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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十一章 皇帝僭称(三)

 渾元暦197年。


 皇帝を名乗った袁術は、全軍を率いて許都へと侵攻。

 その規模は約十万で、改めて袁術の勢力の大きさを世に知らしめた。


 さらに、その動きに呼応するかのように、

 冀州からは袁紹が、荊州からは劉表が、それぞれ豫州へそれぞれ数万の軍を動かす。

 袁術の帝位僭称は、曹操を抹消したい諸侯の思惑と結びつき、許都を中心とする侵攻の渦を形成しつつあった。


「ぶひゅひゅひゅひゅ! ようやくノータリンどももボクちゃんのいくちゃに加わりたくなったでしゅか!

 いいでしゅよぉ。お前らも特別に、ボクちゃんの戦いに参加する栄誉を与えてやるでしゅ!」


 そんな周辺諸侯への警戒もあってか、曹操軍は全ての兵力を割くことができなかった。

 曹操は、荀或、荀攸と共に十万を率いて迎撃に向かう。

 原野を挟んで、曹操軍と袁術軍は向かい合った。


 地平線の彼方……十万の大軍の先に、蜂蜜色の大きな御輿が見える。

 袁術はそこに腰掛け、皇帝の栄光を知らしめるための戦に胸を高鳴らせている。



「ぐへへへへ……! 皇帝陛下こーてーへーかのお通りだぁ〜〜〜

 お前ら、道をあげろぉぉぉぉ!!」


 一方、先陣では丸々と太った巨漢が、三尖刀を振り回している。

 袁術軍随一の猛将、紀霊である。




「やはり、紀霊を前線に出してきましたね」


 遠目でも分かる紀霊の巨体を見ながら、荀或は呟く。

 荀或と荀攸は、総大将である曹操の左右に控えている。


 さすがに彼らは、見た目で紀霊を侮るようなことはしなかった。

 その特異な体質ゆえに、一対多の戦闘を得意とする名将。

 このまま戦闘に突入すれば、彼によって多くの犠牲が出るのは明白。

 袁術軍で最も警戒すべき相手と見て間違いない。


「ならば、彼奴を打ち倒せば袁術軍の士気は大きく崩れような」


 曹操の言葉に、荀家の叔父と甥は同時に頷く。

 次に口を開いたのは荀攸の方だった。


「我が軍と袁術、兵の数は互角……

 ですが、もしも紀霊を一騎打ちで倒せれば、形勢は一気にこちらに傾きます」

「それが出来る将と言えば……いや、そなたの言いたいことはわかる。

 友に花を持たせてやろうという気持ちもな」


 荀攸の考えを見透かしたように話す曹操。


「否定はしませんが……彼ならば、あの紀霊を倒すのに打ってつけだと考えるからです」

「それも理解しておる。良かろう……楽進に、紀霊へ一騎打ちを挑むよう伝えよ!」





「おらおらおらぁぁぁぁぁ! 紀霊ぃぃぃぃぃ!!

 俺の名は楽進がくしん! お前に一騎打ちを申し込む!!」


 曹操の命を受けて、楽進は単騎で前に出る。

 そして、自慢の大声で敵陣に向けて叫び散らした。


「ぐへ?」


 “一騎打ち”の意味も分かっているか定かではない紀霊は、首を横に傾げる。

 やがて、この報告は袁術の下へももたらされる。


「ほほぉ〜一騎打ちとな!」


 楽しそうに手を叩く袁術。


「たった一人で紀霊に挑もうにゃんて、身の程知らじゅのバカチンでしゅねぇ!  

 いいでしょ、まずは飼い犬同士を戦わしぇて、

 犬の調教ちょーきょーにおいてもボクちゃんが上だと思い知らせてやるでしゅ!!」


 袁術の鶴の一声によって、楽進と紀霊の一騎打ちは実現する。

 この判断すらも、荀攸の読みどおりだったのだが……






 将となって見る景色は、今までの戦場とまるで違って見えた。

 気持ちは昂ぶっているが、一方でどこか厳粛な気分になっている自分がいる。

 自分は、曹孟徳に見出されてこの場所にいる。

 主君の期待を裏切るまいという気持ちが、楽進の闘志を燃やしながらも抑えている。


 この戦が、将としての初陣となる楽進。

 しかも、相手は今までどんな名将も打ち倒せなかった、あの紀霊である。

 彼の強さは、見ていれば分かる……あれは、相当なバケモノだ。

 今まで楽進が戦ってきた同僚や敵兵などとは、まるで格の違う相手。

 死を覚悟して挑まねばならぬ難敵だ。


 それでも……


 楽進に怯えは無かった。

 心臓の拍動が速くなり、握った拳が汗ばみ、内なる闘志が燃え上がっていくのを感じる。

 そう……この戦いこそ、自分が求めていたものだったのだ。



「ぶへへへへへ!! 陛下へーかのゆるしは出たぞぉぉぉぉ!!

