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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十四章 訣別(四)

 それから数日後……


 多忙を極める曹操とようやく会う約束を取り付け、劉備は曹操の官舎へと赴いた。

 こうやって街を歩いてみると、許都の繁栄ぶりが良く分かる。

 街往く人々は皆生気に満ちた顔立ちをしており、生き甲斐を持って日々の生活を謳歌している。


(これが平和な日常ってやつか……そして、この日常を作り出したのも、あいつだ……)


 今から会おうとする男の顔を思い浮かべる劉備。

 だが、いくら想像しても、あの男の内にあるものが全く見えてこない。

 高邁な理想か、単なる私利私欲か。それとも……



「おっと……」


 こちらに歩いてきた男とぶつかりそうになったので、劉備は横に避ける。

 随分と貧しい身なりをした男だ。

 黒い髪を伸び放題に伸ばし、顔が完全に隠れてしまっている。

 服装もぼろぼろで、足取りはおぼつかなく、乞食か酔っ払いの類としか見えなかった。


 しかし……妙な話だ。

 この辺りは、特に治安もよく、職が欲しければいつでも城壁修復の求人が出ている。

 働けないほど年寄りには見えなかったが……


 

 しかし、曹操の官舎が見えて来ると、通りすがりの男のことなどは頭から自然に消え失せていった。

 戦場に臨む時と同等の緊張感が劉備を包んでいく。

 今から自分が会う相手は、中原を二分する怪物、乱世の巨頭、曹孟徳なのだ。

 自然に体に震えが走る。唾を飲み込み、これは武者震いだと己に言い聞かせ……平静と友好の仮面を被って、目的地へと歩を進める。


 

 にも関わらず……曹操の待つ部屋の扉を開いた瞬間、劉備の仮面は呆気なく剥げ落ちた。


 呆けたように口を開き、目の前の光景を見つめる。

 彼の網膜に飛び込んできたのは、椅子にもたれかかり、すやすやと寝息を立てている曹操の寝顔だった。


(乱世の……奸雄……)


 思わず脳内で再確認してしまうほど、眼前にいる少年の姿は、そんな仰々しい異名に似つかわしくないものだった。

 瞳を閉じて、安らかに眠る彼は、容姿の幼さもあって赤子のように見えた。

 小さく開かれた唇から、微かな吐息がもれる。

 真綿のような柔らかさと、触れれば折れそうな儚さを湛えている。

 天女というものがいるならば、こんな風に眠るのではないか。


(この野郎……)


 原因不明の苛立ちを感じ、部屋に足を踏み入れた瞬間……


 曹操の両の眼が、勢いよく開かれる。

 爬虫類のような、大きく丸い琥珀色の瞳が劉備をいぬく。

 眼を開いただけで凄まじい変貌ぶりである。

 例えるなら、絶世の美女だと思って近づいてみれば、顔が裂けて中から緑色のおぞましい怪物が姿を現すようなものだ。

 まさに外面は菩薩、内面は般若である。

 いや、この男の場合、鬼や修羅といったわかりやすい恐怖ではなく、もっとどろどろとした捕え所のない“何か”だろうが……


「ふわぁ……おお、もう時間か……済まぬの。

 最近やたらと忙しくて、ろくに睡眠も取れなくてのう……つい寝入ってしまった」


 寝ぼけ眼で欠伸混じりに話す。

 そのまま一生眠っていればいいのに……などという本音はおくびにも出さない。


「いえ、お構いなく……

 司空殿の忙しい身を知りつつも、無理に約束を取り付けたのは俺ですから」

 

 愛想笑いを返しながら、劉備は抜目なく周囲に目を配る。

 曹操の居る部屋には本棚が何列も並んでいる。

 護衛を忍ばせるのにちょうどよい物陰がいくつもある。

 いや、本職の衛士ならば、劉備の思いもよらぬ場所に潜んでいるかもしれない。

 あの男、于禁うきんのように……


 二人で話し合いたいという申し出だったが、相手がそれを守る保障などどこにもない。

 むしろ、曹操ほどの地位ならば、常に護衛を控えさせておくのが当然だ。

 何か不審な動きを見せた時には、劉備の首は床に転がっているかもしれない。

 

