第十章 悪来無双(六)
「そ、曹操様! あれを御覧ください!」
地平線の彼方を、工具で指し示す李典。
砂塵の奥に見える軍勢が掲げるは、『曹』の字が描かれた旗。
中には、『夏侯』の旗も見える。軍を率いてるのは、夏侯兄弟のいずれかだろう。
「味方です! 我が軍が救援に馳せ参じてくれました!!」
李典の顔が歓喜に綻ぶ。それは、他の将兵達も同じことだ。
四千人いたはずの曹操の護衛は、今ではたったの二十人程度にまで減っていた。
それだけ、ここまでの道のりが困難だったということだ。
しかし、曹孟徳は、今も健在である。
李典は、同胞の死を悼みつつも、彼らの犠牲が無駄にならなかったことを喜んだ。
一方、曹操の顔には喜びも悲しみも無い。
ただ呆然と、地平線の彼方を見据えている。
その横顔を見ながら、李典は主の複雑な心境に思いを馳せる。
「孟徳――――ッ!」
高順の妨害を突破した夏侯惇は、曹操の姿を目に留めるや否や、一人馬を走らせる。
「もーとく様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
それは、許楮も同じだ。主の生還を喜ぶあまり、二人は軍を飛び出し、真っ先に曹操の下へと駆けつける。
「惇……許楮……」
「殿ぉぉぉぉぉぉ!!」
腕の鎖鉄球を外して、曹操へと飛びつく許楮。
「よかった……よかっただ、殿がご無事で……」
許楮は涙を流して、誰よりも大切な人の生還を喜ぶ。
曹操はしばし戸惑うが、優しく微笑むと、許楮の黒髪を撫でてやる。
「さすがに……悪運だけは一流だな」
憎まれ口は、嬉しさの裏返し。
そんな夏侯惇に、曹操は笑みを浮かべてやる。
しかし、そう喜んでばかりもいられない。
残った兵の数を見れば、彼らがどれだけの危難を潜り抜けてきたかすぐに解る。
そして、一番目立つはずの男が、今この場にいない。
「典韋は……」
「…………」
無言でそっと目を伏せる李典。
その顔つきには、苦渋も悔恨も全て込められていた。
それだけで、夏侯惇は全てを察し、口を開こうとはしなかった。
だが……
「……!!」
夏侯惇の哀悼の表情が、一瞬で戦に臨む修羅の形相に変わる。
その右眼が見据えるのは……両側を囲む、切り立った崖の頂点……
そこに、黒い人影が見えた。
あまりに遠すぎる故、その姿は判然としないが……
彼の持つ武器の形状は、辛うじて捉えられた。
槍の穂先に、三日月の刃が備わったあれは……
李典達も、あの影の存在に気づいたようだ。
絶望の象徴である方天画戟に、彼らは絶句するしかない。
曹操の表情は変わらず、ただ無言で崖の上を見つめている。
夏侯惇は大鎌を構え、馬を前に進める。
“奴”が現れた時点で、夏侯惇は全てを察しつつあった。
あの典韋が、例え何人がかりであろうと張繍軍程度に後れを取るはずがない。
だが、“奴”が相手ならば……
高順が現れた時に感じた予感は、まさに現実のものとなったのだ。
最悪の敵を前にしても、夏侯惇は自分を見失わなかった。
今己がすべきことは、全身全霊で孟徳を護り、許昌まで生還させる。
例え、典韋の後を追うことになろうとも……
典韋や多くの勇将達の死を、彼らが孟徳に託した思いを、無駄にするわけにはいかなかった。
張り詰めた緊張感が、その場に流れる中で……
崖の上の武将は、あるものを曹操軍に向けて放り投げた。
「!?」
その黒い物体は、地面に落下して突き刺さる。
その後……崖上の男は背を向けて、姿を消す。
もう、用は済んだとばかりに。
「あ、あれは……」
震える声で許楮が呟く。
地面に落ちた物体……それは、典韋が常に装着していた、角の生えた兜だった。
「あ、あ……」
それを目の当たりにした李典は、体中を震わせる。
