第九章 天子奉戴(五)
豫州、許昌……
「さぁさぁさぁ! 郭嘉雑技団の妙技、とくと御覧あれ!!」
いつもの黒い帽子にマントを着た姿で、郭嘉は指揮棒を振る。
すると、周囲の仮面を被った道化達が、軽やかに跳躍する。
彼らの身体能力は並外れており、
女の細腕の上に男が逆立ちする、回転する傘の上で走り回る、
車輪の上に片足で乗り、一体となって自在に駆け回るなどの曲芸の数々を難なくこなして見せた。
加えて、その連携の妙味も素晴らしい。
まるで、皆心を共有しているかのような息の合いようだ。
そして、その旋律を統括しているのが、熱心に指揮棒を振る郭嘉だ。
彼は数十名の団員の動きを、全て把握している。
その上で、彼らを指揮棒を振る仕草で自在に操って見せている。
戦場での鮮やかな用兵は、この延長線上にあるのだろう。
「ほほう、いつもながら見事よのう」
彼らの驚異的かつ、遊び心も交えた曲芸に、曹操は子供のように目を輝かせる。
郭嘉は月に一度、曹操の前で主宰する雑技団の演目を披露していた。
新しい芸術を好む曹操は、この未知の舞踊にたちまち魅了させられた。
演目が終わり、大きく一礼する郭嘉と雑技団の面々。
曹操は、彼らを諸手を叩いて褒め称える。
「あぁぁ〜〜りがとうございます!!
今日もご満足頂き感謝感激の絶頂であぁります!
してして、私はこれより執務に戻りますのでこれにて失礼礼!」
雑技団の面々は、蜘蛛の子を散らすように退出していった。
郭嘉も、帽子を取って背を向ける。
その時……
「殿! 急報でございます! 殿!」
息せき切って、伝令兵が曹操の御前に現れる。
ただ事ではないと、郭嘉も足を止める。
「何事だ?」
「は……長安を脱出された献帝陛下が、現在洛陽に向かっているとの知らせが……」
眼を見開き、即座に立ち上がる曹操。
程無くして、文武百官が召集され、慌しく協議が始まる。
そんな中、郭嘉は……
先ほどの愛想笑いが嘘のように、苦々しい顔つきをしていた。
洛陽……
長旅の末、洛陽まで至った献帝は、変わり果てたかつての都に愕然となる。
廃墟と化した都に、在りし日の栄華の面影はどこにも無い。
李確や郭巳の追っ手から逃れ、行く当ても無く漫然と洛陽を目指していたが……これでは、隠れ家にもなりそうにない。
この惨状を目の当たりにした献帝が思い浮かべるのは、董卓が都を焼き払ったあの日の光景だった。
赤々と燃える劫火の中、民草が焼け死んでいく様は、今でも脳裏に刻み付けられている。
何も出来ず、最も憎むべき董卓に護られ、その光景を傍観していた自分。
思い返すたび、自責の念に締め付けられる。
それは、董卓が死した後も決して消えることはない。
自分は一体、何のためにいるのか。
漢王朝の権威は、既に完全に死滅している。
各地の諸侯は互いの利権を巡って争い、董卓の配下は長安で狼藉の限りを繰り返している。
董卓死しても乱は止まず、更に激化の一途を辿っている。
幼少期に側近達の権力争いに巻き込まれ、
帝位に付いた後も、悪の化身・董卓の最も間近にいた彼は、思い知らされていた。
決して尽きぬ人間の欲望を。永遠に拭えぬ人間の業を。
欲望に溺れて罪を犯す者、恐怖に負けて人を殺める者、無力な為に悪を看過することしか出来ぬ者……
世界はどうしようもない程悪に満ちている。
“悪”こそが人間の本性。
董卓は怪物などではなかった。
彼こそは、人間の本性を最も純粋に表に現した男。
彼が居ようと居まいと、人間は己の業に振り回され、王朝は滅んでいただろう。
そんな人が人を喰らう地獄の最中にいながら、献帝はまだ絶望していなかった。
諦めるには早すぎる。
自分にはまだ、やれることがあるのではないか。
内なる自分が、力強く叫び続けている。
そんな自分の強さを呪いたくなる。
