第十四章 訣別(五)
話を終え、劉備が出て行った後……
「んあ〜〜〜〜……」
本棚の奥から、寝そべっていた許楮が体を出す。
「お話は終わっただか? おらにはちんぷんかんぷんで眠くなりそうだったよ」
そうは言いつつも、彼はずっと劉備に油断無く注意を払っていた。
もし劉備が曹操に何かしようとすれば、彼は即座に劉備を床の染みへと変えていただろう。
そんな頼もしい護衛を見て、曹操は穏やかに微笑みかける。
これが欺瞞なのか真意なのか、彼自身にも分からない。
さて、劉備は気づいただろうか――
自分の本性に。
ある時を境として、劉備の動揺は完全に消え去った。
あれは一種の覚悟を決めたからだろう。
覇気が全く感じられなくなったが、だからこそそれを隠しているのだろうと直感する。
(劉備よ……そなたも、余と同じ存在なのか……?)
いつしか曹操は、口を半月型に歪めて笑っていた。
それが何を意味するかは、彼自身にもわからない。
自身の感情も深く理解できぬまま、ただ前へと進む。
大義か、快楽か、満足感か、そんなことはどうでもいい。
自分は、それだけの生き物なのだから。
「もーとく様ぁ。お腹空いただぁ。もうお昼ご飯にするだよぉ」
「ん、もうそんな時間か。近頃は忙しくて昼食が遅れることなどざらだったからのう」
「んもぉ〜〜駄目だよ。ちゃんとお昼に腹いっぱいにしとかねぇと、力もでねぇしおつむも回らねぇだよ」
「ははは、至言であるな、刻んでおこう」
朗らかに笑うと、許楮に向かってある問いを発する。
「なぁ……何故そなたは、余についてきているのだ」
唐突な質問であったが、許楮は特にいぶかしむこともなく、聞かれたことを答える。
「ん〜〜もーとく様は恩人だからなぁ。おらをあそこから助けてくれたのは、もーとく様だから」
あの血まみれの地獄……屍の山の中で少年は座り込んでいた。
全身を血で染めて、虚ろな瞳で眼前の光景を眺めていた。
尾から蛇を生やした虎の像と、視線を合わせて……そこに手を差し延べたのが、曹操だった。
違う――
曹操は心中で強く否定する。
あの時彼を助けたのは、慈悲でも憐憫でもなく、ただ、道具として利用できると思っただけだ。
許楮は、巨大な鉄球を手に嵌められていた。
にも関わらず、彼はあれだけの人数を殺戮してみせた。
この瞬間、曹操の脳内ではある計算が組み上がっていた。
ここで彼を手元に引き入れ、自分への忠誠を植え付ければ……比類なき戦闘能力を持つこの怪物を将来兵器として利用できるだろうと。
それが曹操の率直にして本当の思いだった。
この時に限った話ではない。
いついかなる時も、彼にあるのは利己的にして冷徹な計算だけだった。
彼にとって、他者が自分に寄せる感情などは全て利用するためのものでしかない。
ここで許楮に問い掛けてみたのも、改めて自身への忠誠を確かめてみただけのことだった。
「でも、今はそれだけじゃないだよ?」
許楮は続ける。
「おらはおらの意思で、おら自身のために戦っているだよ。
それがもーとく様のためにもなるって、最近気付いたんだぁ」
許楮の答えに、曹操は愛おしむような笑顔を向ける。
「許楮よ……そなたは大物かもしれぬのう」
本心だった。自分が利用されていると分かってなお、それを受け入れ、従おうとしているのだから。
少なくとも、こんな自分よりはずっと上等な人間だ。
許楮だけではない。彼の周りに集まる者達は、いずれも素晴らしい才覚と立派な人格の持ち主ばかりだ。
自分には才能しかない。自分には何も無い。
他者を操ることだけが能の、空っぽの王様だ。
普通の感覚ならば、寂しさや虚しさ、劣等感やあるいは優越感を感じるのだろう。
“学習”して知っている。
だが、自分は違う。
自分には何一つ思うことはない。ただ、事実として受け入れるだけだ。
自分の心は、“何か”を持っている他者には決して理解できないだろう。
董卓や呂布と同じく……多くの同志に囲まれながらも、彼は常に孤独だった。
こんな自分を、真に理解する者がいるとすれば……
それは、劉玄徳以外にありえない。
「なぁ……許楮よ……」
「んあ?」
曹操は天を仰いで、実に穏やかな口調で呟く。
「余は、劉備を殺すぞ」
在りし日の洛陽を彷彿とさせるほどに、許都の発展は目覚ましかった。
この立派な都を見れば、誰がつい数年前は死にかけていた王朝の都だと思うだろう。
許都は、漢王朝の再生の証とさえ思われる。
だが同時に、終焉の予兆であると受け取る者もいた。
今の繁栄は、全て曹操の功績によるものだ。
彼の政には異の唱えようもなく、厳しい法律と的確な施策でたちまち都を発展させた。
当然の流れとして彼の影響力は大きくなり、天子を奉戴しながらも、実質的な漢王朝の支配者となっていった。
これを快く思わない者は大勢いる。
特に、皇族や貴族、元々漢王朝で要職についていた者達は、曹操を疎み初めていた。
漢王朝の倫理に照らせば、天子を傀儡として国を意のままに操る曹操の行いは、許されるものではない。
かつての宦官や董卓と同じだと指摘するものもいる。
また、曹操の親族や関係者、子飼いの部下が次々に要職につくのを見て、彼らは恐れた。
自分達は、いずれ今の地位を奪われ、放逐されるのではないかと。
さらに、曹操は最終的は天子をも切り捨て、自ら帝位につくつもりではないか……
彼に帝への敬意など一欠けらもないことは、誰もが知っていた。
そんな、予想、疑心、義憤、保身、恐怖……数多の人間の思惑は、やがて水面下で曹操を廃除しようとする流れへ繋がっていく。
それが形となったのが、漢王朝の重臣、董承らが中心となって立案した、曹操暗殺計画である。
「劉備、貴殿は漢王朝の末裔と聞く。
ならば、今の曹操に意のままに操られる漢を憂いていないはずがあるまい。
全ての元凶は、天子を弄び、国を蝕む曹操にある。
貴殿は曹操に信頼されている……隙をついて、逆賊曹操を誅殺するのだ。
漢朝の命運は、貴殿の腕にかかっている。
最後に……これは勅命である」
劉備の下に現れた、董承の使いと名乗る男の話は、大体以上の通りだった。
全てを聞いて、劉備が最初に思ったことは……
バカどもが!
