第二章 反董卓連合、立つ(一)
董卓の暴政により、洛陽は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
董卓に僅かでも叛意を抱いた者達は、
一族郎党もろとも、全身を切り刻まれた上で熱した鍋の中に放り込まれた。
解き放たれた董卓の部下達は、都や近隣の村で、金品を奪う、女を攫うなど略奪の限りを尽くした。
董卓により支配された官憲は、そのような悪逆を見てみぬふりをする事しかできない。
甘い汁を啜りたいがために、董卓に与して奪う側に回る者まで出る始末……
誰もその暴虐を止める事ができず、漢王朝には拭えぬ暗雲が立ち込めていた……
宮殿の大広間……
董卓が開いたこの催しには、
献帝や董卓、宮中の文武百官が集められていた。
董卓の恐怖に精神をすり削られ、一部を除いて、ほぼ全ての官僚がげっそりとやつれ果てた顔をしていた。
「董卓様!準備、整いましてございます!」
そう董卓に進言する男の名は李儒……
出目金のような、ぎょろりとした目つきの小男だ。
董卓の懐刀として、様々な裏の仕事に携わっており、
先代皇帝の病死も、彼が毒を飲ませたと言われている。
この場には、董卓軍の名だたる武将たちも集まっていた。
董卓軍最強の呼び声高い華雄、
奇将・徐栄、猛将・牛輔、李確、郭巳らが董卓を取り巻いている。
ただし、呂布の姿は無い。
「始めい……」
董卓の声が開始の合図となった。
天井に開いた穴から、丸い物体が降りてくる。
恐慌と怨嗟の声が聞こえてくる。
不確定に蠢くそれは、網で捕らえられた数十の人間たちだった。
皆、董卓に逆らった者達の一族で、老若男女問わず入れられている。
そして……その真下には、放射状に広がった十数の刃が、鈍色に輝きながら回転している。
鎖で繋がれた人間の塊は、徐々に下に向けて下がっていく。
迫り来る死の旋盤に、網の中の人間たちから、喉を引き裂かんばかりの悲鳴が響き渡る。
「磨り潰せい……」
董卓は無慈悲に命じる。
人間の塊が地上の旋盤に触れた瞬間……
人々の悲鳴に交って、肉と骨が裂ける音が鳴る。
少しずつ少しずつ……下の方から磨り潰され、血肉のジャムに変わっていく。
もがいた挙句、網から漏れたもの達も、すぐに刃に巻き込まれ血塊と化す。
生死にあがく人間の姿を観賞する……悪趣味極まる催しだった。
董卓が相国の地位についてから、
文武百官の前で、このような残虐な肉刑が頻繁に催されていた。
残虐極まる光景を前にしても、場の空気は静かなものだった。
董卓配下の武将たちは一様にニヤニヤ笑いを浮かべている。
そして、他の重臣たちも、顔色を青くしたまま黙するだけ。
董卓の不快を買うまいと、声を抑え、込み上げる嘔吐を堪えているのだ。
賈栩は、面白い見世物でも見るかのように、余裕で杯を傾けている。
(ククク……こうやって重臣どもに、
自分の恐怖を忘れぬよう擦り込んでいくわけか……
いや、あの御方のこと。
単に天子や重臣を精神的に虐待しているだけなのかもしれぬ……)
陳宮に至っては……
(あ〜あ、勿体無いなぁ……どうせ殺すなら、
僕の実験体として分けてくれればいいのに)
などと考えていた。
董卓は、無言でじっと眺めている。
その表情には、愉悦や享楽めいた感情が一切感じ取れなかった。
彼が現在座っている椅子は、董卓の巨体に合わせて造られたものだった。
しかし、高位の者が座るにしては、山麓の岩のようにごつごつしている。
そこかしこに突き出した丸い突起は、人間の顔や手のように見える……
この椅子は、生きたまま石膏で塗り固められた無数の人間で作られていた。
椅子に刻み付けられた犠牲者たちの苦悶の表情……
そして、その塊に鎮座する董卓。
彼の暴悪を象徴するかのような、何とも露悪的なオブジェだった。
董卓の暴虐は飽き果てることも無く続く。
漢王朝の未来は、絶望によって塗り潰されていた……
冀州……
「董卓……!!」
冀州の大地が見渡せる高台の上に立ち、袁紹は猛る。
董卓の粛清から逃れて、本拠地である冀州まで落ち延びた袁紹だったが、
その内には董卓への叛意がめらめらと燃え続けていた。
「貴様の暴悪、天は決して許すまいぞ!!