 まずはお前をぶち殺せばいいんだなぁ!?」


 三尖刀を楽進へと突きつける紀霊。


「へっ……かかって来な。死ぬのはお前の方だがな!」

 

 楽進は、指で自分を示して挑発する。


「ほざけぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 得物をかざして、楽進へと突撃する。

 楽進は、両の拳を打ち付けてそれに応じる。

 

 彼の手には剣も槍も握られてはいない。

 楽進の武器はその拳……黒く光る鋼の手甲に覆われた、文字通りの鉄拳のみだった。

 


「ぶへへへへへへへ!!」


 巨大な肉の壁が迫り来る。

 まともに受ければ、軽く全身が微塵になる圧力だ。

 それでも、楽進は一歩も引かない。

 

 拳闘の構えを取り、大きく体を捻って、真っ直ぐに拳を繰り出す。

 

「だらぁぁぁぁぁっ!!!」


 腕が見えないほどの高速の拳。

 かつて賭け試合で見せた拳打とは、比べ物にならない威力が込められていた。

 鉄の拳が、紀霊の腹へとめり込む。

 鎧を貫通し、一撃で武将の内臓を粉々にする破壊力。

 この威力は、刀剣や槍戟に劣るものではない。


 しかし……


「ぐへへへへ……お前、何かしたかぁ?」


 あらゆる衝撃を吸収し、刀剣の刃を無力化する紀霊の特異体質には通じなかった。

 肉を揺らす衝撃は、全て体の表層へと拡散され、内部構造にまで届くことは無かった。


 間髪いれず、三尖刀の刃が迫る。楽進は大地を蹴り、機敏な動作でそれを回避する。

 紀霊が薙ぎ払ったのは、楽進の残像のみに留まった。

 徒手空拳の利点は、その身軽さにある。

 破壊力と運動性を兼ね備えた拳闘こそが、楽進に最も適した戦闘法なのだ。


「だららぁっ!!」


 三尖刀を降った隙を突いて、楽進は連打を放つ。

 拳の弾幕が、紀霊の体に降り注ぐ。

 幾ら拳を撃とうと、その衝撃は全て紀霊の体に吸い込まれてしまう。


 だが、これはただの足止めに過ぎない。

 紀霊の眼が正面の連打に行く一瞬の隙をついて、楽進は神速で紀霊の側面へと回りこむ。

 そして、人体の急所、鳩尾みぞおち目掛けて拳を撃ち込む。

 どんな強靱な肉体を持つ者でも、ここを狙われればひとたまりもないはずだが……


 紀霊の特異体質は、楽進の想像を越えていた。

 鳩尾への攻撃すらも、分厚い肉の壁によって弾かれてしまう。

 紀霊の体は、全身隈なく肉鎧によって覆われている。

 どこを狙おうとも、あらゆる衝撃を吸収し、無効化してしまうのだ。


「ぐへへへへへ! 無駄無駄なんだなぁ!!」


 予想外に素早い動きで、三尖刀を突き入れる紀霊。

 楽進は持ち前の脚力を駆使して、機敏な足捌きでそれを回避していく。

 だが、拳が通じない以上は、文字通り打つ手が無い。

 

「ぢょこまがどぉ〜〜! なら、これでどぉだぁ〜〜〜!」


 丸太のような足で地面を蹴り、紀霊の巨体が宙へと浮き上がった。

 そして、彼は驚くべき変形を始める。

 首が、四肢が、その丸い体の中へとめり込んでいくのだ。

 紀霊の姿はたちまち、三尖刀が伸びた肉の球体へと変わる。


「げ……そんなのありかよ……!」


 楽進もまた、これには仰天するしかない。

 球体となった紀霊は高速回転を初め、楽進へと突っ込んでいく。

 とっさに回避する楽進。轟音と共に、地面へ着弾する紀霊。

 だが、紀霊の体はそのまま跳ね上がり、再び楽進を襲う。

 

