第十三章 伝説の終焉(四)
下丕城は、もはや落城寸前にまで追い詰められていた。
水没した城壁内部、張遼、陳宮ら指揮官の不在、衝角船による大胆な奇襲……
僅か数秒足らずで、形勢は曹操軍へと傾いてしまっていた。
今の呂布軍を支配するものは、底無しの絶望……
折りしも寒風吹き荒ぶ中、冷たい水が肌を切る。
「下丕城の者達に告げる! 我が名は曹孟徳!!
直ちに降伏し、我が軍門に降るがよい!!
さもなくば、下丕城と共に血濡れの冥府に沈むであろう!!」
衝角船の上には、李典と許楮……そして、曹操が立ち、下丕城を睥睨する。
体を苛む冷たい水と同様に……
曹操の放った言葉は、呪縛のように兵士達の心を締め付けていった。
「舐めるな――ッ!!」
「くたばれ、曹操ぉ――ッ!!」
一方、曹操の姿を眼に止めた一部の兵士が、衝角船へと飛び上がる。
彼らもまた、陳宮により改造手術を受けており、身体能力を大幅に強化されていた。
しかし……
「んあっ!!」
許楮の左腕が動いた瞬間、旋回する鉄球が群がる改造兵士を纏めて薙ぎ払った。
彼ら強化兵は、全身に鎧を纏っているも同然の耐久力を備えていたが……許楮の怪力の前では無意味だった。
追撃に、李典が発射した砲弾が突き刺さり、爆炎と共に水中に没する。
「もーとく様には、手を出させないだよ」
「もし刃向かうなら、手加減する気は毛頭ないぞ?」
典韋を呂布に殺された李典は、呂布軍相手に何とか冷静さを保っている状態だ。
許楮も、典韋の分まで曹操を守る決意を固めている。
両者から放たれる武威は、呂布軍を完全に圧倒していた。
曹操軍の士気の向上に反比例して、
あたかも感染症のごとく、呂布軍に絶望が広がっていく。
一方……
夏侯淵率いる曹操軍の別働隊も、総攻撃を行っている最中だった。
だが、下丕城と決定的に違うのは……
時を追うごとに絶望を強めていくのは、曹操軍の方だった。
たった一騎を相手にしているにも関わらず、だ。
集中砲火によって、周囲の地形は大きく破壊される。
矢の洪水が降り注ぎ、砲弾が間断なく撃ち込まれ、爆薬が大気を焼き尽くす。
そんな、徹底的なる殲滅の嵐に晒されても……
「いいね、いいねぇ! もっと楽しませてくれよ! なぁ!!」
呂奉先は健在だった。
赤兎馬に跨り、数分前と殆ど変わらぬ姿で戦場に君臨している。
「ぐ……やっぱり……強ぇ……」
「ええ……わかっていたけど……ね」
傷だらけの体で何とか立ち上がる楽進と曹洪。
彼らも部隊を率いて果敢に呂布に挑んだが、まるで通用しなかった。
圧倒的な赤兎馬の機動力に、呂布自身の超反応。
それらを潜り抜けたとしても、生半可な攻撃は呂布と赤兎馬に傷一つ与えられない。
その桁違いの強さに、周囲の兵も戦慄を隠せない。
今や一万の精兵が、ただ一人の呂布に圧倒されていた。
攻撃性の塊である呂布は、近寄るもの全てを迎撃する。
矢が飛んでくれば切り払い、敵が近づけば両断する。
呂布と赤兎馬の周囲は、さながら触れたもの全てを吸引し、破壊する虚無空間と化していた。
「典韋を斃しただけのことは、あるってか……」
斧を支えにして起き上がる曹仁。
頑丈さが売りの彼も、全身に傷を負い、激しく消耗している。
だが、驚異的な呂布の戦闘力に反して、兵卒の犠牲は少ない。
それも、夏侯惇を除く四天王と楽進が、常に先頭に立って戦ったためだ。
後方で指揮を執る荀或、荀攸の支持が的確なのも大きい。
劣勢なのは否めないが、最悪の事態……全滅には至っていなかった。
「………………」
夏侯淵も、顔に浮かんだ色濃い疲労は隠せない。