 以上は全て、何の根拠も無い劉備の推測である。

 それでも、「その程度の手は打ってくるだろう」という一種の凄味が曹操にはある。

 いや……この場合、護衛が隠れていようがいまいが関係ないのだ。

 もしこの場で劉備が曹操を手に掛けようとして護衛に阻止されれば、間違いなく命は無い。

 その可能性を考慮すれば、曹操暗殺などという危うい賭けはできない。

 曹操が何も言わずとも、劉備は己で己の選択を縛っている。

 彼は何の脅しも使わず、ただ存在だけで、劉備の行動を封じ込めているのだ。


「そんな堅苦しい言葉は使わずとも良い。

 いつもそなたが喋るように、気楽に話せばよいのだ」


 悪戯っぽい眼で見てくる曹操。彼は、自分に対する敬意を強制しない。

 この発言は、友好的とも取れるが、実は劉備が本心では曹操を敬っていないことを見抜いていると言いたいのかもしれない。


 一瞬心臓がざわめくが、すぐに落ち着かせる。

 この程度で動揺していては、先が思いやられる。

 全てを見透かされているような感覚は、曹操相手ならごく自然なものだ。

 いちいち気にしてはいられない。


「あ、ああ……それじゃ……」


 劉備は椅子を引っ張り出し、曹操の対面に腰掛ける。


「忙しいって、やっぱ袁紹との戦いが間近に迫っているからか?」

「当然だ。正直、いつ戦争が始まってもおかしくない。

 将軍も軍師も、上も下も、そしてこの余も含めて、皆大わらわよ」


 それは、左将軍の官位を貰いながらもほとんど何もしていない劉備を暗に責めているようであるが……それもまた気にしないことにする。


「大変だな……で、勝てそうなのか?」

子桓むすこと同じことを聞くのう。それについては、余より程旻に聞け。

 週に一度勉強会を開いておる。そなたもそれに出席すればよかろう」

「あ〜……考えておくぜ」


 曖昧な返事で濁す劉備。

 盧植先生の下で学んでいた頃から、どうにも机に向かって勉強するのは苦手である。

 そして、曹操は何故か友好的ではあるが、それ以外の者達から快く思われていないことぐらい知っている。

 自分はまだまだ信用されていない。彼の臣下達は常に自分に疑惑の目を向け続けている。

 軍を引っ張って行く者達からすれば、それこそ正常な反応なのだろうが……

 そんな敵だらけの場所に向かって針のむしろになるのは御免だった。


「ま、忙しいならとっとと本題に入るぜ……」


 この男に会話による撹乱は無意味だと分かっているので、劉備は直ちに核心に入る。

 曹操も、その方がありがたいという風に頷く。



「……もし、袁紹を倒して、天下を統一したとして……

 あんたは、この中華をどうしたいと思っているんだ?」



 真摯な眼で問いかける劉備。

 その目を見て、曹操は口許を歪めて微笑んでみせる。

 普段の彼ならば、ここで他愛も無い冗談を返すところだが……曹操は、一目で劉備の真剣さを見抜いていた。


 劉備も、自分の本心が見透かされるのを覚悟の上で問うている。

 この問答次第で、己の往くべき道が決まるかもしれないのだ。

 それを知ってか知らずか……曹操はゆっくりと話し始める。


「余は、人間の価値とは、その者が何を成し遂げられるかにあると思っておる。

 人間の幸福とは、その者が何かを成し遂げることにあると思っておる。

 そして、それこそが、人間が人間らしく生きることだと考える」


 劉備から片時も目を逸らさずに、それでいて、遥か遠くを見ているように早々は語り続ける。


「余は、そんな人の才を愛している。

 人が持ちうる数多の才は、如何な花や宝石にも優る美しさを放っておる。

 才ある者が集まり、互いに手を取り合えば、不可能なことなど何も無い……奇跡ですらも起こしうる」


 その考えは、劉備にも理解できる。

 曹操は、各地から才能のある人物をかき集めている。

 今の曹操軍の強さも、そんな優秀な人材があればこそだ。

