第十四章 訣別(一)
渾元暦199年。
昨年、曹操は呂布の治める徐州を攻撃、呂布軍の残存勢力と、徐州を手中に収める。
一方、河北の袁紹は周辺諸侯をことごとく併呑、青州、并州を手に入れ、中華最大の勢力へと成長していた。
もはや北で袁紹に抵抗する勢力は、幽州の公孫贊のみとなっていた。
易京城……
「ふ〜〜む……この芳しい香り……舌を蕩けさせる豊かな味わい……
極上の絹のような、優しく、滑らかな舌触り……
口に含めば雪のようにはらりと溶け、白百合の花園が広がっていく……」
食卓に並べられた白一色の料理を食べ、恍惚する公孫贊。背後には後光がさし、背中から白い翼が生えて、そのまま舞い上がってしまいそうだ。
「見事だ、子龍よ……今宵もまた、我が心を桃源郷へ飛ばす美味であったぞ」
主からの褒められ、趙雲は静かに一礼する。
あらん限りの美辞麗句を費やして、絶賛する公孫贊。
最も、この料理がいつもと比べて格別に美味いわけではない。
趙雲が厨房に立ってから今日この時まで、彼の料理は最上最高の味を保ち続けてきたのだ。
しかも、その中のどれ一つとっても同じ味などなく、至高の美味を保ちながらも、常に新鮮な驚きを提供してくれた。
この日も満ち足りた気持ちで空の食器を見下ろす公孫贊。
だが、その瞳に一抹の寂しさが浮かんでいるのを、趙雲は見逃さなかった。
公孫贊は、万感をこめて呟く。
「そして……最後の晩餐に、相応しい味だった……」
その直後、白い壁の向こう側から、鈍い轟音が響いてくる。
この易京城を守る最後の城壁が今、音を立てて崩れたのだ。
長きに渡って外敵の侵入を阻んできた易京城が、今陥落しようとしている。
現在、易京は袁紹軍の総攻撃に晒されている。
かつては互角の戦いを演じた両軍だったが、この数年間で差は大きく開いてしまった。
それは、もはやいかなる奇策を持ってしても埋めようがない、絶望的な兵力差だった。
なお、数年前は互角だったということですら正確ではない。
公孫贊は、ひたすら城に篭って防戦一方なのに対し、袁紹には、公孫贊を封じ込めながらも他の州を攻め、勢力を拡張する余裕があった。
その余裕が、数年の歳月を経て、決して埋められぬ差を広げたのだ。
それは、誰よりも公孫贊自身が一番よくわかっていた。
どれだけ認めたくなくとも、将としての自分は既に結論を出している。
公孫伯珪という群雄は、今夜、乱世から姿を消す。
「子龍……君には感謝している。私が今日まで生き残れたのは、全て君の働きのお陰だ」
いつになく殊勝なことを言う公孫贊だったが、趙雲には主の心がよく分かっていた。
恐らく、戦場以外で二人が交わす会話は、これが最後になるだろう。
それがわかっていても、趙雲は一人の臣下として、いつも通りに応える。
「勿体なきお言葉……」
普段と少しも変わらぬ趙雲に、公孫贊はどこか寂しそうな笑みを浮かべる。
謹厳にして優秀なこの男は、最後の時まで、主従の関係を一歩たりとも越えるつもりはないのだろう。
趙雲にとっては、これが己の人生における最後の戦いだろうと関係なかった。
いつも通り最高の晩餐を振る舞い、いつも通り己に出来る最高の戦いをするだけである。
彼が望んでいるのは主からの労いや感謝などではない。
自分という武器をどのように使うのかという命令のみだった。
主が共に死ねと言えば進んで玉砕するだろうし、生かせと言われれば、死力を尽くして袁紹軍の包囲網を突き破るつもりでいた。
最もその場合、自分は確実に死ぬだろう。
趙雲は、自分の力量を正確に理解していたし、敵がどれだけ強大なのかも正しく認識していた。
袁紹軍と戦えば、自分は間違いなく死ぬ。
例え命を捨てても、公孫贊を無事に逃がせるかどうか怪しいものだ。
ここ数年の袁紹軍は、勢力の巨大さのみならず、完璧な統率に、全く無駄の無い用兵をしてくる。
公孫贊を取り逃がすような隙を作るとは思えなかった。
しかし、どれだけ勝算がなかろうと、命令である以上、全力でそれを遂行するつもりでいた。
