第十三章 伝説の終焉(五)
下丕城……
血の臭いが漂う地下室で、張飛と于禁、魏続と宋憲の死闘は続く。
二組の戦いは全くの互角で、中々決着がつかないことに陳宮は苛立ちを見せる。
「全く! 魏続も宋憲も何をもたもたしているんだい!
せっかくこの僕が肉体改造をしてやったってのに!!」
(改造……だと?)
陳宮の叫びに、張飛の脳髄が疼く。
古傷を抉られたような不快な気持ちが沸きあがってくる。
その間にも、宋憲は手にした二対の月牙で容赦の無い攻撃を加えてくる。
張飛も直剣で応戦するが、扱いやすい武器とはいえ、やはりいつもの蛇矛で無ければ十全な戦闘力とは言えない。
目の前の敵は、それで楽に勝てるほど甘い相手ではなかった。
だが、苛烈な猛攻に反して、この瞳には生気が無い。
まるで人形のように虚ろで、操られているかのように四肢を動かす。
(こいつら……)
張飛には、陳宮の言う生体改造のことは皆目わからない。
しかし、彼らが自らの意志ではなく、陳宮によって無理矢理戦わされていることは想像がついた。
そのことに思いを馳せるたび、胸が痛む。
「くぅ……もういい!!」
業を煮やした陳宮は、後ろに素早く飛び跳ねる。
「!」
手にした鋏を突き出す劉備だが、陳宮は体を大きくそらせてその切っ先をかわす。
とっさに鋏を盾にして、銃弾を弾く劉備。
彼とて武将、この程度の反射神経は持ち合わせている。
だが、彼が長けているのはあくまで身を守る術のみ。
相討ちに持ち込んでも相手を殺してやろうという気概が全く無い。
それゆえに、この場で陳宮を取り逃がしてしまった。
「ほっ、助かった……」
「助かった、じゃねーよ! あっさり逃がしやがって!
全く戦いになるととことん役立たずだな兄貴は!!」
戦闘中で気が立っているからか、思ったことを正直にぶちまける張飛。
逃げた陳宮は、上階へ続く階段へは向かわず、何故か壁の方へと移動する。
「魏続! 宋憲! 来い!!」
命令を聴き、魏続と宋憲は戦闘を切り上げ、陳宮の下へとはせ参じる。
両者は肉の壁となって、張飛と于禁の追撃から陳宮を護る。
しかし、自ら壁に追い込まれて、陳宮は何を考えているのであろうか。
「やれやれ、お前達には失望したよ。
僕が力を与えてやったのに勝てないなんて……きっと素材が悪かったんだな。
でも、僕は優しい男だ。君たちに、この僕の役に立てる最後の栄誉を与えよう」
そう言って、陳宮は二本の注射器を取り出す。
緑色の液体の入ったそれらを、魏続と宋憲に注入する。
注射を受けた二人は、しばし痙攣したように震えていたが……
「ウ……ウワァァァァァァァァァ――――――ッ!!」
「アアァァァァァァァァァァ――――――ッ!!」
咆哮すると同時に、全身の筋肉が激しく震動する。
岩のような筋肉が更に膨張し、亀の甲羅のような形状へと変わる。
眼窩は黒く落ち窪み、口は裂け、牙のびっしり生えた肉食獣のような形相となる。
苦悶の叫びを上げながら……魏続と宋憲は真性の魔物へと変貌を遂げていく。
「てめぇ……何しやがった!!」
張飛の問いに対し、陳宮は自慢げに答える。
「こいつらの身体に埋め込んだ、幻獣の細胞を活性化させたのさ。
さっきの液体は、幻獣の体液を濃縮した薬品……
これで彼らは人間を超え、武将を超え、真の獣人将として覚醒したのさ!」
陳宮の言うとおり、いまや魏続と宋憲は、獣人と呼ぶに相応しい姿となっていた。
「これが……お前の言う究極の進化って奴か?」
張飛と違い、あくまで冷静に問いかける劉備。
「馬鹿を言っちゃいけないよ。
こんなもの、呂布将軍のような究極には程遠い……
それに、こいつら程度の武将では、急激な進化に耐えられない。
限界を遥かに超えた力を出せる代わりに細胞が急速に崩壊していく。
もうこいつらの余命は、残り数時間といったところだろうね」
「な……!?」
陳宮の言葉に、張飛は脳髄に熱い杭を通されたような気分になる。
言い知れぬ激情に、手が震えているのを感じる。
陳宮の言っていることは、やはり理解できなかったが、
彼がこの二人の命を捨て石にしようとしていることだけは分かった。
実に平然と。一片の憐憫も抱かずに。
「てめぇ……何てことを……!」
「おいおい、もしかしてこいつらに同情したのかい?