今は、彼がこの軍の総大将だ。彼の采配一つで、全軍の生死が決定する。
この重圧と緊張感は、想像を遥かに越えていた。
夏侯淵ですら、この絶望的な戦況に瀕して冷静さを保つのに必死だった。
曹操や郭嘉は、こんなことを涼しげに行ってきたのか……
しかし、ここで押し潰されるわけには行かない。
ここでの呂布との戦いは、全軍の勝敗を決する分岐点だ。
その大任を任された以上、無様な結果で終わることは許されない。
絶望に傾きそうになる己の心を、無理矢理に矯正する。
初陣の頃からずっと……曹孟徳に仕えると決めてからずっと……
夏侯淵は、己を組織の歯車と見なし、任務を遂行する一個の機械へと変える術を身につけていた。
淵は、呂布から目を逸らさずに思考する。
答えはもう、最初から出ている。
自分達の力では、呂布を斃すことはできない。
認める認めない以前に、それはどうしようもなく確定していることだ。
だが……
ここまでは、全て作戦通りだ。
元より……ここで呂布に仕掛けたのは、彼の足止めが目的だ。
あのまま逃げ続けても、どの道追いつかれる。
ならば、敵に先制攻撃を許す前に、多方面から奇襲をかけて、呂布の動きを止める。
これは、呂布に対する“守り”だった。
死力を尽くした総攻撃こそが、こちらの身を守る何よりの壁となるのだ。
攻撃こそ最大の防御……その姿勢は、呂奉先の戦い方に通じるものがある。
一万の軍が総力を挙げて初めて……呂布の動きを封じることが可能となる。
だがそれも……そろそろ限界に達していた。
「ヒャハハハハハハ!! じゃあ今度はこっちから行くぜぇ!!」
「ギュロロロロロロォォォォン!!!」
深く濁った嘶きを上げる赤兎馬。
呂布は、方天画戟を掲げ、敵軍目掛けて赤兎馬を加速させる。
呂布という自律する大槍の前に、兵卒の壁など蚤か虱の集合体に過ぎない。
瞬時に突き破られ、ズタズタに引き裂かれるだろう。
だが、その攻撃に、曹操軍は逸早く反応する。
呂布が動き出す前に、全軍は大きく道を開け、呂布の突撃を回避する。
この迅速な動きこそ、これまでの調練の賜物だ。
そして、彼らを操っているのが、荀或、荀攸ら軍師たちだ。
彼らもまた、死を覚悟で前線に出ている。
郭嘉ほどではないが、先を読んだ指揮で、少しでも兵卒の犠牲を減らす為に。
人道的な見地が全てではない。これもまた、時間稼ぎの一環でしかない。
兵の数が多ければ多いほど、より長く時間を稼げる。
ならば、それを守るために軍師が自ら戦場に出る。
誰もが命懸けの綱渡りを強いられ、それ無くしては勝てないという現実。
彼らは、それをあるがままに受け入れている。
出遅れた数十の兵が、方天画戟の餌食となる。
呂布に触れることは、掠っただけでも死を意味する。
今の曹操軍は一万の軍勢であり、同時に一個の群体でもある。
攻撃を受けるたびに数を減らし、まさに身を削る覚悟で戦っているのだ。
だが……
彼らの払った犠牲は、決して無駄にはならなかった。
一見、無敵に思えるこの加速時こそ、呂布の唯一の死角だった。
赤兎馬の速度は矢や銃弾をも超える域に達しているが、それだけに方向転換にかかる負担も大きい。
その一瞬、赤兎馬の足首は激しく捩れ、僅かながら動きが鈍るのだ。
夏侯淵らは、その刹那の時をずっと狙い続けていた。
「……今だ!」
夏侯淵が声を発するよりも速く……三将は気配だけで察して動き出す。
誰もが正しく理解していた。
これ以上時が経てば、自分達に勝ち目は無くなる。
自分達や兵卒、軍師の肉体的、精神的疲労も限界に達している。
この一瞬、この刹那に全てを賭けるしかない……!
