第十一章 皇帝僭称(二)
「初めまして、曹操様。
荀攸、字は公達と申します。
此度は私を取り立てていただき、誠に感謝いたします」
曹操の前に立つ青年は、小川のせせらぎのような声で語りかけながら一礼する。
すらりとした長身に、女性のような柔和な顔の美青年で、
艶やかな青緑色の髪に、宝石のような潤んだ青色の瞳を持っていた。
隣に居る荀或よりも頭一つ分以上は背が高いが、彼は荀或の甥に当たる。
不老年齢があれば、このような事態は珍しいことではなかった。
「うむ。そなたのことは、荀或が散々自慢しておったぞ。稀代の俊才だとな」
そう言われて、荀或の方が照れくさそうな表情になる。
「そうなのですか? 叔父上……」
「いやぁ、公達。お前は本当なら僕よりもずっと早くに出世して然るべき男だからね」
それを聞いた荀攸は、深く感じ入ったように微笑むと、その場に膝を突いて臣従の礼を取る。
「光栄です。殿や叔父上の御期待に添えるよう、全身全霊でお仕えすることを約束いたします」
繊細そうな容姿の内には、決して折れぬ芯が通っている。
「では、早速ですが……曹操様。
是非、将として推挙したい人物がいるのですが、どうか御足労願えませんか?」
「ほほう。領土内の目ぼしい人材はあらかた取り立てたと思っておったが、
まだ優れた人材が野に埋もれておったか」
人材と聞いて、曹操は目を輝かせる。
「これ、公達。ならばその者をこちらへ呼び出せば済む話であろう」
一方、不敬とも取れる甥の進言を、荀或はたしなめる。
「いえ……彼の実力を知っていただくには、あの場所に来て頂くのが最も速いと思いまして」
「余は一向に構わぬぞ。その者がどのような生を送ってきたか……
それを確かめずして人材は見極められぬからのう」
そこで、荀或は自分自身のことを思い出す。
曹操はかつて、荀或の評判を聞きつけていきなり家に上がりこんだ過去の持ち主である。
人材を得るためには、どんな労苦も惜しまないのだろう。
それは、地位を得て天下を狙う身分となった今も変わらない。
「曹操様が多忙な身の上なのは承知しております。
それほど時間を煩わせるつもりはありません。
“彼”がいるのは、許都のすぐ近くにある……練兵場なのですから」
そして……
荀攸の招きに応じて、曹操と荀或は練兵場を訪れた。
なお、身分が知られて騒ぎになるのはまずいということで、三人とも灰色の頭巾を被って顔を見えにくくしている。
彼らの正体を知っているのは、兵舎を預かる上官だけである。
既に日は沈み、夕闇が辺りを包み始めていた。
「こんな時間にやって来て……荀攸、兵の調練はもう終わっているじゃないか」
見れば、訓練を終えた兵士達は皆兵舎へと引きあげていく。
「いえ……これから始まるのですよ」
謎のような一言を漏らす荀攸。
「じらすなぁ……早く教えてくれればいいじゃないか」
「いやぁ、余は楽しんでおるぞ? 種明かしは、後回しにすればするほど盛り上がるからのう」
「はぁ……殿がそう仰るなら……」
「さぁ、こちらです。殿、叔父上」
荀攸に導かれ、護衛の兵を伴って曹操らは兵士達が集まる兵舎へと向かう。
兵舎の中は、いかにも荒くれといった風貌の男達でひしめいていた。
長い訓練が終わり、今は皆思い思いに酒を飲んだり、談笑している。
土と汗の臭いが、部屋中に充満している。
(む…………)
繊細な文官肌である荀或は、どうも屈強な男達に囲まれている状況に慣れない。
優男というなら曹操も荀攸も同じなのだが、彼らは全く意に介した様子は無い。
荀攸は、見えにくい場所にある地下へと続く階段へ向かう。
甥が見せたい人材とは、地下にいるのだろうか……
地下に降りた荀或が耳にしたのは、圧倒的な歓声だった。
そして、次に聞こえてくるのは、拳と肉がぶつかり合う音。
骨肉が軋む音が、広い空間で反響している。
鎧を脱いだ何人もの兵卒が、密集して大きな環を成している。
その中心で、二人の屈強な男が殴りあっている。
上半身裸の肉体は筋骨隆々で、両者一歩も引かぬ戦いを繰り広げているが……
やがて一方の男が力尽きて倒れる。
男達の環から、より大きな歓声が湧き上がる。
喜んでいる者、唇を噛み締めて悔しがる者と、反応は様々だ。
「賭け試合か」
曹操は最初にそう漏らす。
その琥珀色の瞳は、未知との遭遇に輝いていた。
「はい。ここでは、兵卒達が徒手空拳で殴りあい、
勝者を予想する賭け試合が行われています」
なるほど……兵卒達が喜んだり悔しがったりしていたのはその為か。
荒くれ男達の日々の鬱憤を晴らす場となっているわけだ。
「して、荀攸。そなたが推挙したい人材はここにいるのか?」
「はい……次の試合には“彼”が出場します」
勝者と敗者が下がったが、観衆の熱気は静まるどころかさらに高まっている。
やがて、観衆を掻き分けて一人の大男が現れる。
禿頭に色黒の体、他の男達より頭一つは優に飛び抜けた巨漢だ。
眉毛は剃っており、その厳つい風貌とあわせて仁王像を思わせる。
その巨体に、荀或は思わず身震いする。
(公達、あの男なのか?)
