第十三章 伝説の終焉(十)
「おお……将軍……」
たった一人で十万の大群に立ち向かい、敵兵を次々に血の海に沈めていく呂布を見て、高順は感嘆の声をあげる。
これだ。これこそが呂布だ。自分が魅せられた至高の武だ。
遥か遠くから呂布の戦いを眺める彼は、既に虫の息だった。
胸を地に付けて這いつくばり、背中には縦一文字の亀裂が開いている。
蛞蝓のように少しずつ前進するたび、溢れ出る夥しい量の血が大地を濡らす。
完全に致命傷、もう先は長くない。
夏侯惇との戦いの後、高順は無我夢中で下丕城まで戻ってきた。
まだ生き残っていた馬に乗ったまでは覚えているが、その後の記憶は定かではない。
ただ、呂布の下へ行こうという意志のみを支えにして、ここまで辿りついた。
まだ彼が生きていられるのも、獣人将の肉体ゆえだろう。
されど、それだけではここまで命長らえることは出来なかった。
高順の、呂布への……最強への強い執着無くして、この奇跡は成し遂げられなかった。
だが、彼の命も、間もなく掻き消えるところまで擦り減っている。
死への恐怖など、とうに麻痺している。
彼にあるのは、あの眩しすぎる最強という名の光に、どこまでもついて行こうとする意志のみだった。
「将軍……今……お傍に…………」
安らかな、満ち足りた笑顔を浮かべる彼の指先が、僅かに前に進んだ後……
彼の体は、再び動くことはなかった。
その直後……
天空から、黒い弾丸が飛来する。
下丕城から発射され、呂布によって弾かれてここまで飛んできた砲弾は……
高順の頭に直撃し、首から上を跡形も無く吹き飛ばした。
「おやめください、夏侯惇将軍!」
「そのお体で戦うのは無理です!!」
その頃……夏侯惇は、衛生兵に治療を受けながら、下丕城に戻ると喚いていた。
実際、今の自分が戦力外であることは、夏侯惇自身が一番よく解っている。
大鎌は壊れ、肋骨は折れ、その他数えていてはキリがないほどの傷を負っていた。
このまま呂布討伐に加わっても、足手まといになるのは目に見えている。
大体、衛生兵程度の制止を振り払えない時点で、自分がどれだけ弱っているかなど明白だ。
それでも、今頃城で曹操や夏侯淵達が呂布と戦っていると思うと、居てもたってもいられないのだ。
「離せ! 俺ぁ行くぜ!
四天王も俺がいないんじゃ、格好つかねぇだろうが……!」
「なりません!曹操様からも、将軍を決して無理をさせるなと命じられております!」
「孟徳が……?」
なるほど、君命ならば彼らがここまで強行に引き止めるのも頷ける。
自分が戦闘不能になることも、その後駄々をこねるのも、全て読まれていたというのか。
腹立たしいほどの読みの鋭さである。
それとも、自分が単純なだけだろうか。
それが一番納得できる答えというのがまた腹が立つ。
「もし、将軍がこの命令に従わぬようならば……」
「何だ? 何て言ってやがった?」
衛生兵は、どこか言いづらそうだったが、小声で一字一句違わずに伝える。
「めちゃくちゃに●してやるぞ、と……」
「け――――ッ!!」
相変わらずのふざけた態度に意地を張ること自体馬鹿馬鹿しくなってしまった。
岩に体を横たえ、大人しく衛生兵の治療を受ける。
全く……自分はどこまで中途半端なのだろうか。
右眼だけの無様な面構えも中途半端。
力を使い果たして、ここ一番の山場に参戦できないのも中途半端。
そして何より……後一歩まで追い詰めた敵将をむざむざ取り逃がしてしまったことが、一番の中途半端だ。
高順の背中を切り裂いた時も、夏侯惇はまだ勝利を確信してはいなかった。
