第十四章 訣別(八)
城の前では、曹操軍の将兵に取り囲まれ、平伏している賈栩と張繍の姿があった。
「今更投降だと? 何考えてやがんだあいつらは」
憎々しげに吐き捨てる夏侯惇。
「絶対何か企んでやがるな! 俺にだってわかるぜ!」
曹仁は得意げに言い放つ。
彼らを初めとして、将兵の誰もが張繍らに憎しみの篭った視線をぶつけていた。
それも当然……数年前、張繍は曹操に降伏したと見せかけて裏切り、城に留まっているところを闇討ちしたのだ。
それによって、曹操は絶対絶命の窮地に陥り、典韋を初め多くの将兵が命を落とした。
曹操軍の者達にとって、主君の慈悲を土足で踏みにじった張繍はどれだけ憎んでも飽き足らない怨敵だった。
彼らの激しい怨嗟に晒され、張繍は生きた心地がしなかった。
全身を震わせ、歯を小刻みに打ち鳴らしている。
たたでさえ臆病な彼にとって、この状況は地獄も同然だった。
「か、か、賈栩ぅ〜〜……本当に……本当に大丈夫なんだろうね?」
震える声で傍らの賈栩に問い掛ける。
この三年、張繍は曹操の報復に怯え、睡眠も満足に取れぬ有様だった。
劉表の庇護下でずっと引きこもっていたのだが、突然賈栩が曹操に再度降伏しようと言い出した。
今回も彼に言われるがまま許都に赴いたが、彼には到底曹操が自分を許すとは思えなかった。
自分はそれだけのことをしたのだ。事の重大さは、自分でもよくわかっている。
「ご安心下さい。張繍殿」
一方の賈栩は、張繍とは対照的に実に落ち着き払っている。
「出発前に申し上げました通り……曹操は、必ず我らの降伏を受け入れます。
曹操とて、今どれだけ苦境にあるかは承知のはず。
我らの投降は袁紹との均衡を修復するものであり、最大の評価と共に迎えられるでしょう」
曹操が、真に合理のみを追求するならば、少しでも兵力を増やし勝率を上げる道を選ぶはず。
目的のために手段を選ばないならば、仇敵と手を組むことを躊躇わないはず。
いや、元よりあの男に、仇や恨みと言った概念は存在しない。
それが、賈栩が長きに渡り、敵として曹操を観察し続けた結果得られた確信だった。
だからこそ、この機会が訪れるまで荊州に閉じこもり、時勢を窺っていたのだ。
「で、でもぉ……」
張繍はまだ半信半疑だ。
ふと前をみると……眼帯をした強面の男と眼があった。
剃刀のような眼にたぎる憎しみが、張繍の心を貫いた。
「ひいいぃぃぃぃ!?」
眼を逸らし、顔面を大地に押し付ける。
今ので寿命が五年は縮んだ気がする。
「ふん! すっかり怯えやがって。とんだ腰砕け野郎だぜ。
だが俺は騙されねぇぞ。どうせ全部演技に決まってやがる!」
張繍の卑屈な態度は、演技ではないかと思えてくる程過剰でだった。
「あれが演技だったとしても……孟徳様がそれを見抜けなかったとは思えないがな」
夏侯淵は静かに呟く。以前、曹操は張繍と直接相対している。
もし彼に邪心や反意があったなら、その時点で気付けているはずだ。
そうでないとしたら……張繍は曹操と会見した時には、本気で降伏するつもりでいた。
だが、その後突然考えを改めたのだ。
(奴を唆したのは、あの男か……)
元董卓軍の軍師、賈文和。
董卓の死後、杳として行方が知れなかったが、張繍の下にいたのか。
張繍と違って、彼は全く取り乱すことがない。
まるで自分が殺されないと確信しているようだ。
よほどの自惚れか、あるいはそれに見合うだけの深慮があるのか。
なまじ胡散臭いだけに、彼もまた張繍以上に読めない人間だった。
「この状況で何が出来るはずもあるまい。もちろん、警戒は緩めないが」
「たりめーだ。むしろ何かやらかして欲しいと思っているぜ。
そうすりゃあ、遠慮なくぶっ殺せるからよぉ!」
ぶっ殺す、という台詞が聴こえたのか、またも張繍は震え上がる。
そんな夏侯惇を、賈栩は冷ややかな眼で見つめていた。
まるで、彼らなどは眼中に無いと言わんばかりに……
その内……ざわついていた曹操軍が、一斉に静まり返る。
