第十三章 伝説の終焉(八)
「はぁ……はぁ……――」
ろくに灯も無い暗い通路を、陳宮はひた走る。
この隠し通路は、元々下丕城にあったものを陳宮が大幅に改修した。
中には迷路のような分岐が幾つもあり、陳宮と彼の側近以外に、正確な道順を知る者はいない。
逃げる陳宮は、湧き上がる怒りに腸が煮えくり返る思いだった。
彼も武将である以上、走った程度で疲れることは無いが……
自分がこうして走って逃げなければならないということ事態、あってはならないことだった。
「くそっ! 何で天才の僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!
許さない…… あいつら、絶対に許さないぞ!!」
眼鏡の奥の瞳を血走らせ、呪詛のような言葉を吐く。
曹操軍への憎しみは、もはや彼の内では抑え切れないほどに膨れ上がっている。
「もう容赦しないぞ! 態勢を立て直したら、あの喰人鬼薬を、許都にばら撒いてやる!
この僕を怒らせたことを、泣き喚くまで後悔させてやるぞ!!」
歪んだ器に満ちた憎しみは、解放される時を今か今かと待ち続けている。
やがて、暗闇の先に、一筋の光が見えてきた。出口は近い。
出口は城からやや離れた場所に繋がっている。
もし、劉備らが魏続と宋憲を倒して、運よく正しい道順を辿れたとしても……
ここまで距離を離した以上、絶対に追いつかれるはずが無い。
(僕は生きる……! 僕は死んじゃいけない存在なんだ!!
僕にはやるべきことがある!
僕は人類を新たな段階へ導くために生きているんだ!!
それが、何の価値も無いボウフラのような連中に殺されてたまるか!!
僕は、僕は、僕は――――!!)
認められない。
幼少期から、誰も自分を認めようとはしなかった。
自分のような天才が、愚民どもによってその名を埋没させられるなど、あってはならない。
優れた者が生き残るのは自然の摂理だ。
自分は、その摂理に逆らう愚かな人間どもを駆逐し、歴史に残る偉業を成し遂げる。
必ず――――!
走るたびに、希望の陽光が近づいてくる。
ずっと落ち着かない時間が続いていたが、ようやく安堵を手にすることができる。
溢れ出る歓喜を胸に、出口を潜り抜けた時……
「よぉ……待ってたぜ……」
陳宮の未来は、瞬時に暗雲に閉ざされた。
劉玄徳は、待っていたとは思えないほど荒い息を吐いて、出口の外に立ちはだかっていた。
「な〜んてな。実は今さっきついたところだ。ギリギリで間に合ったぜ」
「お、お、お……お前は……!」
陳宮が懐から銃を抜こうとした瞬間、劉備の手が銃を吹いた。
宙に舞い上がり、地面へと転がる拳銃。
劉備の手には、硝煙をあげる銃が握られていた。
実験室に置いてあった、予備の銃だ。
「ぐ……」
「無駄な抵抗は止めな。次は当てるぞ」
劉備の銃は、陳宮の額に狙いを定めている。
彼が引き金を引けば、陳宮の人生は確実にここで終わる。
「ば、馬鹿な……一体、どうやって僕より先に……」
決してありえない事態に、陳宮は恐怖するより先に動転していた。
劉備は、無言で左方向に視線を送る。
「……!」
そこには、ぐったりと倒れた張飛と……彼を背中に乗せた、白い馬が立っていた。
見間違うはずが無い、白い体毛に、額に光る宝玉を宿したあの馬は……
「全くお前は最高だぜ、的廬よぉ」
あの時……
呂布軍に投降する前、劉備は的廬だけを空間転移で逃がした。
このまま呂布軍の下に連れて行っても、拘束されるか、あるいは殺されるのが落ちだ。
ならば、あの場で逃がした方がまだ望みがある。
これは賭けだった。一頭になった的廬が、
囚われの身となった自分を助けに現れるのではないかという、望みの薄い賭け……
だが、その賭けは成功した。
的廬は呂布軍に見つからぬよう、下丕城まで主を追いかけ……
空間転移を駆使して、つい先ほど、劉備の下までたどり着いたのだ。