荀或の質問に、荀攸はただ微笑みで返した。
続いて……
男の対面に、対戦相手が現れる。
逆立った黒髪に赤い鉢巻を巻いた、精悍な顔立ちの青年である。
彼もまた絞り込んだ見事な体格をしていたが、それでも相手の巨漢と比べれば少々見劣りする。
それでも、男に物怖じする様子はない。
強固な意志を瞳に宿し、対面の巨漢相手に一歩も引かぬ覇気をぶつけている。
男は両の頬を掌で強く叩いて、自身に気合を注入する。
「しゃ! 行くぜ……」
審判らしき兵卒の声で、試合が始まった。
「がぁぁぁぁぁぁぁ!!」
鉄槌の如き拳を振り下ろしてくる巨漢。
その剛拳を、男は俊敏な動作で回避する。
「おお!」
思わず曹操は感嘆の声を上げる。武人である彼にはすぐに解った。
軽やかでありながら鮮烈な、一部の無駄も無い足裁きだ。
「ぬぅぅぅぅぅん!!」
しかし、巨漢もまだ食い下がる。一度振り下ろした拳を、今度は横に払うことで、次の動作への隙を無くしている。
だが、男はそれも、大きく身を屈めることで回避してしまう。
「一撃で決めるぜ……」
彼の小声は観衆の声によって掻き消されたが、曹操の耳にはしかと届いていた。
両の拳を強く握り締め、急流の如き動作で敵へと接近する。
「おらぁぁぁぁぁっ!!」
大きく体を捻ると、巨漢目掛けて右の正拳突きを叩き込んだ。
「ごあぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
瞬間……巨大な衝撃が男を襲う。
肉がめくれ、衝撃の槍が体内を貫通する。
そして、熊のように大きな巨体が、木の葉のように吹き飛ばされる。
後方にいた観客たちは、慌てて後ろへと逃げる。
轟音と共に地面に倒れる大男。
その顔は、既に白目を剥いており、口からは白い泡を吹いていた。
「うぉっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
腕を高く掲げて、勝利を噛み締める男。
圧倒的な体格の差を物ともせず、彼は勝利をもぎ取ったのだ。
それを見て、観衆たちが彼の下へと駆けつける。
「やったな! 楽進!!」
「これでまた無敗記録更新かよ」
「また儲けさせてもらったぜ!」
「まぁ、殆ど楽進に賭けたから、大した稼ぎにはなってねーけどな!」
仲間達は、口々に青年の勝利を褒め称える。
青年もそれに笑顔で応えている。
同僚からも慕われている好人物のようだ。
「では、あやつが……」
「彼の名は楽進……私とは旧知の仲です。
彼は、各地を放浪して己の腕を磨いている格闘家で、ここに来るまでに幾つもの試合や大会で連戦連勝を重ねてきました」
「ふむ。兵卒達の格闘大会の覇者か。面白い」
曹操は、早速楽進に興味を持ったようだ。
灰色の頭巾を取り払い、その素顔を衆目に晒す。
「あ、貴方は!」
「曹操様!!」
この場に曹操が来たことを知った兵卒達は、皆一斉に動揺する。
そして、慌ててその場に平伏した。
いきなり自らの主君……雲の上の人間が現れたのだ。
その衝撃たるや、思わず絶句するほどのものであったろう。勿論楽進も同様である。
曹操は、兵卒達の作った道を通って、楽進の前へと立つ。
「面を上げよ」
主に直接話しかけられた緊張感からか、しばし震えていたが、すぐに顔を挙げ、真っ直ぐな瞳で曹操を見据える。
「そなた、姓名と字は?」
「はい! 姓は楽、名は進、字は文謙と申します!!」
よく通る大きな声で応える楽進。