四天王が道を開け、赤い装束を身に纏った矮躯の少年が姿を見せる。
(曹操……)
彼を直に見るのは何年ぶりだろうか。
悠然とした微笑みと琥珀色の瞳に宿る覇気には、確かに王者の風格が感じられる。
しかし見方を変えれば、年相応の無垢な少年らしくも見える。
要は、捕らえどころの無い男……賈栩はそんな印象を抱いた。
曹操は、両隣に夏侯惇と夏侯淵を伴い、平伏している二人に歩み寄る。
「そ、そ、そ、曹操様……! ご、ご、ごめんなさいっ!!」
曹操が近づいた途端、張繍は頭を地に押し付け、謝罪の言葉を述べる。
「あ、謝って許して貰えるとは思っていません!!
だ、だけど、僕は心からあの時のことを悔やんでいます!!
何てバカなことをしてしまったんだろうと!
僕らはせめてもの罪滅ぼしとして、貴方様の御力になりたいと思っているのです!!
ど、どうか! どうか僕らの降伏を受け入れていただけないでしょうか……!!」
彼としては精一杯の勇気を振り絞っての発言なのだろう。
全身ががたがた震わせ、泣きながら過去の過ちを詫びている。
しかし、どれだけ真に迫った謝罪であろうと、それでほだされるほど彼らは甘くない。
夏侯淵は無表情を崩さず、夏侯惇は心底胡散臭そうな眼で見ている。
そして、曹操は……
「よぉ、そなたが賈栩か」
張繍を全く無視して、傍らの賈栩に話しかける。
彼の意識には、張繍の声も姿も入っていない。
張繍がただの傀儡であることなど、早期に見抜いていた。
(ふむ……まぁ、その程度は見抜いてもらわねばな……)
己の思惑はおくびにも出さず、賈栩は沈着冷静に応対する。
「は……此度は我らとの会見に応じて頂き、大変感謝しております」
曹操は張繍を一瞬だけ見やり、話を進める。
「魔王の懐刀と呼ばれた男が次に選んだのがこやつとはな。
さぞ、己の才を持て余したのではないか?」
「とんでもごさいません。
私ごとき匹夫は、この激動の時代を生き延びるだけで精一杯でして……」
「謙遜が過ぎるな、賈栩。
三年前は、こやつに見事にしてやられたぞ」
「え、えええええ!?」
自分のことを言われて動揺する張繍だが、曹操は構わず続ける。
「こやつの純粋さに、余はまんまと死角を突かれたよ。
元より騙す意図の無い人間ならば、信じさせることは容易い。
最初からそれを計算の上で、こやつを主に選んだのか? 賈栩よ……」
眼を細めて、意地の悪い笑みを浮かべる曹操。
「そこまで見抜いておられたとは……恥ずかしながら……その通りでございます」
「か、賈栩ぅ!」
うろたえる張繍だが、実際彼は二人の会話の意味など理解してはいない。
ただ、曹操の一語一句に怯えているだけだ。
「後になって気づいても何の意味も無い。
あの時、余はそなたと、張繍に負けたのだ」
「そ、そんな! 僕はそんなつもりは……!!」
いちいち怯える張繍に、夏侯惇の苛立ちは頂点に達した。
殺意の篭った眼で、張繍を睨みつける。
「おいテメェ……さっきからうるせぇぞ。
眼中に入ってないのがわからねぇのか。黙ってろ」
「ひぃぃぃぃ!! ご、ごめんなさいっ!! もう喋りませんっ!!」
心臓が止まるほどに怯え、亀のように丸まってしまう張繍。
「惇、脅しすぎぞ。ますます泣く子も黙る鬼将軍の異名を広めるつもりか」
夏侯惇を笑顔でたしなめる曹操。
「けっ、俺ぁこういう弱っちいくせに裏でこそこそ企んでいる奴が心底嫌いなんでな」
見るのも嫌と言わんばかりに、夏侯惇はそっぽを向く。
「ふふふ……惇よ、この張繍は、正真正銘非力で無害な人間だ。
だが、それもまた才の一つよ。実際、余はその才にしてやられたのだ」
そこには怒りも憎しみも、悲しみすらもない。
ただ、張繍という人間の才を、冷静に評価しているだけだ。
「こやつにはこの曹操という恐怖を常に与えてやれば、誰よりも従順に仕えるだろう。
問題があるのはそなたの方よな、賈栩」
「………………」
「そなたは一体何が望みなのだ?
