第十章 悪来無双(二)
渾元暦197年。
曹操は張繍の治める荊州、宛へ出兵。
震え上がった領主の張繍は、曹操に全面降伏を申し出る。
曹操もそれを受諾し、張繍との会見に応じる。
「そ、そ、曹操様! 此度は僕たち……
い、いや、私達の降伏を受け入れていただき、心から感謝しております!!」
張繍は、全身を震わせて、地に頭を擦り付けんばかりに平伏している。
青緑色の髪を短くまとめ、長方形の眼鏡をかけた青年だ。
不老年齢は17歳ほどで、薄い水色の着物を着用している。
その態度といい、容姿といい、実に弱弱しい印象を受ける男だった。
弱気な態度は荀或に似てなくもないが、彼には荀或のようないざとなったら決して退かない胆力がまるで感じられない。
彼の震えも、曹操への感謝ではなく、恐れから来るものなのであろう。
張繍の他の臣下や将兵も、皆曹操への恐れを隠せない。
最も彼らが恐れているのは、曹操以上に彼の傍に侍る巨大な鎧武者の方だろうが。
典韋は無言で屹立し、周囲に威圧をばら撒いていた。
「これこれ、そう怯えるでない」
「ひぃっ……!?」
肩に手を置こうとした曹操に、張繍は怯えた声を上げる。
その反応は演技ではない……と曹操は確信していた。
その上で、穏やかな笑顔で語りかける。
「感謝するのは余の方だ。
そなたが迅速に降ったお陰で、双方無駄な犠牲を生まずに済んだのだからな」
「そ、曹操様……」
張繍は顔を上げ、曹操の顔を正面から見る。
その慈愛に満ちた顔は、張繍の心を僅かながら安堵させた。
曹孟徳の巨大な器を、張繍もまた感じ取っていたのだ。
自然と瞳から涙が流れる。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 曹操様…………」
曹操の寛大な心に、張繍は心の底から感謝していた……
「いやぁ、良かったよ賈栩。お前の言うことを素直に聞いておいて」
自室に戻った張繍は、彼の片腕である軍師に感謝の言葉を送る。
賈栩はそれに対して微笑を漏らす。
彼は一年ほど前から、張繍の軍師として彼に仕えていた。
時たま無断で姿を消すなど、どうも職務に怠慢なところはあるが、
その献策は全て理に適っており、参謀として重用されていた。
今回の曹操に全面降伏せよという提言も、賈栩が発したものだ。
張繍は、曹操の顔を思い出し、天井を見上げる。
「乱世の奸雄だなんてのはただの風聞だったんだな。
曹操様……あの人になら、僕は本気で仕えてみたくなったよ」
あの慈愛に満ちた笑顔を思い出し、張繍は瞳を輝かせる。
そんな彼を見て、賈栩は密かに不敵な笑みを浮かべた。
そして、あくまで慇懃にこう告げる。
「張繍殿……恐れながら申し上げますが……
貴方は本気で、あの曹操を信じておられるのですか?」
「え……?」
賈栩の言葉を聞き、張繍の表情は一転して危ういものとなる。
あまりに解りやすい奴だと賈栩は内心苦笑する。
「確かに噂には大なり小なり尾鰭がつくもの……
しかし、火の無いところに煙は立ちませぬ。
曹操が、世評通りの奸智に長けた人物であることは、この賈栩はよぉく承知しております」
「そういえば……お前はかつて董卓や呂布の下で、曹操と戦ったこともあったのだったな」
「はい……彼奴めのやり口は熟知しております。
甘い顔を見せておいて、後に言いがかりをつけて首を刎ね、
宛の利権を全て奪い取るつもりかもしれませんぞ」
首……という単語に、張繍は背筋が凍る思いになる。
「そ、そんな! 僕は権力なんて要らない! 命さえあれば……」
「張繍殿が、実に純粋無垢な心を持つお方であることは、この賈栩は良く解っています。
しかし、果たしてそれをあの疑り深い曹操が信じるかどうか……
将来の禍根は絶つべしとの考えもあります。
お忘れですか? 曹操は徐州を手に入れるために、民百姓も構わず皆殺しにしたのですぞ」
徐州で引き起こした曹操の大虐殺。
意識的にそのことを忘れようとしていた張繍だったが、賈栩の言葉に戦慄を呼び起こされる。
「宛を手に入れるのも、劉表殿の治める荊州攻略への足がかり……
民百姓ですらゴミのように殺した曹操です。
劉表殿への見せしめとして、貴方の首ぐらい、平然と刎ねるでしょうな」
総身の血の気が引いた様子で蒼ざめる張繍。
今の彼から、安心という感情は完全に消え去っていた。
「で、で、では、僕はどうすればいいんだ!?」
必死の思いで賈栩に縋りつく張繍。
その姿に、賈栩は歪んだ喜びを見出しながら、小さな声ではっきりと告げる。
「取るべき道は一つ……曹操を宛城に招き入れ、
闇討ちして亡き者とする以外ありません」
「曹操を……殺す……」
賈栩は笑みを浮かべたまま頷いた。
確かに……正面から戦うのは論外、降伏も死となれば、残る道はそれしかない。
しかし、こうもはっきりと言われては物怖じせざるを得ない。
「では、まさかこの降伏も……」
「勿論、曹操を油断させるための策でございます。
万が一曹操に気取られては全てが水の泡ですので、貴方にも秘密にしておきました。
どうかお許しください」
平然と言ってのける賈栩。
その態度は明らかに不信であるが、曹操への恐怖に怯えた張繍は、そこまで頭が回らない。
「張繍殿の誠意ある平伏を見て、曹操は完全に信じきったことでしょう。
これも貴方の人徳があればこそ。
奸賊曹操は、貴方の清らかなる心に敗れ去るのです」
「そ、そうなのか……?」
「全ては万事抜かりなく進行しております。
この時のために、数年前から営々と準備を進めてきたのです。
この賈栩、張繍殿の心の平穏が為に、必ずや曹操を討ち果たすことを約束いたしましょう」
そういって、その場に膝を突く賈栩。
彼の示した忠誠に、張繍は胸を打たれる。
「そうだな……僕の味方はお前だけだ、賈栩!
