表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国羅将伝  作者: 藍三郎
47/178

第九章 天子奉戴(四)

 渾元暦196年、長安……


 李確、郭巳の暴政により、長安は更に衰退の度合いを増して行った。

 二人に統治能力は皆無で、毎晩酒宴に耽り、政治を省みることは無かった。

 都には盗賊が蔓延り、飢えで命を落とす民が続出する始末……



「ここに来るのも、久しぶりだが……」


 およそ4年ぶりに訪れた長安は、董卓の支配下と何ら変わらぬ惨状を呈していた。

 道端には飢民の死体が溢れ返り、空から舞い降りた烏が腐肉をついばむ。


 賈栩はそんな都の惨状を目の当たりにしながら、宮殿へ向けて馬を進める。

 李確と郭巳を唆し、この原因の一端を造ったのは自分なのだが……そんなことを気にする賈栩ではない。

 苦しみ喘ぐ民の声を涼しい顔で聞き流し、賈栩は単身宮殿を目指す。






 宮殿内も、人は疎らだった。

 見張りの兵もおらず、拍子抜けするぐらいあっさりと侵入できた。

 元より、厳戒態勢下でも潜入できるだけの用意はしてきたのだが。


 兵が少ない理由は、想像が付いた。

 少し前に、李確達によって軟禁されていた献帝が、臣下の手引きで長安を脱出したのだ。

 天子は、他の群雄と比べて大した戦力を持たない李確達にとって、唯一の切り札。

 多数の追っ手を差し向け、連日連夜捜索を続けている。

 兵士達が出払っているのはその為だろう。

 最も、未だ天子を抑えたという噂は耳にしていない。 



 しかし……賈栩はこの時点で、ある違和感を覚えていた。


 宮殿を覆う、得体の知れない妖気……

 自らの保身を第一とし、長年に渡って研ぎ澄まされた賈栩の危機意識が警告を発している。

 李確と郭巳の様子を見に来て、あわよくばまた駒として利用してやろうと考えたのだが……

 どうやら自分は、危ない世界に脚を突っ込み始めているらしい。


 だが、一方で好奇心を抑え切れないのも事実だ。


 危険なもの。恐ろしいもの。“悪”なるもの。


 人が忌避するそれらに、賈栩はつい引き寄せられてしまう。

 

 好んで危険に近付こうとするのは、保身に徹する彼の信条とは相反するようだが、

 これは彼の魂の奥深くに根差した部分なので仕方がない。


 一歩でも足を踏み外せば、煉獄へ真っ逆さまな命懸けの綱渡り。

 命綱はこの頭脳だけ。

 その中で少しでも長く生きようと、姑息に、したたかに、足掻いてみせる。


 それだけが、賈文和に生きる実感を与えてくれる。

 どれだけの犠牲が出ようとも、彼は彼の生き方を変えるつもりはない。

 自分を強者に擦り寄り、己が欲望を満たす寄生虫と蔑むことも出来るであろう。

 それならそれでいい。理解も共感も求めない。


 蛆虫には蛆虫の、寄生虫には寄生虫の、決して譲れぬものがあるのだ。


 そんな安っぽい、誰にも自慢できない誇りにしがみつく以外の生き方など知らないし、する気もなかった。

 思えば、こんな人の害にしかならないどうしようもない人間だからこそ、

 自分は董卓に生かされていたのかもしれない。


 彼が重く用いたのは、呂布や陳宮のような真性の壊人か、李確や郭巳のような強欲な俗物だけだ。

 さて、自分はどちらなのだろうか。

 

 人間らしい悪党か、人間らしくない狂人か。





 細心の注意を払って、賈栩は玉座の間へと近づく。


 今頃、あの二人は玉座で酒宴でも開いているのだろうか。

 それとも、天子が逃げたので、やけ酒で酔い潰れているのだろうか……




 玉座に足を踏み入れた彼の目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。


 白い広間の床や壁、柱には、赤い蛇を思わせる紋様が、縦横無尽に走っている。

 そのどぎつい装飾は、仮にしつらえたものとはいえ、かつて天子がおわした場所とは思えない。

 玉座の変貌に驚きつつも、賈栩は素早く近くの円柱に身を潜める。

 この柱にも、赤い線が渦を巻くように刻まれており、まるで大蛇が巻き付いているようだった。

 側面の柱の陰から広間を覗き込む賈栩。

 