彼が最期の反撃を行うことも想定して、今度こそ確実にとどめを刺すつもりでいた。
だが、予想に反して高順は即座にこの場から逃げ出した。
夏侯惇も追い掛けようとしたが、彼も既に限界に達していた。
結局、彼が逃げおおせるのを黙って見ていることしか出来なかったのである。
確かに手応えはあった。
呂布の下へ戻るつもりなのかどうか知らないが、あの傷では下丕城まで持たないだろう。
それでも、不快な気分は晴れない。
相手が逃げ出したから、自分の勝ちなのか。
相手に逃げられたから、自分の負けか。
あのまま高順が逃げずに自分に挑んでいたら、果たしてどちらが勝っていただろうか……
はっきり白黒付けられなかったことが、夏侯惇の心にしこりを残している。
元より自分は、何事もはっきりさせねば気が済まない性質だ。
それなのに、己の人生は、何もかもが中途半端なことばかりだ。
そんな自分を情けなく思う一方で、果たして自分は曹操の臣下に相応しいのかという思いに囚われることもある。
「いいじゃない。その中途半端なところが貴方の長所よ」
「何だって?」
「貴方は自分を不完全な人間だと思っている。
だからこそ、貴方は自分の弱点を埋めようと、必死に努力する。
でもね、貴方が弱点と思っている部分は、他の人にとっては何てことないことなの。
不足を埋めるどころか、努力した分だけ貴方はさらに進化する。
けど、それでも貴方は中途半端だと思っている。
だから決して努力を止めようとしない。どこまでも強くなり続ける。
貴方のあり方は、もはや才能と言っていいわ。
曹操も、貴方のそんなところを高く評価しているのでしょうね」
「そんなもんかねぇ……って! てめぇ、何もんだ!!」
つい自然に聴き入ってしまったが、今の声は全く聴いたことのない女の声だ。
急いで声のした方を振り向くと、そこには背中を覆うほど長い黒髪の女が、背を向けて立ち去るのが見えた。
やがて女の姿は、霞にでも溶けたように消失する。
「どうなさいました?夏侯惇将軍……」
周りの兵士達は、怪訝な眼で夏侯惇を見ている。
「お前ら……さっきの声が聴こえなかったのか?」
兵に問い質してみても、彼らは首を傾げるばかりである。
どうやら、声が聞こえたのは自分だけらしい。
いくら疲弊していても、幻覚が見えるほど呆けてはいないはずだが……
(何だったんだ、あいつは……)
この自分が、違和感に全く気付かなかったとは……
あの女の声は、敵意や殺気が全くないどころか、ここにいるという存在感さえどこか希薄だった。
まるで、全てが一時の幻だったかのような……
董卓や呂布とは全く別の意味でこの世のものとは思えない。夏侯惇は、そんな感想を抱いた。
「あの馬鹿がまたちょっかい出してこないか来てみたけど……さて、どうなるかしらね」
“彼でもある彼女”は、口許に羽根の扇を当て、地上を滑るように移動する。
しかし実際のところ……諸葛孔明がここまで来たのは、宿敵を追い掛けるためではなく……
天下に名だたる怪物同士の戦いを見届けたいという、単なる野次馬根性からだった。
呂布対曹操、一対十万の戦いは、更に熾烈を極めていく。
呂布は、まるで疲弊した様子がなく、開戦当初と全く変わらない暴威を見せ付けている。
しかし、彼の体は確実に傷ついていった。
呂布は一呼吸する間に百の敵を屠るが、その隙に必ず誰か武将の攻撃を受けるのだ。
曹操は、最初から十万の軍をただぶつけるだけで呂布を倒せるとは思っていない。
呂布に効果があるのは、一撃で彼の身体を機能を破壊する、“意味のある一撃”だった。