「悪来ぃぃぃぃぃぃ!!!」
号泣しながら馬を降りて走り出し、典韋の兜へと縋りつく李典。
頭では理解していても、認めたくなかった事実……
冷静さを保つ為に、あえて目を逸らしてきたものを……
目の前でまざまざと見せ付けられ、李典の感情の堰は音を立てて決壊した。
滂沱の涙を流しながら、ひたすらに親友の名を呼ぶ李典。
許楮もまた、溢れる涙を抑えきれず、曹操の腕を離れてその場に駆け寄る。
「そんな……どうして死んじまったんだよ、典韋……
おめぇはおらと一緒に、もーとく様をずっとお守りするんじゃなかったのがよぉぉぉ!!」
悲しんでいるのは二人だけではない。
ずっと曹操に付き従っていた兵士達も、勇将の死を前に一斉に涙を流す。
夏侯惇も……同胞の死に深い悲しみを覚えつつも、油断無く崖上に注意を払っている。
敵の気配は完全に消えた。
何のつもりか知らないが、どうやら奴はこの兜を曹操の下に届けることだけが目的だったらしい。
何故あの呂布が戦いを捨てて立ち去ったのか。
元より、あの男の考えなど、夏侯惇に理解できるわけも無い。
そう思いながら、曹操の方を見ると……
「孟徳……」
彼は、不快そうに顔を歪めていた。
それは部下を失った悔しさや悲しさ、そして敵への怒りに震えているように見えるだろう。
そんな彼を見て、夏侯惇は傍により、肩を叩く。
「泣け……とは言わねぇ。悲しめ……とも言わねぇ」
夏侯惇はよく理解していた。
曹操のこの表情の意味を……彼の内にある本当の思いを……
「だから……俺達のことを気にして、無理してそんな顔をするな。
お前はお前のままでいればいい。
あいつの死に悲しむのも、あいつの無念を晴らすのも……全部俺達が引き受ける。
お前はただ、前に進んでりゃそれでいいんだ」
それだけ言って、夏侯惇は手を離す。
曹操は、彼の背中を見ながら思う……
そうだ。自分には何も無い。
悲しみも、憎しみも、悔しさも、怒りも、何一つ沸きあがってはこない。
自分に出来るのは、部下の心情を慮って悲しむ“ふり”をするだけだ。
そんなことを、至極冷徹に計算している自分がいる。
何と言う人非人だろう。
あの勇将、典韋は、こんな男のために命を落としたのだ。
あの時典韋は……自らの死を覚悟して、主を逃がした。
曹操には、到底理解できない心情だ。
とんだお笑い種だ。
人ならざる典韋の方が、こんな自分よりもよっぽど人間らしかったのだ。
典韋は人間になって死んだ。
そして自分は、人間として大切なものが欠けたまま浅ましく生き続けている。
部下の命を糧として。信頼に応えるふりをして徹底的に利用して。
自分の好きに生きることしか考えていない。
人は自分を超越者などと呼ぶ。
だが、曹操にしてみれば、人を越えた先にあるものなど、ただの無でしかない。
ただ思うがままに生きる存在など……破格でも英傑でも何でもない。
機械にも劣る人間失格だ。
己のあるのは虚無。果て無き暗黒の無でしかない。
それを理解しながらも、何一つ思うことはない。
夏侯惇の言うとおり……結局自分は、前に進む以外に能の無い人間なのだ。
冷たい顔で天を仰ぎ、曹操は部下たちの慟哭に耳を傾けていた……
遠州に侵攻した張遼率いる軍勢は、郭嘉らの奮戦により撃退された。
許昌に帰還した曹操は、他勢力への警戒を強めつつも、張繍への報復を開始。
怯えきった張繍は、劉表の下に庇護を求める。
折り悪く、袁術や呂布の圧力が強まっていた情勢下ゆえに、曹操は張繍を追撃することが出来なかった。
そして……
「ど、どうも。曹司空殿……此度は、我らを受け入れてくださり、誠に感謝いたします……」
引き攣った笑顔で、挨拶する赤紫色の髪の男。
