第八章 勇躍の時(四)
「父上…………」
父、孫文台の墓の前に立ち、孫策は父の思い出に浸る。
後ろにいる周瑜も、想いは同じだろう。
「これから、俺は天下に喧嘩を売りに行く。
でけぇ喧嘩になりそうだが……負けるつもりは全くねぇ。
必ず勝って、江南に、中華に、孫の名を轟かせてみせるぜ」
そう言い放つ孫策の顔は、既に天下に挑もうとする気概で満ち満ちている。
背後に付き従う四将軍は、その姿にかつての主を思い出し、胸を詰まらせる。
「俺に心配はいらねぇ……
だから、お天道様の上から仲謀と尚香を、見守っていてくれや」
孫策は、父の着ていたものと同じ白い外套を翻し、墓を後にする。
「孫伯符、行くぜぇ!!」
亡き父の兵を取り戻した孫伯符は、遂に孫軍を新生させ、天下への第一歩を踏み出す。
だが、それに対する諸侯の反応は冷ややかなものだった。
いくらあの孫堅の子とはいえ、一千の寡兵……
皆何が出来るでもないとたかをくくっていたのだ。
だが……孫策の快進撃は、諸侯の想像を絶していた。
まず孫策は、千の兵を率いて長江を越え、南の曲阿に拠点を構える劉遥を叩いた。
劉遥は袁紹派の部将で、袁術とは対立関係にある。
この戦は、袁術との関係を守る目的もあった。
しかし第一の目的は、勢力の拡張と、孫軍の復活を江南に知らしめることにあった。
曲阿に進軍した孫策は、寡兵ながらも精強なる部将と効果的な用兵で、連戦連勝を重ねる。
袁術の下でも、寡兵で数倍の敵を討ち果たしてきた孫策である。
それに、周瑜と張昭の智謀、四将軍の武勇が加われば、虎に翼が生えたようなもの。
四将軍を束ねて戦場を駆ける様は、まさしく“江東の虎”の再来であった。
勝利するたびに、敵軍の兵を吸収し、また立ち寄った集落でも一切の略奪を働かない。
江南の地において、孫堅の影響力は未だ根強く、孫策の制覇は民は熱狂させた。
孫策の支持は高まる一方で、その兵力は一万以上に膨れ上がっていった。
揚州、孫家の別邸……
「お兄さま! 仲謀兄さま!!」
輝くような笑顔を浮かべて、少女は扉を開ける。
豊かな長い金髪に、碧眼に白い肌。波打つような赤い着物を着用している。
彼女の名は孫尚香。
孫堅の娘で、孫策、孫権の妹、孫家代々の美貌を、可憐な美しさに変えた美少女である。
「聞きまして? 伯符兄さまが、また敵陣を攻め落としたそうですわ!