 曹操が呂布を斃せたのも、的確な指揮の下、

 様々な武将や軍師が、互いに協力し合い、己が能力を存分に発揮できたからだ。


「才を振るう時、人は喜びを、楽しさを、満足を覚える。

 全ての人間が、己が才を用いて、己が生き甲斐を感じられる一生を送ることこそが、余の願い……」


 ややうっとりしたように、曹操は目を細める。


「されど、世間には人の才を封じ込め、覆い隠してしまう悪しき因習が蔓延っておる。

 素晴らしき才が、正当な評価も受けず、歴史の中へと埋もれて行くのだ。

 余としては、これはあってはならぬ事態と考える」


 だがこの時……劉備は、発言の内容よりも、曹操の言い回しが引っかかった。

 「許せない」でも「憂うべき事態」でもない。「あってはならぬ」と言ったのだ。

 その小さな引っ掛かりは、やがて氷解することになる……


「確かに、世には不平等が満ち満ちている。

 生まれ持った差は、決して埋めようが無いものだ。

 されど、せめて余は人の才だけは平等に評価されるべきと考える。

 余が天下を平定した暁には、人の才を縛るものを取り除き、才が正当に評価される仕組みを作るつもりだ」


 曹操の言っていることは、実に真っ当な理想に思える。

 だが同時にそれは、連綿と続いてきた漢の社会構造を、表面から否定することと同義だった。

 漢王朝は儒教一尊、人の才よりも、血縁関係や仁や義、徳などの精神的な要素を重視してきた。

 王の息子は王になり、将軍の息子は将軍に、百姓の息子は百姓として一生を終える……

 それが漢という社会の常識だったはずだ。

 だがそれこそが、曹操の言う人の才を曇らせる元凶に他ならない。

 曹操は、四百年も続いてきた漢の因習や固定観念を、全て破壊するつもりなのか。

 

 だが、それだけならば劉備にとって特に気にするほどのことでもない。

 新たな時代を作り出すには、大きな変革が必要だと思っているのは、劉備とて同じだからだ。

 問題は……


「そいつぁ……才能がある奴だけを重視して使うってことかい?」


 それは、同時に才無き者を虐げる社会に繋がりはしないか……劉備の危惧はそれだった。

 だが、曹操の信念は、その程度では揺るぎもしなかった。


「劉備よ……そなたは才の概念を狭く捉えすぎだ。

 優れている、劣っているなどと言う概念は、結局一つの物差しで図っているから生じているに過ぎぬ。

 才と言っても千差万別。

 武芸の才、学問の才、詩文の才、絵画の才、医療の才……

 生まれ持った美しさも才ならば、岩をも持ち上げる怪力もまた才だ。

 玉座に君臨し、国家を動かす才もあれば、畑を耕して作物を作る才もある。

 物を売る才、馬を飼育する才、城を建造する才、武器を鍛え上げる才……

 人には星の数ほどの才があれど、才の価値に差などはない。

 そのどれもが、社会にとって必要なものだ」


 王だけでは社会は成り立たない。

 その下にある無数の才があって初めて、社会というものは成立する。

 曹操は、王の才もそれ以外の才も、全て等しいと言ってのけたのだ。

 これは、王の権威を絶対とする中華の価値観に、正面から異を唱えるものだった。


 だが、これもまた劉備にとっては深く頷ける意見であった。

 彼も、偏見や差別を捨てて人を見ようと努めているし、誰も平等に価値を認められる世界が来ればいいと思っている。


 曹操が突き崩そうとしているのは、袁紹を始めとする己に敵対する勢力だけではない。

 漢が誕生するずっと前から、当たり前のように存在してきた固定観念。

 それ自体を破壊し、新しい秩序を打ち立てようとしているのだ。

 それは、あまりにも険しい茨の道だ。

 だが、あの曹操ならば成し遂げてしまうだろう。

 董卓を退け、呂布をも葬り去った曹操。

 人を超えた怪物をも破った彼に、たかが人類社会の壁など、どうということはあるまい。


(だが、何故だ? そこまで分かっていて、何故俺はこいつを受け入れられない?)