他の臣下たちが、僕を馬鹿にしているのに比べて、
お前だけは、ずっと僕のために尽くして来てくれたもんな!」
張繍も、自分が領主の器でないことは解っている。
臣下たちが、内心自分を無能扱いしていることも……
それなのに、この賈栩だけはずっと自分を見捨てず、
この乱世の渦中で、自分を支え続けてきてくれた。
彼ほどの才覚の持ち主ならば、他にもっといい待遇で迎える主君が幾らでもいたはずなのに……
「はい……賈文和の御心は、常に張繍殿のために……」
張繍の瞳に、恐れとは別の涙が溢れる。
このひたむきに自分に尽くしてくれる忠臣に、彼は家族以上の絆を感じていた。
張繍に平伏しながら……賈栩は心の中で、醜悪な笑みを浮かべていた。
(確かに私は貴方を尊敬しておりますよ、張繍殿……
貴方のその愚鈍なまでに純粋な心は、この荒んだ世の中で本当に貴重だ)
勿論……賈栩に張繍への心からの忠誠などあるわけが無い。
張繍に仕えているのは、彼が最も利用しやすい人間だからだ。
些細なことに怯え、確固たる自分を持たず、
人の言うことに流されやすい彼は、賈栩にとって傀儡とするのに実に理想的な人間だった。
元より、元董卓軍だった叔父、張済の後ろについて回っていただけの臆病者だ。
その張済が、他の将兵と同様、長安での董卓と呂布の争いに巻き込まれて死んだので、急遽その地位を受け継ぐこととなった。
本来の彼は、領主はおろか武人の器ですらない。
そこに賈栩が巧みに補佐したことで、形だけでも領主に取り繕うことができた。
張繍は、そのことについても深く感謝している。
全ては賈栩の計算どおりと言うことも知らず……
他の諸侯はおろか臣下にすら自分の存在を秘匿するという頼みも、遵守し続けている。
(曹操……お前はこの張繍殿をどう思った?
ただの臆病なだけの弱者……そう考えたのだろう……
だがな……お前は知らなさ過ぎる。
感情や状況に容易く流され、合理的な判断も出来ない弱者こそが、実は最も恐ろしいことを……)
曹操は、恐怖と合理を用いて乱世を平定する人物だ。
飴と鞭……厳しさと優しさを同時に与えてやれば、人間は屈服すると思っている。
実際、天下のほぼ全ての人間はそれに当てはまるだろう。
曹操の覇業は、人間の理性を基盤としている。
だから解るまい……
ちょっと疑惑を持たせただけで、状況を正しく把握せず、簡単に考えを変えてしまう愚物がいることを……
彼は……強い人間としか戦をしたことがあるまい。
彼に従う人間は、皆曹操の器に魅せられた者達だ。
彼がこれまで戦ってきたのは、黄巾賊、董卓、呂布といずれも揺るがぬ信念を持った強者ばかりだ。
そんな敵が相手ならば、曹操は実際の兵力に関係なく、全力を出し切る。
その結果、彼は修羅場の最中に身を置き続けながら、常に生き残ってきた。
だが、張繍は違う。
彼はあまりにも矮小であるがゆえに、曹操の器の大きさに気づけない。
それが大きいと実感できても、やがてそれを忘れてしまう。
この張繍の“弱さ”は、きっと曹操の予想を遥かに上回るものであるはずだ。
(張繍殿の底無しの“弱さ”……それにこの賈栩の頭脳が組み合わされば、
曹孟徳……お前を死に至らしめる毒牙となる……!)