「ぐ……!」


 今回も避けようとしたが、三尖刀の刃で腕を傷つけられてしまう。

 そして、三度飛び跳ねる肉の弾丸。

 その体格からは想像もできない豪快かつ俊敏な動きに、楽進も翻弄される。


 三尖刀をかざしたまま回転している為、今の紀霊は圧倒的に広い攻撃範囲を有していた。

 近づくものは三つ又の刃で切り裂かれ、

 もしそれを逃れたとしても、今度は回転する巨体の洗礼が待っている。

 そして、柔軟かつ強靱な肉の鎧に護られた紀霊に損傷を与えることは不可能。

 

 攻撃力、防御力、そして機動性……その全てを兼ね備えている。

 まさに完全なる攻撃形態と言えよう。




(文謙……)


 荀攸は、友の戦を見守りながらも、油断無く辺りに注意を払っている。

 もし楽進が死ねば、すぐさま両軍の全面衝突が始まる。

 また、いつ袁術が軍を動かすか分からない。

 軍師はいかなる状況の変化にも対応できるよう、常に戦場の全てに目を配っておかねばならないのだ。

 見れば、隣の叔父も、普段の弱気な態度を完全に払拭したかのような真剣な顔をしている。

 今は、自分達の成すべきことをしなければならない。

 荀攸もまた、これが初陣に近い状況ながらも、そのことをよく理解していた。




「ぐはぁっ!!」


 地面の陥没が十を超えた頃……楽進は胸板を切り裂かれ、派手に吹っ飛ばされる。

 胸の三条の傷から、赤い血が流れる。

 まだ致命傷ではないが、このまま押されていては敗北は必至だ。


(負ける……死ぬ……?)


 ここで負ければ、自分を取り立ててくれた主君や荀攸の顔に泥を塗ることになる。

 また、あの紀霊の攻撃で仲間達にも多大な被害が出るだろう。

 そこまで考えた上で、楽進が思ったことは……



(面白ぇ……)



 これだ……これこそが自分の求めていたものだ。

 ひりつくような緊張感。絶体絶命の窮地。決して負けられない戦い。


 体中から血を流しながらも、いつしか楽進は笑っていた。

 牙のような歯を剥き出した笑顔に、血走った瞳を大きく見開いている。


 闘志も忠義も渾然となった境地に、彼はいた。

 前へ。ただ前へ。

 目の前の敵を斃す。ただそれだけに己の意識を集約していく。



「だぁらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」



 拳を固め、無防備に突っ込んでいく楽進。


「ぶひゃひゃひゃひゃひゃ!!

 あいちゅはただの馬鹿でしゅか! 紀霊! とどめを刺してやるでしゅ!

 上手くやれば、蜂蜜いつもの十倍飲ませてあげましゅよ〜〜!」

「は、は、は、蜂蜜、じゅ、じゅ、十倍ぃぃぃぃ!!!」


 袁術の声を聞いた紀霊は、ご褒美に目を輝かせる。

 体を高速回転させ、楽進を刻み潰そうと跳びかかる。


「ぐぅへぇへへぇへへへへへ!!」


 虐殺の怪球が舞い降りる。それでも楽進は歩みを止めない。

 斃すべき敵へ向かって、真っ直ぐに駆けて行く。 


 脇目も振らぬ直線移動が幸を奏したのか、楽進の体は、三尖刀を掻い潜って紀霊の至近距離に肉薄する。

 その途中で、背中を切り裂かれるが、ここで下手に横移動を織り交ぜていれば、より傷は深くなっていたところだ。



「だぁらぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 そのまま、回転する紀霊目掛けて拳を放つ。

 やはり拳はめり込み、衝撃波吸収されてしまう。

 だが、楽進は弾き飛ばされなかった。

 とにかく前へ進もうとする彼の意思は、拳の反動にすら抗ったのだ。


「ぶへへへ……無駄なんだ……」

「どらぁぁぁぁぁっ!!」


 間髪入れずに第二撃を撃ち込む。

 これもまた通用しないが、楽進の体はさらに前へと進む。

 楽進の拳打は止まらない。

 拳を放つたびに、柔軟な紀霊の肉体に、体をめり込ませる楽進。


 零距離をも超えたマイナス距離。


 紀霊の腹の中で、楽進はひたすらに拳を繰り出し続けている。

 一発一発が全身全霊。

 度重なる衝撃を受けて、いつしか紀霊の回転は止まり、その肉体を大きく揺さぶっていた。


「ぐぅ!? ぶぇ!? どへ!?」


 最初は蚊に刺されたほどの痛みだった。

 だが、それが徐々に大きくなり、前進へと広がり始めている。

 紀霊は、今まで全く決定打を受けなかった故に、痛みに対して非常に鈍感だった。

 この未知の感覚にどう対処してよいか分からないのだ。

 それこそが、彼の命取りとなる。

 彼は己の危機的状況も理解できず、ただ困惑するしかなかった。


「だぁぁぁぁらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 いつしか紀霊の体は、球形から引き伸ばされた小麦粉の生地のような楕円型となっていた。

