第九章 天子奉戴(一)
戦士よ――――
燭台の炎が妖しく揺れる、仄暗い室内……
神の戦士よ――――
地の底から響くような声が、辺り一面から聞こえてくる。
汝に力を――――
周囲の壁には、赤い蛇ののたうつような紋様が、何条も走っている。
視線を上げれば……尾が蛇と化した虎の彫像が置かれている。
神の力を――――
室内に反響して、何重にも聞こえる声。
数名の白装束を纏った者達が、自分の周囲を取り囲んでいる。
口から上は、あの赤い蛇の紋様が刻まれた仮面を着用し、口許は包帯で覆われている。
汝は選ばれし者――――
体は指一本動かせない。
首と両手両脚を拘束されているばかりか、身体そのものの自由が利かない。
全身が麻痺しているかのようだ。それでいて、意識ははっきりしている。
汝は穢れ無き者――――
白装束の集団の中から一人が、祭祀用の剣を恭しく掲げて現れる。
仮面の形状は、他と大きく異なる。
その人物が現れた途端、他の白装束は、一斉に頭を下げた。
故に神は、汝に栄誉を賜る――――
諸刃の剣は、灼熱を帯びて橙色に染まっていた。
得体の知れぬ恐怖が全身を刺激する。
必死に抜け出そうとするが、意志に反して、己の肉体は微動だにしない。
白装束は、自分のすぐ傍まで近寄り……
その身に、神の聖痕を刻まん――――
逃げようとしても逃げられない。
やがて……
肉の焼ける音と共に、灼熱の刃が、肌へと押し当てられ…………
「!!!」
大きく目を見開く張飛。
視線の先は、月明かりに照らされた徐州の原野が見える。
しばらく転寝していたのか……
もたれかかっていた壁から、体を起こす。
「ちっ……つまんねぇこと思い出しちまったぜ」
傍らに置いた蛇矛を手にして、城壁の上に立ち上がる。
あの夢を見るのは何年ぶりだろうか……
左手で、何気なく服をめくってみる。
その下には……
のたうつ蛇のような火傷が、くっきりと刻まれていた。
「張飛殿! 張飛殿――!!」
自分を呼ぶ声が、下から聞こえる。
現在、劉備と関羽は、所用で別の城に移っており、張飛はこの下丕城の留守を預かっていた。
「どうし……!」
要件を聞かなくても解った。
夜に閉ざされた原野。そこに、幾つもの篝火が点っている。
灯を宿した人馬の群れが、真っ直ぐ城に近づいてくる。
そして、照らされた旗に記されているのは『呂』の一字。
「呂布……!」
探すまでも無い。
先頭には、赤兎馬に跨り、方天画戟を掲げた呂布の姿が見える。
その姿を見間違うはずが無い。過去の苦い思い出が脳裏をよぎる。
あの張飛をして、戦慄が走るのを止められない。
「ヒャハハハハハハハハ!!
関羽! おい関羽ぅ!!