 広間には、大勢の人間が集まっていた。

 知った顔が何人かいる。李確と郭巳の傘下に入った、董卓軍の残党達だ。

 彼らは皆、白装束に身を包み、整列して平伏している。

 そして、その先頭には……

 

 李確と郭巳が、同じく玉座の前で跪いていた。

 ただし、今ここに天子はいない。彼らが崇めているのは、人ですらない。



 尾が蛇と化した、虎の彫像だった。



 玉座は取り払われ、その代わりに虎の像が置かれている。

 神殿……そんな単語が脳裏に浮かんだ。

 まさしく、この広間は怪しげな神殿と化していた。


 彼らは一様に、呪文のような言葉を紡ぎ続けている。

 何とか意味を解読しようとしたところ、神を崇めよ、神を讃えよ、という趣旨の内容だと解った。

 ならば彼らが崇める神とは……あの尾が蛇の虎のことなのか?



 やがて……虎の彫像の前に、三つの人影が歩いてくる。

 賈栩はさらに気配を殺し、注意深く様子を窺う。

 

 三人は、神官風の白装束を纏い、顔の上半分を仮面で隠していた。

 その仮面には、赤い蛇の紋様が描かれている。

 三人の内、両側に立つ二人は一般成人男性程度の背丈だが……

 中央にいるのは一際背が低く、まだ年端もいかない子供のようだった。


 虎の彫像の前に立った彼らを、李確達は一斉に見上げる。


「おおおお……祭司さいし様……」

「祭司様……!」


 中央に居る子供を、祭司と呼んで崇める李確と郭巳。

 その顔つきは、子供のように無垢な輝きを帯びており、かつての強欲な悪漢の面影はどこにも無い。

 しかし……かつて欲望にぎらついていたその瞳は、今では別の色に濁っていた。


「祭司様……我らに、洗礼を……!」

「神の祝福をお授けくださいませ……!」


 眼球を浮かせ、だらしなく涎を垂らし、祭司の子供に哀願する二人。

 彼らが董卓以外に頭を下げるのを見るのはこれが初めてだ。

 

 あの二人の様子は只事ではない。

 何か、人として重要なものを失ったような危うさに満ちている。


 彼らの懇願に対し、子供は傍らの白装束から、長い包みを受け取る。

 やはり、赤い蛇が描かれた白い布を取り去ると、子供の手には一本の両刃の剣が握られていた。

 装飾が施してある点といい、実戦用ではなく祭祀用の剣だ。

 それ以外は、特に変哲も無い銅の剣だったのだが……


 如何なる秘術か。

 祭司の子供が、剣を撫でた瞬間、その刀身が橙色に染まったのだ。

 剣に宿した炎が、子供の姿を淡く照らす。

 平伏する者達から一斉に、感嘆の声が上がった。


 子供は、まず左の李確に近寄ると……

 

 炎の剣を、腕に押し当てた。


「ぎぃ……いぃぃぃぃぃぃぃ!!?」

  

 肉の焼ける音が聞こえると同時に、李確は悲鳴を上げた。

 肌を焼かれる痛みは、想像を絶するものだろう。

 しかし、彼の悲鳴を意に介さず、子供はゆっくりと、李確の腕に紋様を刻んで行く。

 熱い刃が肉に食い込むたび、痛みは倍増して行く。

 李確は終始もがき、絶叫し続けていたが……やがて、子供は剣を離す。

 