何ゆえ、この曹操を罠に掛けた?
天下への野心か? 己の才を試したかったのか?」
曹操の問いかけに対し、ここで初めて賈栩は、口許に笑みを浮かべる。
「私の望みは……ただ一人の人間の意志によって、
世界が変革する様を見届けたい……ただそれだけでございます」
賈栩は平然と、嘘偽りなき己が本心を言ってのけた。
彼には忠誠や大義といった感情はない。ただただ、私欲だけで行動するだけだ。
人間を動かすのは欲望だけ、それ以外の全ては外面を取り繕うための欺瞞に過ぎない。
そしてこの曹操も、そのことを理解しているはずだ。
ここで命の危険を承知で己が本心を告げたのは、曹操に虚言が通じないと思っただけではない。
これも、彼に与える試練だ。
相手の本性を知った上で、なおかつ受け入れることが出来るかどうか……
もし曹操が賈栩を拒絶すれば、自分はここで死ぬ。
命の危険を覚悟の上で、賈栩はこの場に来ているのだ。
張繍にも言った通り、元より今を逃して降伏の機会はない。
賈栩の返答を聞いた曹操は、顔色一つ変えていない。
まるでその答えを予期していたかのように……
「それを見極めたいがために、ずっと余を試してきた……というわけか」
「そこまでお気づきでしたか……」
賈栩は、口許に微かな笑みを浮かべてみせる。
この男は自分の歪んだ本性など、とうに見抜いている。
賈栩が欲しているものを。彼が曹操に対して抱いている願望を。
あの宛城での戦い……呂布と遭遇し、絶体絶命の窮地にも関わらず、曹操は生存した。
手段や過程などはどうでもいい。
この時賈栩は、曹操を生かそうとする巨大な運命の流れを感じた。
曹孟徳には、因果の理をねじ伏せるほどの“存在力”がある。
それは、何人たりとも止められない歴史の必然そのものだった。
「余の器を試したか。
地上の人間に試練を与える、天上の神を気取るつもりか?」
「そのような大層なものではありませぬ。
私はただ、己の浅ましい欲望を満たしたかっただけ……
機嫌を損ねたのならば、どうぞこの場で首をお刎ねくださいませ」
己が首を指し示す賈栩。
「狡猾な男よの、賈栩。それも、余に与える試練なのであろう?