大軍を活かしたあらゆる方向からの攻撃で呂布に隙を作り、意味のある一撃を加えて呂布の身体を削る。
最初に許楮が与えたものと同程度の一撃。
これを繰り返すことが呂布に対抗できる唯一の策だった。
曹操は、呂布を無数の命を内包した一つの軍として捉えている。
本来致命傷となりうる一撃を何度も何度も加えて、初めて斃せる相手なのだ。
そのために、曹操は己の軍を個々の意志を超えて動く一個の生物へと変えた。
十万の兵士は肉と骨、郭嘉ら軍師は脳髄、夏侯淵らは鋭き爪牙。
そして自分は全ての動きを統括する魂魄だ。
呂布に仕掛けるたび、こちらにも少なからず犠牲が生まれる。
しかし、夏侯淵、許楮ら精鋭は、確実に呂布の体を削り取る。
この戦は、二頭の獣、二つの軍による、互いの存在の削りあいなのだ。
しかし、呂布とてただ暴れるだけの猪武者ではない。
戦の快楽に溺れる一方で、曹操の狙いが消耗戦であることも正確に認識していた。
呂布は勝ちに執着していないが、どうせ戦うなら、こちらも持てる限りの手を尽くした方が楽しめる。
「こんなのはどうだ!? イッヒャハァッ!!」
方天画戟を地面に向けて一周する。
その衝撃と風圧で、土煙が巻き起こり、地面に転がっていたものまで弾き飛ばされる。
それは、呂布に屠られた曹操軍兵士の死体だった。
人間の体は、鉄塊に等しい重量を持ち、その身を覆う甲冑は硬い凶器と化す。
呂布の怪力で跳ね飛ばされた死体は、砲弾以上の破壊力を持って曹操軍に襲い掛かる。
あちこち肉が潰れる音が鳴る。天から降ってくる死者の弾丸が、生前の同胞達を押し潰す。 呂布の人間砲弾によって、安全圏にいたはずの部隊にも被害が広がり初めていた。
「盾を構えよ、死体を焼け!」
しかし、この仰天すべき事態に際しても、曹操は全く動じず、冷静に指示を下す。
曹操軍は上空に向けて盾を構え、飛来する人間砲弾を防御する。
この盾は、かつて典韋に備わっていたものと同じく李典が作り上げたもので、比類なき堅牢さを誇っていた。
その分、一般兵の力では三人がかりでなければ支えきれない代物だが、曹操軍にとって数の問題は用意に解決できる。
後衛が一斉に盾を掲げ、降り注ぐ人間砲弾を凌ぎきる。
続けて、槍のように細い大筒が引き出される。
その砲口から、凄まじい勢いで火炎が吹き出され、呂布の足元の死体を焼き尽くす。
これも李典の発明品で、かつて遠州で鋸蝗を退治したときに使用した火炎放射器に、更なる改良を加えたものだ。
典韋の推進装置を参考にしたこの兵器は、鉄をも溶かす威力と熱量を備えていた。
呂布のこの行動も、曹操の計算の内だった。
呂布が遠距離攻撃に死体を利用することぐらい、最初から見抜いている。
今や、曹操は呂布に何の先入観も抱いていない。
何が起ころうと、目の前の事象を冷静に見極め、最善の方法で対処するまでだ。
これは、改めて意識するまでもない、曹操にとって当然の思考である。
あらゆるものに偏見を抱かない彼の生き方は、戦においても活かされているのだ。
曹操は目配せで各将に指示を下す。夏侯淵らは散開して、火炎放射を避ける。
この戦法も、事前に示し合わせていたこと。
火炎の軌道を避け、巻き添えを免れる。
炎に飲まれる呂布を、隙をついて全員で攻撃する。
曹仁の斧が脇腹を掠め、右肩目掛けて関羽の青龍偃月刀が振り下ろされる。
一流の劇団の演舞のように、完璧かつ鮮やかな動きだった。
夏侯淵ら攻撃に参加する武将の中には、呂布の攻撃で武器を破壊される者もいるだろう。
だが、その場合も後続の部隊が即座に新たな武器を供給するようになっている。