この袁本初が、いずれ天に代わりて貴様を討つ!!
それが我が袁家の宿命なればこそ……!!」
宝剣をかざし、意気揚々と語る袁紹だったが……
「その口上、それで一体何度目かのう」
後ろから水を差され、途端に肩を落とす袁紹。
「曹操……」
振り向けば、いつもの人を見透かすような笑顔の曹操が立っていた。
「で、どうなのだ袁紹?今度こそ、董卓に対して兵を挙げるのか?」
「く……董卓の下には天子がいる……
奴が陛下を盾にしている以上、迂闊に手を出す事はできまい……」
「ふん、貴様は、本気で董卓が天子を人質にしておると思っているのか?」
違う―――――
周辺諸侯が手を出せないのは、そんな問題ではなく、純粋に董卓が恐ろしいからだ。
董卓軍は精強で知られている上、今は漢王朝の後ろ盾がついている。
そして、自分に逆らった者達に対する苛烈な報復の数々……
自分とて、董卓の悪逆を聞き及ぶたび、総身に震えが走るのを止められない。
しかし、名門袁家の当主として、どうして弱みを見せられようか。
まして、この男の前では。
そんな袁紹を、曹操は嘲るでも罵るでもなく、
いつも通りの笑みを浮かべたままで見つめている。
その態度が、どういうわけか癪に障った。
「まぁよい……ならば、董卓を討つ明確な大義が出来れば、
兵を挙げる気になるのだな?」
「そ、それは……!無論だ!!」
挑発めいた問いに対し、思わず即答してしまう。
「そうか……やはり袁本初。余の期待した通りの男よ」
そう言って、曹操は一本の書簡を袁紹に渡す。
「一体何なのだ。用があるなら口で……」
書簡の中身を見た瞬間、袁紹は驚愕する。
「こ、これは……詔勅ではないか!?」
詔勅とは、天子による直々の命令書だ。
天子を頂点に据える中華社会にあっては、およそあらゆる事項に優先される。
「董卓、討つべし……」
書簡には、都での董卓の悪逆非道と、董卓討伐を許可する旨の文章が記されていた。
天子のものらしき署名も、確かに刻まれている。
「う、うおおおおおおおお―――――――っ!!!」
感極まって、思わず声を上げる袁紹。
これで、董卓を討つ明確な大義が手に転がり込んできたのだ。
「そ、曹操!どうしてこんなものを貴様が持っている!?」
「余の配下を、密かに洛陽に派遣し、天子に謁見させたのだ。
そこでその詔勅を授かり、余の手の内に入った……というわけよ」
「な、なるほどな……」
「袁紹よ。詔勅を受け取った責任は重い。
お前が反董卓の御旗を掲げ、その中核となるのだ」
「私が……」
「漢王朝の名門、袁一族の当主であるお前以外に、誰がそんな大命を果たせるというのだ」
袁紹はしばしの間呆けた顔つきでいたが、次第に顔に笑みを浮かべ……
「ふ……ふははははははははははははは!!
あーっはははははははははははははははは!!!!」
口を眼一杯広げて哄笑した。
「そうだ!! 我が袁家こそは、この中華における最も高貴で最も優れた、
時代を牽引し未来を切り開く偉大なる血統なのだ!!
そしてこの袁本初こそが、その頂点に君臨する袁家の旗印!!
大義の名の下に、無数の勇者を率いて
悪逆なる奸賊董卓を討ち滅ぼそうではないか!!