劉備と的廬は、見えない“気”の糸で繋がっていると、かつて盧植先生が言っていた。
劉備が術を使うたびに、その糸は彼らを一層強く結びつけた。
的廬が主人の下までたどり着けたのも、その“気”の繋がりがあったからだろう。
また、的廬の主人への篤い忠誠心も忘れてはならない。
的廬は、関羽や張飛と同じく、決して劉備を見捨てない仲間なのだ。
的廬さえ戻ってくれば、もはや通路が閉ざされていようが関係ない。
空間転移で壁をすり抜け、陳宮よりも遥かに早く城を脱出し……
通路の出口に待ち伏せすることに成功したというわけだ。
真相を明かされた陳宮は、愕然としている。
劉備は、頼れる愛馬に微笑みかけると、陳宮へと向けた銃の引き金に指を掛ける。
「お、お前……僕を殺すつもりなのか……?」
怯えながらも、一抹の希望を込めて陳宮は問う。
劉備は、怒るでも憐れむでもなく、淡々と答える。
「それが戦場の理だ。
知りませんでしたじゃ済まされねぇことぐらい、分かってんだろ?」
さしもの陳宮とて、淡白な言葉に秘められた劉備の本気は理解できる。
自分は、ここで死ぬ。殺される。
あの男の手に掛かって――
顔を俯かせ、拳を握り締めて震える陳宮。
積もりに積もった感情が、堰を切ったように爆発した。
「ふ……ふざけるなぁ――――ッ!!!」
目を見開き、小さな体からあらん限りの怒りを放って、陳宮は叫ぶ。
「お前達に、この僕を殺す権利があると思っているのか!!
本当の意味で人類の未来を考えているのは、この僕だけだというのに!!
この僕は、お前達みたいな非生産的な戦争を延々と続けている愚かな武将どもとは違うんだよ!!
お前達が今やっている戦争に、一体何の意味がある!!
曹操だ? 袁紹だ? 漢王朝だ? 黄巾党だ!?
ああ、くだらない!全く持ってくだらない!!
そんなもの、誰が支配者になろうが同じことだ!
単に政治の構造が変わるだけだ!! 人間そのものは全く何も変わらない!!
相も変わらず無知で愚かで不完全なままだ!!
だからこそ、自分の進むべき道も分からず、己の身勝手な欲望にばかり突き動かされ、互いに殺し合う!!
偉そうなお題目ばかり掲げておきながら、お前らのやっていることなんか、所詮、ただの領地の奪い合いじゃないか!!
領土が狭いだの広いだの、誰が皇帝だの……
そんな低次元の争いを繰り広げて、周りの奴らもそれがさも素晴らしいことであるかのように祭り上げる!!
誰も、人類という生命体の醜さや不完全さに目を向けようとしない!!
世間で偉人だの英傑だの言われている連中が一体何をした?
何もしていない! 何も変えてなんかいない!!
人類の変革も出来ないくせに、何が大徳だ! 何が覇王だ! 何が天子だ! 笑わせてくれる!!
人は、この僕を非道だの残虐だの好き勝手に言うけれど……じゃあ、お前らは何なんだ……?
戦争を起こして大勢の人間を死に追いやっているお前らは、殺人者じゃないと抜かすのか!?
僕は違うぞ!! 僕は常に、人類の進化のことだけを考えている!!
そのための実験によって生まれた死は、進化という過程において、必ず発生するものなんだ!!
いわば、摂理としての死だ!
その時に初めて、生命に価値が生まれる!
人類の進化に貢献できたという、絶対普遍の価値がね!!
僕は、彼らに人類進化の礎になるというこれ以上無い栄誉を与えてやっているんだよ!!
祝福されるべきことじゃないか!!
でもお前らは、自分の欲望と中身の無い大義とやらの為に、大勢の人間を死に至らしめている!!
それこそが本当の悪だ! 蔑まれるべきことだ!!
大義のために必要な犠牲だ!? ふざけるな!!
全て無駄死にだ!! 何の成果も無い、非生産的な死だ!!
どれだけ戦争で人が死んだところで、人間の中身はこれっぽっちも変わらない!!
お前らみたいな存在こそが、人類の進化を妨げる最大の癌なんだよ!!
いいか! 断言してやるよ!!