今や兄さまの軍は、二万を越える規模だとか!!」
顔を紅潮させ、自室で本を読んでいる兄に告げる尚香。
彼女の兄は、金髪を短くまとめ、碧眼で文字を追っていた。
孫権、字は仲謀。
孫策の弟である彼も、幼年期を終え、今や凛々しい少年へと成長していた。
「はぁ〜〜……そりゃまたすっげぇですねぇ」
気の抜けた声を上げたのは、孫権ではなく、部屋で寝そべっている黒髪の男だった。
「まぁ瑾! またお兄さまの勉強の邪魔をして!」
「俺っちはただ寝てただけですぜ。邪魔をしたのはお嬢さまの方でしょ」
そう言って、黒髪の男は頭をぽりぽりと掻く。
黒髪を長く伸ばし、前髪を目線が隠れるほどに伸ばしている。
着ている衣装も、何の飾りっけも無い黒一色の簡素なものだった。
諸葛瑾、字は子瑜。
戦火で江南に逃れてきて、孫家の食客になった男である。
一応文官志望と言う触れ込みだが、一日中ぐうたらしているだけで何もせず、今ではただの居候になっている。
「口答えは許しませんわ! 罰として、私の驢馬になりなさい!!」
「うへぇ、またあの遊びですか。勘弁してくださいっすよ」
尚香の遊びとは“驢馬ごっこ”で、瑾を驢馬に見立てて背中に乗り、鞭などで叩いて走らせる遊びである。
尚香は、高飛車とも言える気位の高さに加え、孫策に似た気性の荒さを持っていた。
彼女の遊びに付き合わされて、瑾は何度も筋肉痛になっている。
「働かざるもの喰うべからずですわ。
何もしないんだから、せめて私の遊び相手ぐらい立派に務めなさい!」
「よせ、尚香」
これまで無言で本を読んでいた孫権が、尚香を注意する。
「瑾に迷惑をかけるんじゃない」
「もう、お兄さまは瑾に甘すぎますわ! こんな奴、ただの穀潰しではないですか」
「うへへへへ……耳が痛いですねぇ」
「笑い方が気色悪い!!」
尚香に蹴っ飛ばされる諸葛瑾。
この居るだけで何もしない食客を、何故か孫権は厚遇していた。
戦に明け暮れる孫策は家を留守にすることが多く、話相手が欲しいのかもしれないと思ったが……
孫権は勉強に集中しており、瑾はいつも昼寝している。
尚香にとって、孫権が何故そんなに瑾を高く買っているのか理解できなかった。
尚香は兄の傍により、彼の読む書物に目を通す。
勿論、彼女には何一つわからない。
「はぁ……お兄さまはいつもいつも勉強熱心ですわね……」
「いやぁ、お坊ちゃまの努力にはいつも頭が下がる思いですよ」
「あなたも少しは見習いなさい!!
どうして食客の貴方がサボって、主のお兄さまが勉強しているのよ!!」
瑾を何度も踏みつける尚香。
これもじゃれ合っているのだろうと、孫権は引き続き書物を読む。
勉強熱心……か。
孫権に言わせれば、それは褒め言葉では無い。
勉強しなければならないのは、結局のところ劣った才を努力で補うしかないからだ。
今孫権が学んでいる学問は、七、八年は先の内容ばかりだ。
その点において、彼はまさしく秀才であった。
だが、あの周瑜は、五歳児の頃にはこの程度の学問は全て修得していたと言う。
武門においても同じこと。
孫権は勉強だけではなく、剣の修行も積んでいるが、やはり兄や周瑜には遠く及ばない。
自分は所詮……必死で勉強することでしか、己の力を得られない才無き男。
今も前線で戦っている、華々しき英雄達とは違う。
自分はまだ、天下の戦を語る段階にすら達していないのだ。
そんな自分が、兄の戦について言うことなど何も無い。
確かに、勝ってくれれば嬉しいが、それ以上の感情を抱くことは無い。
羨ましいとも、彼のようになりたいとも思わない。
結局自分は、兄を支えるだけで一生を終える人間だ。
努力に努力を重ねて、ようやく他の家臣達と並び立てる、自分はその程度の人間でしかない。
ならばせめて、孫家の人間として恥じないよう、一日でも早く一人前になること。
それが自分の為すべきことだ。
それだけでいい。
それ以外は、何も考えなくていい――――
「おほほほほほ! もっと速く走りなさいこの駄馬が!!」
「ひひ〜〜ん!!」
やがて庭の方からは、尚香の高笑いと、唸る鞭の音、そして、瑾の驢馬そっくりの鳴き声が聞こえてくるのであった……
渾元暦195年、揚州、曲阿……
孫策の軍勢は、今や二万に達していた。
その猛威は、各地で劉遥軍を圧倒し、殆どの敵を戦わずして降伏させていく。
やがて彼らは、劉遥の居城まで達する。
「兄貴! 兄貴! 太史慈の兄貴ぃ!!」
「おう、どうしたぁ?」
男は壁際に腰掛け、口に火のついた煙草を咥えていた。
亜麻色の髪を長く伸ばし、白い上着に黒の脚絆と簡素な衣装を着た男だ。
彼の名は太史慈、字は子義。
不老年齢は22歳。
劉遥の副将であるが、不真面目な態度ゆえに主君とは折り合いが悪かった。
「ああ、兄貴! 劉遥の奴ぁどこにもいません!
