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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第九章 天子奉戴(三)

 渾元暦180年、潁川えいせん……


 荀家のお膝元であるこの潁川は、清流派の文士達が多く集まり、荀家の庇護の下日々活発な議論を行っていた。

 17歳になった荀或も、将来の官職を目指して、日夜勉学に励んでいた。



「ただいま」


 高い声で帰宅を告げ、自宅の扉を開ける荀或。

 武将として生まれた荀或は、13歳で成長が止まってしまった。

 どうせならもう少し年を取ってからの方が良かったが、こればかりは個人の意思ではどうにもならない。 

 大半の武将は十代後半から二十代の間で成長が止まる。

 最も身体能力が優れた年齢だ。

 自分は運が悪かったのだと諦めるしかない。


 元より、武官の道を歩むつもりは無かった。

 自分は体が弱いし、運動するより頭を使うことが好きだった。

 祖父や父、叔父と同じく、優れた文官として名を残そうと、今はひたすら勉強に打ち込んでいる。


「おお、文若。お前にお客さんが来ておるぞ」


 出迎えた父親の言葉に荀或は首を傾げる。

 今日、誰か家に来る約束をしたものはいただろうか。

 何人か友人の顔を思い浮かべるが、該当する人物はいない。

 いぶかしみながらも自室の扉を開けてみると……



 全く知らない人間が、自分の部屋で横になっていた。



 黒い髪を耳まで伸ばした、まだ十代半ばの少年だった。

 知ってか知らずか、彼は荀或の部屋で涅槃の姿勢で横たわり、何やら書物に目を通している。


「ち……ちょっと貴方一体何しているんですか!?」


 温厚で知られる荀或とて、この振る舞いはさすがに度を越えている。

 しかも、あの書物は、自分が密かに書き溜めて、誰かの目に触れないよう隠していたものではないか。

 そんな、部屋の主として当然の主張に対し、少年はただ一言……


「五月蝿い」


 それが、初めて聞いた彼の声だった。

 まるで悪びれた様子のない少年の反応に、荀或は言葉に詰まる。

 非は明らかにあちらにあるはずなのに、そんな風に開き直られてはどう反応してよいかわからない。

 育ちの良い荀或は、今までこんな対応を受けたことがなかった。


「何だ、好きな女のことでも書いてあるのか」


 平然と言い放つ少年。


「あ、ありませんよそんなこと!!」


 顔を真っ赤にして、全力で否定する荀或。


「ならよいではないか。もうすぐ読み終わるから、そこで待っていろ」


 命令されてしまった……わけのわからない不法侵入者に。

 もう荀或には、抵抗する気力も失せていた。

 ため息をついて、その場に座り込む。

 うつむきながらも、眼鏡を通して、書物を読む少年を見る。


 もうすぐ、というだけあって、読む速度は恐ろしく速い。

 最初に見た時には、まだかなりの分量があったはずなのに、今では残り僅かだ。

 流し読みできるほど易しい内容では無いはずなのだが。


 少年は、最後まで読み終わると、


「見事だ」


 と一言感想を述べる。


「細かいところまで行き渡った法制度。

 罪人に厳しく、良民に優しい統治。

 万民に平等の機会を与え、才ある者は率先して登用する。

 飢饉や災害が起こった際の対策も万全だ。

 この法案が実現すれば、永きに渡る安定を天下にもたらすことが出来るであろう」


 書いた側からすれば気恥ずかしくなるほどの絶賛である。

 あの書物には、荀或が考える理想国家の法案が書き記してあった。

 これもまた勉学の一環と考えて、数年前から密かに取り組んでいたのだ。

 しかし、荀或の顔は暗い。


「実現……するわけないですよ」

 

 肩を落とし、力無く呟く荀或。


「この法案には、宦官の利益が無視されています。

 今のご時世、彼らの益にならない法案が通るわけありませんよ」


 現在の朝廷は、十常侍を初めとする宦官が権力を一手に握り、国家の富を吸い上げている。

 荀或の案は、その富を役に立つ事業や、貧困に喘ぐ民の支援に当てようというものだ。

 そんなことが、宦官の支配下で許されるはずがない。

 

 結局……現実から目を逸らした若造が、頭の中の青臭い理想を書き記しただけのものだ。

 けなされこそすれ、誉められるようなものではない。

 