そんなことを言われては、余はますますそなたを殺したくなくなったぞ」
賈栩の考えなどお見通しとばかりに眼を細めて笑う曹操。
賈栩もまた、彼の反応を期待していたように笑みを浮かべる。
曹操と賈栩、この両者の腹の内を読むことは、余人には決して叶わなかった。
「こうして恭順するためにやってきたということは……
余は晴れて、そなたの与えた試練に合格したというわけか?」
「その通りでございます」
「それで……そなたは余に、董卓の代わりを務めさせるつもりか」
確かに……かつては董卓に、曹操と同じ期待と願望を抱いていた。
彼もまた、規格外の王の器を持つ男だったからだ。
それが中華の破壊であろうと、賈栩にとっては瑣末な差でしかない。
彼の望むものは、人の我欲の行き着く果てなのだから。
しかし……
「いえ……彼の者は所詮、道の半ばで斃れた敗北者に過ぎませぬ。
現に、董卓を滅ぼした呂布を、貴方様は討ち斃して見せた。
貴方様ならば、覇業を達成し、己が意のままに中華を変えられると確信しております」
「ほう。それで、そなたは一体何を得る? そなたは余に一体何を求めているのだ?」
「いえ、私は何も求めませぬ。
先ほど申し上げました通り、私は個人の意思によって世界が変わって行く様を見届けたいだけなのです。
貴方様の思うがままに生きてくれさえすれば、それでよいのです」
「なるほどのう。だが、何故袁紹の下へ往かぬ。
利己的というならば、彼奴も相当なものだと思うがな」
最近、袁紹は己こそが新時代の統治者であるとあからさまに宣言するようになった。
全身に黄金の甲冑を身に纏うその驕慢ぶりは、天下にその名を轟かせている。
しかし、賈栩は静かに頭を振る。
「いえいえ……袁紹はどこにでもいる普通の人間です。
彼は、彼に群がる数多の人間の意志によって後押しされているだけのこと。
煌びやかな黄金の装いも、全ては袁紹軍全体の意志の象徴でしかありません。
貴方様のように、己の意志のみで時代を引っ張るほどの器はありませぬ」
「くくく……つまり余は袁紹以上に我欲に満ち溢れた人間と申すか」
「は……私はそれ故に、貴方様を尊敬申し上げております」
貶しているのか褒めているのか分からない賈栩の言動。
夏侯惇は苦虫を噛み潰したような顔をしているし、張繍はいつ曹操の剣が賈栩の首を刎ねないかと戦々恐々しておる。
それについていけているのは、恐らく曹操だけだろう。
「なるほど、そなたがどういう人間なのかは分かった……
だが、そこまでこの曹操を理解しているなら分かっていよう。
そなたは一体何ができる? 余がために、どんな働きをしてくれるというのだ?」
曹操にとって、自分に仕える者がどんな人間であるかは、さしたる問題ではない。
重要なのは、その人物がいかなる才を宿しているか、“道具”として有用かどうかなのだ。
曹操の琥珀色の瞳を見て、その眼光に畏敬の念を覚える賈栩。
(やはり……貴方には憤怒も私怨も存在しない。
あるのはただ己が覇業のため全てを取り込もうとする、貪欲なまでの利己のみ……)
それでいい……そんな真実傲慢な人間だからこそ、仕える価値があるというもの。
「……現在憂慮すべきは、北の袁紹ではなく許都より南の群雄でございます。
彼らは袁紹と密約をかわし、貴方様を背後から突かんと画策しております。
あるいは自らの野心がため、両軍が激突し疲弊した隙を虎視眈々とうかがっておるやもしれません。
彼らの脅威を取り除かねば、我らは憂いなく袁紹との決戦に臨むことはできませぬ」
賈栩の発言には、これまで彼を不快に思っていた者達も頷かされる。
劉表や孫策ら、南で挟み撃ちの機会をうかがっている敵は幾つもいる。
袁紹の強大さにばかり気を取られていては、彼らに足元をすくわれるのは必至だった。
「ふむ。で、そなたならばそやつらを何とかできるというのか?」
「はい……私は南の群雄達とは懇意にしております。
彼らに揺さぶりをかけ、互いに潰し合わせて御覧にいれましょう。
いえ、こちらに来る前に、既にいくつか手は打ってあります」
「早いことよな、賈栩。確かに、その手の計略となればそなたの手腕は一級品であろう」
「は……」
「だが……」
次の瞬間、曹操は音もなく腰の剣を抜き放った。鋭利な切っ先を賈栩の鼻先に突き付ける。
(か、賈栩ぅ……!?)