 突き刺さる拳が肉を抉り、衝撃を内部に伝えていく。

 内臓は揺さぶられ、背面から沸き立つ泡のように浮き上がる。

 血塗れの男が不定形の肉の塊を相手に拳を連打している様は、戦慄に足るものだった。


 両軍の兵士は、眼前の光景に圧倒される。


「公達……」

「驚いているのは私も同じです……彼の強さが、これほどだったとは……」


 荀攸も、楽進の底知れぬ強さに慄然となっていた。袁術は尚のことだ。

 この中で微笑みを保っている人物と言えば、曹操ぐらいのものである。

 彼は最初から全てを見通していたような目つきで、楽進の戦いを見守る。

 


「んッだらぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 塵も積もれば山となる……

 楽進の拳打によって紀霊の全身に拡散している衝撃は、確実に蓄積されていた。

 そして、その量が限界値を突破した時……


「ぶへぇぇぇぇぇぇぇ!?」


 紀霊の野太い悲鳴が響き渡る。

 ついに楽進の拳は、肉の鎧を潜り抜け、その内臓へと到達したのだ。

 ここからが正念場……楽進は、不屈の闘志と不断の集中力でもって、更に更に前へと突き進む。


 剛拳の一撃一撃が、紀霊の内臓を揺さぶり、破砕する。

 肉の防御壁が無力化した以上、後は無残なものだった。

 折れるはずの無い骨が折れ、潰れるはずの無い臓物が潰れて行く。

 この一方的な公開処刑に、敵は愚か味方さえも戦慄する。

 この時の楽進の顔は、戦闘に愉悦する狂貌と化していた。



「だぁぁぁらぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」



 これがとどめの一撃となった。

 完全に力を失った紀霊は、体に突き刺さる衝撃で命脈を絶たれる。

 内臓が纏めて潰れ、骨格も粉々に破砕される。

 首を出した紀霊は、白目を剥き、口から盛大に血を吐く。


「は……ぢ……み……づ…………」


 それが彼の断末魔となった。

 間髪入れずに楽進の拳が脳天に刺さり、その脳髄ごと頭蓋を叩き割ったのだ。


 紀霊の全身から急激に力が抜けて行く。

 空気の抜けた風船がしぼんで行くように、紀霊はぐにゃぐにゃの肉塊と化す。

 そこにあったのは、命失ったただの肉の塊に過ぎなかった。


「………………」


 死闘を繰り広げた敵の亡骸を見下ろす楽進。

 この時点で、袁術軍は十分に畏怖している。

 だが、これではまだ足りない。

 楽進の勝利を決定的なものとするためには、最後の儀式を行う必要がある。


 楽進はその場に屈みこむと、紀霊の頭を両手で掴む。

 そして、両腕に力を込めて……



 その生首を、首の付け根から引っこ抜いた。


 

 噴き上がる血が、楽進の全身を染める。

 彼の手は、絶命した紀霊の生首を頭から掴んでいる。


 その姿は、敵のみならず味方も絶句させた。

 楽進は血塗れの体のままで、後方の曹操へと向き直る。



「曹操様! 楽文謙! 敵将、紀霊! 討ち取りましたぁ!!!」



 その大声は、いつもの楽進のように真っ直ぐなものだった。

 他の将兵達が絶句する中、曹操は笑みを浮かべたまま、満足げに頷く。

 そして、手を叩くことで賛辞を送る。


(敵対者を撃滅するまでは決して止まらぬ熱情……それこそが楽進、そなたの力よ)