 ここで、荀或はあることに思い至る。

 ここに書かれている内容は、直接的ではないとはいえ、宦官の政治体制を否定するに等しいものだ。

 突然家に上がりこんで来たこの男、もしや宦官の放った調査員ではなかろうか。

 清流派として知られる荀家は、兼ねてから宦官に目を付けられている。

 見た目の若さも、武将であるならば何の保障にもならない。

 

 首の周りがじっとりと汗ばむ。

 目の前の少年が、途端に得体の知れない妖気を纏っているように思えてきた。


「確かにそうだのう。ちなみに、余の祖父も宦官なのだが……」


 少年がそう言った時、荀或は生きた心地がしなかった。

 やはり、宦官の縁者だったのだ。

 たちまち心臓の拍動が早まり、眩暈を起こしそうになる。

 だが……


「それ以外の殆どは利権にしがみつく、ただの寄生虫よな。

 確かにあやつらのいる限り、この法案が日の目を見ることは無かろう」


 荀或以上の明け透けな宦官批判に、彼の疑念はたちまち払拭される。

 この時、荀或は始めて真っ直ぐ少年の顔を見た。

 珠のような白い肌、大きい琥珀色の瞳は、どこか妖気を湛えているように見える。

 白い衣服に黒い脚絆という簡素な姿からは、色気らしきものまで感じられる。

 荀或はすぐに雑念を追い払った。


「だが……それは即ち、その問題さえ解決すれば、

 これを上奏することもできるということであろう?」


 お気楽に言ってのける少年に対し、荀或は乾いた声で返す。


「そんな……出来るわけないですよ」


 今までも、宦官の腐敗政治を正そうとした者はいる。

 だが、その殆どは宦官の弾圧を受け、処刑や永久禁錮の憂き目を見た。

 所謂『党錮とうこの禁』である。


 現在の漢王朝は、宦官が全てを牛耳っている。

 彼らを止められる者など誰も居ない。

 荀或も、そう思っていた。しかし……


「いや、出来るな」


 少年は、またも平然と答えた。


「そんな、一体誰が」


 荀或の問いに対して、少年は……



「この余だ」



 目を細め、蟲惑的な笑みを浮かべて、事も無げに言ってのけた。


「あ、貴方が!?」


 冗談の類としか思えなかった。


 少年の表情から僅かな揺らぎも無く、本気か冗談か判別できない。

 いや、密かに冗談であって欲しいと願っていたのかもしれない。 

 だが、少年が次に放った台詞は、その真逆と言っていいものだった。

 

「そうだ。余が変える」


 それは、過信を通り越して確信しているような発言だった。

 自分には決して持ち得ない、自信に満ち溢れた態度。

 真っ直ぐに自分を見つめてくる、曇りの無い琥珀色の瞳から、荀或は目を離せずに居た。


「どうして、そんなことを言えるんですか?」


「余ならば変えられると思った。ただそれだけのことだ」


 その瞳には、やはり全く揺らぎが無い。

 人生経験の乏しい自分だが、これだけは解る。

 彼は冗談ではなく、どこまでも己の力を、未来を切り拓く力を信じている。

 いや、信じているという段階ではない。

 彼は、それが万象の摂理の如く当然のことのように捉えているのだ。

 疑いを差し挟むこと自体、理解できないように。



 思えば、この時からなのかもしれない。

 

 この人に仕えてみたい。

 この人が歩む道の先を、この眼で見てみたい、そう思ったのは。



 それから二人は、漢王朝の政治についてひたすら語り合った。

 彼は潁川で秀才の誉れ高き荀或の評判を聞きつけ、友人を偽って屋敷に押しかけたという。

 隠していた書物を勝手に見つけたことといい、かなり非常識な人物である。

 そのことについて触れると……


「なら、友人だったことにすればよい。

 そう、荀文若。そなたを余の婚約……もとい、親友にしてやろう」


 無垢な微笑みでそう言われると、荀或は何も言えなくなるのであった。


 彼が宦官曹騰の養子、曹嵩の息子、曹操だと知ったのは、

 それからしばらく経ってからのことだった。







 渾元暦196年。

 豫州よしゅう許昌きょしょう……


(あれからもう十六年か……)


 故郷での曹操との出会いを回想しながら、荀或はとぼとぼと歩いている。


 イナゴの災害、呂布軍の侵攻を乗り越え、曹操は遠州を完全に奪還。

 謀反の首謀者である張兄弟を斬り、勢いに乗る曹操は、続けて隣の豫州に軍を進める。

 黄巾賊の劉辟らを破り、豫州西部を制圧。

 許昌に本拠地を置き、ますます磐石の体制を整えて行く。

 