このままじゃあ、お前らの誰が天下を治めたところで、人類は二千年先も全く進歩しないだろう!!
どれだけ時代が流れたところで、人類は決して愚かさを克服できない!
争い、奪い、傷つけあい! 狭い価値観に囚われて、全体を見ようとせず、滅びの道を突き進む!
いや、滅びるならばいっそ潔い!
もっと恐れるべきは、不完全な生命体のまま延々と生き続けることだ!
腐敗したまま、欠陥を抱えたまま生き長らえるなど、生命体として最も恥ずべきことだよ!!
そうなった人類はいずれ、この世界をも汚染する!!
それを防ぐには、人類が全く別の、より高位の生命体に進化しなければならない!!
それが出来るのはこの僕だけだ!!
僕が人類を進化させなければ、本当の意味で人類に未来は無くなる!!
僕は死んではならない存在なんだよ!!
お前は、この僕ほど、人類の未来を真剣に考えたことがあるのか!?
それを為せるだけの才能があると言えるのか!?
無い! あるわけが無い!!
もしあったら、この僕を殺そうとするなんて愚行に走るわけが無いからな!!
僕は生きる……何が何でも生きてやる!!
生きて、生きて、生きて!! 人類を新しい段階へと導くんだ!!
人類を救えるのは、この僕だけなんだよ!!
何故それが分からないんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「………………」
一息もつかずに、一気にまくし立て、絶叫する陳宮。
劉備は微動だにせず、彼の言葉に耳を傾けていた。
これを、全て狂人のたわ言だと切って捨てられれば楽なのだが……そうもいかなかった。
彼が人類を進化させられるかどうかはともかく……
劉備達もまた大量虐殺者である……
誰が天下を統一しても、人類の未来は何も変わらない……
この二点は、決して否定できない。劉備も、常々同じことを考えていたからだ。
しかし、ここまで情熱的に人類の進化に拘る陳宮という男は、一体何なのだろうか。
人類を救おうとする使命感か。己の才能に溺れるが故の傲慢か。
あるいは、その双方が交じり合っているのか。
劉備には到底理解できない……
分かっているのは、彼が誰よりも人類に執着していることだけだ。
あれだけ今の人類をこき下ろしながらも、一方では彼らを救うために全てを尽くそうとしている。
それが愛なのか、妄執なのかは分からない。
多分、どちらであろうと、同じことなのだろう。
彼の頭にあるのは、結果だけなのだから。
「は……」
劉備は短く笑うと、手にした銃を下げる。
「そうだな……確かに、俺にお前を殺す権利なんてねーよ」
そう言って、陳宮に背を向ける劉備。
陳宮は、助かった安堵というよりは、劉備の意外な行動に呆気に取られている。
分からない。何が正しいのか、何が間違っているのか。
今の人類は不完全なのか、そうではないのか。
人は、本当に人を救うことができるのか。
その答えを出せない自分に、あの男を手に掛ける資格はない。
「だけどな……」
何か言おうと唇を動かした陳宮の身体を、大きな影が覆った。
「“そいつら”がお前を殺そうとするのを止める義理も、別に俺には無いんでな……」
「何……?」
恐る恐る、後ろを振り向くと……
「陳宮……」
陳宮が通ってきた通路の奥から、二人の大男が姿を現した。
その顔を見た陳宮は、声を震わせてその名を呟く。
「ぎ、魏続……宋憲……」
そこにいたのは、確かに魏続と宋憲だった。
膨張した筋肉は萎み、体中の生々しい傷跡が残ってはいるが……生きている。
「な、何でお前らがここに…… そ、そうか! 僕を助けに来たんだな!