あいつ、城から逃げやがりました!!」
それを聞いて、男は煙草を離し、紫煙を吐き出す。
部下の報告を聞いても大して動揺した様子はない。
元々、あの男に大して期待などしていなかった。
煙草の火を床に擦り付けて消すと……
「しゃあねぇなぁ……」
太史慈は、それだけ呟くと、ゆっくりと身体を起こす。
脚絆の穴に手を突っ込んだままで体を跳ね上げ、直立する太史慈。
燐寸を擦って、新しい煙草に火をつける。
彼が歩くたび、高い金属音が鳴り響く。
爪先まで真っ黒な彼の両脚は、鋼のような光沢を放っていた。
「殿! 城門が開きます!!」
声を上げる程普。
曲阿の城の前には、既に大勢の孫策軍が取り囲んでいる。
この二万の軍勢に対して、城から現れたのは……たった一人の男だった。
鎧も着ず、武器も持たず、馬にも乗らず、徒歩でこちらに向かって歩いてくる。
「降伏の使者でしょうか?」
一人だけの出陣を見て、いぶかしむ朱治。
「いや……あの野郎、只者じゃねーや」
孫策は、彼の体から立ち昇る陽炎のような闘志を感じ取っていた。
そう言って、馬を走らせる孫策。
「伯符、総大将が迂闊に前に出るな!」
周瑜もすぐに孫策に追随する。
「話し合いが目的なら、俺が出なきゃいけねぇだろ?」
「全く、悪いところばかり大殿に似ている……!」
孫策と周瑜は、男の近くで馬を止めると、共に馬を降りる。
勿論、後ろに控えた孫策軍は、いつ不測の事態が生じてもいいように、いつでも突撃できる体勢を整えている。
朱治などは、城壁の上を油断無く見据えている。
いつでも攻撃できるよう、円月輪を握り締めている。
だが、孫策を狙撃しようとする射手などは現れなかった。
「よぉ、俺の名は孫策。あんたは?」
「太史慈……字は子義だ」
総大将が自ら出てきたことを意外に思いながら、太史慈は煙草を吹かす。
一見余裕に見える態度ながらも、その物腰には一切の隙が無い。
孫策と太史慈、二人の男は、互いに相手を見据えて向かい合う。
「てめぇらの狙ってる劉遥なら、もう逃げたぜ」
「ほう。まぁあんな奴どうでもいい。城を明け渡してくれねぇか?」
敵将への執着など欠片も無い。
こんな戦は、ただの陣地取り、通過点に過ぎないと言わんばかりの態度だ。
やはり、この男は天下に覇を狙う器……それを理解した上で、太史慈は続ける。
「いいだろう……」
「おおっ、物分りが良くて助か……」
「ただし!」
太史慈は大きな声で喜ぶ孫策を遮った。
「劉遥はバカだが、あんなバカでも一応世話になった義理はあるんでな。
何もしないってのは、どうにも寝覚めが悪い」
「じゃ、どうすりゃ納得してくれんだ?」
「てめぇらの軍で一番強い奴……そいつと一騎打ちさせてくれ」
太史慈の申し出を聞き、孫軍はざわめく。
「へぇ、何でまた……」
「大した理由じゃねぇ。俺はただの武将だ。喧嘩する以外に能の無いバカなんだよ。
てめぇらの噂は聞いてる……強いんだってな。
それで十分……まぁ、言ってしまえば俺の自己満足だ」
「なるほどね……」
孫策はゆっくりと頷く。
強い奴と戦いたい武人の本能。
それは、孫策にも良く解ることだ。
だが、次に取った彼の行動は、太史慈すら仰天させるものだった。
「わかった! じゃあ、早速始めようぜ!」
碧眼を輝かせ、剣を抜き放つ孫策。