誰もが、視線を交錯しようとはしない。
目を合わせずとも、それぞれの覚悟は十分に伝わってきている。
「ヒャハハハハハハァ――――ッ!!」
動きの鈍った赤兎馬よりも早く、呂布は群がる敵を蹴散らそうと、方天画戟を振るう。
真っ先に攻撃圏内に入ったのは、戦斧を振りかざす曹仁だ。
「がぁぁぁぁぁっ!!!」
戦斧と方天画戟が真っ向からぶつかり合う。
全身の筋肉が軋み、剥げ落ちるほどの衝撃が曹仁を襲う。
怪力の曹仁をしてもこの激痛……筋組織が一時的に麻痺してしまっている。
次に打ち合えば、呆気無く真っ二つにされることだろう。
だが、これで曹仁は己の役割を果たした。
曹仁ですら一撃受けるのが限界……
されど、曹仁だからこそ、呂布の一撃を受け止めることが出来たのだ。
次の瞬間……
曹仁の身体から、鮮血が吹き出る。
脇腹が裂け、そこから黒い鏃が飛んでくる。
予期せぬ場所からの奇襲に、赤兎馬も反応できない。
矢というよりは、長い円錐形の棘が、赤兎馬の額へと突き刺さる
「ギュロロロォォォォン!?」
この矢を射ったのは夏侯淵だ。
いかな死角からの狙撃にも反応してしまう呂布と赤兎馬。
ならば……こちらで死角を創るまで。
その死角とは、正面に立ちはだかる敵武将の体だ。
夏侯淵は、曹仁の身体の後ろから矢を射ったのだ。
彼らとて、敵武将の身体からいきなり矢が飛んでくるとは思うまい。
よしんば見てから反応したとしても、この密着状態からの射撃はかわせない。
呂布はまだしも、赤兎馬ならば……
曹仁は、呂布の攻撃を受け止めるのと同時に、夏侯淵の存在を覆い隠す壁の役割も果たしていたのだ。
「うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
そして、ここからが仕上げ……
曹仁と呂布の間に高速で割って入った楽進は、渾身の力を込めて拳を放つ。
その拳が鏃に直撃し、赤兎馬の脳天に深々とめり込ませた。
「ギュロロロロロロロォォォォォォン!!?」
かつてない激痛に、悲鳴をあげる赤兎馬。
脳髄を貫通されれば、いかな生物とて致命傷である。
夏侯淵が撃ち込んだのは、矢ではなく楔だった。
ただ射るだけでは、赤兎馬の頑丈な筋肉と頭蓋骨を穿つことなど叶わない。
しかし、突き刺さった矢にさらなる衝撃を加えれば……
その一撃は頭蓋骨をも貫き、矢を赤兎馬の脳髄まで到達させることができる。
この条件を満たせる速さと破壊力……その双方を兼ね備えた将は、楽進しかいなかった。
「ヒャッハ――――――ッ!!!」
乗騎の傷など気にも留めず、方天画戟を振るう呂布。
夏侯淵、曹仁、楽進の三将は、他愛も無く薙ぎ払われるだろう。
だが、その戟の勢いは寸前で押し留められた。
「させないわよ……!」
曹洪の鉄鞭が、方天画戟に巻きついている。
許楮や曹仁と比べるとあまり目立たないが、曹洪の筋力も常軌を逸している。
ほんの僅かならば、呂布の攻撃を止めることができた。
一秒足らずで、方天画戟を縛っていた鉄鞭は千切れ飛ぶ。
その時には、夏侯淵ら四将は、素早くその場を離脱していた。
「撃てぇ――――っ!!」