よし! 今すぐ劉備どもを殺せ!!」
混乱しながらも、これを希望だと捉え、二人の従僕に命令を下す陳宮。
だが、二人は微動だにしない。虚ろだった瞳には、意志の光が宿っていた。
その反応に、陳宮も様子がおかしいことを察知する。
「ど、どうした!? 何をしている! 僕の命令が聞こえないのか!」
必死に呼びかける陳宮を、魏続と宋憲は、憎しみを込めた目で睨みつける。
その生々しい威圧に、陳宮は射竦められる。
「ひっ……」
「我々は……貴様の操り人形ではない!」
「もう、貴様の命令は聞かん!!」
魏続と宋憲は憤怒に顔を歪め、命令をはっきりと拒絶した。
張飛に敗れ去った魏続と宋憲だが……彼らはまだ生きていた。
劉備の前に的廬が現れたすぐ後に、彼らは目を覚ました。
この時は劉備も肝を冷やしたが、どこか様子がおかしい。
どうやら、陳宮の命令を離れ、自分達の意思で動いているようだ。
意志の疎通を試みてみると、やはり彼らは意志を取り戻していた。
彼らは董卓が長安にいた頃、陳宮によって改造を受けたらしい。
そこから今日までの記憶は、一切無くなっているという話だった。
あの頃からずっと、彼らは陳宮によって操られていたのだ。
陳宮の洗脳が解けた原因は定かではない。
陳宮が使った幻獣細胞の副作用か。
張飛の攻撃によって脳が衝撃を受けたからか。
それとも、張飛の放つ“道”の力が、脳に何らかの作用を及ぼしたのか。
いずれにせよ、原因が分からぬ以上は、こう呼ぶしかないだろう。
“奇跡”、と――
彼らは最初混乱していたが、次第にこれまでの経緯を思い出していった。
意志を失っていたとはいえ……これまでの情報は知識として脳に残っていた。
自分達が捨て駒にされ、余命が残り数時間になったという辛い現実も……
そんな彼らは、陳宮への怒りに燃え上がった。
陳宮を追いかけようとする劉備にも、積極的に協力してくれた。
何故、劉備は陳宮を待ち伏せすることが出来たのか。
それは、魏続らが隠し通路の出口の位置を劉備に教えたためだ。
そして、彼ら二人は隠し通路の道順も知っていた。
劉備は的廬で先回りして、魏続と宋憲は通路を通り、陳宮を挟み撃ちにしたのだ。
「ふざけるなよ……お前ら、この僕に逆ら……」
魏続は、劉備のように彼の言葉に耳を傾けはしなかった。
太い腕を振るい、陳宮の頬を張り飛ばす。
「がはっ!!」
彼の小さな体は、容易く吹き飛び、近くの岩塊に激突する。
後頭部が裂け、顔を血で濡らす。
「血……? あ、赤い、血……!?」
手についた赤い液体は、紛れも無く彼自身の血だ。
陳宮にとっては見慣れた物質だ。
実験体の身体を切り刻み、脳髄や内臓を弄り回し、手袋を真っ赤な血で濡らすのはほとんど日常の光景だ。
ただし……彼がいつも実験室で見ているものとは、決定的に違う。
「ぼ、僕が! この僕が! 血を流すだって……?
い、痛い! 痛いッ! 痛いよぉぉぉぉぉぉっ!!!」
初めて親に叩かれた幼児のように、泣き喚く陳宮。
これが、生まれて初めて、彼が“痛み”を感じた瞬間だった。
彼はずっと、傷みを知らずに生きてきた。
傷つくことも無く、苦しむことも無く、
ただ、世界への憎しみだけを抱いて生きてきた。
だから……彼は他人の痛みについて思いを馳せることなどできない。
だから……他人の生命を、実験体と称して平然と弄べる。
だから……陳宮には理解できない。
魏続と宋憲が、自分に対しどれだけの憎しみを抱いているのかを。
「許さない……お前だけは許さない……」
「俺達の命を弄んだ、お前だけは――!!」
瞳を憎悪で滾らせて、陳宮に近づく魏続と宋憲。
その様に、陳宮はやはり生まれて初めて、心からの恐怖を覚えた。
「ひっ……! く、来るな! 僕に……僕に近寄るなぁ!!」
子供のように手を振って虚しい抵抗を試みるが、二人は一片の憐憫も湧きはしない。
この男のやって来たことは、どんな理由があれ決して許せることではない。
もはや理由云々ではなく……魏続と宋憲は、陳宮へと純粋な殺意に憑かれていた。
「い、いやだぁ! 死にたくない! 死にたくないよぉ!!」
涙を流して泣き喚く陳宮。
彼ら二人には、そんな懇願など届かない。
「ぼ、僕はまだ生きたい! 生きていたいんだよぉ!!」
魏続の大きな掌が、陳宮の首へと伸びる。
「やめろ……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
堅い指先が、彼の細い首へとめり込む。
「がはっ……!?」
万力のような力で首を圧迫され、口も利けなくなる陳宮。
気管を塞がれ、呼吸の出来なくなった陳宮の顔が、瞬く間に蒼褪めていく。
魏続と宋憲は涙を流していた。
運命を弄ばれた怒りと憎しみ、そして悲しみを込めて、陳宮の首を絞め上げる。
水中に適応した人類を作り出すため、実験体を水中に沈めて、何人かを溺死させたことが、一瞬だけ脳裏をよぎり、そして消えた。
白い泡を吹きながら、顔を青くして痙攣する陳宮。
助けて――
苦しいよ――
痛いよぉ――
死にたくない――
死にたくない――!