 しかし……彼の心の中には、空虚な穴がぽっかりと開いたままで、寒い風が中を吹き抜けている。


 原因はわかっている。

 あの御方の顔を思い出すたび、胸が締め付けられる気分になるのだが、

 さりとてこの程度のことであの御方を煩わせるのは、酷く申し訳ない気分になってしまう。

 何とか自力で克服しようと思うものの、

 考えれば考えるほど己の未熟を痛感させられ、それが更なる悪循環へ繋がっていった。


(曹操様……)


 最も求めているのに得られない人の名を心中で呟く。

 そんな中……



「あははははははははは!!!」


 鬱屈とはまるで無縁の甲高い笑い声が、道の先から聞こえて来る。

 それは、今のこの気分の原因の一端を担っていると言えなくもない者の声だった。


「お〜やおや!これはこれは荀或先輩であ〜りませんか!」

「郭嘉……」


 よりによって、一番会いたくない男に出くわしてしまった。

 今の郭嘉は、戦場での黒い帽子やマント、赤い覆面を脱ぎ去り、

 束ねた髪も解いて、真ん中で分けて両肩に流していた。

 丸い眼鏡をかけ、橙色の派手な柄の着流しを、だらしなく着崩している。

 これが彼の普段着なのだろう。戦場にいる時と同じく、一目を引く格好だ。


 彼の両腕には、派手な格好の若い女性二人が抱かれていた。

 往来の人々の注目を集めているのは、彼の格好よりも連れている美女達だ。

 両名とも見覚えがある。

 濮陽城の戦いで、彼と共に現れた郭嘉雑技団の団員だ。

 あの時は皆道化師の格好をし、仮面を被っていたが、中には女性もいたらしい。


 郭嘉は二人の美女に挟まれて、へらへらと笑っている。

 その顔には朱が差しており、混濁した瞳といい、泥酔しているのは明らかだ。

 何やら喋っているが上手く呂律が回っていない。

 元々、素面しらふなのかそうでないのか分からないほど弾けた性格の男ではあるが。



 郭嘉はその卓越した才能と同じく、城内での不品行も度を越えていた。


 酒を呑む。女と遊ぶ。博打を打つ。


 自由奔放な彼の振る舞いは、城の内外に浮名を垂れ流し続けていた。

 

 それでいて、仕事は完璧以上にこなすのだから誰も強硬に弾劾できない。

 元々曹操から、従う限りはあらゆる僭越を許すと言われているのだ。

 曹操自身、郭嘉に負けず劣らず奔放な人物というのもあるだろうが。


「ちょっと聞いてくださいよ先輩〜〜〜!

 私、また賭場を出入り禁止にされちゃったんですよぉ。

 これで、城下町の賭場はぜぇ〜〜んぶ行けなくなっちゃいましたぁ」


 青空を仰ぎ見る郭嘉。

 彼の、僅かな要素から未来の事象を正確に予測する能力は、賭博においても多いに発揮された。

 振られたサイコロの動きから、出る目を予測したり、

 相手の微妙な筋肉の動きを見て、伏せられた札の正体を当てるなど容易いことだった。

 しかも、全てイカサマではない。

 そんな反則技を使われては、出入り禁止にされるのも当然の処置だろう。


「昨日はがっつり変装して、私だとばれないようにしたのに、門をくぐろうとした途端に摘み出されました。

 何でなんですかね! びらびらの付いた女物の着物を着て、狐の御面まで被ったのに!!」 


 この城内で、彼以外の一体誰がそんな戯けた格好をするというのだ。


「郭嘉……貴方って人は……」


 拳を握り締め、身を震わせる荀或。

 この、節度の欠片も持っていないような男に、何か言ってやろうとした時、彼の声がそれを遮った。


「おやおやおやぁ? どうしました先輩?

 先輩も何か悩みがあるんですかぁ!?」


 気安く頭に手を置いてくる郭嘉。

 お前のくだらない悩みなんかと一緒にするな、と荀或は顔を不快そうに歪める。


「いぃ〜けませんねぇ。そんなに思い詰めては。

 先輩も、一度ぱぁ〜〜っと遊べば、 

 チマチマした悩みなんかかぁ〜〜っと吹き飛んじゃいますよぉ!」


 郭嘉は一切荀或の言葉を聞こうとせず、勝手に話を進める。


「ちょ……だから僕は!」

「大丈夫大丈夫! 先輩みたいな可愛い男の子が好きな娘も、私何人か知っているんですよぉ。

 ああ、そうそう! 彼女らに先輩を紹介するって約束してたんだった!!