無駄な世辞やへつらいをいれず、ただ問われたことにのみ応える彼の態度に、曹操は好感を持った。
「そなたの戦いぶり、見させてもらった。見事であったぞ」
「ありがとうございます!!」
主に褒められた喜びを、声で全身で表現する楽進。
「最近従軍した戦いは何処だ」
「正月! 宛城の戦でございます!!」
宛城といえば記憶に新しい。
曹操が張繍の騙まし討ちを受け、命からがら逃げ延びた敗戦である。
護衛に突いた兵士の大半が殺され、生き残ったのは僅かだという。
彼は、その生き残りだというのか。
「そなたのような優れた武威を持つなら、余の目に留まっておってもおかしくないのだが」
「軍の殿で、ひたすら戦い続けておりましたゆえ……」
「では、あの時背後からの奇襲が無かったのは、そなたの功績か」
「いえ……俺の代わりに、大勢の仲間が死んでいきました。
俺はたまたま生き残っただけで……」
その時の悔しさを思い出してか、唇を噛み締める楽進。
体にはまだ傷痕が残っており、その時の戦いの激しさを窺わせる。
彼の無念は、曹操にもよく理解できた。
「そなたの自慢は、その腕力か。
見ていて思ったが……そなた、全力を出しておらなんだな」
その発言を聞いて、楽進は大きく目を見開く。
驚いたのは、荀或も同様だった。
あの大男を軽々と倒した一撃が、実は手加減だったというのか。
「その通りでございます……」
感服しながら肯定する楽進。
拳が命中する瞬間、楽進は力を緩めていた。
それを、少し見ただけで見抜かれてしまうとは。
「全力を出せば、相手が死んでしまうからであろう?」
「はい。彼もまた、同じく貴方様に仕える仲間ですから」
この時点で、曹操は楽進の非凡な才気の片鱗を感じ取っていた。
この、豪快ながらも自制に務める男が、全力を出せばどうなるのか。
曹操は元より、彼自身もそれを垣間見たいと思っているはずだ。
「ふ……ならばそなたに、全力を出せる機会を与えてやろう。
次の戦、そなたを将として用いる」
その言葉を聞いた瞬間、楽進の体に電流が走った。
一兵卒から、異例の将軍への大抜擢。
突然の出来事に、観衆達も驚きを隠せない。
楽進は感極まった表情になり、泣きそうな顔で感謝を述べる。
「あ、あ、ありがとうございます! この御恩は一生忘れませぬ!
粉骨砕身、殿がために尽くすことを誓います!!」
己の掌に拳を当て、宣誓する楽進。
曹操は満足げに頷くと、傍らの荀攸に視線を送る。
「暫くは荀攸の下で兵法を学べい。
荀攸、楽進の将器を、余すところ無く引き出してみせよ!」
「御意!」
透き通るような声ながらも、力強く応じる荀攸。
「よろしくお願いします! 荀攸殿!!」
「ああ、こちらこそよろしく頼むよ、楽進」
そんな二人を見ながら、曹操は裾を翻してその場を後にした。
やがて、地下から上に上がった時……階段の下から、どっと歓声が聞こえてきた。
それは、楽進の将軍への抜擢を祝い、喜ぶものであった。
揚州、寿春……
皇帝の地位につき、諸侯を驚かせた袁術だったが、相も変わらず贅沢三昧の日々を送っていた。
各地に己の姿を模した彫像を立て、居城である“蜂蜜宮殿”も、さらに豪華に改築された。
城の象徴である蜜蜂の姿をした袁術は、その頭の上に皇帝用の帽子が載せられている。
その他、皇帝となった袁術の肖像画が所狭しと飾られ、絨毯にも袁術の顔が描かれている。