それこそが我が袁家の宿命なのだからな!!」
袁紹の高笑いに、曹操は満足げな笑みを浮かべる。
「頼むぞ、袁紹」
そして、曹操は詔勅を袁紹に渡したまま、その場を後にした。
「見ていたのか、惇、淵」
その途中で、曹操を夏侯惇、夏侯淵が出迎えた。
これまでずっと、曹操の護衛として物陰に潜んでいたのだ。
「おうよ。袁紹の奴め、どこまで馬鹿を晒せば気が済むんだか……」
釣りあがった三白眼に、長い白髪を背中まで垂らし、赤紫色の外套を着込んだ男……
彼の名は夏侯惇。字は元譲。
曹操、夏侯淵の従兄弟で、曹操の旗揚げ時代からの部下であり、同時に親友でもある。
「惇兄……」
相手が袁家の当主だろうと何ら憚り無く暴言を吐く義兄に、夏侯淵は苦笑する。
「何が詔勅だ。あの文書は、昨日てめぇが荀或と作った真っ赤な偽物だろうが」
「あまり大きい声で言うでない、惇よ」
曹操もまた苦笑する。
夏侯惇は、曹操と主従の関係にありながら対等の口調で話す。
曹操も他の部下たちも、それを容認している。
それだけ、曹操と夏侯惇の絆は強いということだ。
最も、普段は憎まれ口ばかりを叩いているのだが。
「しかし、孟徳。これでてめぇの目論見通り、
袁紹のボンボンをまんまと騙しおおせたってことだな」
詔勅を受け取り、袁紹は実家に帰還した。
還ってきた袁紹は、ずっと口許を閉ざしていたが……
「ふ、ふふふふふ……」
思わず笑みが零れてしまう。手元にある詔勅をまじまじと見つめ、独り言を喋り出す。
「曹操め。まんまとこの私を欺いたつもりでいるだろうが……そうはいかん。
これが偽物である事ぐらい、この私が気づかぬとでも思ったか?」
都は董卓の軍勢により常時厳戒態勢にある。
その洛陽から、配下がすんなり詔勅を持ち帰った、という話だけで既に胡散臭い。
そう、これは曹操による狡猾な策なのだ。
「小細工の好きな貴様の考えそうな事よ。
だが、この偽の詔勅は利用させてもらう。
この袁本初が、董卓を滅ぼし、さらなる天の頂に登り詰めるためにな!!
曹孟徳!お前は精々、姑息な勝利を勝ち誇っているがいい!
この袁本初は、貴様の一歩二歩三歩十歩……
百里千里、万里の先を行く男なのだ!! ははははははははは!!!」
袁紹は一人で哄笑する。
曹操の目論見を見破ってやった喜びが溢れて止まらないのだ。
曹操は自分を騙したつもりだが、自分はそれを見破った上で利用する……
その痛快な構図を思い浮かべ、袁紹はひそかな優越感に浸りきっていた。
「袁紹は気づいておるよ」
「何ぃ?」
「あやつは、お前たちが思っているほど愚かでは無い。
仮にも名門の出である袁紹を、偽の詔勅で騙せるとは思っておらんわ」
「じゃあ意味ねぇじゃねーかよ!!」
「それは違うぞ、惇兄」
夏侯淵が冷静に告げる。
「偽物であれ本物であれ……
あの文書は、表面上、袁紹に兵を挙げさせる動機になる。
孟徳様の狙いはそれなのだ」
「そうよ。あやつは誰かに背中を押してもらいたがっていた。
詔勅の真贋など問題では無い。ただ切欠が欲しかったのだ」
ここで、曹操はくすくす笑いを漏らす。
「今頃あやつは、余の目論見を見抜いた気になって、
有頂天になっておるのではないかな」
全くその通りであった。
「しかし……私は一つ疑問に思っています。
偽の詔勅を作ったならば、孟徳様、貴方自らが反乱軍の盟主となればよいのでは?」
夏侯惇も、それは同意だと言わんばかりに頷く。
董卓を討てば、その後の地位や名誉も一気に転がり込んで来る。
それを、みすみす袁紹に渡してしまうとは・・・
「おいおい、今度は余を買い被りすぎだ。余はまだ弱小に過ぎん。
それに、周辺諸侯を取りまとめるのに、袁紹以外の人材はおらぬと余は考える。
ゆえに袁紹に勅を託したのだ」
「へぇ……」
「惇、淵、名門を侮るな。
長き時を経て人々に染み渡った“権威”というものは、
時として何物にも勝る価値となり、人心を掌握するのだ。
すがるものの無い、今のような乱世ならば尚の事だ。
袁本初こそは、その名門の権威の具現というべき男……
高貴なる血統の優位に何らの疑問を持たず、
ただ前に突き進む事しか考えぬ奴ならば、
袁家の権威を存分に使いこなし、時代を変える力を生み出すであろう」
恐らく始めて聞く……曹操の袁紹を褒めちぎる台詞に、惇も淵も唖然となる。
しかし、“名門の権威”をあくまで人心掌握の手段と
捕らえているところに、夏侯淵は曹操らしさを感じた。
そして……この台詞は、いずれ袁家と敵対する事を