自分が弱い人間だったなら、全てに絶望して、楽になることが出来るのに。
希望を抱くと言う苦しみに、耐え続けなければならない。
董卓は、これを見越して自分を選んだのだろうか……
「へ、陛下!」
献帝と共に長安を脱出した董承が、泡を食った顔で駆けつける。
この乱世でも王朝への忠誠を忘れぬ義臣で、これまで何度も彼には助けられてきた。
「どうしたのだ? 董承……」
「そ、曹操の軍が、洛陽に……」
「曹操……」
曹操といえば、虎牢関の戦いで、連合軍の誰よりも率先して董卓と戦った男と聞くが……
徐州で無辜の民草を大量に虐殺したなど、あまり芳しい評判は聞かない。
「彼は、陛下との謁見を希望しておりますが……」
「……分かった」
断ることなど出来ようはずがない。
かつての臣下とはいえ、曹操は中原にその名を轟かす群雄である。
全てを失った王朝の残骸に過ぎない自分とは、天と地ほどの開きがあるのだから……
こうして、献帝と曹操は、洛陽での会談にこぎ付けた。
曹操に、献帝を迎えに行くよう進言したのは、荀或だった。
「李確と郭巳の追っ手がすぐ近くまで来ているはずです。
お二人の邪魔をしないよう、速やかに掃討してください」
「はっ!!」
引き連れた軍に命じて、天子に群がる羽虫を討ち払うよう指示を出す荀或。
洛陽では、既に両者の会見の準備が整っている。
全焼した宮殿も、何とか玉座の間だけは復元することが出来た。
宮殿へ脚を向けると……
「荀或先輩……」
後ろから、“彼”らしからぬ暗い声が響いてくる。
振り返ってみると、そこには郭嘉がいた。
その顔からはいつもの馬鹿笑いは消え去っており、強く唇を結んでいる。
「率直に申しまして……貴方には失望いたしました」
珍しくまともな言葉遣いながらも、言っていることは極めて不躾である。
郭嘉は体を震わせて、言葉を紡ぐ。
「何故……何故曹操様にあのようなことを……」
「陛下を保護し、漢王朝の復興に手を貸すことですか?」
そんな、在りし日ならば実に真っ当な意見を、郭嘉は一笑に臥した。
「ハッ! 腐りきった王朝を助けて私達に何の得がありますか!!
余計な荷物を背負うばかりか、天子を傀儡として王朝を乗っ取ろうとしたなどと、またも殿の悪名が重ねられるは必定!
下手をすれば、あの董卓の再来扱いですよ!?」
隠し切れない憤激を交えて話す郭嘉。
暴言とはいえ、彼の言うことにも一理ある。しかし……
「正直に言ってください郭嘉。貴方は一体、何が気に入らないのですか?」
荀或は、落ち着いた口調のままで問いかける。
あの郭嘉が、曹操への悪名などを気にするような男とは思えない。
郭嘉は顔を上げると、内で燻っていた気炎を一気に燃焼させた。
「曹孟徳はっ!! 天下にただ一人の覇王たるべき御方!!
あの御方は! あらゆる権威を物ともせず、天へと駆け上がれる器を持っておられる!!
そんな素晴らしい才能を持つ御方だからこそ、私は仕えた!
それを……天子奉戴などという汚名を被る必要などありません!」
いつもとは明らかに違う荒々しい口調で一気にまくし立てると、大きく息を吐く。
そう……必要ない。
自分が求める覇道とは、あらゆる俗世のしがらみに囚われず、ただ己が才能のみを武器として切り拓いていくもの。
曹操は、宦官の孫という出生ながらも、そのことを卑下せずに、己の才を存分に駆使して自由奔放に乱世を駆け巡っている。
そんな男だからこそ、自分は仕えるに足る人物と認めたのだ。
彼ならば、旧き権威や価値観を全て破壊し、純然たる才能だけを基盤とする世界を作り上げるだろう。
その才能は、己自身のためだけに使うべきだ。
くだらない因習で人の貴賤を決めるような王朝など、引導を渡すならまだしも、手を貸すなどありえない。
曹孟徳は……“私の覇王”は、そんな凡俗の価値観に囚われるような男であってはならない……!
