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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十章 悪来無双(一)

 豫州、許昌……


 漢王朝の新たな都を、今日もまた陽の光が包み込む。


 程仲徳の朝は、まず腕立て伏せから始まる。


「九百九十七……九百九十八……九百九十九……千!!」


 筋骨隆々でありながら絞り込まれた肉体から、多量の汗が滴り落ちる。

 続けて、傍らの柄の両側に円形の鉄の塊をつけた器具ダンベルを手に取り、両手でそれぞれ千回こなす。

 それから、腹筋、背筋、屈伸運動を、健康的な汗を流しながらこなしていく。


 毎朝の課題を一通りやり終えると、汗だくの体を朝風呂で流す。

 布で体中を吹いて、清潔に洗われた官服に袖を通す。

 質素ながらも、健康的で栄養のある朝食を食べ、牛乳を一杯飲んで、自宅を出る。


 それが、程旻のずっと変わらぬ朝の日課だった。





 官服を着用した大型の男が、街中を闊歩する。

 その威風堂々たる姿に、道往く人達は感嘆、畏怖と様々な反応を返す。

 しかし、彼の穏やかな人柄は既に城下には知れ渡っており、挨拶をしてくる者も多い。


「ああ、おはよう……」


 程旻もまた、厳つい顔に微笑みを浮かべて、挨拶を返す。

 


