第十二章 最強の行方(一)
渾元暦198年。
徐州、下丕城……
「がぁっ……! ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
仄暗い室内で、苦悶に顔を歪め、絶叫する男。
全身が海老のように曲がり、激しく痙攣している。
「おやおや、刺激が強すぎたかい?」
机に横たわり、四肢を拘束された男に向けて、陳宮は微笑みかける。
彼の手には、緑色の液体がつまった注射器が握られている。
「大丈夫。痛いのは今の内……
これに耐え抜けば、今に痛みも苦しみも感じなくなるからね」
そう言って、男に液体を注射する少年。
「ぎぁっ!? がっ! あぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
先ほど以上の声を上げて、男は苦痛の絶頂に達する。
それと同時に、全身の筋肉が不自然に膨張し、巌のような形に変容していく。
「うふふ。少し前は殆どの実験体が、筋肉を爆発して死んでいたのに……
この新しい薬、大した成功率じゃないか。
これなら、“獣人将”の量産計画も軌道に乗りそうだね」
彼の周囲には、同様に机に拘束された男達が何人も悲鳴を上げている。
実験体の全身を裂かれるような苦痛など、彼は最初から意に介していない。
彼にとっては実験が成功するか否か、重要なのはそれだけだ。
呂布が下丕城に拠点を構えてから、既に二年が経とうとしていた。
その間に陳宮は、下丕城の地下に自分専用の実験施設を造り上げた。
そこでは、洛陽にいた頃と同様、薬物投与や人体実験など倫理に反する研究が日常的に行われていた。
実験体となるのは、大半が捕虜となった敵兵や近隣の山村から徴集した村人である。
実験の過程で幾多の犠牲を生みながら、陳宮の悪魔の研究は進んでいく。
魔獣馬の量産化に続いて彼が着手したのは、乗り手である武将の改造である。
彼に服従する魏続、宋憲のような強化兵士を大量生産するための計画だ。
彼の研究は、呂布軍の他の者達には極秘で進められている。
だが、長年行動を共にしていれば、いずれ気づく者が現れるのは必然だった。
「高順!」
ある日、張遼は高順を呼び止める。
彫像のような顔に、静かな怒りを湛えている。
「お前に話しておきたいことがある。陳宮のことだが……」
「ああ、例の人体実験のことか」
こちらが言う前に、相手に答えを言われてしまった。
高順の落ち着いた態度にやや困惑しつつ、張遼は話を進める。
「それなら話は早い。奴の所業は紛れも無く狂気の沙汰だ。
既に多くの犠牲者が出ていると聞く。
一刻も早く全てを公にして、陳宮を追放……
いや、それでは生温い。即刻切り捨てて……」
そこまで言って、張遼は言葉を切る。
高順は眉一つ動かさず、全く無感動な様子で話を聞いていた。
そのまるで他人事な高順の態度を、張遼は不気味に感じた。
「高順……?」
「それが……それがどうしたというのだ?」
高順は、取るに足らぬことであるかのように冷然と言い放った。
「奴の研究のことならば、呂布将軍は全て承知しておられる。
我らが気を揉む必要など無い」
「な……」
高順の冷淡な言葉に張遼は愕然となる。
陳宮の非道な実験の数々は、主君の容認の下行われているというのだ。
確かに、あの呂布ならば、捕虜や民草にどれだけ死者が出ようと気にも止めない。
人情や信義、友愛……呂布は、それら人間らしい一切から解き放たれているからこそ呂布なのだ。
呂布がそんな男であることなど、最初から分かっていたことではないか。
主君の意に従うのが臣下のあるべき姿ならば、今の高順は間違いなく正しい。
「だが……高順、お前自身はそれでいいのか!