どれだけ面と向かって罵りたくなったことか。
こいつらが無能なのは知っていたが、まさかここまで愚かだとは思わなかった。
(暗殺計画だと?
てめぇらの浅知恵ぐらい、あいつが気付いていないとでも思ってんのか!
とっくに全部ばれているに決まっているだろうが!)
曹操は、天下に悪名を轟かすことを良しとして覇業に当たっている。
そんな男が、内部からの暗殺や反乱を警戒していないはずがない。
この計画は、すでに曹操に筒抜けと見て間違いない。
(何であいつがてめぇらを元の地位に留めたままにしておいたと思ってやがる!
わざと謀反を起こさせててめぇら反乱分子を一網打尽にする口実を作るためだろうが!
そんなこともわからねぇのか!)
劉備には、曹操の考えていることなど手に取るようにわかる。
今頃は、暗殺計画の証拠を集めている段階だろう。証拠を捏造するのかもしれない。
他にも言いたいことはいくらもある。
よりによって何故自分を……と思ったが、劉備の想像以上に彼の“仁義と徳の人”という印象は定着しているようだ。
単に他者から協力を取り付けるのに、善人ぶった方が都合がよかっただけなのだが……自身の思惑を越えてその評判は広がっている。
それだけ、曹操の悪の印象が巨大だということだろうか。
悪が膨れ上がれば、人々はそれに対立する善を求める、いや、押し付けるものだ。
本人は曹操と大差ないというに……
曹操に信頼されていると言われたが……これも冗談ではない。
もしそうなら、言われるまでもなく行動を起こしている。
天子の勅命というのも怪しいものだ。
側近達が天子を唆して勅を出させたか……あるいは勅を捏造したのか。
真偽は定かではないが、劉備は皇帝の命令などで己の意志を曲げるつもりは毛頭なかった。
(ああ腹が立つ! 死ぬならてめぇらだけで勝手に死ね! 俺を巻き込むな!)
どれだけ毒づいたところでもう遅い。
了承しようがしまいが、こうして話を聞いた以上、劉備も謀反人扱いされるのは必定。
曹操が捕らえた他の一味が、あることないこと喋るかもしれない。
これで、劉備の取る選択肢は二つだけになってしまった。
勅命に従い、曹操暗殺を実行する……これは論外だ。
暗殺は間違いなく失敗する。そうなれば、劉備は死ぬだけだ。
劉備にとって、いついかなる状況においても、生き延びることは全てにおいて優先する。
死ぬことがわかっている道など、最初から選択肢にも入らない。
このまま沈黙を通すのもまた論外。
暗殺計画が明るみになれば、いずれ劉備の下にも手が及ぶ。そうなってからでは遅いのだ。
これらを前提とした上で、劉備の取れる道は……
第一の選択肢は、計画の存在を曹操に密告することだ。
自分が彼に反意がないことを証明するには、もはやそれしかない。
董承らを裏切ることになるが、どうせ実行する気などないので同じことだ。
だが、その場合命は助かるかもしれないが、劉備への監視と締め付けは一層厳しいものとなるだろう。
曹操は逆らう者には容赦しないし、逆らえない仕組みを作るのにも長けている。
敵よりも味方に厳しいのが曹操という男だ。
劉備という人間は、形だけの地位を与えられ、死ぬまで曹操の臣下として歴史に埋没するのだ。
そうなったら、劉備の未来は閉ざされる。
自らの手で夢を叶える機会も、永遠に失われてしまうのだ。
劉備にはわかっていた……自分には、選択肢が二つなどと多すぎる。
結局、取るべき道は一つしかないのだ。
期せずして早く決断することとなってしまったが……どの道、結論は既に決まっていた。
使いの者に対して、劉備は曇りない笑顔を向ける。
「おう、任せときな――」
この年……揚州での勢力争いに敗れた袁術が、同家の袁紹を頼って北上しているとの情報が許都にもたらされた。
劉備は、真っ先に袁術の討伐に志願。
配下の兵と一族郎党を引き連れて許都を出発する。
そして……再び戻ってくることはなかった。
(これからきっと、あいつとは長い戦いになる。
それでも……てめぇと話すことは何もねぇ。俺からかけてやれる言葉は一つだけだ)
あばよ、曹操――