 知らない人間が見れば、名のある武官としか思えない彼の容姿。

 だが、彼が肉体を鍛えるのは、結局趣味でしかない。

 彼は昔から、鍛え抜かれた頑強な筋肉に憧憬の念を抱いていた。

 厳しい鍛錬によって培われる汗と努力の結晶は、人間だけが為し得る一種の芸術と言っていいだろう。


 しかし……不運にも彼は、武人としての才能に恵まれなかった。


 かと言って、程旻の肉体は決して見せ掛けだけではなく、一般の兵が相手なら百人二百人が束になってかかろうと敵ではない。

 だが、夏侯惇や許楮ら、曹操軍の第一線で戦う超一流の武将には及ばない。

 武人としては並みを少し超えた程度の才能しかないのだ。


 その代わり、神は彼にその正反対である、叡智を授けた。

 元より、学問にも意欲的な程旻は、熱心に勉学に励むこととなる。

 その結果、彼は超一流の軍師、あるいは政治家とも肩を並べる器にまで成長した。


 世の人間が自分に求めているのは、武ではなくその智……


 それを認識した程旻は、さらに一層勉強に没頭した。

 しかし、その間も、肉体の鍛錬は決して欠かしたことは無い。

 知識を詰め込むにも体力は必要……

 だから、体を鍛えることは文官として生きることと必ずしも相反することではない。


 だが、やはり自分は、武人としての道を捨てきれないのかもしれない……


 程旻は時々、そんな思いに囚われる。







「む、むむむむむむむむむ……」


 異様に大きな体躯を持つこの男は、書物に穴が開くほど睨みつける。

 大男が、掌程度の大きさしかない本を読んでいるのは、かなり不釣合いに見える。

 顔中に血管を浮かべ、顔面は紅潮している。


「があああああああ!! わかんねぇぇぇぇ!!!」


 音を上げて本を引き裂こうとするのを、寸前で思いとどまる大男。

 もし彼が少しでも加える力を強くすれば、書はたちどころに二つに裂けるだろう。


「どうしましたか、曹仁将軍」

「ああ、程旻先生! ここのこれが、どぉ〜してもわからねぇんだ!!」

「ふむ、どれどれ……」


 そう言って、程旻は書物を覗き込む。




 程旻は、週に一度、彼に勉学の指導をしている。

 その相手とは、何と曹操軍でも一番の猪突猛進男、曹仁だった。


 巨大な戦斧を持って戦場を暴れ回るか、馬鹿笑いしながら酒を呑む姿が似合いそうなこの男が、大人しく書物を読み、学問を修める姿など想像できない。

 最も学問と縁遠い男であるが、彼はある日突然、程旻に勉強を教えてくれるよう頼み込んだ。


「一体、何故貴方が?」


 失礼ながらそんなことを聞いてみたが、曹仁は頭を掻いて恥ずかしがる素振りを見せた後、こう応えた。


「あ〜……俺ってばいつも惇兄や曹洪にバカ扱いされててよ。

 ここは一つ、俺も勉強して頭良くなって、あいつらを見返してやりたくなったのさ!!」

「なるほど……」


 理由はともかく、向上心を持つのは良いことだ。

 自分に苦手な分野ならば尚のこと。


「ですが、何故私に?」


 程旻の知る限り、自分と曹仁との間に特別な接点など無いのだが……


「荀或はよぉ……昔から弟みたいに見てきたせいか、どうも教えてもらうのが恥ずかしいんだよなぁ。

 郭嘉はほら、あいつ言っていること全然わかんねぇだろ。

 そうなると、もう後は程旻さん以外いねぇんだよ」


 一人は親しすぎる為、もう一人はあまりにも理解を越え過ぎている為、消去法で彼が残ったのだ。

 元よりこの程度で気分を害す性格ではない。程旻は素直に納得した。


「なぁ頼むよ程旻さん! 俺の先生になってくれよ!!

 俺ぁ自分の駄目なところ直して、もっと殿のお役に立てる男になりてぇんだ!!」


 曹仁の真っ直ぐな気持ちに打たれたのか、程旻はその申し出を了承した。

 





「ああ!! なぁぁるほど!! そうなるのか!! ようやくわかったぜ!!」


 程旻の懇切丁寧な説明を受け、曹仁はようやく理解したようだ。


「理解するだけでは足りませんよ。何度も復習して、決して忘れないようにしないと」


 見ただけで全てを記憶できる人物など、あの郭嘉ぐらいのものだろう。


「おう!!」

 

 大きな口に並んだ、白く健康的な歯を見せて笑う曹仁。

 そんな教え子を見ながら、程旻は思う。


 程旻をも上回る彼の巨体。

 まさに曹仁こそは、戦の申し子として生まれた男だ。

 程旻が求めても手に入れられなかったものを、彼は持っている。

 その彼は、この自分に勉強を教えるよう頼み込んでいる。


 一方は、武人になることを願いながら文官の才を授かり、

 もう一方は、武人の才を持ちながらも、足りない知識を求める。


 中々面白い巡り合わせだ……と、程旻は思う。

 

 人と人とが交われば、こんな面白い縁が生まれるものだ。

 そしてそれがこそが、人と交わる人生における醍醐味なのだろう。

 


「ぐがあぁぁぁぁぁぁ!! またわかんねぇぇぇぇぇ!!!」


 そんな程旻の前で、曹仁の知恵熱は再び、大噴火を起こしていた。








 彼は、夢を見る――――



 遥か遠き過去――――



 封じられた、古の記憶を――――




 乾いた風が吹き抜ける原野で、数十万の軍勢が、互いの旗をかざして向かい合っている。


 一方には『周』、もう一方には『殷』の旗が掲げられていた。

 一触即発、張り詰めた緊張感が、両軍の間を漂う。


 『周』の側の王と思しき男が、大声で敵側の王を弾劾する。


昏君フンチュンよ! 酒色に溺れ、忠臣を虐殺し、国を乱した罪は重い!!

 今こそ、そなたの悪逆に、天罰が下る時が来たのだ!!」


 一方、より豪奢な服装に身を包む『殷』の側の王は、その不敬に対し憤怒で応じた。

 侮蔑の念を込めて吐き捨てる。


「黙れ逆賊! そのような虫けらの集まりなど、朕の敵ではない!

 思い知るがいい!! 始祖が残せし、大いなる遺産の力を!!」


 王が両手を広げた時……


 『殷』の軍勢から、何体もの鎧武者が前に出る。


 全身隈なく銅色の鎧兜で覆われた、巨漢の将兵達。

 兜から生える二本の角は、否が応にも『鬼』を連想させる。

 彼らの手には二本の戦斧が握られ、肩には横倒しになった円柱の筒が乗っている。


 数はおよそ三十。

 だが、その存在は『周』の軍を戦慄させるに足るものだった。


「むぅ……悪来あくらい!」


 『周』の王は、畏怖の念を込めて呟く。

 

 あれこそが、『殷』の切り札である悪魔の兵器、悪来……

 一体が一軍に匹敵する無双の力を誇り、王の命令に絶対服従する殺戮の魔人。

 全く人語を発さず、怪奇な唸り声を上げて敵を虐殺する。

 その剛力と冷血さは敵軍を恐怖のどん底に落としいれ、王の天下を守護してきた。


「往け、悪来よ!!