助けて……助けて――!
今の彼は、歪んだ誇りも研究への情熱も、全て奪い取られていた。
彼にあるのはいつ終わるとも知れぬ苦悶と、確実に迫り来る死への恐怖だけだった。
誰か……僕を助けて――――――
声無き叫びは、誰の耳にも届かない。
陳宮の苦しみが最高潮に達した時……鈍い音を立てて、首の骨が折れた。
真っ赤な血の泡を盛大に吐き出して、陳公台は絶命した。
苦しみながら死んだ陳宮の亡骸が、地面に落ちる。
魏続と宋憲に、恨みを晴らした喜びはどこにも無い。
今となっては、失ったものがあまりにも多過ぎた。
「………………」
陳宮の死を、劉備はずっと無言で見届けていた。
因果応報……といった感慨を抱くことも無い。
死ぬべき人間が一人死んだ。それだけのことだ。
陳宮を始末した時点で、ひとまずの目的は達せられた。
とどめを魏続と宋憲に任せたのは、彼らへの同情があったからではない。
単に、陳宮が何か奥の手を隠しているのを警戒したからだ。
劉備が自分の手を汚すのを避けるのは、別に人殺しが嫌いだからではない。
万が一にも、相討ち覚悟の抵抗にあって、殺されるのを恐れるからだ。
他人に任せられるなら、それに越したことはない。
劉備は、自分の命を脅かすどんな些細な要因も見逃さずにいた。
そんな劉備が、的廬を使ってまで陳宮を追跡したのは、何が何でも彼をここで始末したかったからだ。
もちろん、この危険な男が、放っておくと何をするか分からないというのもある。
だが劉備がそれ以上に危惧したのは、陳宮が曹操軍に捕らえられることだった。
何故、于禁は張飛と共に地下室に現れたのか?
劉備を助けるため……などという見せかけだけの理由など信じない。
彼の真の目的は、陳宮の身柄を抑えることだったのだろう。
陳宮の生体改造技術は、倫理の是非はともかく、自軍を強化することにおいては非常に役に立つ。
それは、呂布軍の強さが何よりも雄弁に物語っている。
もし、彼の頭脳が曹操軍で利用されていたら……
獣人将や魔獣馬が大量生産され、曹操軍はさらに手のつけられない勢力と化すだろう。
劉備は、基本的に曹操を信じてはいない。
あの男に、真っ当な倫理観などあろうはずもない。
どれだけ悪逆な人間だろうと、才能があるならば用いる。
その文言に偽りが無ければ、あの陳宮でさえも自軍に引き込もうとするだろう。
それは絶対に阻止しなければならないことだった。
中華の平穏のためにも……劉備自身のためにも。
あくまで自分の都合のみを念頭において考える劉備。
先ほどの陳宮の叫びが頭に蘇る。
果たして、こんな人間に人類の未来を考える資格などあるのだろうか。
そんな風に自問したところで、歩みを止める気など全く無い。
資格があろうが無かろうが関係ない。
自分もまた、呂布や陳宮と同じ……生き方を変えることなど出来ないのだ。
「劉備殿……」
そんなことを考えている内に、魏続と宋憲が近寄ってきた。
「まずは礼を言う……貴方の助力で、陳宮に止めを刺すことができた……」
やはり彼らは、自分が同情ゆえに陳宮への止めを譲ってやったと思っているようだ。
しかし、そんな気持ちが全くないと言えば……それも嘘になるだろう。
「それほどのもんじゃねぇよ……
俺があんたらにしてやれるのは、これぐらいだからな……」
残りの命が後、数時間……
そんな彼らに対し、何を言っていいやら分からない。
「それと、そちらの張飛殿にも……」
張飛は、やはり的廬の上で眠り続けている。
一向に目を覚まさないが、何とか危険な状態は脱したようだ。