さっきまでこいつらを殺そうとしていた君が!」
張飛の怒りに対し、陳宮は嘲笑うように返す。
張飛が陳宮の冷酷さを理解できないのと同様に……
彼にとっては、何故張飛が怒るのか理解できないのだ。
「ああ……わからないね!
これが君たち武将が大好きな“仁”って奴なのかい?
全く持って、笑えるほどに非科学的だよ!
まさしく劣等種の愚かな思考だね!!」
そう言って本当に笑い出す陳宮。
「まぁ、それについても気にすることはないよ。
この二人に、もう自分の意志なんて存在しない。
僕が脳味噌をいじくって、僕の操り人形にしちゃったからね」
「!! じゃあ、こいつらはお前に操られて……」
「そうだよ。こいつらはもう死んでいるも同然……
でも、この僕の実験体として選ばれたんだ。
何の益にもならないくだらない生を生きるより、ずっとずっと有意義なことじゃないかな?」
悪魔の所業を、笑いながら語る陳宮。
挑発ではなく、心からそう信じきっているのだ。
彼にとって、自分の研究はこの世の何者にも優先する。
「劉備。残念だよ……もっと早く君も脳味噌を改造しておけばよかった。
君は、生かしておいた方が役立つと踏んでいたんだがね……」
陳宮の発言を聞いて、劉備は総身が震える思いになる。
もう少し救出が遅れていたら、自分もあの二人のような生ける屍に変えられていたかもしれない。
そのことに、劉備は心から安堵した。
もちろん、劉備に魏続と宋憲への憐憫などは、無い。
「魏続、宋憲! 僕が逃げるまで、この場を死守しろ……
いや、死ぬまでここを守り、こいつらを皆殺しにしろ!!」
「ウオオオォォォォォォ――――――ッ!!!」
「ガアアアァァァァァァ――――――ッ!!!」
命令を聞き、再び戦闘状態に入る魏続と宋憲。
生の獣の殺意が、劉備達に叩きつけられる。
「はっ! 逃げるだぁ? そんな壁際から一体どこへ……」
劉備の声をよそに、陳宮は壁のある部分を叩く。
すると、轟音と共に何も無いはずの壁がせり上がり、長方形の空洞が生じる。
「隠し扉……」
「それじゃ、僕はおさらばするよ。お前達はここで死ぬけど……
曹操軍の奴らには、いずれ報復させてもらう……必ずね!!」
捨て台詞を吐いて、暗闇の中へと消えて行く陳宮。
後には、獰猛な殺気を放つ魏続と宋憲が立ちはだかる。
「くっ、こいつら……!」
二人を倒して突破しようとする張飛だが……
「放っておけ……」
于禁が冷たい声を浴びせかける。
「な、何?」
「もうじきこの下丕城は陥落する……どの道奴は逃げられん」
彼の冷静な意見を、張飛は呆けたような顔で、劉備は頷きながら聞き届ける。
「それに、こいつらはここを守ると命令された以上、思うように動けまい……
先ほど奴が言ったとおり、どうせこいつらはもうじきくたばる……
己たちがわざわざ手間を掛ける必要も無かろう……」
「!!」
そう……陳宮の言を信じるなら、この二人の命は残り数時間なのだ。
ここに来たのは、あくまで劉備を救出するため。
その目的を果たした以上、無駄な戦いをする必要はない。
劉備としては、即座に于禁の意見に賛同したくなった。
だが……
「……悪い、兄貴……」
「益徳?」
顔を下げ、神妙な声で詫びる張飛。
「こいつらと戦っても無駄なのは分かっている……
それで、兄貴を危険に晒しちまうことも……」
そう言って、再び前を見た彼の顔は、ある種の覚悟が宿っていた。
「だけど……! 俺は、こいつらと戦いてぇ!