想定しての忠言……という捕らえ方も出来ると思った。
「はっ、あいつがそんな大したもんかねぇ……」
夏侯惇は、何気なくそんな事を言ってみたが……
「お?惇よ。もしかして袁紹に嫉妬しておるのか?」
曹操は眼を大きく開いて、琥珀色の瞳を輝かせる。
それは、見た目どおりの少年らしい喜びに満ちていた。
「な!?バ、バババ、バカ抜かすんじゃねぇ!!」
顔を真っ赤にして、必死で否定する夏侯惇。
夏侯淵は苦笑どころか爆笑しそうになるのを、必死で堪えていた。
曹操は、飛び上がって夏侯惇の背中にしがみつく。
「何しやがる!?」
「あはははは!夏侯惇よ!お前は可愛すぎるなぁ!余の嫁にしたいぐらいだ!!」
「く、くくくくだらねぇことを!!」
しどろもどろになる夏侯惇。彼はいつもこんな調子で弄り倒されている。
「うむ。では董卓を滅ぼしたら、余と惇の挙式を上げるとしようか」
「孟徳様・・・それは、恋人を残して戦死する者のよく言う台詞で御座います」
笑いを堪えながら、どこか的外れなツッコミを入れる淵。
「む、そうであったな」
「おぉぉお前らなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
夏侯惇の叫びは、曹操の悪戯めいた笑顔の前では空しく響くのみだった……
董卓討つべし――――
天子の密勅を手にした袁紹の号令により、反董卓の機運は一気に高まった。
各地の諸侯の下には、袁紹の手による、董卓の悪逆を
共に掣肘しようという旨の檄文が届けられた。
董卓に抗う気概を持ち、戦える者ならば誰でも良い……
檄文は、義勇軍として名を上げたこの男の下にも届けられていた。
幽州……
「ついに来たか!千載一遇の好機がよ!!」
檄文を読んだ劉備は思わず立ち上がって叫んだ。
名声を上げる、この以上ない好機が巡ってきたのだ。
「董卓なる男の悪行、確かに看過できるものではない。
奴のような悪は、必ずや討ち果たさねばならぬ」
関羽も董卓の暴虐を知り、正義の怒りに燃えていた。
「いよいよ俺たちも中央進出か!!」
「おうよ。とりあえず、あの白ボンボンのところに行くぜ。
コネは最大限に利用しねぇとな」
「ああ、あの白馬鹿か」
「益徳!お前それ絶対あいつの前で言うんじゃねぇぞ!
俺達はお願いしに行くんだからよ!!」
「兄貴もな。で、あいつの本名なんて言うんだっけ……?」
「公孫贊、字は伯珪殿だ。兄者にとっては、かつての兄弟子だそうだが……」
「ああ、共に盧植先生の下で学んだ仲さ」
「片や幽州を治める地方官僚。片や元草鞋職人の貧乏人。
同じ先生に学んでも出来が同じとは限らねぇんだなぁ」
「益徳ぅ……そりゃいってぇどういう意味だ?」
いつしか、劉備と張飛の間で取っ組み合いの喧嘩が始まった。
じゃれ合っているようなものなので、関羽は黙って見ていたが、
こんな調子で大丈夫かと一抹の不安も覚えるのだった。
揚州……
「――――以上が、袁紹殿より送られた檄文で御座います」
赤い髪をした、女顔の武将が、袁紹の送った文章を読み上げる。
それを聞き、男は顎をさすった。
「なるほどね……」
彼の名は孫堅、字は文台。黄巾の討伐において破竹の快進撃を続け、
一気にその名を世に知らしめた“江東の虎”と呼ばれる群雄である。
長めに伸ばした金髪に、碧眼に白い肌。
眉目秀麗と言った顔立ちで、青い着物の上に白い外套を羽織っている。
物腰も穏やかで、“虎”という異名に似つかわぬ容姿だった。
孫堅の碧眼は憂いに潤んでいた。
だが、その奥には、大義を果たさんとする強い意志も宿っている。
「確かに董卓の野望は止めねばならない。
しかし、中原の者達は、まだまだ自分達の領土に対する執着が根強い。
この檄文を読んで、一体どれだけの諸侯が
本気で董卓を討つ気になるか……私は少々疑問に感じるね」
「だからこそ、我らが決起するのではないのですか?」
赤い髪の将、朱治が言う。
孫堅の最も頼りにする“四将”の一角である。
「そうだ。もはや中原の者達だけに、天下を任せてはおけない。
私と共に往こう、我が爪牙たちよ。
熱き江南の風を、中原に吹かせようでは無いか」
落ち着いてはいるが、覇気の漲った号令に、臣下たちは一斉に色めき立つ。
彼らは知っている。この温厚なる君主が、
戦場において如何に苛烈かつ精強な戦いぶりを見せるかという事を。
孫文台、董卓討伐に名乗りを上げる。
これが、孫家三代に渡る覇業の始まりでもあった。