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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十四章 訣別(三)

 豫州よしゅう許都きょと……



 梅の木が花を咲かせ、芳しい香りを漂わせる庭園に、妙なる琴の音曲が流れる。

 曹孟徳の妻、べん夫人は、屋敷の縁側に座り、無言で琴を奏でていた。

 質素だが品のある濃紺の着物を身に纏い、流麗な黒髪を長く伸ばしている。


 彼女は元は歌妓であり、曹操が彼女を見初めたのもまずその音色と歌声に魅せられたからだという。

 彼女は普段からずっと目を閉じているように細め、全く喋ろうとしない。

 別に口が利けない、目が見えないということも無く、話しかければ普通に会話できる……らしいのだが、

 何故か家族や側近の侍女を除いては喋っているところを見たことがある者はほとんどいない。

 何せ、暇があればほぼ四六時中琴を弾いており、それが見事すぎるため、誰も邪魔をすまいと話しかけないのだ。

 彼女を知るものの多くは、会話よりもその見事な音曲の方が印象に残っている。 

 それでいて、家事や育児などは立派にやり遂げている辺り、夫と同じく謎の多い人物ではある。


 

 そんな彼女の楽曲に、曹操と息子の曹丕そうひは、親子揃って聞き入っている。

 多忙を極める曹操にとって、こうやって家族三人が揃うのは実に珍しいことだった。


 曹丕、字は子桓しかん。曹操と卞氏の子で、現在は十二歳になる。

 父譲りの黒髪を肩まで伸ばし、中央で分けている。

 白い肌につり目気味の眼、大きな琥珀色の瞳、端麗な容姿と、父の特徴を受け継いでいる。

 

 そんな彼だが、曹操の見た目は十五歳程度のため、二人並ぶと親子というより兄弟にしか見えなかった。


 曹操は、曹丕と並んで縁側に腰掛けて、卞氏の琴の音を堪能している。

 その安らかな表情は、心から聞き惚れている証だ。

 曹丕は父の隣に座りながらも、ちらちらと父に視線を送っていたが、やがて口を開く。


「親父……何か聞かないのかよ」

「ん? 何をだ?」

「最近どうだとか……悩んでいることはないかとか……」


 そこまで言って、そんな普通の父親のような対応は、この男には実に似つかわしくないなと思った。

 それを聞いて、曹操は満面の笑みを浮かべて曹丕の方を見やる。


「何だ子桓よ、父に構ってほしいのか?