 劉備はよく分かっていた……曹操に臣従しながらも、心の奥底では彼を拒絶してしまっていることに。

 一時は、あの呂布とさえ手を組もうとした劉備だか、曹操と肩を並べて戦うなど、まるで可能性の外だったのだ。

 皇族の血を引く者ゆえの、漢王朝への忠義からか。

 それとも、徐州で行った大虐殺が、彼の心に暗い陰を落としているからか。

 違う……自分に漢室への忠義など最初からないし、冷酷無情というのなら自分も彼と同じことだ。

 理由はもっと、根源的なところにある。



「社会とは人という部品で動く巨大な機械からくりのようなものだ。

 人にはそれぞれ、最も適した場所というべきものがある。

 その場所で、成すべきことを全うできてこそ、人の生に意味は生まれる。

 遍く民を、在るべき場所に当てはめ、生を全うさせる。

 そして余ならば、それができると考える。

 それが余の才ならば、余もまた一人の人間として、成すべきことを成し遂げるまでだ」

「あんたは……あんたもまたそれを成す為の部品だから、戦っているってのか?

 本当に………ただそれだけの理由で?」

「そうだ」

 

 僅かな迷いもなく、曹操は答えた。

 彼は己の才を信じている。

 何を成せるかを深く理解している。

 自惚れではなく、冷静に自分を分析し、判断した結果、行動を起こしたのだ。

 そこには私欲や虚栄心はなく……ただ、己の信念に彼自身も従っているからに過ぎないのだ。

 

 だからこそ、彼には揺らぎがない。

 己も世界の一部であると自覚した上で、己が力で世界を変えようとしている。

 清廉? 純粋? いや、そんなありふれた言葉で語れるものでもない。

 さりとて、心の闇などとも違う。

 言い知れぬ不安が、心の中で形を成していく。


 劉備は、自然とある問いを発していた。



「なぁ……あんた、今まで、苦しいとか、辛いとか思ったこと、ないのか?」



 言葉だけ聞けば、相手を気遣かっているように思えるだろう。

 だが、劉備にとってそれは、最も重要な意味を持つ問いだった。

 この後曹操が見せた表情を、劉備は生涯忘れない。


 曹操は、大きく目を開き、少しだけ首を傾げてみせる。


 その後、すぐにいつもの笑顔に戻った。


「さて、特に意識したことはないのう」



 視界が揺らぐ。

 

 嘘だ。意識したことがないだって?


 とんでもない。


 こいつは……苦しいや辛いなどと、感じたことすらあるまい。


 先程見せた困惑の表情……あれは、言っている意味がまるで理解できない子供のものだ。

 すぐさま、偽りの笑顔を取り繕ったが、そのことは余計に先程の表情に真実味を持たせてしまった。


 この瞬間、劉備は、曹操に初めて出逢った時からずっと抱いていた不安の正体を知る。


 こいつには……苦しみや悲しみ、憎しみや怒り、不安や恐れといった人間の負の感情が、一切存在しないのだ。


 そこに至った時、劉備は謎めいたこの男の正体が、克明に理解できてしまった。

 この男には苦しみも恐れもない。

 だから、何が相手だろうと己のなすべきことだけを見つめ、決して止まらず突き進む。

 悲しみも怒りも無いから、例えどれだけの人間を殺めようと、親しい人間が自分のために命を落とそうと何も感じない。

 ただ、冷徹なまでの計算に任せて行動するだけだ。

 そうでなければ、「苦しいことはあるか?」と聞かれて、あんな表情は出来ない。


 あの瞬間……曹操は空っぽの無だった。

 劉備の問いは、完全に認識の外にあるものであり、心に一切引っかかることなく摺り抜けていったのだ。

 恐らく、曹操とてこれら負の感情がどういうものかは理解しているのだろう。

 だがそれは、伝聞や書物、他者の反応を見て学んだ知識に過ぎない。

 自分自身で感じ取ったものではない。

 彼は恐ろしく頭が良く、明晰な為、全く違和感無く己に“感情があるかのように”取り繕うことが出来るのだ。


 空虚なる無……それがこの男の本質だ。


 彼を突き動かすのは、自身の快楽や他者の存在でもない。

 ただ、前に進もうとする意志があるのみだ。

 だからこそ、彼は目的のためなら、平然と他者を犠牲にできる。

 どれだけの苦難や絶望が降り懸かろうと、笑っていられる。

 彼は他人の痛みも、自分自身の痛みさえも理解できないのだから。


 イカれてやがる……


 この瞬間、劉備は曹操に呂布や陳宮をも上回る怖気おぞけと寒気を感じた。

 奴らは、快楽に探究心と、誰にでもある人間らしさを極限まで煮詰めた者達だ。

 だが、曹操は違う。

 彼の異質は、暗闇の深淵のごとき欠落から生じるものだ。

 闇を持たぬがゆえに、彼は決定的に異質なのだ。

 光しか持たぬゆえに、彼の存在はこの濁りきった不純な世界で、異常なものとしか映らない。


 一方で、何故この男にあれだけ多くの人間が集まるのかを考える。

 自分の才を正当に評価してもらえるからか?