綺麗にかみ合った歯車の如く、曹操軍はそれぞれがそれぞれを支援する態勢が整っていた。
そして、そんな至高の軍勢の要となるのが、総大将である曹操だ。
彼は攻撃に参加している武将たちの体力や身体機能のみならず、その精神状態をも細かく把握していた。
猪突猛進な曹仁、沈着冷静な夏侯淵、
命令に忠実なようで、実は最も激情家である楽進……
彼らの個性によって発生する微妙なずれも織り込んだ上で、全体の指示を下している。
また、曹操の広い視野は、戦場における僅かな変化も見逃さない。
細かな状況の変化に応じて、瞬時に、かつ自在に戦略を変化させる。
そして、その分析は標的である呂布へも及んでいる。
本能の赴くままに暴れながらも、勝つためには智略を弄すこともできる男。
呂布に深い理解を示した曹操は、彼の心理状態も細かく把握していた。
また、呂布が戦っている最中に、急激に成長する生き物である事もわかっている。
そんな成長速度すらも、曹操の思考の内にある。
あらゆる想定外をも想定の中に取り入れ、自由自在に軍略を操る。
今や曹操は、呂布を含む戦場の全てを完全に掌握していた。
そんな中、曹操が感嘆したのは、関羽の動きである。
彼は特殊な調練を積んできた曹操軍の者達と違い、つい先程戦線に加わった身であるにも関わらず、
周りの軍と完璧に呼吸を合わせ、見事に軍団に溶け込んでいる。
足並みを乱さぬどころか、他の兵卒を引っ張ってすらいる。
単に周りの動きを真似しているだけで、できる芸当ではない。
関羽自身が、常に最善の動きを考え、それが曹操の思考と、軍全体の動きと同調しているのだろう。
だから、ずれや遅れが出ることがない。
何と言う男だ。
一人で戦う者を武人、集団の中で戦う者を将とするならば、関羽の将としての器量は、まさしく至高の域に達している。
他者との協調、自立の精神、広く物を見る戦術眼、そして卓越した武勇……関雲長には、将にとって必要な要素が、全て備わっている。
劉備は、こんな宝を手元で腐らせていたのか。
今の曹操の脳内にあるのは、如何にして呂布を斃すかという計算のみだ。
だが、心の奥底では……すでにある決意を固めていた。
「ヒャハハハハ……ヒャハハハハハ!!!」
時間の感覚などとうに消えうせている。
ただ湧き上がる衝動に任せて、戟を振るい、敵を屠る。
いつ果てるとも知れぬ戦いに身を委ね、脳髄が蕩けそうな快楽を味わいながらも、呂布ははっきりと自覚していた……
己の死を。自らの終焉が近いことを。
自分が如何な手で反撃を図ろうとも、曹操はそれら全てを読み切って対策を打ってくるだろう。
だが、そう判断したところで呂布に逃げると言う選択肢はない。
溢れる本能が、理性を押し流しているのではない。
最初から、理性と本能が渾然一体となっているのが呂布という男だ。
桁外れの武力も冷静な判断力も、いずれもただ快楽を追い求める為の道具に過ぎない。
そして、自分自身の存在さえも……
夏侯淵の矢が、今度は呂布の左眼を貫く。
脳髄までは達していないが、左眼の視力は失われた。
聴覚も嗅覚も規格外である呂布にとっては、戦闘するのに全く支障はないが、
この僅かの隙も無い全方位からの一斉攻撃に晒されては、知覚器官の損失は大きな痛手となり得る。
敵の血と自分の血で、呂布の身体は全身が赤く染まっている。
勢いは止まらないが、その動きは少しずつ精彩を欠き始めている。
全身に与えた傷が、確実に影響を及ぼしているのだ。
複数で一人を攻撃することは、一般的には卑怯と称される。