遊びに来てやったぜぇ! とっとと俺様を出迎えろよ!!」
夜襲という意識など欠片もない、呂布の大音声。
呂布相手に、城門を閉ざそうとも意味が無い。
それは、虎牢関の戦いで十分に思い知っている。
(あの野郎の的は、雲長兄貴かよ……)
汗ばむ手で、蛇矛を確りと握り締める。
気持ちを落ち着かせ、拍動する心臓を鎮める。
眼下には呂布の大軍。城を守る将は自分ただ一人。
この状況で、自分が為すべきことは――――
「ふぅ、すっかり遅くなっちまったな」
的廬を駆って、関羽らと共に下丕城へ戻る劉備。
張飛はちゃんと留守を守っているだろうか。
今頃は居眠りをしているんじゃないだろうな。そんなことを考えていると……
城の方面から、一頭の馬が弱弱しい足取りで向かってくる。
馬は劉備らの近くまで来ると、体を揺るがせ、そのまま横に倒れる。
落馬した乗り手の姿を見ると……
「え、益徳!!」
張益徳は、全身から血を流し、見るも無残ないでたちだった。
劉備の姿を眼に止めると、か細い声で呟く。
「あ、兄貴……」
「どうした益徳! しっかりしろ!!」
劉備と関羽もすぐに乗騎から降り、義弟の下へと駆け寄る。
素早く傷口を診る関羽。とりあえず命に別状は無さそうだが……
「し、城には……戻るな……城に……りょ、呂布が……」
「呂布だってぇ!?」
劉備は目を見開いて仰天する。
遠州での勢力争いに敗れたと言う話は聞いていたが、今度は徐州に乗り込んでくるとは。
張飛は、気力を振り絞って、伝えるべきことを伝える。
「城の奴らは……できるだけ……逃がした……小沛城で……合流するように……」
「わかった! わかったからもう喋るな、益徳!!」
それだけで、劉備は張飛の傷の理由をたちどころに悟った。
彼は、呂布軍を引きつけ、劉備の縁者を逃がす時間を稼ぐべく、最後まで残って戦ったのだ。
「すまねぇ……兄貴……俺、城を……」
城を守りきれなかった悔しさで涙を滲ませる張飛。
そんな義弟を、関羽は優しく讃える。
「いや、お前は立派だ。益徳」
己の為すべきことを弁え、最後まで抵抗したこの義弟を、関羽は心から誇らしく思っていた。
それを聞いて張飛の顔はやや安らぐ。
「おうよ。何より……ちゃんと生き残って俺の下まで戻ってきたからな」
劉備も笑みを浮かべて、張飛の頭を撫でる。
彼にとっては、逃がした他の者よりも張飛が生き延びたことが何より大事なのだろう。
心情的にも。打算的にも。
張飛は小さくなる声で、最後にこう告げた。
「早く……逃げろ……呂布の狙いは、雲長兄貴だ……」
「!!」
その言葉を最後に、張飛は意識を失った。
関羽は目を大きく見開く。
あの虎牢関での戦で、呂布が自分を気にかけているのは知っていたが……
まさか、下丕城を攻めたのは、自分が目的だったのか?
自分のせいで、義兄がせっかく掴んだ徐州の地を……
自責の念と、呂布への怒りが、関羽の中で沸々と湧き上がってくる。
そんな義弟の心情を察したのか、劉備は肩に手を置く。
「雲長、バカなことを考えるなよ。とっとと逃げるぜ」
「わかっている……!」
自然と、口調が厳しくなる。
できることなら、このまま下丕城に乗り込んで呂布に勝負を挑み、張飛の無念を晴らしたい。
だが、それでは体を張って城を守り、今また危機を伝えに来た張飛の心意気を無にすることになる。
重傷を負った張飛も、すぐに医者に診せなければならない。
それに何より……
今の自分の力で、果たして呂布に勝てるかどうか。
今ここで自分が斃れたら、義兄を守れる人間は誰もいない。
自分が冷静さを失ったらお仕舞いだ。
関羽は己を叱咤して、荒ぶる心を何とか静める。
劉備は的廬の背中に張飛を乗せ、その場を一目散に後にする。
ようやく掴んだ徐州の地。それを、たった一晩で奪われるとは……
弱肉強食が乱世の理とはいえ、あまりにも世は無情である。
(だけど……やっぱり俺は悪運が強いのかもな……)
たまたま城を空けておいたお陰で、呂布と鉢合わせせずに済んだ。
張飛も、無理に突貫せずに城を守ることだけに専念して、最後は危機を伝えてくれた。
まだ糸は切れていない。
一期に奈落の底へ叩き落されたとはいえ、“天上”へと続く糸は、まだ繋がったままだ。
(這い上がってやる……! どれだけ下へ落ちようと、絶対にな!)