その行動に、太史慈は唖然として咥えた煙草を落とす。
「話聞いてなかったのかよ!俺は……」
「一番強い奴とやりたいんだろ? じゃあ俺だ」
孫策は、何がおかしいのかと言った様子である。
「おいおい……総大将が一騎打ちとか、バカじゃねーのか!!」
「ああ、よく言われるよ」
全く揺るがぬ孫策の瞳に、太史慈は困惑する。
「伯符……」
「公瑾、程普達も手を出すなよ。こいつは俺の戦いだ」
「仕方が無いな……」
周瑜はやれやれといった様子で、肩を竦める。
一度火が点いた孫策は、何を言っても止まらない……
それを、親友である彼はよく熟知していた。
「まぁ……そういうバカは嫌いじゃねぇけどな」
口の中に残った紫煙を吐き出す太史慈。
彼は、この時点ではまだ孫策の言うことを真面目に受け取っていなかった。
一騎打ちと称しても、周囲には味方が大勢居る。
いざとなれば、彼らを平気で助太刀させるだろう。
結局は、殿様のお遊びにつき合わされるだけ……
こんな戦など、自分の求めている男の喧嘩ではない。
だが、自分には拒否権など無いことを、太史慈はよく理解していた。
そんな諦めの念を……
「それじゃ……闘ろうぜ、太史慈」
孫伯符の放つ闘気が、一瞬で消し飛ばした。
「!!」
両の眼を大きく見開く太史慈。
押し寄せる闘気が、物理的圧力を伴っているかのように、体を圧迫する。
全身の肌が粟立ち、稲妻の如き戦慄が駆け巡る。
こいつは……こいつは……!
「一番強い……その言葉に嘘はねぇみたいだな……」
太史慈は、爪先で地面を擦る。
地面に落ちた煙草が、轢かれて捻じ切れた。
「来な……孫策!」
目の前に居るのは、孫家の跡取りでも敵軍の総大将でも無い。
孫伯符と言う、ただ一人の強者だった。
「はぁぁぁぁっ!!!」
孫策は直剣を手に、太史慈に斬りかかる。
何の迷いも無い、真っ直ぐな踏み込み。
それに対し、太史慈は脚絆に手を突っ込んだままで……
その右脚を、天高く振り上げた。
甲高い金属音が、戦場に鳴り響く。
太史慈の脚が、孫策の剣を受け止めていた。
いや、生身の脚ではない……破れた脚絆から覗くのは、黒光りする鉄鋼……
「喰らいな……!」
太史慈の体が浮き上がる。
片方の左脚をくねらせ、左側から蹴りを放つ。
当然、左の脚も鉄甲で覆われている。脇腹に命中すれば、人体を両断する威力を秘めている。
「はっ!!」
孫策は、鉄脚に当たった剣を下に滑らせる。
その勢いに乗って、体を下へと屈みこませる。
太史慈の蹴りは、その頭上を通り過ぎていった。
美しい金髪が、千切れて風に飛ばされる。
「それがあんたの得物か!」
お互い、位置を入れ替えての仕切りなおし。
太史慈の両脚は、黒い鋼の甲で覆われていた。
その表面は、穿山甲の体表のように波打っている。
太史慈は、煙草を咥え、再び燐寸を擦って先端に火をつける。
これは余裕ではなく、戦に臨む為の一種の儀式だ。
紫煙の香りが、昂揚する熱情を落ち着かせ、万全の精神状態を保ってくれる。
脚絆に手を突っ込むと、地面を蹴って突進する。
今度は太史慈から仕掛ける番。
眼にも止まらぬ速さで、左右の蹴りを同時に放つ。
徹底的に手を使わない、足業にのみ特化した戦闘方法。
だが、余計なものを捨て、全てを両の脚に委ねた彼の蹴撃は、