 その代わりに、私はまた別の子を紹介してもらう取引で……おっと、これは秘密なんだった!!」


「いい加減にしてください!!」


 堪忍袋の緒が切れた荀或は、郭嘉の手を振り払う。

 相当に怒った顔をしたつもりだが、それでも郭嘉はまるで悪びれた様子が無い。


「駄目ですよぉ先輩。そんなに怒っちゃぁ、可愛い顔が台無し無しですよぉ〜!」

「誰のせいだと思っているんですか!!」

「ああ、でもでも〜〜その真剣な顔にときめくって意見も聞きましたねぇ。

 幼い体って色々とお得ですね! なははははははは!!!」


 肩を落として脱力する荀或。もう男には、何を言っても無駄なようだ。


「ではではでは〜〜これにて失礼いたしまする。

 これからも御指導、御鞭撻のほど、よろしくお願いしますね、先・輩♪」


 荀或の頭を撫でて、二人の美女と共に去って行く郭嘉。

 最後まで、人を食ったような態度である。


「ああ、しかし当分博打ができないのは痛いですねぇ。

 私が一体何をしましたか! これは人権侵害です!

 私は、断固としてこの不当な弾圧と戦いますよぉ!!

 えい、えい、お――――っ!!!」


 天に向かって、郭嘉は腕を振り上げる。

 あの馬鹿声が聞こえないところまで離れようと、荀或は早足で歩き出す。


 全く持って腹立たしい。

 あのふざけた男に強く出られない自分はもっと腹立たしい。



 そこで、荀或は脚を止める。

 

 一体何故、自分はこんなにもあの男が気に入らないのか。


 素行が悪すぎるからか?

 曹操に重用されているという嫉妬ゆえか?


 確かにそれもある。

 この矮小な自分の性根を、認めざるを得ない。


 しかし……


 あの男は、どこか遠い世界の人間のように思えて、

 そしてそれは、あの人にどこか似ていて……


 ただの人間に過ぎない自分が、取り残されたような寂寥感。

 これが、自分の憂鬱の正体なのだろうか……




 荀文若、お前は何と未熟な男だろう。


 結局お前は認めたくないのだ。


 曹操以上に優れた存在を。曹操と同格の存在すらも。


 お前が郭嘉を厭う本当の理由がそれだ。


 そのせいで、呂布を侮って敗北したではないか。


 あの頃から、お前は全く成長していない。


 そんな愚か者に、曹孟徳に仕える資格などあるのか?


(でも……僕は……)


 お前は一体どうしたいのだ?

 あの郭嘉に明らかに劣るお前ごときに、いったい何が出来るというのだ?


(僕は………………)






 一方……


 曹操は、夏侯惇、程旻を伴って、近隣の農村に視察に赴いていた。


 農作業に従事する農民達は、皆汗水を垂らし、鍬で畑を耕している。

 曹操の姿を眼に止めた民は、すぐさまその場に平伏する。

 曹操は、そんな彼らに笑顔で手を振ってやる。

 

 畑で汗を流す者達は、全てが農民というわけではない。

 中には、曹操軍より派遣された兵士も交っている。

 彼らは、普段は農民と共に農作業に勤しんでいるが、いざ有事となれば武器を取って外敵と戦うのだ。


 これが、曹操が開始した屯田制とんでんせいである。

 

 田畑を兵士に警護させることで、戦争になっても食糧の供給を確保できる。

 また、戦火を恐れる農民は、兵士に守られているという安心感から、土地を捨てて逃げ出すことはない。

 この任に回される兵士は、青州兵が中心で、元々農民である彼らはこの任務に打ってつけなのだ。


 あの蝗の大災害で、曹操は食と土地の重要性を痛感した。

 この二つを確保できねば、戦争には勝てない。

 兵力を分散してしまい、軍が弱体化する危険をはらんでいるが、長期戦になるほどこの施策は効いてくるはずだ。


「現在は許昌周辺で試験的に導入している程度ですが、いずれ領地全土に広げる予定です……」


 曹操と共にこの計画に深く携わったのが、この程旻である。

 彼の説明を、満足げに聞いている曹操。



「おお! あそこにおわすは夏侯惇将軍では!?」

「あの方が隻眼の鬼将軍の……」

「惇将軍ー!」

「盲夏侯将軍ー!!」


 夏侯惇を見た民や兵の間から、一斉に歓声が起こる。

 彼が、失った左眼を食べたという話は、一部の情報操作を交えて伝えられた。

 これが切欠で、夏侯惇の勇名は遠州全土に知れ渡ることになる。

 

