第十四章 訣別(七)
豫州、許都……
袁紹との決戦が近付くにつれ、曹操軍の誰もが、自軍の不利を痛感しつつあった。
北の袁紹は、およそ四十五万の兵力を動員できる。
それだけでも驚異的なのに、許都の南にも袁紹と手を結んでいると思しき群雄がいくつもある。
袁紹は各地に檄文を放ち、曹操との戦に協力するよう呼びかけている。
だがこれは、実際には脅しだろう。
袁紹の兵力と戦の趨勢を考えれば、大半の諸侯は唯々諾々と従う可能性が高い。
袁紹の権力は、戦をせずとも諸侯を操れるほど強大になっていたのだ。
まさに四面楚歌、曹操包囲網というべき諸侯の輪は、開戦前から曹操軍を圧迫していた。
その上……
「劉備が、徐州で謀反!?」
早馬の報告を聞いて、最初に声を上げたのは荀攸だった。
軍議に集った文官達は、いずれも不快そうな顔をしている。
「袁術が病死したのに、中々戻って来ないから、おかしいとは思っていましたが……」
袁術討伐に向かった劉備は、突如下丕城へと進路を転進。
徐州刺史の車冑を切り、下丕城を奪い取ってしまった。
「しかし……早過ぎはしませんか?
呂布との戦いで半壊状態とはいえ、あの下丕城が……」
「勿論、劉備だけの力じゃない。徐州の民が手引きしたんだ」
「あぁ〜の一件以来、殿は嫌われていますからなぁ」
まるで他人事のように朗らかに語る郭嘉に、荀或は厳しい視線を送る。
あの一件とは、言うまでもなく徐州大虐殺である。
曹操は、父の死を発端として徐州に攻め込み、そこで非戦闘員である百姓を老若男女問わず大量虐殺した。
実はこの事件の裏には、決して明るみに出ない真相があったのだが、徐州の民がそれを知る由もない。
確かなものは、曹操による大量殺戮の事実と、徐州の民に刻まれた決して癒えぬ悲しみだけだった。
曹操軍にとっても、叶うことなら消し去りたい汚点である。
この事件が民に与えた憎しみと恐怖は、敵意となって曹操の覇業を阻んでいる。
逆に、曹操の侵略から徐州を守って戦った劉備の人気は絶大だ。
先の呂布との戦いで、劉備が呂布と陳宮を仕留めたのも大きい。
彼らは、恐ろしい曹操よりも、劉備による統治を受け入れたのだ。
劉備はそれを計算して、下丕城へ向かった可能性が高い。
許都を出発した時から、既に反乱の意思を固めていたのだ。
「劉備め!厚遇してやった恩を忘れおって!!」
「やはり奴は信用ならぬ男であった!」
「左将軍の職務を放棄したことは、漢王朝への反逆でもあるぞ!」
居並ぶ重臣達は、口々に劉備を罵る。彼らは皆曹操に大恩ある者達だ。
だからこそ、主君の信を踏みにじった劉備の裏切りが許せないのだ。
だが、当の曹操は気に触ったそぶりもなく悠然と微笑んでいる。
ここでようやく、彼は初めて言葉を発した。
「程旻」
「は……」
「そなたは最初から劉備を抹殺すべしと申しておったな。
どうだ? だから言わぬことではない、とでも言いたいか?」
「いえ……」
程旻は鉄面皮を変えぬまま答えた。
「終わったことの原因を追求しても意味がありません。今は善後策を協議すべきかと……」
皮肉を言っているのではない。
彼は過去に囚われず、いまある現実だけを見つめ、常に冷静な判断をくだせる人物だからだ。
「うむ、正論よな」
「そぉぉぉのとおりでぇーす!」
それに呼応して、郭嘉は声を張り上げる。
「劉備が裏切った程度が何だと言〜うのですか!
我々の勝利への方程式には、僅かな狂いも生じるものではあぁーりませぇーん!」
これも、沈んだ場を盛り上げる意図などなく、本気で言っているのだろう。
「郭嘉、そうは言いますが、事態はそう楽観視できるものでもありませんよ」
やんわりとたしなめる荀或。
徐州の民は、次々に劉備の下に集まりつつある。
徐州そのものが、曹操から離反するのも時間の問題だ。
だが、もっとも恐れるべきことは、劉備は北の袁紹と同盟を組むこと。
保身に長けた劉備ならば、既に袁紹との盟約を取り付けているだろう。
徐州が袁紹の傘下に収まれば、互いに四州と四州を領土とする両勢力の均衡は完全に崩壊する。
ただでさえ兵力に格段の差があるのに、これ以上差を開けられてはこちらに勝ち目は無くなる。
「言われるまぁぁーでもあぁーりませんよ!
ですがですが! それが何だと言うのです!
超絶速攻で劉備を討ち取り徐州を奪い返せば済ーむ話でしょう!」
「しかし、現在の情勢下で徐州に出兵するのは難しいかと……」
今度は荀攸が発言する。
このことは、軍議にいる誰もが分かっていることだった。
現在、袁紹は北で沈黙を続けているが、それは南下する好機をうかがっているためだ。
もし曹操が徐州に向けて大規模な行軍を起こせば、袁紹は即座に手薄の許都を攻めてくるだろう。
開戦の有利がそのまま勝敗に直結するわけではないが、ただでさえ不利な曹操軍としては、何としても避けたいところだ。
「あぁぁぁぁぁあ! 嘆かわしい!