壊れる寸前だからといって、泣いたり悲しんだりする武器は存在しない。
武器はただ、主に使ってもらうためにだけ存在しているのだ。
公孫贊は、そんな趙雲の心情をよく理解していながら、あえて言う。
「今だから言えるのだが……私は、君の生き方に憧れていた。
一度定めた主に、どこまでも曇りなき忠誠を貫き通す……
そんな君は、まるで僅かな染みも無い純白の布のようで、私には輝いて見えた……」
こんな褒め言葉が、この男に何の意味もないことはわかっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます。
ですが、それは伯珪様の輝きを私が反射しているだけのことでございましょう」
「君は、ずっと君のままだな」
あくまで謙遜する趙雲に苦笑する一方で、だからこそ、彼は美しいのだと思う。
「子龍、私は、君を死なせたくない」
率直な気持ちを述べる公孫贊。
この、どこまでも美しく、真っ直ぐな男は、こんなところで死んでいい男ではない。
「趙子龍、この城から逃げろ。
そして、何としてでも生き延びよ。それが、君に下す最後の命令だ」
趙雲は、その一字一句をしかと脳内に刻み付ける。
「かしこまりました、伯珪様」
自分を見捨ててでも逃げろとは意外ではあるが、命令である以上、それがどんなものであれ従うまでだ。
趙雲には、喜びも悲しみも存在しない。
公孫贊も、そんな趙雲を信じているからこそ、そんな命令を出すことができたのだ。
「そして……君が以上の命令を遂行した時点で、私は、君との主従の契約を打ち切る」
契約の解消……それは趙雲にとって、己の生死以上に重要な意味を持つものだった。
命令の遂行、すなわち、城から無事脱出した時点で、公孫贊と趙雲の主従関係は断たれる。
趙雲にとっての主従関係とは、ただ契約によってのみ生じるもの。
その契約が切れれば、どれだけ忠誠を捧げた主だろうと、赤の他人でしかない。
「契約消滅までに果たす命令は、以上ですか?」
公孫贊に問う趙雲。
これは、他に言うべきことは無いか確認すると同時に、次の主に指名する者はいないのか?という意味も含んでいた。
現在の主は、契約が切れた後で別の主を指名する権利も有している。
それもまた、果たすべき主の命令だからである。
通常は、ここで自分の後継者か、信頼できる人物を指名するところだ。
それでも……公孫贊は静かに頭を振った。
「いや、私の死後も、君を縛ろうとは思わない。空を舞う紋白蝶のように、自由に生きてくれ」
「左様でございますか……」
趙雲は、居住まいを正し、僅かな乱れもない姿勢で直立すると、深々と一礼する。
「今まで、お世話になりました……伯珪様」
食器を片付け、部屋を清掃した後、趙雲は部屋を後にする。
発つ鳥後を濁さず。最後まで完璧な仕事ぶりだった。
黒髪の趙雲が去り、部屋は完全に白一色となった。
この住み慣れた心地よい空間を堪能するのも、これが最後……
数年前、この食卓で義弟の劉備らと食事をしたことを思い出す。
(玄徳……)
思えば、あの男と共にいた時が、最も楽しかった気がする。
盧植先生の私塾でともに学んでいた頃から何とも場の空気を盛り上げ、時には落ち着かせる不思議な魅力があった。
今彼は、曹操の下に身を寄せ、豫州の牧の地位についている。
あの落ちこぼれが、自分と並び立つ地位にまで駆け上がってくるとは……
かつて董卓軍との戦いで、地位もなく兵も足りず、自分に縋り付いてきた頃は想像も出来なかった。
いや、彼は曹操の下で安定した地位を得、自分は今にも攻め滅ぼされようとしていることを考えると、明暗はくっきり分かれたといってよい。
しかし、不思議と悔しい、妬ましいと思う気持ちは沸いて来なかった。
これも、劉備という男の人徳なのだろうか。
劉備は去り、趙雲も今自分の下から去った。
自分に残された道はただ一つ……せめて潔く、美しく散ることだけだ。
名残惜しい気持ちを振り切り、公孫贊は真っ白い部屋を後にする。
絶望しかない、紅蓮の戦場へ向かって……