 いや、それだけではあるまい。


(俺なんかが気付くぐらいだ……

 昔からずっとこいつについてきた奴らは、とっくに気付いているはずだ……)


 そう、関羽も張飛も、己の仮面の下にある本性を知っているように……


 曹操の臣下達も気づいている。


 この男の本性に。

 どれだけ忠節を尽くそうとも、結局彼は、他者を道具としてしか見ていないことに。


 しかし、だからこそ、彼らは信じられる。


 こんなイカれた人間ならば、天下を変えるなどという、人の手に余ることすらもやってのけるだろうと。


 彼は、何が起ころうと決して揺るがない、止まらない。

 目的を達成することしか頭に無いからだ。

 そんな迷いなく突き進む主だから、何もかもが完璧な男だからこそ、彼らも迷ったり失敗を恐れることもなく、ただ全力を出すことができる。

 自分の生涯に、意味を持たせることができるのだ。

 それは、人として最高の生き甲斐であるかのように感じられるだろう。

 命すら投げ出しても惜しくないほどに……


 曹操は、人の才のみを見て配下を登用するが、彼もまた己が才のみで部下を魅了し、従わせているのだ。



 何故、劉備は愕然となったのか。

 それは、曹操の本質に圧倒されたからではない。


 彼の在り方が、自分の目指す自分と酷似していたからだ。


 目の前にいるのは、完全な自分だ。

 揺らぎも欠点も無い、成すべきことを的確に判断して実行できる、完璧なる覇者。

 それは即ち……彼が天下に平穏をもたらすならば、自分は不要となることを意味していた。

 そこまで理解して、劉備が取る道は……


 自分でも驚くほどに、答えは早く出てしまった。


 