蜂蜜宮殿は、袁術の肥大化する自尊心を象徴するように、さらにどぎつく悪趣味になっていった。
「ちゅーちゅー、ちゅーちゅー」
管を使って蜂蜜を吸う袁術。
彼の周りでは、蜂蜜で満たされた巨大な甕が幾つも並んでいる。
これも全て、農民を蜂蜜農場で働かせて徴収したものだ。
袁術が皇帝になってからも、民からの搾取は一層激しくなり、彼らの暮らしを圧迫していた。
「むひゅひゅひゅひゅ〜〜
やっぱり蜂蜜は最高でしゅねぇ♪ まさしく帝王の美食とはこれのことでしゅ!」
蜂蜜を飲んで、ご満悦の袁術。
彼の周りでは、宮女達が奇怪な踊りを踊っている。
この腕を曲げ、片足で立ち、滑稽な顔つきで踊る様は、まるで猿のようだ。
これは“袁術舞踊”という袁術自らが考案した舞で、袁術の言う美しさの全てが詰まっているという。
楽師達が奏でる音楽もまた、音程の外れたおかしな曲ばかりで、やはり袁術が作曲したものだ。
曲名は、そのまんま“袁術皇帝陛下を讃える曲”である。
太鼓や琴などの楽器にも、袁術の顔が描かれていた。
踊り子や楽師達は、皆袁術にどことなく顔が似ていた。
それを条件として、領土中から彼女達をかき集めたのだ。
「おい、そこのおみゃえ」
「は、はい! 私でございますか?」
普段あまり人を呼ぶこともない袁術に呼ばれ、動揺する家臣。
「今日のボクちゃんは機嫌がいいでしゅ。
じゃから、特別にこのボクちゃんがしゃぶった管で
蜂蜜の残りを吸わせる栄誉を与えてやるでしゅ!」
家臣の顔が蒼ざめる。
あの袁術の唾液でべとべとになった管で、残り物の蜂蜜を吸えというのだ。
顔を不快で歪めそうになるが、慌ててそれを打ち消す。
「このボクちゃんの皇帝液を舐めれば、下賎はおみゃえらも少しは高貴な気分が味わえるでしゅ!
ボクちゃんの施しに感謝するがいいでしゅよ。ぶひょひょひょ〜〜!」
聞くに堪えない妄言ながらも、逆らうことは許されない。
家臣は精一杯の笑顔で、蜂蜜の入った瓶を受け取る。
「は、ありがとうございます。袁術様……」
その言葉を聞いた瞬間、袁術の顔が激しく歪んだ。
家臣は慌てて訂正する。
「も、申し訳ありません! 感謝いたします、皇帝陛下!!」
陛下……その尊称を聞いた途端に、袁術は顔を綻ばせる。
「ボクちゃんからの賜物でしゅ。管の中まで一滴残らず飲み干すんでしゅよ!」
「ははっ! ありがたき幸せ!!」
蜂蜜を啜る家臣を見ながら、袁術はまた別の蜂蜜へと手を伸ばす。
幾ら飲んでも、幾ら作らせても、彼の蜂蜜への欲求は留まるところを知らないのだ。
「陛下。孫策より書状が届いておりますが……」
震える声で、家臣の一人が進言する。
「ぶひゅひゅひゅひゅ〜〜! ボクちゃんの皇帝即位への祝い状でしゅか?」
「そ、それが……陛下の皇帝即位を悪し様に非難したものでありまして……
事実上の絶縁状かと……」
それを聞いた袁術の表情が、再び曇る。
孫策は、この頃すでに江東を平定し、袁術の下を離反しても戦っていけるだけの勢力を築き上げていた。
彼らは善政によって江東の民の支持を得ている。
それを、今更袁術と手を組んで風評を落とすなど愚の骨頂。
両者の縁が切れるには、袁術の帝位僭称はちょうどよい契機となった。
「ふん! 皇帝の威光をおしょれにゅとは、ふざけた逆賊でしゅ!!
そんなもの、ビリビリに破りちゅてるでしゅ!」
「は……」
玉座に座り、袁術は考える。
(どいちゅもこいちゅも、ボクちゃんの凄さが解らないアンポンタンばかりでしゅ!