「我らが礼を言っていたと伝えてくれ。
最後に、人間としての自分を思い出させてくれたこと……感謝していると……」
「ああ……分かったぜ」
快く了承する劉備。
彼らも元は、気骨のある武人だったのだろう。
どこか静謐な雰囲気は、死を覚悟した諦念だけから来るものではあるまい。
再び礼を述べて、魏続と宋憲はこの場を去る。
彼らが最期の瞬間までどんな生を送るのかはわからない。
そこから先は、劉備の関与するところではないのだ。
的廬に戻ろうとしたその時……岩陰から黒い影が姿を見せる。
姿を確認する前から、劉備は親しげに声をかける。
「よぉ、遅かったな」
予期していた通り……その人物は于禁だった。
彼の目的は、やはり陳宮の捕獲だったらしい。
「陳宮はもう死んでいるぜ。あんたの目的が果たせなくて、残念だったな」
そう言われても、于禁に動揺した様子はない。
「ふん……その気になれば、あの男を連れ去ることもできたが……」
劉備の指摘を否定もせずに、こう続ける。
「あの男が、餓鬼のように泣き喚きながら死ぬ姿が見物だったのでな……
あんな瑞々しい恐怖を見たのは久しぶりだ……
ついつい、魅入ってしまった……」
両目を狐のように細める于禁。
覆面の下の口が笑っているのが、劉備にも分かる。
「お前……趣味悪ぃな……」
そんなところも、曹操にお似合いだ。
この男ならば、むしろ喜びそうだが、あえて口に出すのは避ける。
「ふふふ……曹孟徳にお似合いだ、とでも言いたげだな?」
心中をずばり言い当てられてしまったが、劉備は特に動揺は見せない。
この于禁が相手ならば、心を乱すことも無く会話できる。
この男は、自分や、陳宮とも対極にいる人間だ。
あまりに多くの人間を殺し、戦場に身を置き続けたからこそ、他者の死を見世物として捉えることができる。
されど、劉備にとっては、于禁のような男の方がまだ分かりやすい。
見た目の妖しさに反して、曹操や陳宮のような複雑怪奇な不気味さはまるで感じなかった。
その分、割と好感を持って接することができた。
的廬に跨り、下丕城を見やる劉備。
城の頂上には、『曹』の旗が立っている。
下丕城は完全に陥落したらしい。
関羽はまだ、あの城の中にいるのだろうか……
劉備らがあえて囚われの身となることで、下丕城を内側から切り崩す策は、事前に曹操軍と示し合わせていたことだ。
最も、劉備は曹操が本気で自分達を助けに来るとは信じなかったし、形勢によっては、本気で呂布につくつもりでいた。
だが、結果として自分達は呂布の敵に回り、曹操の手助けをしてしまった。
自分がこうすることを、曹操は全て読みきっていたのだろうか。
“本気で裏切るつもりの人間”ならば、呂布軍も信用するだろうと考えて、城に送り込んだ。
曹操ならば、それぐらいの大胆な策は打ってくるだろう。
とにかく、今や完全に形成は曹操軍へと傾いた。
呂布軍が全て曹操に降伏するのも、時間の問題だろう。
“あの男”を斃すことができれば……の話だが。
呂布軍には、まだ最後の敵が残っている。
呂布軍の象徴にして、その中核である最強の将……
陳宮が、数多の呂布軍の将兵が魅せられたあの男が、いよいよ曹操軍と雌雄を決するべく戻って来る。
中華最強、呂奉先。
曹操は、如何にしてあの最強の怪物を打ち滅ぼすのか。
その戦いだけは、最後まで見届けなければならない。
于禁は、やはりいつの間にか姿を消している。
呂布を斃すには、彼の力も必要なのだろう。
的廬に乗せた張飛の状態を確認した後に、劉備は愛馬を下丕城へと走らせた。