 否……と。



 彼の歩む道は、まず間違いなく正しい。

 そこには誤りも、無駄もなく、最短にして最適の手段を用いて天下を平定するだろう。


 それがどれだけ苛烈で、姑息で、残虐で、容赦ないやり方であろうとも、終わってみればそれが最も合理的だったと理解できるのだ。

 どの道、覇業に犠牲は避けられない。

 情に引きずられ、手を汚すことを躊躇えば、乱世は長引き、最終的により多くの人間が死ぬことになる。

 ならば、どんな手を使ってでも犠牲を最小限に留めて天下を統一できる人物こそ、覇者の器にふさわしいのではないか。

 そして、それに最も近い人物は、この曹操をおいて他にいない。



 曹操の目指す未来は、人間の才を重視し、優秀な人材によって機能する社会だ。

 それは一見、才なき弱者を冷酷に切り捨てる、弱肉強食の世界に思える。

 だが、それについては心配していない。

 曹操はあらゆる人間から偏見を捨てて、貴賎を問わず平等に見る男だ。

 彼ならば、大勢の弱者も織り込んで、なおかつ十全に機能する社会を作り上げられるはずだ。


 彼は、全ての人間に充実した生き甲斐をもたらすと言った。

 一度口にしたからには、彼は必ず達成するだろう。

 劉備は、曹操の能力と決意を信頼している。

 彼が切り捨てるとすれば、それは董卓や呂布ら、どうあっても和解できない相手に限られる。

 その場合、曹操はその手を血に染めることを躊躇わない。



 こうして誕生した世界は、きっと曹操一人によって管理、支配されることになるだろう。

 どれだけ外面を繕うと、覇王・曹操の巨大な影響力は社会を、全ての民を縛り付けるはずだ。

 それでも人々は、幸福と生き甲斐を感じるだろう。

 曹操が支配する世界の中で……


 されど、劉備はその点でも曹操を否定するつもりはなかった。

 人は自立して生きるべき、幸せは自分自身で追い求めるべきなどという、子供じみている上に何の実行力もない、無責任なことを言うつもりはない。

 そんな台詞は、心底満たされている裕福な人間か、為政者の責務を背負う覚悟のない人間だけが言える台詞だ。

 偽りであれ、与えられたものであれ、民が幸せに感じたならばそれは紛れも無く、真実の幸福だ。


 何が幸福かは決して他者には決めつけられず、ただ個人の主観によるものだ。

 その主観的な幸福を生み出すことこそ、為政者の役目だ。

 為政者の資格は、綺麗事ではなく、ただ統治の能力によってのみ決せられる。

 ならば、今中華で最も優秀かつ、決して信念を曲げない人間といえば、曹操以外ありえない。


 だが……



(曹操……あんたは……あんたは危うすぎるんだよ)



 曹操の、目的を果たすまでは決して止まらぬ性質は、確かに覇者にふさわしい。

 しかしそれは、その目的が真っ当なものであればの話だ。

 もし彼が天下の平定以外のものを欲すれば……どれほどの地獄が顕現するか想像もつかない。

 

 ひたすらに悪を求めた董卓のように……純粋に快楽を求めた呂布のように……


 曹操の本質は、彼らに良く似ている。ただ、目指すものが違うだけだ。

 もし、目的が歪んでしまえば、曹操も彼らのようになってしまうだろう。

 曹操に未来を預けるということは、そんな危険と隣り合わせなのだ。


(こいつの臣下は……その危険をわかった上で、こいつに賭けている。

 全てを賭けて、信じているんだ……)


 人を信じると言うことは、つまるところ自分では決して確信できないものに身を委ねると言う意味だ。

 裏切りとは人間にとって実に自然な行為。

 厳然たる事実として……どれだけの信頼を寄せたところで、人は“裏切れてしまう”生き物なのだ。


 だが、それを承知の上でも賭けてみたいと思える“力”が、この曹操にはある。

 純粋にして絶対的な才能だからこそ、信じる気になれる。


 自分はどうなのか。



(俺は…… この賭けに乗ることはできねぇ……)


 ここに来て、劉備は己の本質を思い知らされた。


 結局自分は、どうあっても他人を信じることが出来ない人間なのだと。


 裏切られることを恐れるわけではない。

 もし裏切られたとしても、取り戻せばいいだけの話だ。

 人と人との繋がりには危険が生じるのは確かだが、生きて行くためには、天下を目指すには必要不可欠なのだということも分かっている。

 

 しかし、曹操は違う……

 この男は、一度でも狂いが生じれば、もはや修正は効かなくなる。

 これまで目的に向かって誤りも無く進んできたように、一度歪めば歪んだまま果てまで突き進む。

 そうなってからでは遅い。そうなる前に、彼から戦う力を奪わねばならない。


 曹操と、戦わなければならない。


 愚かしい……と自分でも思う。

 今の曹操に、否の打ちどころはない。

 しかし、将来曹操が豹変するかもしれない……

 そんな、何の根拠も無い未来の可能性のために、自分は彼とたもとを分かとうとしているのだから。

 

 だが、やはりどうあっても自分は曹操を、他者を信じることはできない。

 

 自分以外の人間に、人類の未来を預けるつもりにはなれない。


 劉備の存在意義である“夢”――


 それは、自分自身で達成しなければならないことなのだ。


 何という底無しの傲慢なのだろう。

 さりとて、それを自覚したからと言って躊躇うような感覚は、既に消えうせている。


 自分も曹操と同じ……

 己の胸に抱いた夢の為ならば、決して止まることのない生き物なのだから。


 曹操と会話することで、劉備は自分自身の本性をも思い知らされた。


 今机を挟んで相対している二人の男は、目指す理想も、その本質も合わせ鏡のように酷似している。


 だからこそ、相容れない。



 同じ時代に、同じ世界に存在することが出来ないのだ。





 今の劉備の心にはさざ波一つ立っていなかった。

 心を凍りつかせ、顔には平静の仮面を被り、口からは取りとめもない台詞が紡がれる。


 それは……今後の人生において全く揺らぐことの無い、劉備の決意の表れでもあった。



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