 朕に刃向かう逆徒どもを皆殺しにせい!!」


 王の命令を受け、悪来達の兜の隙間に、赤い光が灯る。

 こうなった以上、“彼ら”は命令を完遂するまで決して止まらない。

 『周』の軍勢が悉く血肉と化すまで終わらないのだ。


 背中から炎を吹かし、馬に乗っているかのような速度で進軍する悪来。

 『周』の軍勢に恐慌が走り、王もまた迫り来る死に威圧される。


 思わず、強く手綱を握り締めてしまう。

 そんな王の手に、誰かの手が優しく被せられた。


「お下がりください、武王ぶおう

太公望たいこうぼう……」


 聞く者を安堵させる声で、王を落ち着かせたのは、傍らに居る水色の髪の青年だった。

 歳はまだ十代後半か二十代前半に見える。

 右眼は青、左眼は白と、左右の瞳の色が異なる特徴的な双眸を持っている。


 青年は、恐怖とは無縁の穏やかな微笑みを浮かべると、敵陣営を見据える。


「万事、私にお任せください」


 そう言って、青年は前へと歩み出す。


 砂塵を上げて進軍する悪来達を、まるで恐れていない。

 このままでは、真っ先に餌食となるのは確定だ。

 前線の兵隊も、誰もがそう思っていた……


 青年は、その左右色の違う眼で悪来達を見ると……

 

 掌をかざし、ただ一言、小さな声でこう告げた。



「造物主、左慈さじの名において命じる。止まれ」



 たったそれだけで、全ては決した。


 三十体の悪来は、兜の隙間の赤い光が消え、全てその場で急停止する。

 この戦場に居る、全ての人間は唖然となる。

 一体で千の敵を屠る鉄血の魔人が、ただの一言で動きを止めたのだ。


 とりわけ、『殷』の王の狼狽は激しかった。

 今まで、悪来が彼以外の命令を聞くなどありえなかったからだ。


「な、何をしておる悪来! 動け! 動かんか!!」


 声を張り下げて叫ぶ王。

 本来なら、これで悪来達は動き出すはず……

 だが、鎧武者達は、聞こえないかのようにぴくりとも動かない。


 その有様を見て、青年は同情するかのような視線を送る。


(無駄だよ……Xシリーズの命令遂行プログラムの

 優先順位は、創造主である私の方が上だ。もう、君の命令を受け付けはしない)

 

 続けて、青年はこう命じる。



「壊れよ」



 その瞬間……


 三十体いた悪来は、同時に内側から爆散した。


 吹き飛んだ鎧の破片が、『殷』の軍を襲う。


 それ以上に、彼らの精神的動揺は激しかった。

 絶対の自信を持って送った切り札、悪来が、全て止められてしまったばかりか、今また破壊されたのだ。


 恐怖するのは『殷』の番だった。

 妖術……いや、神の御業としか思えない現象に、兵士達の心は揺さぶられる。

 そして彼らは思う……自分達の国が、終焉を迎えようとしていることを。

 これは、天の意思に他ならないということを。


 王は絶句したまま立ち尽くしている。

 ここにいるのは、国を乱した苛烈な暴君ではなく、全てを剥ぎ取られた抜け殻に過ぎなかった。


「武王よ、今です」

「うむ! 全軍突撃!! 昏君を討ち、新たな時代の幕開けとせよ!!」


 王の号令によって、一斉に進軍する『周』の軍勢。

 もはや形勢は決した。

 『殷』の軍勢は完全に気圧され、恐怖のあまり逃げ出すものまで現れる。


 