 子供のような素直さの中に秘められた、歯止めの効かぬ闘争本能。

 自分の下に集った新たなる才に、曹操は惚れ惚れする思いだった。




 一方、紀霊を討ち取られた袁術軍の動揺は惨憺たるものだった。

 兵士の誰もが、阿修羅の如き楽進の戦いぶりに恐怖している。


「き、紀霊……」


 そして、最も信頼する将軍であり、

 長年に渡って可愛がって来た紀霊を殺された袁術は……


「紀霊ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」


 彼の脳裏に、紀霊との思い出が蘇る……



 山中で暮らしていた怪物のような大男を、蜂蜜で手なづけてやった頃……


 初陣で勝利した紀霊に、蜂蜜を振舞ってやった頃……

 

 紀霊の中に乗り、縦横無尽に宮殿内を駆け回って遊んだ頃……


 互いに笑いあったあの頃……

 その、甘く楽しい思い出の数々は、今でも鮮明に思い起こせる。


 そんな紀霊の死を目の当たりにした袁術は……










「ふん!!」


 不愉快極まる顔で、鼻を鳴らした。

 その表情は、果てしないほどの侮蔑の色で濁っている。



「ざまぁないでしゅね……紀霊!」



 嘲りの視線で紀霊の亡骸を見る袁術。

 この歪んだ表情こそ、紛れも無い彼の本心だった。


「一応使えるから、愛玩動物ペットとして飼育してやったものを……

 あんな下賎にゃ男に負けて死ぬにゃんて、

 所詮は醜い豚……ただ穀潰しに過ぎなかったんでしゅ!

 全く、お前に食わせてやった蜂蜜が勿体無いでしゅよ!!」


 彼にとって、自分以外に大切なものなど存在しない。

 それ以外は全て、隷属すべき下僕であり、都合よく使える捨て駒に過ぎないのだ。

 どれだけ手塩にかけて育ててきた配下であろうと、死ねばただの役立たず。

 一辺の憐憫も施すつもりは無かった。


 自分の為に奮闘した紀霊でさえも、ただの醜い肉塊にしか見えない。


「あ〜あ、気色悪いものを見せられたお陰で、興が削がれたでしゅ。

 曹操バカの討伐は他のバカに任せて、ボクちゃんは寿春でゆっくりしましゅよ〜〜」


 そんなことを言っているが、実際は紀霊を失ったことで袁術軍の敗色は濃厚となった。

 数が互角ならば、後は優れた将のいる方が形勢を決する。

 袁術もそれを分かってはいる。しかし、決して表には出さない。

 

 寿春へ引き揚げれば、地の利はこちらにある。

 領土の守りを固めて、各地の群雄が互いに削りあうのを待てばよい。

 この借りを返すのはそれからだ。

 ならば、ここは無駄な兵を費やさずに、素早く寿春まで撤退すべし。

 常に呆けているようだが、袁術は妙なところで決断力があった。


 自分は既に皇帝であり、天下の覇者なのだ。

 諸侯は悉く滅び去り、天の栄光は自分の頭上で輝く……それは必然の流れなのだ。



 そう自分に言い聞かせながらも……袁術の顔は、拭えぬ屈辱で歪んでいた。




 負傷した楽進は、後衛へと引き戻された。

 本人はまだ戦えると言っていたが、その通りにさせるわけにはいかない。

 名誉の一勝を上げた楽進を、同僚達は拍手と喝采で出迎えた。


 そして……一騎打ちに勝利し、いよいよ全面対決が始まらんとする時に……


「袁術軍、後退していきます!」


 その機先を挫くような報がもたされる。

 しかし、荀或らに驚いた様子はない。これも予想通りだ。

 あの保身に長けた袁術ならば、敗色が濃くなった今わざわざ戦おうとはしないだろう。


「叔父上、追撃しますか?」

「いや……逃げる敵を追うのは存外に難しい。

 当初の予定通り、そのまま寿春に帰してやるとしよう」


 このまま向かってくるならば、いくらでも戦術で翻弄することが出来るが、逃げることに徹されてはそれも難しい。

 逆に、こちらの被害が大きくなる可能性が高い。


 楽進が紀霊を討ち取り、袁術軍は撤退した……

 ここまで全て……荀或の計画通りである。


 許可を求めるように、曹操の顔を見る。

 彼は笑みを崩さぬまま、こう答えた。


「そなたらに一任する……と言ったはず。好きにするがよい」

「は……」


 主の信頼に、荀或は胸が熱くなる。


「余の申し付けたこと、勿論覚えていような?」

「勿論でございます。曹操様……」


 袁術への対応を一任されるに当たって、曹操が出した注文とは、以下の一言だった。




「こちらの兵を極力損なうこと無く、袁術を破滅させよ」



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