疾風の速さと、迅雷の威力を兼ね備えていた。
だが、孫策も負けてはいない。
幼い頃より、強い父の背中を見て育った孫策は、いずれ父に認めて貰おうと、日々己を鍛え続けた。
その不断の努力は、元ある才能を倍化させ、孫策を若くして達人の領域にまで押し上げていた。
太史慈の華麗な足業に眼を奪われつつ、冷静に対処する孫策。
剣を振るい、鋭い蹴撃を的確に捌いていく。
太史慈の蹴りは速い、強いだけではなく、柳の木の如きしなやかさも備えていた。
蹴りの途中で軌道を変えるなど朝飯前。
変幻自在、あらゆる方向から放たれる蹴りが、孫策を翻弄する。
それを孫策は、鍛えた眼力と野性の勘で凌ぎきる。
形勢は互角……だが、一撃の威力で勝る太史慈が、徐々に押し始める。
「た……っ!!」
裂帛の気合を込めて、太史慈は両脚同時に蹴りを放つ。
その威力は、孫策の力で防ぎきれるものではない。
孫策は大きく吹き飛ばされ、地面に転がる。
間髪入れず飛翔する太史慈。
体を旋回させ、孫策目掛けてかかと落としを放つ。
背中まで伸びた亜麻色の髪が、風を受けて浮かび上がる。
断頭台の刃が落ちてくる。
意識だけは保っていた孫策は、素早く体を転がして、致命の一撃を避ける。
地面には、巨大な刃を突き刺したような亀裂が形成されていた。
「と、殿……!」
予想以上の太史慈の強さに、居並ぶ孫策軍は戦慄を覚える。
幾ら一騎打ちとはいえ、このまま戦わせていれば、孫策が死ぬかもしれない。
だが、一騎打ちに介入することは、孫策の誇りを傷つけ、ひいては孫家の家名に泥を塗ることに成りかねない。
手を出すべきか、出さざるべきか。何人かは既に決心を固めている。
そんな中で……
「最初に感じたとおり……強いな、あんた……」
孫策は笑みを浮かべていた。
命の危機など物ともしていないような、覇気の篭った瞳。
「じゃあ、俺もそろそろ本気で行くぜ」
「何……?」
孫策の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
そして、再び開かれた時には……
「――――!!」
更に巨大な闘気の塊が、太史慈の体を直撃した。
耳に、虎の咆哮の如き幻聴が響く。
全身の神経が危険信号を発している。
孫策の双眸に宿るは、金色の輝き。
孫家代々が引き継ぐ“虎の眼”。
潜在能力を解放し、限界まで引き出す野獣の瞳。
孫軍の者達からも歓声が上がる。
孫策が強くなっていたことは知っていたが、まさか“虎の眼”まで使えるようになっていたとは。
金色の瞳を光らすその姿に、四将軍や古参の部下は、在りし日の孫堅を思い出す。
今の彼は、父と見間違わんばかりの闘気に満ち満ちている。
その姿を知るのは周瑜だけ……
孫策は、彼との厳しい修行の果てに、若くして“虎の眼”を開眼したのだ。
「本気……か。ただの吹かしじゃあなさそうだな……」
見ているだけで解る。この男がどれほど強い男なのかが。
これが、孫家の血統の力。いや、孫伯符自身の力か……!
それでも、太史慈は屈しない。
この一騎打ちは、戦に明け暮れた己の人生において最後の戦。
ならば、一辺の悔いも残らぬよう、無心で全力を尽くすまで。
あらゆる雑念は消えていた。
この孫伯符こそは、自分の全力を全て受け止めきれる人間なのだ……!