 片目を失ったことで、ただでさえ強面な顔は更に恐ろしくなったが、逆に特徴付けられたという見方もできる。

 左眼を失ってでも戦い続けた気魄と忠義の心は、民に熱く持て囃され、

 今では名実共に、曹操軍の看板武将となっていた。


 その当人は、その歓声をどこか不機嫌な顔で聞いている。


「惇よ、大した人気だのう。余はちょっと妬けて来たぞ」

「うるせぇ……」


 隻眼になったことを、夏侯惇の思いとは真逆の方向に持ち上げられることに、彼は未だ気恥ずかしさを感じていた。 


 彼の左眼は、黒い皮の眼帯で覆われている。

 武器である大鎌と、研がれた刃のような目つきと表情、それに加えてこの眼帯……

 ますます殺伐とした容貌になったが、

 それでも民には親しまれてる辺り、夏侯惇には彼らの心情がよく解らない。


「しかし、すっかり眼帯が板についてきたようだのう。

 どうだ、今度は余の贈った眼帯をつけて来てくれぬか?」

「絶対に嫌だね」


 曹操の贈った眼帯というのは、花の柄をあしらっていたり、可愛らしいウサギの顔だったり、

 付けることは勿論見るのも恥ずかしいものばかりである。

 叛逆罪で処罰されても、断固着用を拒否する覚悟だった。


 そんな会話を交わしながら、田野を歩く一行。

 夏侯惇は、会話の途切れた時を見計らって、曹操に語りかける。


「なぁ孟徳……」

「何だ、惇」

「荀或の事だがよ。そろそろ許してやってもいいんじゃねぇか?」


 彼の落ち込みようはよく知っていた。

 仕事は問題なくこなしているが、その背中には明らかに精彩が無い。

 元より責任感が強い上、曹操に依存していた男だ。

 二年前のことがまだ尾を引きずっているのだろう。


 それを聞いた曹操は、大きく目を開いてこちらを見ている。

 そして……


「惇よ……さすがは余の正妻よの。他の嫁たちを気遣う余裕まで見せるとは」

「そんな寝惚けた答えを聞きたいわけじゃねぇんだが」


 額に青筋を浮かべる夏侯惇。

 曹操は空を仰ぎ見ると、突然笑い出す。


「あははははっ! あははははははは!!」


「何なんだよ一体……」

「いやぁ、あやつは実に真っ直ぐで、何をするにもひたむきな男であろう?

 高い壁にぶつかっても、それから逃げず何とか登ろうと足掻いてしまう……

 それが大変いじらしくてのう……だから……」


 曹操は口を三日月型に歪めて、こう言い放った。



「つい、苛めたくなってしまうのだ!」



「は…………?」


 曹操の答えに、夏侯惇は呆けたような顔になる。


「あの純真なあやつが、寝ても覚めても曹操様、曹操様と

 余のことばかりを想い、悩んでいる姿を見ていると……

 もう愛しくて愛しくてたまらんのだ!

 思わず抱き締めたくなるぐらいにな!」


 心底楽しそうな顔で、両腕で抱き締める仕草を取る曹操を見ていると、夏侯惇は何もいえない。

 いや……そう言われると酷く納得できる気がする。


 こいつがこういう男だということは、長い付き合いでよく解っているはずではないか。


 曹操はしばし陶酔していたが、ふっと元の微笑みを湛えた顔に戻ると……


「まぁ、あやつなら大丈夫であろう。特に根拠はないが」

「ねーのかよ……」


 ため息をつく夏侯惇。

 何事においても合理性を重んじ、先の先まで読んだ上で綿密にことを運ぶ彼が、

 そんな曖昧な感覚に思考を委ねるのは、実はとても珍しい。



 そしてそんな時は……



 それこそ、理屈を捏ね回す必要も無い程、取るに足らないことに限られるのだ。



 だから、この時夏侯惇は、ほんの少しだけ…………安心した。


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