あのような男に好き勝手させておいて!」
呂布の臣下ではなく、長年連れ添った無二の戦友に対して問う。
高順は、間髪入れずこう答えた。
「ああ」
最後の希望も呆気なく崩れ、張遼は絶句する。
「な、何故だ……」
「奴の造った魔獣馬が我が軍の優れた戦力となっていることから解るように……
奴の研究とそれが生み出す生物兵器は、我が軍にとって有用なものだ。
忘れるな。今は乱世なのだぞ。戦のために犠牲が出るのは当然のことだ。
それが将来の勝利に繋がるならば、歓迎すべきことではないか」
高順の言は、勝利を第一とするならば実に筋の通ったものだ。
戦による死も、実験による死も結局は同じ乱世の犠牲でしかない。
ならば、より成果の出せる方法を用いるべき。それが乱世の理だ。
「し、しかし……」
張遼には、彼ほど冷徹に割り切ることは出来なかった。
「私の志は今も変わらん。呂布将軍のために最強の軍を作り上げ、
あのお方を天の頂まで押し上げることだ。
そのためならば、悪魔と手を組むことも厭いはせぬ。
強さこそが全て……呂布将軍の理念は、
同時に呂布軍全体の唯一無二の理でもある。
強さを得るためには手段を選ばぬ……それが呂布将軍に仕える者のあるべき姿だ」
張遼は何も言い返せなかった。この男の剛直な気性は知っている。
他人に踊らされて考えを歪めるような男では無い。
彼自身が考え、己の信念に従った結果導き出した答えなのだろう。
だとすれば、彼は決して考えを改めようとはすまい。
そんな張遼の困惑を見透かしたように、高順は続けて言葉を発する。
「張遼……お前はどうなのだ?
お前はお前だけの最強を求めて、呂布将軍の下についたのではなかったのか?」
「!!」
高順の問いかけは、張遼の最も痛い部分を突くものであった。
自分が呂布軍にいるのは、あくまで己が最強となるため。
最強とは、孤高にして全てを拒絶する道。
非情に徹し切れないようでは、呂布の頂など程遠い。
一時の情に囚われ、初志を見失っているのは張遼の方ではないか、と言いたいのだ。
「陳宮の手によって多くの改造兵士が生まれれば、我が軍は一層強くなる。
お前にとっても良い修行相手になるだろう。
落伍者に構っていても、お前の成長を緩めるだけだぞ」
「………………」
張遼は、俯いたまま沈黙している。
自分が呂布の下に来たのは、旧来の武人のあり方に限界を感じたからだ。
忠節や情義などの、武人にとって当たり前とされてきた概念……
だが、呂奉先の強さは、そんな束縛を全て撃ち破るほどのものだった。
真の最強とは……何者にも捕らわれず、何者にも流されぬ、
孤高の果てにあるものではないのか。
彼は揺れている……己の信念と、人倫の道と板挟みで。
張遼はそのまま、高順に背を向けてその場を去って行く。
(張遼……お前にはわかるまい。
武の道を志しながらも、己の限界を知ってしまった者の虚しさを……
お前がまだまだ強くなるが、私の成長はここまでだ)
高順は、既に己の頂点を悟っていた。
自分はもうこれ以上、強くなりようが無い。
なまじ武に精通しているからこそ、己の潜在能力の果てに気づいてしまったのだ。
そうなれば、もはや絶望しかない。
これまで必死になって目指してきた、最強の座を諦めねばならない苦悩。
一度でも最強という夢に魅せられた武人は、ずっとそれに苦しまなければならないのだ。
戦以外に生きる術を知らなかった人間は、武の道から決して抜け出すことは出来ない。
そんな人間が取れる道はただ一つ……
己の見果てぬ夢を、より強い者に託す。それしかない。
最強の体現者、呂奉先。
彼こそは、高順が全てを捧げるに足る武人だった。
曹操や袁紹の下にいけば、高順は武将として厚遇されただろう。
だが、彼らは純粋な武人ではない。
徹頭徹尾、武人として生きた人間が仕えられるのは、自分より強い人間だけである。
高順の信念に一切の揺らぎはない。
彼は、呂奉先を天下の覇者へと押し上げることだけが、
己の武人としての半生に意味を与えられると信じていた。
陽光が差す下丕城……
城内では高順と張遼が言い争い、城の地下では陳宮が狂気の実験に耽っている。
そんな中、呂布は城の屋上に寝そべって、方天画戟で鉄の塊を突いて遊んでいる。
戟で塊を宙へと突き上げ、重力に従って落ちてきた塊を再び突き上げる。
そうやって、下に落とさないようにする簡単な遊びである。
ただし、呂布の方天画戟に乗っているのは、象ほどの大きさもある巨大な鉄塊だった。