いや……戦わなくちゃいけねぇんだ!!」
「益徳、お前……!」
張飛の声に、並々ならぬ覚悟を感じ取り、劉備は何も言うことができなかった。
「こいつらは、俺なんだよ!!」
他人の手によって運命を捻じ曲げられた存在。
あの二人を見ると、かつての自分を思い出す。
どうしても捨て去りたい、忌まわしき過去。
だからこそ、戦わなければならない。彼らを、救ってやらなければならない。
自分自身に決着をつけるために……
劉玄徳と歩む未来のために……
囚人服を破り、その場で脱ぎ捨てる張飛。
上半身裸となった張飛の姿に、あの于禁ですら息を飲んだ。
彼の肌には、蛇がのたくったような火傷の痕が、縦横無尽に刻み付けられていた。
この傷は、忌まわしき過去の残滓。
その苦痛を思うと、言葉も出てこない。
この時始めて、于禁は張益徳の抱えている“闇”を垣間見た。
久方ぶりに見た劉備も、義弟の過去を思い出して絶句する。
幼少期に浴びるように聴かされた文言を、脳内で反芻する。
神を讃えよ――
神を讃えよ――
信ずる者には祝福を――
貶める者には誅罰を――
我、神意の執行者となりて――
聖痕の力を解き放たん――
「う、おおおおぉぉぉぉぉ――――ッ!!!」
腹の底から声を絞り出し、咆哮する張飛。
彼の闘志の上昇に呼応して……全身の傷痕が、赤く輝き出す。
「益徳……おめぇ、その“力”は……!!」
室内を、闘気の奔流が駆け巡る。
まるで傷痕に溶岩でも流し込まれたように、真っ赤に発光している。
剣を握り締め、張飛は二体の怪物と相対する。
今の彼は、まさしく全身が焼け付くような痛みを味わっていた。
だが、この痛みこそ力の代償。
痛みを対価とした、爆発的な力の高まりを感じる。
極限まで上昇した闘気を……張益徳は、一気に解き放つ――!
ほの暗い地下室で、煌々と輝くのは、張飛の身体に刻まれた蛇の刻印だ。
于禁は覆面の下で微かな笑みを浮かべる。
闇の中で赤く輝く傷痕は、倒錯的な美しさを醸しだしていた。
一方、劉備は于禁のような感想を抱く余裕などなく……
ただ、張飛から放たれる殺気に圧倒されていた。
部屋全体に拡がる炎のような殺気に、肺まで焼き尽くされる錯覚に陥る。
違う……今の彼は、劉備の知る張飛とは決定的に違う。
言い知れぬ畏れに縛られ、劉備は一言も発することが出来なかった。
「グアァァァァァァァァッ!!!」
獣のような叫びと共に、宋憲は背後の壁に拳を叩きつける。
轟音が鳴り、ありえない規模で壁が破砕された。
蜘蛛の巣状の亀裂が壁に刻まれ、すぐに崩れ落ちる。
陳宮が逃げていった隠し通路は瓦礫によって塞がれてしまう。
これで、例えこの二人を倒せても、陳宮を追跡するのは困難になった。
彼らは、あくまで与えられた命令を遂行しようとしているのだろう。
命令を発した人物によって、余命を数時間にされようとも……
彼らは、陳宮に抗う意志など、最初から剥奪されているのだ。
隠し通路を塞がれたことよりも留意すべきは、彼らの強化された膂力だ。
あの豪腕で殴られれば、人体などたちまち木っ端微塵になるだろう。
命を燃やしつくしただけのことはある。
そんな怪物二匹を相手に、張飛に勝算はあるのだろうか……
「どうした?己に加勢を求めないのか?あの男、死ぬぞ」
「お願いしたら助けてくれるほど、あんたはいい人なのかよ……」
「フフフ……」
于禁の皮肉な笑みは、否定を意味していた。
彼はあくまで曹操の配下。ここで張飛がなぶり殺しにされることを、期待していないとは言い切れない。
「やっぱりな。ま、俺もそこまで甘えるつもりはねぇ。それに……」
宋憲は両手を組み合わせ、全力で石造りの床にたたき付ける。