 そんな中……水色の髪の青年は、軍馬が駆け抜ける戦場を悠然と歩く。

 疾駆する馬の間を、まるで空気に変じたかのようにすり抜けていく。



(暴虐の王は倒れ、易姓革命は成る……

 君たちは良く働いてくれた。

 王の戦力として……そして今また、王の軍勢を崩壊させる原因として……)


 そんなことを考えながら、彼が向かった先は……



「私の命令を拒絶するとは……一体どんな欠陥バグがあったのか……」


 一体の悪来を見上げて、青年は呟く。


 他の悪来達が爆発する中、この悪来だけは最後まで残っていた。

 それでも、依然動けないままで、戦の役に立たないのは変わりない。

 青年は、興味深そうに悪来の鎧に触れる。


「ほう……どうやら君は、少しずつ自我に目覚め始めているようだね。

 自身の喪失となる命令を拒否したのも、それが理由か」


 鎧に掌を走らせる青年。

 その顔は、我が子を慈しむ母親のように穏やかだった。


「いいだろう……私は君を壊さない。

 しばしの間、眠りにつきたまえ……

 この時代では、主に恵まれなかったけど、

 いずれふさわしい主が、君の下に現れるだろう……」


 そういい残して、青年は鎧武者から離れていく。


 その背中を最後に……彼の記憶は長い暗闇に閉ざされることとなる……







「………………」


「ん? どうした、典韋」


 目を覚ますと、彼の視界には李典がいた。

 何やら難しい計算式や、複雑な設計図と睨めっこしている。

 最近では研究が大詰めに差し掛かっているらしく、夜を徹してそれに取り組んでいる。


 典韋は軽く首を振ってみせる。


「そうか……ならいい」


 李典はそれを、大丈夫、という意思表示と受け取った。

 長い付き合いで、既に李典は典韋の微妙な仕草からなる感情表現をほぼ理解していた。

 言葉は通じずとも、気持ちは交わせる。

 それは、二人の出会いから信じ続けていることだった。



 またも設計図と格闘する李典を見ながら、典韋は物思いに耽る。




 自身の過去については、おぼろげな記憶しかない。

 しかし、これだけは覚えている。


 “あの時”……自分は本来の役目を果たせなかった。


 仕えた主君の役に立てないまま、長い眠りにつくことを強いられたのだ。


 無念や悔恨といった感情はない。

 自分は道具として生み出された、ただの兵器に過ぎないのだから。


 そして遥かな時を越え、過去の主の記憶を消された自分の前に、新たな主が現れた。


 彼は主を求める自分の訴えに、快く応じてくれた。


 そればかりか、彼は自分を兵器ではなく、一個の臣下……一人の人間として受け入れてくれた。


 最初は彼も戸惑った。何故主は、兵器でしかない自分にこんなに親しく接してくるのか……


 考える必要すらないと思っていた。

 何故なら、主の命令に従うのが自分の存在意義であり、兵器としてあるべき姿なのだから。

 それ以外は、全て余分な雑音ノイズに過ぎない……はずだった。


 だが、主と共に戦場を駆けていく中で、典韋の内に服従の思考とは別の何かが芽生え始めていた。


 それが自身の中で沸き起こる時、自分の体に異変が生じる。


 体温の無いはずの自分の体を熱く感じる。

 電流が、全身を不規則に駆け巡る。

 内部機関が急激に燃焼し、時に本来の出力以上の性能を発揮する。


 兵器としては、決してあってはならぬはずの不安定な現象。


 だが、それは決して不快なものではなく、むしろ“益”となる要素に感じられた。




 そして……彼の周りにいる、同じく主に仕える者達……


 自分とは決定的に違う存在である彼らも、主に服従するという点では同じだ。

 だが、彼らはそれぞれ違う意思を抱いて主の下にいる。

 それでいて、統率が乱れることは無く、より強固な連帯で結ばれ、予想以上の力を発揮する。

 不安定な生命体でありながら、その不安定さを逆に力に変え、

 成長していく姿は、典韋の認識を大きく揺るがせるものだった。 



 未だ……自分の内に芽生え始めたものが何なのかは解らない。



 ただ……一個の兵器として、典韋は……



 彼らのようになりたい。



 彼らのように、主に仕えたい。


 

 そう望むようになっていった。


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