張繍も、曹操の抜刀に肝を冷やしている。当の賈栩は、やはり眉一つ動かさない。
「賈栩よ、そなたの才は裏切りの才だ。
巧みな口舌で他者の心に忍び込み、猛毒となってその体を蝕むのだ。
その才は、この曹操にとって有用なものとなろう。
ただし! その毒は、この余をも侵しかねぬ諸刃の剣ともなりうる」
「………………」
「されど、余は知っておるぞ。
数え切れぬ裏切りを働いてきたそなただが……
自分の主だけは、裏切ったことが無かろう」
「え……」
張繍は思わず隣の賈栩の顔を見遣る。
「そなたが董卓軍に入る前から今日までの経歴は調べてある。
色々と策を弄して生きてきたようだが……主の不利益になることは一度もしていない。
董卓の下に居た頃も……そして今も、降伏することでこやつの命を救おうとしておる」
張繍は呆然と賈栩を見ている。
賈栩は、黙って話を聞いていたが、口許に笑みを浮かべて言葉を発する。
「私は、あくまで諸侯の陰に潜んで生きる寄生虫でございます。
住み着く場所を失えば、策を繰ることもできませぬゆえ……」
「そなたなりの処世術というわけか。
されど、余はそれだけでは信じぬぞ。
この経歴もまた、いつか仕える主を騙すための、そなたの遠大な策かもしれぬしの……
だが……それはそれで構わぬではないか。
冷静に機を見る眼力と、人を欺く智恵を持ち、
他者に怨まれながらも今日この時まで生き延びたそなたの才、余は欲しくなったぞ」
どんな言葉も意味を持たない。
今ここに賈栩がいることそのものが、彼の才を証明しているのだ。
どれほど邪で歪んだものであろうとも、この男には乱世を生き抜く確かな才がある。
「勿体無きお言葉……」
「ただし……!」
曹操は、剣を賈栩から離さずにこう続ける。
「そなたは私欲と享楽のみで生きる男だ。
自分の命さえも対価とすることも厭うまい。今、この曹操を試しておるようにな」
賈栩の頬から、一筋の汗が流れる。予期せぬ事態に遭遇したからか、それとも……
「だが、この曹操に仕えるならば、それは許さぬ」
次の瞬間、曹操は突如として、倚天の剣を賈栩目掛けて振り下ろした。
突然の出来事に、場は完全に凍りつく。
賈栩は咄嗟に両手を掲げるが、つかみ取るには遅すぎる。しかし……
曹操の剣は、賈栩の両手の間で止められていた。
曹操が止めたのではない。別の物理的な作用によって降ろせずにいるのだ。
「糸か……」
倚天の剣に巻き付き、うっすらと光る無色の線……
賈栩の両手袋から伸びた金属の糸が、剣に搦め捕っていたのだ。
賈栩がいざという時のために仕込んでおいた暗器である。
張繍はあまりの事態に腰を抜かし、今にも気絶しそうである。
夏侯惇らも慄然となる。
賈栩があんな武器を隠していたということは、曹操の命が危険に晒される可能性もあったのだ。
曹操は涼しげな顔で剣を払い、糸を切り刻む。そして、満足げな笑みと共にこう言い放つ。
「そうでなくてはな。その程度の身を守る術も持ち合わせぬ策士など、余の下に引き入れる価値はない」
「今度は……貴方が私を試したというわけですな……」
あの瞬間、賈栩ははっきり感じ取っていた。
曹操は、本気で自分を殺すつもりだった。
もし糸で受け止めていなければ、今頃自分の脳天は二つに割れていた。
それでいて、やはり曹操からは一切の怒りも憎しみも感じられない。
負の感情の欠如は、寛容だけではなく……時として理不尽に人の命を奪う冷酷さとしても現れるのだ。
「よいか、命を惜しめ! 足掻いて生き延びて、知謀の限りを尽くして余に仕えるがよい。
さすれば……この余の覇業に組する資格を与えよう」
曹操は、自分がどれだけ歪んだ人間か理解した上でそれを受け入れ、なおかつ飼い馴らそうとしている。