荀或の叫びと同時に、周囲の兵士達が残る射撃武器を一斉に放出する。
夏侯淵らが巻き添えになる危険もあったが、呂布を野放しにしておくよりは遥かに死ぬ確率は低い。
弾幕が飛び交い、爆薬が絶え間なく炸裂する中で、四将軍は自軍へと退散する。
「全軍、後退せよ!!」
全ての弾薬が尽きると同時に、撤退命令を下す荀或。
ここまでが限界だ。持てる力は全て出し尽くし、可能な限りの時間は稼げた。
後は一刻も早くこの場を離脱し、下丕城の曹操と合流する。
その時点で、ようやく勝負することができるのだ。
噴煙に包まれた呂布と赤兎馬は、動きを見せない。
夏侯淵らの安否を確認する暇もなく、曹操軍はその場から撤収する。
先ほどまで総攻撃を掛けていたのに、即座に後退へと転じられるのは、荀或の指揮があればこそだ。
奇襲を掛けた時と同様……いや、それ以上の速さでこの場から離脱する。
「おう? 鬼ごっこ再開かぁ? やってやんぜ……」
方天画戟の柄で赤兎馬の肌を叩き、即座に追いかけようとするが……
「ギュロ……ロロロロ…………」
弱弱しい声を返し、四肢を折って倒れる赤兎馬。
脳天に鏃を撃ち込まれ、脳細胞の大半が死滅している。
即死していない方がおかしいぐらいだ。
曹操軍の標的は、最初から赤兎馬だったのだ。
まず赤兎馬を斃せば、呂布の機動力は大幅に落ちる。
戦力を削る意味でも、時間を稼ぐ意味においても、赤兎馬の排除は必須だった。
そんな赤兎馬を見て呂布は……
「…………駄馬が!!」
脚で強く蹴り付けて、赤兎馬を横に倒す。
もはや悲鳴を上げる力も無い程、赤兎馬は消耗している。
長年共に戦場を潜り抜けてきた乗騎とて、呂布にとってはただの乗り物でしかない。
使えなくなったら捨てる……その程度の存在なのだ。
赤兎馬から降りて、自らの脚で曹操軍を追おうとする呂布。
だが……
「ギュルルルル……」
瀕死の身体で起き上がる赤兎馬。
その瞳には、まだ闘志の灯が宿っている。
全身からは、まだ溢れる殺気が発散されている。
間もなく死に往く彼が敵意を向ける相手は……
「ほう……」
かつての乗騎が向ける敵意に、呂布も呼応する。
方天画戟を握り締め、獰猛な笑みを浮かべる。
「ヒャハハハハハハ!! そうか……最期に俺様とやり合いたいってか!!」
元よりこの両者に、友情や信頼関係など存在しない。
乗り手と乗騎の関係に甘んじていたのも、呂布と赤兎馬の暴力が拮抗していたからに過ぎない。
その力関係が崩れたらどちらか一方が死に至る。
乗騎でありながら、赤兎馬は呂布にとって、最も身近な敵だったのだ。
両者を結びつけたものは、己以外の全てを敵視する闘争本能のみ。
それが死の寸前だろうが関係ない。
どこまでも変わらない両者の行き着く果ては、やはり殺し合いだったのだろう。
「ギュロロロロロロロロォォォォォン!!!」
牙の並んだ口を開けて、襲い掛かる赤兎馬。
生体改造によって発達した爪牙で、かつての乗り手を引き裂こうとする。
呂布も方天画戟を振るって迎え撃つ。
生まれた時から戦い以外を知らない存在と
戦うためだけに生み出された存在……
呂布と赤兎馬は、互いの存在意義ゆえに殺しあうのだ。