「堅苦しい挨拶は良いぞ。知らぬ仲でもあるまいし」
その男を、意地の悪そうな顔で見上げる曹操。
彼は今、立派な朝廷の正装に身を包んでいる。
一方の男は、長旅でぼろぼろになった外套を羽織っている。
「へ、へい……」
「しかし、どういう風の吹き回しかのう。
あの徳高き情義の英傑、劉玄徳が、よりによってこの余を頼るとは」
顔中に悪戯っぽい笑みを浮かべて、揶揄するように言い放つ。
劉備はさらにバツの悪そうな顔になり、頭を掻きながらぼやく。
「そりゃ、他に行くところがねぇから……」
そんな劉備の言葉を、関羽の咳払いが遮った。
慌てて口を塞ぐ劉備。
今の台詞は紛れも無く彼の本音で、拠点を持たぬ放浪生活も限界に達していた。
呂布からも袁術からも敵視される中、徐州の近辺で頼れる勢力と言えば、もう曹操以外にいなかった。
「はははは、正直な男は嫌いではないぞ、劉備」
「い、いやぁ。ここには天子様もおわしますしね。
俺だって皇族の端くれ。天子様がやる気を出しておられるなら、
こりゃあ漢王朝の再建に手を貸さねばなるめぇ、とまぁそんなわけでして……」
もっともらしく述べる劉備。
「そう言いながら、本音はこの曹操を引き摺り下ろし、天子様を誑かして皇帝の座を奪い取る算段ではあるまいな?」
「い、いいえ! そのようなことは、め、滅相もございません!!」
曹操の鋭い指摘に、劉備はしどろもどろになる。
見かねた関羽が、横から口を出す。
「曹操殿。兄者の態度が癇に触ったのならば、この関羽が非礼をお詫び申し上げる」
深々と頭を下げる関羽。
その誠意ある態度を見て、曹操も矛先を収める。
「ふ……余も少々悪戯が過ぎたようだ。詫びるのはこちらの方であったな」
一転して穏やかな笑みになると、こう言い残して立ち去る。
「そなたらには、後に然るべき官位を授けよう。
長旅ご苦労であった。この許都でしばしその羽根を休めるがよい。義侠の渡り鳥たちよ」
「ふぅ……何とか上手く行ったな」
「何一仕事終えたみてーな面してんだよ。
曹操が機嫌を直したのは、雲長兄貴が頭下げたからだろうが」
義兄の足を軽く蹴る張飛。
「ってぇな!」
「しかし、本当にどうしたのだ? 随分浮き足立っているように思えたが」
劉備は、おどけているようで他人や敵の前では実に沈着冷静に振舞える男だ。
関羽にそう言われ、劉備は頭を掻き、曹操が去って行った方向を見やる。
「あの野郎……前会った時よりずっとでかくなっていやがった。
それを見てると……いてもたってもいられなくなってよ。
逸る気持ちを抑えようとしたら……ああなっちまった」
なるほど……関羽は頷く。
あの一見卑屈に見える態度は、内なる対抗心を抑えようとしてのことか。
王者の器は王者だけが知る。
僅か数年で、天子を戴き、都を構えるほどの勢力にのし上がった曹操。
その手腕は実績が証明しているが、義兄はそれ以上の進化を曹操自身から感じ取ったのだろう。
「ま、あいつ相手に下手な演技しても見抜かれるのが落ちさ。
あのぐらいにしとくがちょうどいい」
さばさばとした態度でそう言い放つ劉備。
「それより! 速く官舎に行こうぜ。俺ぁもう腹ぺこで死にそうだぜ」
「そうだった! 俺はもう三日も水しか口にしてなかったんだった!!」
張飛の腹の虫が鳴る。長い間逃亡生活を続ける内に食糧は尽きかけていた。
とにかく今は、兵士達の食い扶持を確保する……それだけでもここに来た意味はある。
後のことは、まず腹を埋めてからだ。
そして……
「そういやぁよ……雲長、益徳……」
官舎に向かう途中で、劉備はぼそりとこんなことを口にした。
「俺ぁ……あいつの笑っている以外の面、見たことねぇんだが……」
<第十章 悪来無双 完>