを思えば、彼には生きていて欲しいが、一方で彼女の苦悩を思えば、劉備には死んでもらった方が良いように感じる。

 あの男は、関わった人間を不幸にする。それは間違いない。


(それこそ……余計なお世話ってもんだね)


 他人の心中に思いを馳せるより、まず自分はどうなのか考える。


(自分のことは、他人よりもわからない。本当だねぇ……)


 心中の呟きと共に、糜夫人は夜空の月を見上げた。



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