 彼の腕には、うねくる蛇のような火傷痕がくっきり刻まれていた。


 見れば、腕には他にも蛇のような傷痕が多数見受けられる。

 これが初めてのことでは無いのだろう。

 李確は、しばし激痛に苦しんでいたが、腕に刻まれた紋様を見た瞬間……その顔は、歓喜に歪んだ。


「やった……また一つ、聖痕を刻んでいただけた……うひ、うひひひひひひ!!」


 今は亡き徐栄を髣髴とさせる、不気味な笑い声を上げる李確。


 次は郭巳の番だ。

 子供は、平伏した郭巳の首の裏に焼けた剣を当て、同じく刻印を刻む。

 郭巳もまた、痛みで散々にわめいていたが……

 完成した首の刻印を手で触ったりしていると、李確と同様歓喜に震える。


「あ、ありがとうございます! 祭司様!」

「こ、これで、また我らは神に近づけたのですね!?」


 涙まで流して祭司に感謝する二人。

 何故、あんな痛い仕打ちを受けて、それが感謝に繋がるのか……

 賈栩には到底理解できない。


 李確と郭巳は、つまらないぐらいの俗物ではなかったか……

 一体何が、彼らをここまで変貌させたのか。

 そんなことを考えながら成り行きを観察していたが……

 とんでもない言葉が、賈栩の耳に突き刺さった。



「ありがとうございます! 祭司……李儒りじゅ様」



 脳天を強く殴られたような気分になった。


(李儒……だと!?)


 かつての同僚の名を、脳内で呟く賈栩。

 あそこにいる祭司と呼ばれた子供は、董卓軍の軍師、李儒だというのか?


 それはありえない……李儒は、確かに董卓と呂布との争いに巻き込まれて死んだはずだ。

 加えて、李儒は小男ながらも確かに大人だった。

 姿を白装束で隠しているとはいえ、あんな子供のように小さくはない。


「うひゃははははははは!! 神だ! 神の刻印だぁ!!」

「ぎひょへへへへへへへ!! 我らの神に栄光あれ!」


 不気味に、盛大に笑った後、神を讃える李確と郭巳。

 他の者達も、先ほどの神を崇める呪文を一斉に、今度は大声で唱え始める。


 