だが……それならば、たった一人で複数を打ち倒すほどの才能の持ち主は、存在そのものが卑怯ではないのか。
曹操は、そんな世俗の価値観に一切囚われることがない。
勝つために必要かつ最適な手段を、躊躇い無く選択する。
もしこの戦いが卑怯ならば、かつて無い程の“究極の卑怯”を目指すまでだ。
そんな曹操の瞳に映るのは……
「アヒャハハハハハハハ――――――ッ!!!」
唸りを上げて飛んでくる、方天画戟の切っ先だった。
呂布の身体が大きく動く。
方天画戟を振りかぶり、曹操目掛けて投擲する。
呂布の剛力を乗せた戟は、壁となるものすべてを撃ち貫いて突き進む。
武器を失う危険を承知での、最後の賭け。
されど、もしこれで曹操を仕留められれば、統率を失った曹操軍は瓦解し、呂布に一方的に蹂躙されるだろう。
そこまで考えた上での決断だった。
そして、この最後の賭けすらも、呂布にとっては遊興の一環でしかない。
常に冷静さを失わない曹操軍の精鋭も、この時だけは蒼褪めた。
直ちに迎撃に向かった于禁、曹洪も戟の速度には追いつけず、李典の作り上げた防御壁も瞬時に突き破られる。
彼ら全員が、曹操の死を幻視した時……
「もーとく様は、殺させねぇぇぇぇぇぇっ!!!」
横から飛び出してきた許楮が、方天画戟に拳を放つ。
同時に、許楮の身体から、赤い闘気が噴出される。
それを見ていて于禁は瞠目した。
その光は、地下室の戦いで張飛が見せたものと酷似していたからだ。
許楮の暗く血塗られた、忌まわしき過去。
その闇底から自分を救ってくれたのが、他ならぬ曹孟徳だ。
だから、何が何でも彼を守らなければならない。
彼が創ってくれた、自分の未来のためにも。
赤い流星と化して、突っ込む許楮。
全力全開の拳が、方天画戟の柄に直撃する。
呂布の攻撃を受けた時と同じ……いや、それ以上の衝撃が許楮の身体に襲い掛かる。
肉と骨を苛む苦痛に耐えながらも、許楮は一歩も引かず、更に力を加える。
「んあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――ッ!!!」
呂布の扱う方天画戟は、古の時代にのみ存在した希少な鉱石で造られていた。
呂布自身も知らないが、これは天空より飛来した巨大な石を、古代の刀鍛冶が長い時間を掛けて錬成したものだ。
その硬度は、許楮の力を持ってしても砕くことはできない。
それだけ硬い武器だからこそ、あの呂布に使われても尚壊れることが無かったのだろう。
だが……
際限なく高まっていく呂布の力は、赤兎馬と同様、この方天画戟すらも振り落としていた。
度重なる酷使の末に、本来ならあるべきはずのない金属疲労も限界に達していた。
そんな中で、董卓に匹敵する許楮の力を受けた方天画戟は……
柄の部分に亀裂が走り、刃と繋がる部分でへし折れた。
折られた柄はそのまま失速し、地上へ落下して突き刺さる。
だが、刃の部分は止まることなく、曹操目掛けて飛んで行く。
一瞬安堵した許楮の顔が、再び絶望へと染まる――
曹操は微動だにしなかった。
彼の顔のすぐ隣を、刃が掠めて行く。
頬が歪み、髪が激しく揺れる。
音速を超えた速さに、轟音が後から聞こえてくる。
戟の切っ先は、そのまま下丕城へと突き刺さり、深くめり込んだ。
「………………」
曹操の頬が切れ、血が流れる。
直接触れたのではなく、生じた真空波によるものだろう。
彼は掌で血を拭き取り、何事も無かったかのように平然と佇んでいる。
その姿は、曹操軍の者達が神々しささえ覚えるほどだった。
この流れも、彼の予測の内だった。