 しかしそれも当然、今や甘えたい盛りだからのう。

 長い時間逢えなくて、さぞ父の愛に飢えていたのであろう……

 いやはや、幾らでも甘えてよいのだぞ、我が最愛の息子よ!」

「……そう言われると何か話したくなくなってきた……」


 ニコニコと笑う曹操から、げんなりした顔で目を背ける曹丕。

 曹操は、そんな息子の反応をどこか好ましそうに見ながらも、口調を替えて問いかける。


程旻ていいくが言っておったぞ。

 不良ぶってはいるが、学問に取り組むそなたは、実に真面目な優等生であるとな」

「……あの人の教え方がいいからだよ。

 ろくな教師じゃなかったら、すぐ追い出しているところだぜ」


 思わず、そんな悪ぶった返答を返す曹丕。

 父に褒められると、どこか気恥ずかしくなる。


 父の勧めで、曹丕は週に一度、程旻の開く勉強会に顔を出している。

 この勉強会には、曹操四天王の一人、曹仁も出席していた。

 内容は成人の学門としてもやや難しい程度なのだが、優秀な曹丕にはちょうどいい段階となっていた。

 実際……程旻の授業は、曹丕にとっても新鮮な感銘を受けるものばかりであり、さすがは歴戦の軍師だと感心している。

 父の義兄弟である曹操四天王や、同じく軍師である荀或や荀攸とも話をしたこともあるが、やはり彼らからは、幾多の戦場を潜り抜けた格の違いを感じる。


 正直、傍にいても父がどれほど偉大な人間なのか、曹丕にはいまいちよく分かっていない。

 曹丕にとって父は、見た目が子供で、四六時中へらへらと笑っている呑気な男でしかないからだ。

 しかし、彼の下に集まる武将や軍師達については、その凄味が嫌と言うほど伝わってくる。

 それだけに分からない……何故あんなに素晴らしい男達が、こんな父について行っているのかということが……


 曹洪や荀或は、しきりに父の偉大さを訴えてくる。

 夏侯惇も、父に対する憎まれ口ばかり叩いているが、本心では尊敬しているのは子供の自分でも分かる。

 実際……曹丕も父が優れた軍略家、政治家であり、詩文にも長けた才ある人物だと言うことは分かっている。

 それでも、彼には今隣にいる男と、乱世にその名を轟かす奸雄の姿が一致しないのだ。

 他人ならばその実力を正当に評価できるのに、実の親になると何故が受け入れがたい。

 これも、一種の歪んだ反抗期なのだろうか。

 それとも、父の偉大さを理解するには、自分はまだまだ未熟だからなのだろうか。



 曹丕は、中途半端に聡明な自分を厭っていた。

 彼には、露悪趣味的な嗜好がある。

 子供の頃は、その嗜虐性の赴くままに、虫や小動物を良く殺していた。

 しかし、成長するにつれて、自分の周りにいる人間の大きさに触れ、自分が如何に小さい人間かということを思い知らされていった。

 それがまだ十歳前後の頃である。

 本心では、自分はもっと暴れたいのだ。

 悪行三昧を繰り返し、「さすが乱世の奸雄の息子」と呼ばれるほどに悪名を広めたい。

 だが、そんな熱情を、別の“賢い自分”が瞬く間に冷ましてしまう。

 どれだけ“悪”に走ろうとしても、すぐに自分の小ささに気づいてしまい、大人しく纏ってしまうのだ。


 学問への情熱もあり、事の道理も弁えている。

 そんな小さい枠に収まってしまう自分を、曹丕は心底嫌っていた。

 さりとて、常識人の枠を逸脱できず、憎まれ口を叩くことぐらいでしか反抗できない自分に、更なる嫌悪感が募って行く。

 そしてそんな苛立ちも、蓄積することなくあっさり雲散霧消してしまうのだ。


 ゆえに曹丕は、父を妬ましく感じる。

 何の束縛も受ける事なく、自由に、好き放題に生きている父を……

 ちっぽけな己の器を、嫌でも思い知らされてしまう父の大きさを……





 曹丕はやや嘆息すると、話題を変える。


「その程旻から聞いたんだけどよ……袁紹との対決……結構旗色悪いんだって?」

「………………」


 その質問に対し、曹操は庭を眺めながら、ただ笑みを浮かべるのみだった。



 中原の覇者を決める袁紹と曹操との戦いは、間近に迫っていた。

 しかし、曹操陣営をしても、現状では袁紹に有利と言わざるを得なかった。

 そのあたりの事情を包み隠さず言ってくれるのも、程旻の良いところだ。


 黄河を挟んで、北の冀州、幽州、青州、并州の四州を袁紹が、 

 南の豫州、遠州、徐州、司州の四州を曹操が治めている。


 袁紹の兵力は推定四十五万といわれ、また北の烏丸、鮮卑、匈奴といった騎馬民族と手を結び、最終的な総兵力は更に膨れ上がると思われる。


 一方の曹操も、三十万の青州兵を抱えてはいるが、 

 屯田制を維持する為に最大十万しか動員できず、袁紹と違い、孫策、劉表、張繍と周囲を敵に囲まれているのだ。


 このように、現状は袁紹の圧倒的有利なのだ。

 人材面においても、袁紹は方々から優秀な人材を集め、最新の機械技術を用いた大型兵器を多数所有しているという。

 曹操側も、天子を擁していると言う利点はあるが、漢王朝の権威が失墜した今の時勢で、どれほどの影響力があるのかは疑問が残る。

 


「なぁ親父……袁紹に勝てんのかよ」

「さての……」


 曹丕の率直な質問に対して、まるで他人事であるかのように適当に答える曹操。


「俺はまだ十二だぜ。死にたくねぇよ」

「それは安心しろ。袁紹はあれで寛大な男だ。

 余が心からあやつに屈服すれば、そなたらは見逃してもらえるであろう」


 曹操は、まるで気の置けない知り合いのことのように語る。


「結局……あやつの目的はこの余を負かしたい一点に尽きるのだからな」


 何だよそれ……まるで負けるみたいじゃねぇか――

 

 「心配するな」だの、「絶対に勝ってみせる」などということは言わない。

 曹丕も、そんな気休めみたいなことは聞きたくなかったが、あまりにも正直すぎるのではないか。

 そう……父は何を考えているのか分からない男だが、曹丕の前で嘘をついたことだけは無いのだ。

 だからこの戦は、父にとっても勝算の見えない、極めて危ういものなのだろう。



「それも嫌だっての……どうせ一生監視されるだけの生活だろ?