何で踏まれても蘇る雑草の如き執念で、劉備は未来の再起を誓うのだった。
下丕城に入城した呂布軍。
曹操軍をも梃子摺らせた彼らには弱小の劉備軍など敵ではなく、敵軍の大半が逃げたこともあり、一夜にして城を陥落させた。
「ふふふ……ようやく拠点が手に入ったよ。
早速この城を、僕の実験施設に改造しないとね」
呂布を唆して、徐州を攻めさせたのは、陳宮だった。
虎牢関の戦いを観戦していた陳宮は、呂布と関羽との因縁を知っていた。
狙い通り、関羽の名を出せば呂布は喜んで乗って来た。
陳宮は、呂布の思考回路をほぼ完全に把握していた。
ただ強者との戦を求め、それ以外には見向きもしない。
このあまりにも単純ゆえに余人には理解しがたい性質を、
呂布と一年以上も行動を共にして、綿密に観察することで、陳宮は理解しつつあった。
呂布の意を叶えるように見せかけて、そこに自分の意図を差し挟む。
高順以下、呂布軍の者は皆呂布に右に倣えだ。
実質的に陳宮は、呂布軍の全権をほぼ掌握していた。
「呂布将軍が牧になれば、徐州は僕の思うがままだ。
実験動物だっていくらでも集められる……」
これから行う研究を頭に思い描き、己の頭脳に耽溺していた。
かつて、徐州を見舞った大虐殺の真の元凶。
悪意なき探究心を抱いて、彼は再び徐州の地を蹂躙する。
かつて劉備が使っていた牧の椅子に腰掛け、我が物顔でふんぞり返る呂布。
下丕城の者は、皆呂布を恐れて逃げ出すか、戦わずして降伏した。
それでも、呂布は上機嫌だった。
あの張飛とかいう小僧……
無謀にもたった一人で自分に挑んできた。
関羽が居ないことに拍子抜けしたが、あの男の必死の戦いは中々に楽しませてくれた。
何が何でもこの城を守りきる……そんな気魄に満ちていた。
まだまだ技量は自分に及ばない。
奴もそれを解っているのか、時間稼ぎに徹しようとしているのはすぐに解った。
呂布は兵を動かさず、敢えてそれに応じた。
そのせいで劉備の兵を大勢逃がしてしまったが、呂布にとっては雑兵の一万や二万どうでもいい。
そんなことより、それで張飛の集中を乱してしまうことの方が重大だった。
死を恐れず、勝てないと解っていながら全身全霊でぶつかって来る張飛。
彼との戦は、十分に呂布の闘争心を満足させてくれた。
そして関羽……
もうここには戻ってこないかもしれないが、それはそれで構わない。
自分との勝負を逃げたということは、まだ彼は自分の域にまで達していないと判断したからだろう。
死を恐れて逃げ出す器ではない。それは、一度立ち会えばすぐに解る。
ならば、奴が更に強くなり、自信を持って挑んでくる時を待つのみ。
張飛も同じだ。奴もまだまだ強くなる。
自分を愉しませてくれる二人の兄弟を、呂布は心から好ましく思っていた。
だが、劉備……
あの男の顔を思い浮かべた瞬間、呂布の顔が嫌悪に歪む。
傍の方天画戟を手に取り、上空で大きく一振りする。
戟が唸る音が鳴った瞬間……
背後の壁の端から端まで、一文字の深い亀裂が走った。
引き砕かれた瓦礫が、地面へと落ちる。
戦におけるあらゆる要素を快楽とする呂布だが、あの男だけは別だ。
奴からは昂揚も、歓喜も感じず、ただ言葉に出来ない腹立たしさだけが込み上げてくる。
奴が常に逃げ回っているだけの男だからか?
違う……“逃げ”もまた、立派な戦略の一環だ。
呂布もそれは理解しているし、逃げに徹するならば、追いかける愉しみも出てくる。
だが、あの男からは、まるで戦う気が無いかのような印象を受けた。
あの眼は、最初から逃げることだけを、生き延びることだけを考えている男の眼だ。
同じ逃げる敵でも、あの曹操軍の郭嘉とは大違いだ。
あの軍師は、執拗に逃げながらも自分へ挑む気概を見せていた。
呂布にとって塵芥でしかない、曹操軍の兵卒も同じこと。
彼らからは、自分の存在に怯えながらも、主君のために戦おうとする闘志が、少なからず感じられる。
しかし、あの男にはそれがない。
何故、関羽や張飛のような強者が、あの男の傍に居るのか、呂布には理解できない。
つまらない男と切って捨てるのはいい。
自分に怯えきって逃げ惑うだけなら、路傍の石の如く無視するまでだ。
だが、あの男は……
脆弱な雑魚の分際で、この自分を、この呂布を……
見下すような眼で見ていなかったか――――
強く舌打ちする呂布。
その様子を、扉から入ってきた男が見ていた。張遼だ。
壁に刻まれた破壊痕を見上げて、何か思ったようだが特に口に出さない。
呂布にしてみれば、いつものことだ。
「呂布将軍……いえ、もう州牧殿とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「どうでもいいぜ。何だ、張遼」
自分は、関羽と戦いたいからここに来ただけで、州牧などという面倒くさいものになるつもりはない。
そんなことは、全部陳宮か高順に任せておけばいいのだ。
肩書きだけなら貰ってやってもいい。
地位や権力にこだわる心境は、呂布には理解できないが、それならそれで利用してやるまでだ。
全ては、自分の闘争の欲求を満たすために。
「逃走した劉備軍の追撃、この張文遠にお任せいただけませんか?」
「ああ、いいぜ。好きにしな」
どうでも良さそうに答える呂布。
張遼は、やや息を吸い込んでこう続ける。
「では……劉備軍の関羽を、私が討ち取っても問題ありませんね?」
「好きにしろっつったろ?