興奮のあまり顔を赤くして、荒い息を吐いている郭嘉を見て、荀或はしばし呆然となっていたが……
「あは……あははははははは! あははははははははははは!!」
天を仰ぐと、声を上げて笑い出した。
まるで普段の郭嘉のような、邪気はない豪快な笑い声だった。
「な……何が可笑しいのですか!!」
詰問する郭嘉。いつもとは、完全に立場が逆転していた。
「あ、ああ……ごめんなさい。気分を害されたのなら謝ります。
でも、別に貴方を馬鹿にしているわけではないんですよ?ただ……」
「ただぁ!?」
「貴方も、僕と同じだったんだなぁ……って」
「同じ?」
意外な荀或の言葉に、郭嘉は目を丸くする。
「郭嘉……貴方は、貴方の理想を曹操様に押し付けているのではないですか?」
図星を突かれた……そう思った郭嘉は、僅かに後じさる。
荀或は笑みを浮かべると、得心がいったという様子でこう続ける。
「それでいいんですよ。だって、僕も同じですから」
「な……何ですって?」
荀或はまたも空を見上げると、思い出に浸るように語り出す。
「僕だけじゃありません。曹操軍の皆さんは、それぞれ違う理想をあの御方に託しています。
皆が皆、それぞれ違う曹孟徳の姿を抱いているんです」
だから、郭嘉のような考えを持つ人間がいても不思議ではない。
曹操は、それぞれ異なる全を孕みながら、確固たる一を宿す男なのだから。
「それでいて……曹操様は、その中からどれかを選ぶということはしない。
その全てを平然と受け止める……そういう方なんです」
彼の瞳は、曹操への敬意の念で満ちている。
郭嘉の心酔をも上回る、絶対的な憧憬で。
「何故……あの御方があれほど慕われているか、わかりますか?」
「それは……あの御方が、あらゆる人間の願望を飲み込んだ上で、全てを叶えてしまう御方だからなのでは?」
曹操は言うなれば鏡。数多の人間の願望を写し取り、それを叶える魔法の鏡だ。
郭嘉が導き出した答えに対し、荀或は静かに横に振った。
「それでは半分ですね。確かにあの御方は、あまりにも多くのものを取り込んでおられる。
ですが……それでいて、“譲れぬ自分の意志”だけは、
決して揺らぐことなく持っておられるんです。
僕ごときの理想なんか、あの御方は軽々と呑み込んで自分の道を往かれるでしょう」
自分に寄せられる数多の理想。
どれだけの想いが向けられようと、曹操はそれに押し潰されない。
それどころか、全てを喰らった上で、自分自身の糧とする。
他者の夢や理想を取り込んで、己が道を築き上げる。
“全”と“個”の一体化。
これこそ、荀或が魅せられた覇王の器だった。
「あの御方は決して迷わない、退かない。だから……」
荀或の視線は、知らず知らず太陽へと向けられていた。
「あんなにも眩しく、僕を惹きつける…………」
無垢な陶酔を見せる荀或に、郭嘉は唖然となっていた。
自分は……曹孟徳の才能しか見ていなかったのではないか。
才のみを振りかざして生きる姿を、自分に重ねていただけではないのか。
自分では決して果たせぬ偉業を、代わりに成し遂げてもらいたい……
彼に仕えたのは、そんな邪な気持ちがあったからではないのか。
今では違う……
今ならば、荀或の言葉はよく理解できる。
曹孟徳の魅力とは、決してその能力だけではないことを。
自分には、まだまだそれは解らない。
荀或も、恐らくは全てを理解しているわけではないだろう。
猛烈な感情の昂ぶりが、彼の内で湧き上がる。
それは、今まで曹操に向けてきた熱情を、遥かに上回るものだった。
ならば……自分もその太陽を追いかけよう。
掴み取ることはできなくても、例え裏切られても付いていこう。
そうすることが……真の意味で、曹孟徳と共に歩むことになるのだろうから。
荀或は考える。
曹操は、天子を自分の下に迎えることをどう考えているのだろうか。
天子の権威など物ともせず、それが天下に至る早道ならば、迷わず利用すべき……
そんな考えなのかもしれない。
いずれにせよ、自分の献策であろうと受け入れられた以上は、曹操の覇業の一部。
それがどんな結果をもたらそうと、荀或は最後まで従うだけだ。
荀或にも、曹操が何を思い、何を目指しているのかは解らない。
だが……そんな掴めない男だからこそ、自分は彼に惹かれたのではなかったか。
彼に仕えようと思ったのは自分の意志だ。
ならば、例え冷たくあしらわれても、他にもっと優れた人間がいても、自分の居場所が無くなっても……
這い蹲ってでも彼についていく。
この命果つるまで、彼のために尽くす。
それが自分の歩むべき道ではないのか。
どれだけ打ちのめされても……自分自身の、本当の気持ちだけは裏切れないから。
荀或の顔には一点の曇りも無く、見上げた先に広がる青空のように澄み切っていた。