今頃は、諸侯全てがボクちゃんの前にひざまじゅいていでもおかちくにゃいはずにゃのに……)
自らの皇帝即位を徹底して無視する周辺諸侯に、袁術は内心苛立っていた。
蜂蜜を過剰に摂取するのも、その苛立ちを鎮めるためである。
今、玉璽は自分の手にある。
即ちそれは、天が袁公路を皇帝として選んだということだ。
許都にいる天子など、所詮は紛い物に過ぎない。
所詮は、朝廷混乱のどさくさに紛れて擁立されただけで、正統とは程遠い。
彼を皇帝と認める根拠など、あの董卓に担ぎ上げられたという前提で崩壊している。
あの天子を認めるのは、董卓の悪行を認めるのも同然だ。
ならば……今この手にある玉璽こそが、最も確かな証明となるのではないか。
玉璽を得たものが皇帝となる……それは、遥か始皇帝の時代より受け継がれてきた中華の伝統だ。
この玉璽の輝きに比せば、漢王朝四百年の歴史など紙屑のようなものだ。
宦官の専横によって朝廷は腐敗し、魔王董卓により蹂躙された。
この時点で既に漢王朝の命脈は途絶えている。
王朝が滅んだ後、帝位の証である玉璽は、めぐり巡って袁術の下にもたらされた。
これは、袁術こそが正統なる皇帝であるという天の配剤に他ならない。
大体……容姿、品格、知性、血統、家柄と全てにおいて、
この中華を支配するのは、自分以外にありえないではないか。
少なくとも、袁術はそれを森羅万象の理の如く信じきっていた。
それを確固たる前提とした上で、袁術は考える。
そして、思考の果てに一つの結論へと至った。
「しょうか……そういうことだったんでしゅね!」
一人で得心している袁術。当然ながら家臣達は意味が解らない。
「袁紹も曹操も呂布も孫策も馬鹿すぎて、ボクちゃんの偉大さを理解できないんでしゅ!!
にゃらば、お馬鹿しゃん達にもわかるよーに、ボクちゃんの威光を示ちてやるまででしゅ!!」
袁術は玉座から立ち上がり、天に向かって手を掲げる。
「全軍で許都を攻めるでしゅよ!!
まじゅは、あの宦官の孫を処刑して、
ボクちゃんを差し置いて天子を名乗る不届き者をひきじゅり降ろすでしゅ!!」
そして、その上で天子の口から自分を正式な皇帝だと認めさせる。
どんな愚鈍な脳味噌の持ち主でも、ここまでされれば袁術を皇帝だと認めざるを得なくなるだろう。
(ああ。能無しの馬鹿のためにここまでやってあげぇるにゃんて、ボクちゃんって何て優しい王様なんでしょ。
ボクちゃんは、この世に舞い降りた救いの天使にゃのかもしれましぇんね〜〜)
袁術の頭に天使の環が浮かび、蜂蜜色の翼が背中から生える……
そんな気分に浸りつつ、許都侵攻を頭に思い浮かべる。
許都を落としたら、まずあの憎き曹操を自分の前に引きずり出し、散々命乞いさせた上で殺す。
その過程で何をさせるか想像するだけで、袁術の気持ちは高鳴った。
(靴に蜂蜜を塗って、それを嘗めしゃしぇるのも面白そうでしゅね〜〜
ああ、それだと大切な蜂蜜が曹操の汚い舌で汚れちゃいましゅね)
そして、献帝に自分を正式な皇帝だと認めさせる。
さすがに殺すのは不味いが、たっぷり蜂蜜を飲ませて、後ろで寝ている紀霊同様、蜂蜜の奴隷にしてやる。
(そして…………)
曹操の討伐は所詮通過点。
袁術は、更なる未来を見据えていた。
仲の初代皇帝袁術が作り出す新たなる中華。それは……
(まじゅ、蜂蜜農場を中華全土に広げるでしゅ。
それで、民草に蜂蜜をじゃんじゃん作らせて、中華を蜂蜜で染め上げるんでしゅ!!
蜂蜜で埋め尽くされた黄河で泳いだら……むひゅひゅ! きっと愉しそうでしゅねぇ!!)
袁術の脳裏に浮かぶのは、永劫に蜂蜜を生み、蜂蜜で染め上げられた甘く夢のような世界。
黄河も長江も、全て蜂蜜で埋め尽くす。
それは、ずっと袁術が夢見てきたことだった。
夢を現実にする……それこそが、皇帝にのみ許された最高の娯楽ではないか。
家を作るのにも、風呂に入るにも蜂蜜を使い、民から蜂蜜以外の飲み物を全て禁止する。
そうなれば、中華の住民全員がその虜となり、蜂蜜無しでは生きていけない体となる。
やがて、全ての蜂蜜の流通権を握る皇帝が、中華の全人類を支配するようになるのだ。
「うきゃきゃきゃきゃ! 永久にして不滅なる、甘美な楽園……
“蜂蜜帝国”をこの世に築き上げましゅよぉぉぉぉ!!」
度を超えた願望は、袁術の驕慢をさらに膨れ上がらせる。
蜂蜜皇帝袁公路の野望は、留まるところを知らない勢いで拡大していった。