その上で、今度こそ見極める……
曹操という男の腸に隠された、本当の彼を……
それから……
宛城に招かれた曹操は、毎晩張繍の歓待を受けた。
さすがの彼も、四千の精鋭を引き連れ、警護を固める用心深さは残していた。
さらに、彼の傍には鋼の豪傑、典韋が片時も離れず護りについている。
万が一の備えも万全で、およそ付け入る隙は見当たらなかった。
そして、招かれて三日目の夜…………
「曹操様! これを御覧ください!」
典韋と同行した李典は、曹操の前で図面を広げる。
「おお! これは!!」
図面に描かれていたのは、典韋そっくりの鎧武者だった。
「はい。悪来を元にして開発する予定の試作機でございます」
「ようやく、開発の目処が立ったのか」
「課題は依然山積みですが、これが完成すれば……」
「うむ。中華の戦争は、大きく変わるぞ……!」
変革の予感に曹操は目を輝かせる。
典韋もまた、興味深そうに赤い光を点滅させ、図面を覗き込んでいる。
「悪来よ、そなたも気になるのか。
よく見ておけ……これが、いずれ生まれるそなたの息子たちだ」
「………………」
典韋は思考する。
息子……
まるで想像だにしなかった存在だが、決して悪くない。
自分を元にして造られた子供達が、主の覇業の支えになる……
それは、とても歓迎すべきことではないか。
そしてその時には……
自分もより人間らしい“何か”に近づけるかもしれない。
「問題は動力源です。これだけの大きさを動かすには、
従来の油を用いた内燃機関では数秒で枯渇します。
長時間動かそうと思えば……」
「この数倍の大きさの油を入れる樽を背負わすことになるか。それはあまりにも不恰好だのう」
「ただ、当てはあるのです。
豫州および荊州で採掘されたと聞くある鉱物……
衝撃を加えることで電力を生み出すと聞くそれを用いれば、あるいは……」
「うむ。当面はその鉱物について研究を進めよ。採掘現場は余が抑えるとしよう」
「は…………」
曹操と李典は、夜通し“悪来の子供達”のことについて語り合っていた。
典韋は全く動かないが、いざとなればすぐに起動する。
彼らはまだ知らない……
闇に乗じて命を狙おうとする者達が、ついに動き出したことを……
豫州、許昌……
「急報――! 急報――ッ!!」
曹操不在の間、許都を預かる荀或、郭嘉、程旻の三軍師が集まる部屋に、伝令兵が駆けつける。
「何で……」
「なぁぁぁにごとですかぁ!?」
荀或の言葉を遮って郭嘉が声を上げる。
程旻は無言のままである。
「は……徐州の呂布軍が、州境を破って遠州に侵攻を開始しました!!」
「な……」
「なぁぁぁぁぁんですってぇぇぇぇぇぇ!?」
またも、大声で荀或の台詞を遮ってしまう郭嘉。
荀或は、不愉快な視線を郭嘉に送った。
「詳しい状況を話したまえ……」
一方、やはり全く動じない程旻は、落ち着いた声で説明を求める。
三人は中央に陣図を広げ、今後の対応を協議する。
彼ら三人は、曹操から有事の際の対応を全て任されていた。
「ついに呂布が動いたか……」
「まぁ、呂布軍があ〜のまんまなぁ〜んもせず徐州に留まっている方がおかしかったんですけどねぇ!!」
「やはり、曹操様が荊州に向かった隙を突いたのでしょうね。
今ならば、領土の護りも緩くなると考えて……」
「だが……」
「しかぁぁぁぁし!!」
程旻と郭嘉が、同時に声を上げた。
荀或は、そんな彼らに頷くと、こう続ける。
「これは……陽動ですね。本当の狙いは、宛城におわす曹操様でしょう」
呂布の侵攻は隠れ蓑でしかない……
三人は、瞬時にその結論を、同時に導き出していた。
「さすがに、先輩方もお気づきのようでしたかぁ!」
「当然です。張繍のあの速やかな降伏は、少々不自然に思えましたからね」
呂布と張繍の結託……
入ってくる情報ではおよそ接点の無い両軍だが、
呂布軍が策を用いた戦を行うことは、これまでの戦歴でよく解っていた。
特に荀或は、それで一度苦い思いをしている。
袁紹、劉表、呂布、袁術……四方を強敵に囲まれた今の状況下では、あらゆる展開を考えた上での対応が求められていた。
「殿も十分注意しておられるだろうが……宛城へも援軍を送るべきだろう」
「ええ……しかし、呂布軍も単なる陽動で済ませられるような敵ではありません。
こちらも全力で迎え撃たなければ……」
「でぇぇはぁ!! 夏侯惇将軍と許楮殿を宛城に向かわせましょう!!
残りはすぅべて、呂布軍の撃退に回すってことで一つ一つ!!」
荀或も程旻も、郭嘉の案に賛同する。
曹操の護衛には、典韋と李典もついている。
盲夏侯、虎痴、悪来……
この三将が揃えば、張繍が如何なる謀を仕掛けようが、曹操を守りきれるだろう。
その後、郭嘉は臨時の総司令官として呂布軍討伐に赴き、荀或と程旻は許都の防備を固めることとなる。
曹操不在の間も、曹操軍は十全に機能する。
留守を預かる一人一人が、曹操という男に認められた誇りを抱いて戦に臨んでいるからだ。
今の彼らには、一片の油断も驕りもありはしなかった……