砕かれた地面が隆起し、大地の顎門と化して張飛に襲い掛かる。
石の牙に脚を食いちぎられる前に、張飛は跳躍する。
だが、跳び上がった先には魏続の巨体が待ち構えていた。
宋憲が地面を割るのと同時に跳び上がり、空中にいる張飛を打ち落とすつもりだったのだ。
怪物と化した後も、息の合った連携攻撃までは消えていない。
鉄柱をも達磨落としのように吹き飛ばす魏続の飛び蹴りが、張飛に放たれる。
張飛の小柄な体は、左方向へと吹っ飛ばされる。
壁に激突する張飛。
間髪いれず、追撃に掛かる魏続と宋憲。
倒れた張飛に、雨あられのような拳の連打が降り注ぐ。
床が砕ける音が聞こえ、その深い亀裂は壁全体へと広がって行く。
今頃張飛は、全身を砕かれ、瓦礫の染みと化しているだろう……
一方的になぶり殺しにされる義弟を見る劉備と于禁は……
「ふん……己としては、奴らが共倒れになってくれるのが一番理想的だったのだがな……」
自分の本音を隠さず言い放つ于禁。
あえて手を出さずにいるのは、そういう意図があってのことだ。
劉備も、于禁の考えは最初から読めていた。
「残念だが、あんたの思い通りにはいかねぇぜ……」
「ほう……」
「怖ぇ……怖ぇよ……俺は……」
声を震わせながら、劉備はか細く呟く。
自分の中で生まれた感情を確かめるように、こう言い放つ。
「俺ぁ……あいつが負ける気が全然しねぇんだ。
あの二人よりも……益徳の方が、ずっとずっと恐ろしく思えんだよ……!」
魏続の目の前で、赤い噴水が湧き上がった。
「ガ……ウウ……!?」
この血は、魏続自身のものだ。
彼の首回りには、一本の直剣が突き刺さっている。
張飛が使っていた、兵卒用の直剣だ。
鋼鉄よりも硬い魏続の肉の鎧を貫き、深々と刺しこんでいる。
黒い影が、中空に舞い上がる。
張飛の身体は、発光する傷以外は新しい傷が見当たらない。
魏続の蹴りは、自分から飛んだことで直撃を免れていた。
壁に激突した際も、受身を取って衝撃を和らげていた。
魏続と宋憲が繰り出す拳の連打も……狭い空間で、巧に体をよじらせて、掠らせもしなかった。
「ラァァァァァァァァァァッ!!」
空中で一回転して、両の脚を開き、魏続と宋憲の顔面に蹴りをお見舞いする張飛。
その衝撃に、二人の巨体は呆気無く吹き飛んだ。
もんどりうって地面に転がる魏続と宋憲。
先に起き上がったのは宋憲の方だった。
だが、その瞬間、張飛の飛び膝蹴りが顎に炸裂する。
大きくのけぞる宋憲。そのまま張飛は宋憲の頭を掴み、強く引っ張り上げる。
倍以上の巨体が宙に浮く。彼の小さな身体のどこに、これほどの怪力が眠っていたのか。
まるで、呂奉先の戦いのようだ。
張飛は宋憲の巨体を片手で振り回し、向かってくる魏続へと投げ付ける。
自分と同格の巨体に押し潰される魏続。
間髪入れず、弾丸の如く飛び出す張飛。
迅速である一方で、蛇のようにしなやかな動きだった。
魏続と宋憲目掛けて、拳の弾幕を放つ。
腕が数十にも見える高速の連打の前では、彼らの巨体はただの動かぬ的でしかない。
肉を打つたびに、骨が軋み、筋繊維が破裂する。
肉食動物に補食される草食動物のように、彼らは成す術も無く蹂躙されるのみだった。
魏続と宋憲の上に立ち、張飛は咆哮する。
「アァオォォォォォォ――――――――ッ!!!」
同時に……彼の全身から、炎のような赤い闘気が噴出される。
比喩では無く、劉備の目にもくっきりと見える。
赤い闘気は、張飛の高ぶりに呼応して、一層烈しく猛っていく。
それを見ながら、于禁は思う……
あの禍々しくも神々しい赤い光は……
董仲穎の力にそっくりだ、と……