 司空の息子になって、こんなでかい屋敷に暮らして……今更平民に戻りたくねぇよ」


 俺は、乱世の奸雄の跡を継ぎたいんだよ――


 この台詞は、無駄に父を喜ばせるだけなので喉の奥で封じ込めた。

 最も、曹丕も地位や名誉よりも、生き延びることが一番大事なのは分かっている。

 これもまた、彼なりの露悪に過ぎない。


「ふふふ……」


 曹操は、そんな息子の心中を全て見透かしたように笑う。

 

「そうか、ならば、子桓のためにも勝たねばならぬのう……」


 ここは嘘でも、天下の大義のためだとか新しい時代のためだとか言えっての……

 そんな、全く持って覇王らしくない父から、またも曹丕は目を背ける。




 風に乗って、梅の香りが漂ってくる。

 卞氏の琴の音色が、夫と息子を優しく包み込むように流れていた。









(兄さんが逝ったか……)


 呂布との戦に勝利した後、劉備とその一族郎党は許都で安穏な日々を送っていた。

 幽州の公孫贊が、袁紹に討ち滅ぼされたという知らせを受け、劉備は青空を見上げる。

 共に机を並べて盧植先生に教えを受けた学友であり、旗揚げ時代には何かと便宜を図ってもらった義兄の死を聞いて……


(趙雲は生きてっかな……

 あいつ、兄さんが死んだら次は俺のところに来るっていう約束、忘れてねーだろうな……)


 真っ先にそんなことを考えていた自分を、改めて人でなしだと認識しつつ、一足先に天に昇った義兄に思いを馳せる。

 空に浮かぶ白い雲をを見るたび、あの真っ白い姿が思い返される。

 いつかは自分の手で、澱みの無い白く清らかな世界を作り上げてみせると瞳を輝かせて騙っていた義兄。


(けど、雲も白いだけじゃねぇ……時には灰色に、ある時は真っ黒になっちまうことだってある。

 兄さん、あんたが生きて行くには、この現実せかいは濁りすぎていたんだよ……)


 混迷を深める時代の流れに抗えず、公孫伯珪は命を落とした。

 ならば、自分はどうなのか。

 自分も、ただ流されているだけではないのか。

 あるいは……劉玄徳は既に河の汚泥に沈み、もう二度と浮き上がれないのではないか……



「お帰りなさいませ、あなた!」


「おう、ただいま」


 自宅に帰還した劉備を出迎えたのは、彼の第一夫人である甘夫人かんふじんだった。

 肩まで伸ばした黒髪に、山吹色の着物を着用した、ややふっくらした美人である。

 大変気立てがよく、自分には過ぎたる嫁だと思うぐらいだ。


「聞きましたわ、曹操様から、左将軍さしょうぐんに任命されたんですって?」

「まぁな……」


 劉備はどこか照れ臭そうな、むず痒いような顔つきて答える。


 呂布との決戦の後……一度は呂布に投降してしまった劉備は、処罰を受けるどころか曹操に多いに気にいられた。

 あの時、劉備は呂布に殺されそうになった曹操を助け、呂布の首を刎ね飛ばした。

 その功績として、許都での安定した生活と、左将軍の地位を与えられたのだ。

 一度曹操を裏切ったことも、下丕城内部から切り崩す策だったことを思えば讃えられるべきことである。

 