てめぇに負けて死ぬようなら、所詮それまでの男ってことだ」
関羽との戦は楽しみではあるが、他の奴にやられて死んだからといって、獲物を横取りされた気分にはならない。
そうなったら、その関羽を倒した強者と戦えばいいだけのことだ。
その方が、もっと強い敵との戦いを楽しめる。
この場合は、目の前の張遼がそれに当たる。
呂布が求めているのはその者の“強さ”だけで、それが誰であるかなど全く興味なかった。
「わかりました……」
張遼は深く頷くと、その場を去ろうとする。
その時……
轟くような金属音が、室内の空気を揺らした。
見れば、張遼の大輪刀が、呂布の方天画戟と噛み合っている。
今の一瞬……張遼は、呂布の不意を打って大輪刀で薙ぎ払った。
だが、その神速にして大重量の一撃を、呂布は事も無げに方天画戟で弾いた。
その膂力に押され、大きく後じさる張遼。
一方の呂布は、椅子に腰掛けたまま微動だにしていない。
カトンボでも払った後という風に、挑戦的な笑みすら浮かべている。
これが……今の自分と呂布の力の差…………
張遼は唇を噛み締める。
あれから、張遼は幾多もの修羅場を潜りぬけ、鍛錬を欠かさずにいたつもりだが……
まだまだ呂布との間には、歴然たる差がある。
しかも相手は、左腕を欠いている状態なのだ。
恐らく、下丕城に関羽がいたとしても、今の呂布には太刀打ち出来ないだろう。
「ふん、また少し重くなったか?」
攻撃を撃ち払った感想を、正直に述べる呂布。
主に対する造反とも取れる行為を、呂布は咎めだてしない。
あれが“試し”に過ぎないぐらい、簡単に解る。
呂布は張遼に対し、自分に刃を向ける行為を全て許可していた。
張遼は……呂布を越えて己が最強になるために呂布軍にいることを、呂布は知っている。
その上で、張遼に自分への攻撃を許している。
殺されないという絶対的な余裕がある……からではない。
呂布にとっては闘争や騙まし討ち、命の取り合いはただの日常。
腹を立てたり、罰したりすることではないからだ。
むしろ、相手の成長具合が肌で実感できて面白い。
もし本気で戦うに値すると感じたならば、その時は気にせずに叩き潰すまで。
それを、張遼もよく解っている。
逆に言えば、平然と許されるということは、まだ自分は呂布を本気にさせる域に達していないということ……
最強への道はあまりにも遠く、長い。
この規格外の怪物を前にすれば、否が応にも思い知らされる。
だが……
そんな最強を体現するような男だからこそ、自分は彼の下に居る。
真の最強とは何なのかを、見失わずにいられる。
そして関羽……
この最強の怪物に、興味を抱かせたという男。
張遼の中でも、この男への興味が沸きあがっていた。
自分と同じく呂布に挑もうとする男。
関雲長とは、一体どのような男なのか……
直接相対して見極めたい。
その過程は、互いに刃を交えての命の奪い合いになるやもしれない……
それを全て承知した上で、張遼は往く。
あらゆるものを見、己の身に刻み、遼遠なる最強へと昇り詰める為に……