許楮が方天画戟を破壊することも。
衝撃で軌道が変わり、自分には直撃しないことも……
下手に動こうとしなかったから、この程度の傷で済んだのだ。
彼は、これで自分が死なないことなど分かり切っていた。
それでもなお、死を間近にして全く冷静さを崩さないのは、
胆力云々を超えて恐怖と言う感情が欠落しているようにすら思える。
曹操はやや眼を細め、武器を失った呂布を見据える。
呂布の表情は、全く変わらない。
希望も絶望も、彼には最初から存在しないのだ。
「終わりだ、呂布」
曹操も、敵の息の根を止める最後の最後まで油断は出来ないことは理解している。
だが、それでも、周囲の士気を昂揚させる為に、あえて言う。
「潔く散れ、などは言わぬ。
最後まで足掻き、無様に醜く屍を晒せ」
これで、呂布は得物である方天画戟すらも失ってしまった。
画竜点睛。これで呂布は完全なる孤独となり、ただ一人で戦場に立っている。
于禁の鎧黒爪と曹洪の鉄鞭が呂布の両脚を捉え、
曹仁の巨斧と楽進の拳を両手で止めれば、今度は関羽の青龍刀が背中を切り裂き、顔面に夏侯淵の矢が掃射される。
呂布は素手でも十分に驚異的であったが、やはり戦力の衰えは明白で、坂道を転げ落ちるように傷を深くして行く。
そんな中でも、呂布は全く変わらない。
闘争の快楽に耽溺し、極上の愉悦を堪能する。
有利も不利も、勝利も敗北も、生も死も関係ない。
戦の只中にあってのみ生まれる快楽こそが、呂奉先の全てなのだから。
子宮の中で胎児だった時から、呂布は闘争の申し子だった。
自分の周りの全てが敵。敵は倒さねばならない。
この世に生命を宿した時から、小さな体に刻み付けられていた本能だった。
そして、呂布は戦った。
最も自分に身近な存在と。自分を取り巻く世界そのものと。
そうする以外の選択肢など、最初から存在しなかった。
闘争の果てに……
母親の腹を突き破って、呂奉先は外の世界に飛び出した。
それは、呂布にとって初めての勝利であり、同時に闘争による快楽を実感した瞬間であった。
誕生の歓喜。
超新星の爆発にも等しい、あまりにも巨大な快楽。
生まれ落ちた瞬間、呂布は限り無く満たされ、同時にその全てを忘れ去ってしまう。
それによって、彼には猛烈な飢餓感だけが残り、ただひたすらに快楽を追い求める生物と化した。
その喜びは、世界が彼に与えた呪縛であり……同時に祝福でもあった。
彼はずっと、ずっと追いかけていたのだ。
己がこの世に生を受けた時、初めて味わった喜びを。
歯を折られる。頬を破られる。骨を砕かれる。肌を焼かれる。
喉を裂かれる。眼を貫かれる。胸を突かれる。腹を抉られる。
肩を断たれる。背中を斬られる。脳天を割られる。内臓を壊される。
受けた傷の数倍の敵を殺しながらも、その身は確実に破滅へとひた走る。
もはや意識も理性も本能も消し飛んでいる。
それでも戦いを止めないのは、呂布という存在であるが故だ。
どれだけその身が壊れようとも、呂布を動かす快楽という糸は、彼に止まることを許さない。
一切の容赦の無い集中攻撃に、全身のありとあらゆる部分を破壊されながら……
彼の内なる快楽は、極限を越えて遥かに、宇宙ですら内包しきれぬほどに膨れ上がる。
その大きさは、徐々に“あの時”に近づいて行く。
彼は、還って行く。
誕生の瞬間へと。
ずっと追い求めてきた、原初にして終焉の歓喜へと。
そして彼は……
再び、生誕する。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハ――――――――――ッ!!!!!」