 左将軍とは、前後左右の将軍位の一つで、劉備は一気に漢王朝の重臣となった。

 都に大きな屋敷を与えられ、そこに家族を住まわせた。

 徐州の牧だった頃と比べても、その待遇には破格の差がある。

 こんな立派な屋敷に暮らしたのは、生まれて初めてのことだ。



「おめでとうございます! 今夜は昇進のお祝いをしなきゃいけませんわね!」


 五指をあわせて、満面の笑みで喜ぶ甘夫人。


「おいおい、あんまり贅沢はするんじゃねーぞ」

「いいじゃないのさ。もう貧乏な放浪生活も終わったんだからね」


 ついいつもの調子で注意する劉備に向けて、横から口を出したのは、第二夫人の糜夫人びふじんだ。

 茜色の着物を身に纏い、黒髪を頭の上で縛ってまとめていた。

 彼女は畳の上に寝そべって煙管きせるを口に咥えている。

 三白眼にやたらと濃い化粧は、どこか不健康そうな印象を受ける。


「全くあんたみたいなボンクラが左将軍なんてねぇ。

 曹操って奴も存外人を見る目が無いというか……」

「そんな、玄徳様がボンクラだなんて……」

「いーんだよ、本当のことなんだから」


 甘夫人と違って、彼女は劉備に対してもぶっきらぼうに当たる。

 色々と苦労してきたのか、どこか世の中を冷めた目で見ているように思える。


 それでも、劉備としては歯に衣着せずに喋る彼女の方が、相性はいいと感じていた。

 甘夫人はこんな自分に対してよく尽くしてくれるのだが、不平一つ言わないので逆に重荷に感じてしまう。

 適度に文句を言ってくれたりする方が、自分としてはありがたいのだが。


 糜夫人は口から煙管を離し、多量の紫煙を吐き出す。


「わかっているじゃないか。

 まぁ、何かの間違いとはいえ、これ以上無い幸運なのは確かだ。

 位人臣を極めるとはこのことさね。

 これでようやく安穏に暮らせるよ。

 今まで苦労してきたけど、ようやく報われたって所だねぇ」

「そ、そうだな……」


 彼女が何を言いたいのか……一応は夫である劉備は、この時点で気づいていた。



「ここが、あんたの人生の終着点だよ」



 だから……もう、余計なことは考えるな。


 迷わず、出しゃばらず、路を踏み外さず、

 官職を全うし、家族を幸せにすることだけを考えろ――



 糜夫人は、劉備の迷いを早くも見抜いていたのだ。

 果たして、このままでいいのか。

 曹操から与えられた地位に、安住していていいのか。 

 

 曹操が劉備に感謝しているなどは、明らかな虚言。 

 あの男がそんな殊勝な人間であるはずがない。

 それでも、彼は劉備を重く用い、左将軍という破格の地位まで与えた。

 その意図は明白だ。曹操は、自分を飼い殺しにするつもりなのだ。

 大きな地位を与えて、権力の歯車に取り込み、二度と抜け出せないように……


 劉備は、権力が持つ中毒性を甘く見てはいなかった。

 将軍となって組織に取り込まれれば、もうそれ以外は何も出来なくなる。

 地位や名誉がもたらす莫大な富、そして、組織内のしがらみや責任感、ありとあらゆる要素が枷となって動きを縛り付ける。

 それは、逃げようとしても決して逃げられない重圧だ。

 権力を得るということは、同時に権力に支配されてしまうことなのだ。

 このまま左将軍として曹操に仕えれば、劉備は二度と乱世の主役になることは無いだろう。

 天下の覇権を巡る争いから、完全に脱落してしまうのだ。


 だが……そこまで分かっていて、今の劉備には迷いがある。

 この二人の夫人には、今まで散々苦労をかけてきた。

 自分に尽くしてくれた彼女たちに、ようやく安息の時を与えてやれるのだ。

 それは、不器用ながらも彼女らを愛している劉備にとって、中々に効く誘惑だった。


 しかし、問題の根本はそこにはない。

 どれだけ彼女たちが出来た妻だろうが……己の決断で苦しむことになろうが……

 いざとなれば、劉備にとって“愛ごとき”は実に容易く切り捨てられる要素だった。

 


 劉備は決断を下す時、常に私情を捨てて、合理的な判断にのみ委ねることにしている。

 劉備を悩ませているのは、このまま曹操の下に居た方が、己の理想は実現できるのではないか……その一点に尽きる。


 曹操は悪名を広めながらも、漢王朝を蘇らせ、周辺諸侯を併呑し、確実に乱世を平定している。

 昨年の戦とて、曹操が呂布を倒さなければ、呂布の暴威によって乱世の混迷は更に深まっていただろう。

 最近の曹操の戦いは、劉備の目から見ても“正義”と呼べるものだった。

 

 例え曹操が漢王朝を乗っ取り、己が天子になったとしても……それがどうしたというのだ。

 永遠に続く王朝など存在しない。

 彼の統治の下で、平穏な世界が実現できるならば、中華の民にとっては一番の幸せではないか。


 そして、今自分は、信用……とまではいかなくとも、ある程度曹操には気に入られている。

 このまま左将軍として漢王朝に留まり、内部からの変革を目指す方が、彼の理想の一番の近道なのではないか。


 思考が堂々巡りを繰り返す。

 答えは出ているはずなのに、心に溜まったある不安が、劉備に決断を許さない。


 自分の進むべき道は何なのか。劉玄徳は、どう生きるべきなのか。

 

 この迷える心に決着をつけるには……今一度会わなければならない。

 


 あの男に……曹孟徳に――

 

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