これだ……この尋常の秤では計れぬ王の器こそ、自分が求めていたものだ。
完全なる“陽”であるがゆえに、果てなき“陰”を内包するこの男が、どのように歴史を切り開いていくのか……
まるで想像がつかない。だからこそ、心が踊る。
「ありがたき幸せ……」
再度平伏する賈栩。やはりこの男は分かっている。
金よりも名誉よりも……ましてや慈悲でもなく、
恐怖すら感じるほどの存在感こそが、自分の心を繋ぎとめることを……
ゆえに己の器を見せつけ、自分を存分に利用しようとしているのだ。
それこそが賈栩の何よりの望みだと理解して……
曹操は、剣を鞘へと納め、今度は隣の張繍に視線を送る。
「張繍、この曹操が怖いか?」
「え……あ……その……」
突然答えにくいことを聞かれ、張繍は狼狽する。
それを見て、曹操は満足げに微笑む。
「なるほど、答えられないほど怖い、というわけか」
応であれ否であれ、ここですらすらと答えるようなら、本気で恐れてはいない。
即ち腹に一物あるということになる。
その点、張繍の反応は理想的なものだった。
「半端な強さよりも、絶望的なまでの“弱さ”の方が使い道がある……
賈栩よ、面白い才を見つけたものよな」
笑みを浮かべて応える賈栩。
曹操も、張繍の特異な才に気付いたようだ。
三年前の敗戦から、彼も学習したのだろう。
人間とは、弱いようでいて強いもの。
特に人の心は、単なる愛や恐怖で御しきれるものではない。
一旦服従させても、いずれ野心や反意が芽生えるかもしれない。
しかし、この張繍のような極端に弱い心を持つ者を操るには、単に恐怖を与えるだけで事足りる。
そんな人間は、実は大変貴重な逸材なのだ。
心の弱さとは、同時に強さでもある。
臆病とは慎重さや用心深さの裏返し。
また、感じる恐怖の量が多ければ、それから逃れようと死に物狂いで働くようになる。
それは時として、戦慣れした猛者を上回る力を発揮する。
宛城で、張繍が迅速に夜襲の準備を整えたのは、全て賈栩の指示が的確だったからというだけではない。
曹操への恐怖が、彼に限界以上の力を発揮させたのだ。
「張繍よ。そなたは臆病者のままでいよ。
この曹操を恐れ続ける限り、余はそなたを受け入れよう」
張繍は最初固まっていたが、次第にその両の瞳から滝のように涙が流れ落ちる。
「あ、ありがとうございます!ありがとうございますっ!
曹操様……曹操様……っ!!」
張繍は頭を地にこすりつけ、泣きながら感謝の言葉を叫び続けた。
賈栩は不敵な笑みを浮かべている。曹操もまた……笑っていた。
心に闇を宿す策士と、心に光しか持たぬ覇王。
互いにあるのは己のみ。私欲のみで結ばれた主従関係。
それは、さながら絡みつきながらも決して混ざり合わない、白と黒の縄のようであった。
ひざまずく二人を見て、夏侯淵は考える……
張繍も賈栩も、特異な才の持ち主ではあるが、味方に引き入れるには少々危険ではないか。
劉備についてもそうだ。
いくらでもやりようはあったはずなのに、曹操は最後まで彼らを手放したくなかったように思える。
いつもの曹操といえばそうかもしれないが……少々釈然としない。
そうまでして人材を集めたがる理由は……曹操もまた、必死なのだろう。
だから、危ない橋を渡ってでも人材を、兵力を集めようとする。
つまりそれだけ、袁紹を強大な敵と見なしているということだ。
曹操を曹操たらしめている合理……それを一部崩してでも戦力を底上げせねば、勝ち目がない……
自分達が今から戦おうとしているのは、それほどの敵なのだ……
こうして、張繍と賈栩の軍は曹操に帰順した。
しかし、袁紹の大勢力と比べると、兵力において依然大きな差が開いており、
勝算の薄いまま、曹操軍は決戦の時を迎えることになる……