 その声を聞きながら、賈栩は静かにその場を後にした。

 脳内の危険信号が、今最高値を迎えたのだ。


 このままここにいるとヤバい……

 賈栩の、己の頭脳よりも信頼できる第六感が言っている。

 不可解なことだらけだが、それを解明する余裕など無い。





「とまぁ…… そう簡単にはいおさらばよ、というわけにはいかないか……」


 賈栩の前には、三人の白装束に赤い蛇の仮面を被った者達が、行く手を阻んでいた。


「不浄なる者よ……」

「不浄なる者よ……」

「聖域に立ち入ることは許さぬ……」



 間違いなく、あの奇妙な一団の仲間に違いない。

 仮面の人物は、皆手に剣を携え、賈栩に剥き出しの殺気をぶつけてくる。


「不浄なる者ねぇ……まぁ、清らかな者かと言われると否定するしかないが……」


 口先で切り抜けられる相手とは思えない。

 彼らこそ、今の宮殿を守る衛兵だ。

 侵入者の抹殺……それ以外は頭に無い、そんな曇りの無い殺意で満ちている。


 見たところ、いずれも戦闘力は武将級。

 対するこちらは、ただのしがない雇われ軍師でしかない。

 頭の勝負ならともかく、直接対決なら、軍師は武将の敵ではなかった。


「その罪、死を持って購え……」

「購え…………!」


 聞く耳持たぬとばかりに、一斉に襲い掛かる仮面達。



 それでも、賈栩に狼狽の色はない。

 この程度の危機など、彼にとっては取るに足らないものだ。

 賈栩は、やれやれと首を振ると……


 手袋を嵌めた腕を、無造作に払った。




 次の瞬間……


 仮面の衛士達の腕が、綺麗に斬られて地面に落ちる。

 断面から洪水のように吹き出る鮮血が、床を赤く染めて行く。

 彼らの白装束の上にも、真っ赤な花が咲いた。


 賈栩の手には、武器らしき武器は握られていない。

 ただ手を振っただけで、衛兵達の腕を斬り飛ばしたのだ。


 腕を失った仮面の衛士達は、大きくよろめく。


「おやおや……悲鳴の一つぐらい上げてくれないと、披露した甲斐が無いのだが」


 ククク……と笑みを零す賈栩。


 彼の周囲には何も見えない。

 武将の腕を斬り飛ばすぐらいだから、相当に切れ味のある大きな刃を使っているはずなのだが……


 賈栩は掌をかざし、彼らに止めを刺そうとする。

 その時……



「お待ちなさい」



 凛とした声が、賈栩の耳朶を叩いた。

 振り向くと、先ほど広間にいた、子供と二人の側近が目の前にいる。

 仮面を被った彼らからは、その表情は読めない。

 子供は、賈栩に対して淡々と言葉を紡ぐ。


「信徒の非礼はお詫びいたします。

 ですから……その“糸”を下げていただけませんか?」


「ほう……気づいていたのか」


 眼の良い子供だ……賈栩は感心する。

 よく目を凝らせば、賈栩の周りには細く赤い線が何本が走っている。

 その線からは、赤い滴が僅かながら垂れていた。



 これが賈栩の暗器……“斬鉄糸ざんてつし”だ。


 手袋に収納された、肉眼では見えないほどの極細の糸。

 賈栩はこれを使って、仮面の衛士の腕を斬り飛ばしたのだ。

 勿論ただの糸ではない……鉄を極限まで圧縮し、糸と同等程度に細くした代物だ。

 言うなれば長い極細の刃で、切れ味は抜群である。


 しかも、この糸は賈栩のような非力な武将にも、一定以上の威力を出すことができた。

 要は力学の応用だ。上手い具合に計算して糸を張り巡らせれば、

 最小限の力で敵を解体することも可能となる。


 見えない刃に切り刻まれるという悪趣味さも合わせて、賈栩はこれを自分にぴったりな武器だと思っていた。



 音も立てずに、賈栩の糸は手袋に収納される。


 子供はそれを見届けると、名も聞かずに話し始める。


「賈栩様ですね。昔、先代の李儒がお世話になったようで」

「先代?」

「ええ……かつて董卓様に仕えていたのは、先代……私の父親です」


 これで、死んだはずの李儒が生きていた謎は解けた。

 目の前の子供は、李儒の子供だったのだ。


「そして私は、“当代の李儒”です。

 父が死んで、祭司の地位を受け継ぎました」


 そして、子供の名もまた李儒……

 李確と郭巳が、この子供を李儒と呼んだのは、そのせいだ。


 だが、依然彼らには謎が多い。

 一体彼らはここで、何をしているのか……


 それ以上に賈栩は、何とかしてこの場を無事に脱出する方法を探さねばならないのだが……

 

 そんな賈栩の内心を読み取ったように、子供は僅かに唇を吊り上げる。


「ご安心ください……ここで貴方をどうこうする気はありません。

 貴方はまだ、“死ぬべき人間”ではありませんから」


 謎のような子供の李儒の言葉。

 賈栩がいぶかしむ間も無く、子供の周囲には、何人もの衛士が集まっている。


「しかし……私達のことは、くれぐれもご内密にお願いします。

 無闇に部外者を入れて、神聖なる儀式を妨害されたくはありませんから。

 最も、私達は近い内に長安を引き払うつもりでおりますが」

 

 簡単な口止めだが、そこには強烈な悪意が篭っていた。

 例え殺さなくても、苦痛を与える手段は幾らでもあるぞ、と言わんばかりの……


 これ以上は、質問すらも受け付ける気はない。

 そんな有無を言わせぬ口調で、子供は言い放った。


「それでは、お引取りを」







 長安の宮殿を見上げる賈栩。


 あれから、賈栩は黙って宮殿を後にした。

 無事戻れたことをまずは喜ぶべきだろう。


 謎だらけの宗教団体……

 李確と郭巳に代わってこの長安を牛耳っているのは、彼らだと言うのか。

 その首長と思しき子供には、決して口外しないよう口封じされたが……


(ふん、そんなこと…………)



 言われるまでも無い。


 

 賈栩の中では、既に彼らへの興味は急激に冷め始めていた。


 あの、赤い蛇のような紋様を見た時……

 あの、尾が蛇になった虎の彫像を見た時……

 あの、信徒の体を傷つける奇怪な儀式を見た時……

 

 賈栩が感じたのは、度を越えた悪意でも、神秘的な崇高さでも、得体の知れない不気味さでも無く……




 ただただ、果てしないほどの下衆げすな臭いだけだった。




 アレは、自分と同じだ。

 どうしようもない程醜悪で、取るに足らないもの。

 自分が興味を及ぼす価値など無い。


 脳内を素早く新たなる興味へ塗り替えながら、賈文和は荒廃の長安を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