百人がかりでも押し潰されるその塊を、呂布は欠伸交じりで、軽々と宙に飛ばしている。
規格外の膂力に加え、綱渡りのバランス感覚が無ければ決して成し遂げられない荒業。
しかも、利き腕ではない左腕だけで行っているのだ。
僅かでも手元が狂えば即座に命を落とす……
だが、呂布にとってはこれはただの遊びでしかない。
呂布は、決して頭の悪い男では無い。
この下丕城で、自分の部下が何をやっているのか、的確に把握していた。
陳宮が人体実験をしていることも、それが原因で高順と張遼の間に亀裂が生じ始めていることも……
それらを正しく理解した上で、呂布は“興味ねぇ”の一言で切り捨てていた。
自分の目的は、ただ強者と戦うことのみ。配下は全て、その為に利用する駒に過ぎない。
彼らが内紛を起こそうが、自滅しようが、呂布にとっては取るに足らないことだ。
呂布は方天画戟の上に乗って鉄塊を高く打ち上げると、城の外目掛けて落とす。
轟音と共に鉄球が落下し、地面が陥没する。
ちょうど通りがかっていた文官は、目の前に落ちてきた鉄球を見て、腰を抜かして失禁する。
後一歩でも前に出ていれば、鉄球の下敷きになっていただろう。
「昼寝は仕舞いだ」
そう言って、上体を起こす呂布。
彼は何も変わらない。何者にも流されない。
だからこそ……曹操と決着を付けようと思い立ったのも、全くの気紛れ故であった。
曹操の計らいによって、豫州の牧に封じられた劉玄徳は、関羽、張飛と共に牧としての業務を無難にこなしていた。
一年……曹操の下で働いて分かったことは、彼の支配体制が恐ろしく盤石だということだ。
それは、単に天子を擁立していることから来るものではない。
都には華美な装飾の施された建物は一軒も無く、全て実用性を重視した建築だ。
城壁は高く、堅牢に造られており、有事の際の備えも万全である。
その徹底的に無駄を省いた質実剛健の思想は、曹操軍全体において一貫しており、領土の隅々まで浸透している。
民や兵士は細かな犯罪まで罰則を定めた厳格な法で統制され、犯罪の発生率は低い。
屯田制によって土地と食事を保証されているため、反乱や盗賊行為に走る農民は皆無だ。
結果、土地を離れる農民はいなくなり、軍の備蓄も安定するという寸法だ。
優れているのは制度だけではない。
曹操に仕える者達は皆忠誠心に篤く、与えられた業務を勤勉かつ的確に遂行している。
かつては敵だった黄巾の者達も同じことだ。
彼らが曹操に従っているのは、単なる恐怖や盲信ゆえではない。
彼らはよく知っている。
曹操についていくことが、自分に最も利益をもたらす道であると。
曹操は、自らの手腕を見せつけ、配下にとって最も良い条件を提示することで、強固な信頼を勝ち取ったのだ。
今も曹操の下に流れて来る民や兵が後を絶たないことが、それを証明している。
一方で、この体制は、兵士一人一人に自分の頭で考え、行動することを要求する。
これによって、彼らは自律の精神を養われ、結果として兵士の質の向上に繋がる。
曹操の政策は、君と臣を絶対的な支配で結び、主君への忠誠を無償で要求する、
漢王朝の支配体制とはまるで異なる新しいやり方だ。
彼はいずれ、中華の社会そのものを大きく変革してしまうかもしれない。
全てにおいて完璧な破格の天才。
曹操を知れば知るほど、およそ勝ち目が見えなくなる。
実際、今は身動き一つまともに取れない状況だ。
豫州の牧に任じられたとはいえ、独自の権限などは無く、常時曹操の監視下に置かれている。
劉備の側近は関羽と張飛だが、それ以外の重臣や補佐役は全て曹操の息のかかった者達だ。
劉備自身の配下は、全てその下に置かれている。
これでは、配下に命じて曹操の内情を探らせることすらできない。
曹操軍の忠誠心の高さは、前述した通り……
自分に寝返る可能性は極めて低く、反逆の気配を匂わせただけで曹操に密告されるだろう。
今は何も出来ない。しかし、いつまでも待つことも出来ない。
このままでは、いずれ全てを剥ぎ取られ、曹操の配下という地位に埋められることになるだろう。
何か……強大な力が必要だ。
曹操の完璧にして精緻な統治を打ち破るほどの変転。
器に投げ込めば、あまりの大きさゆえに器そのものを砕いてしまうほどの、巨大な一石。
そんな規格外の存在なくして、今の閉塞した状況を打開できるとは思えなかった。
「兄貴! 兄貴――っ!」
「どうしたぁ、益徳?」
そして……その巨石は、突如として劉備の下へと降って来た。
「呂布が……呂布が攻めてきやがった!!」