曹操幕下の者たちが、こぉこまで弱腰だったとは!
こんな体たらくで中原制覇とは片腹痛し痛し痛し痛しぃ!!」
「そこまで言うからには、何か良い手があるのでしょうね、郭嘉」
責めるような物言いだが、荀或は内心微笑んでいた。
そう、これこそが郭嘉だ。
いついかなる時も自信過剰、されど、その知略に誤りはなく、必ず勝利を手中に収める。
昨年の戦においても、郭嘉の予測と作戦無くして、呂布討伐はなしえなかった。
郭嘉との確執を乗り越え、幾多の戦場をくぐり抜けてきた今、荀或は郭嘉に、確固たる信頼を抱くようになっていた。
「もぉぉぉちろんですとも!
よいですかぁ、劉備を討つのに物々しい大軍など不要! 千の兵で十分!
これなら許都の守りを割く必要もあぁぁぁりますまい!」
場がどよめく。
確かに千の兵で劉備を討てれば理想的だろうが、幾らなんでも少なすぎはしないか。
当の郭嘉はいつもの自信に満ち溢れた顔つきで、ある一点を見つめている。
熱っぽい視線の先には、彼の主がいた。
くぐもった笑い声を漏らす曹操。
「それで、そなたはこの余に千の兵を率いて、劉備を討ちに行けと申すか」
郭嘉は僅かな気後れもなく、首を縦に振る。
「えぇ〜え! 千の兵で劉備を討てる将といえば、殿をおいて他におりませぬ!」
「喜々として主君を戦場に送りだすか。いやはや、とんだ軍師もいたものよのぉ」
だが、曹操の声には不遜を咎める響きはない。
彼には分かっている。郭嘉はあくまで合理的な判断の上で自分を指名したことを。
自分ならば徐州を最少の兵力で最短の時間で奪還できると確信しているのだ。
「加えて、余が自ら手を下すことで、劉備への未練を断ち切らせようという算段か?」
今度は郭嘉は問いに答えず、ただ笑みを浮かべている。
しかし、この男のことだ。曹操の心理状態さえも、計算に入れているのだろう。
確かに劉備への対応が甘すぎたのは否定できない。
郭嘉に言われずとも自ら赴くつもりでいた。
ただし、自責の念や自身への戒めといったものではなく、あくまで合理的な判断として。
「郭嘉よ。そなたほど余をないがしろにする臣下はおらぬ。
されど、ゆえにこそ……頼もしい」
郭嘉は曹操だけを見ていない。
広く世界を見渡し、己を含めた全ての存在を盤上の駒と見なし、ただ勝利を目指して完璧な策を練り上げる。
その完璧な策に、曹操の求心力が加わればまさに鬼に金棒。
呂布との戦で、その強さは証明されている。
郭嘉の頭脳こそは、曹操軍の中核にして宝。
曹操は、彼の万能にして得難き才を心から好ましく思い、また信頼していた。
そんな曹操の胸の内を知らない臣下の多くは、郭嘉の僭越に冷や冷やしたり、内心苛立ちを覚えていたりしている。
彼らのやり取りが、確固たる信頼の上に成り立っていることを理解しているのは、荀或ら一部の重臣のみだった。
だが……彼らを見る荀或の顔にはどこか寂しそうな笑みが浮かんでいた。
郭嘉への嫉妬は消えたはずだったが、それでも微かに羨望の念は残っている。
彼は知っている……己が主君がどれだけ口で愛を語ろうとも、その実誰も信頼してはいないことを。
彼が好意を抱くのは、その者が持つ才だけだ。
そして郭嘉は、その曹操を信頼させるだけの桁外れの才を持っている。
同じ軍師でありながら、曹操を魅了するほどの才に、全く嫉妬がないといえば嘘になる。
それでも、自分は決めたのだ。
劣った才であろうとも、自分は自分で、曹操のために力の限り尽くすことを。
それに、曹操と違って郭嘉自身は、自分と同じ普通の人格の持ち主だ。
曹操を信じ、尽くしたいという気持ちは自分と同じ。
尊大で奇矯な振る舞いの裏に隠された本当の彼は、ただひたむきに、がむしゃらに、己が才を振り絞って主に尽くす熱い男なのだ。
今ではそんな郭嘉に、強い共感と友愛の念を覚えていた。
彼となら共に戦っていける。曹操を、天下の頂に押し上げられる。
酒、博打、女と、相も変わらぬ不品行には眉をひそめるが。
「では、直ちに劉備討伐に赴くとしよう。張遼、夏侯淵、許楮を連れていく」
いずれも曹操軍屈指の名将ばかりだ。
彼らの武勇に曹操の戦術が加われば劉備軍などひとたまりもあるまい。
その時……
「曹操様!大変です!!」
息せき切って軍議に現れたのは、楽進だった。
「どうしました? 楽進……」
荀攸の問いに対し、楽進は室内に轟く大声で答える。
「張繍と……賈栩がっ……!!」