両脚の踵を強く踏む太史慈。
すると、鉄脚の隙間から鋭利な刃が展開する。
ただでさえ、駿馬に等しい彼の鉄脚は、白刃を備えたことで荒ぶる獣の爪牙と化した。
孫策の恐れの色は無い。彼は嬉しいのだ。
太史慈が、己の全力を自分にぶつけてきてくれることに。
根元まで火の通った煙草の煙を、腹に吸い込む。
脚絆に突っ込んだ掌を、強く強く握り締める。
心身ともに最高の状態。充溢する闘気を噛み締めながら……
太史慈は、地面を蹴って駆け出した。
「…………たらぁっ!!」
神速にして苛烈なる蹴打……いや、蹴斬というべき刃の嵐。
脚は腕の三倍の力……これは、三倍の力で刀を振るっているのと何も変わらない。
その連撃を孫策は……
不動の姿勢のままで、刀剣を振るうだけでいなして見せた。
目を見開いて驚愕する太史慈。
彼の両脚には、鉄甲越しに衝撃が走っている。
“虎の眼”によって解放された孫策の潜在能力とは、どれほどのものなのか。
「行くぜぇぇぇぇぇぇっ!!!」
金色の瞳が、更に輝きを増す。
孫策は既に、闘志漲る野生の虎と化していた。
繰り出される剣の舞を、両脚を振るって受け止める太史慈。
その一撃は前よりも重い……
いや、新たな一撃を放つたびに、脚に走る衝撃は上乗せされていくではないか。
野性の本能を完全解放した孫策の連撃。
この男の底は一体何処にあるのか。
あるいは、彼自身も、まだ己の限界を知らないのかもしれない。
だからこそ、孫策の剣は一撃一撃ごとに鋭く、重くなる。
己の内に溜まった強さを、戦い続けることで汲み出していくかのように。
太史慈もまた、全力でそれに応じる。
脚部の衝撃など物ともせず、あらん限りの力で蹴りを放つ。
眩く散る火花。断続する金属音。
凄絶さと華麗さを伴った無双の旋律が、周囲に響き渡る。
やがて…………
「っだらぁぁぁぁぁぁっ!!!」
虎の咆哮が轟く。
両手で剣を握り締め、力強い踏み込みから放たれる一閃が、太史慈の暴威を凌駕する。
「…………っ!!」
競り負けたのは、太史慈の方だった。
仰向けになって地面に倒れる。
すぐさま起き上がろうとするも、その眼の鼻の先に剣の切っ先が突きつけられた。
「勝負あり……だな」
顔中を汗で濡らし、朗らかな声で呼びかける孫策。
彼の顔は、命を削る死闘を繰り広げてきたとは思えないほどに清涼で澄み切っていた。
天下獲りも、一騎打ちも、同じ次元と見なして全力で挑む。
それが、孫伯符の生き様なのだろう。
それを感じた太史慈は、敗北を認めた。
このまま脚を蹴り上げることも出来たが、これ以上無様を晒すつもりはない。
孫策の巨大な器を見せつけられた今、何をしても通用する気がしないからだ。
「殺せよ……」
すっかり根元まで消えた煙草が、口から零れ落ちる。
これ程の気持ちの良い敗北は初めてだ。
この心地を味わえただけでも、武人として生きてきた甲斐はあるというものだ。
「本当にそれが、あんたの望みか?」
そう言って、孫策は城の方を見る。
城門から轟くあの声は…………
「兄貴ぃぃぃぃ!!」
「太史慈の兄貴ぃぃぃぃ!!」
「兄貴! 兄貴ぃぃぃ!!」
割れんばかりの歓声。
城内にいた太史慈の兵が、皆集まって叫び続けているのだ。
「バ、バカどもが! 絶対城から出るなと言っただろうが!!」
「なるほどね……あんたあいつらを守る為に、一人だけで責任を取ろうとしたんだな」
「ふん……そんなんじゃねぇよ……」
太史慈は、バツの悪そうに右側を向く。
「あんた、喧嘩する以外に能の無い、とか言ってたが、そんなことはねぇよ。
あんたはあれだけの子分の心を惹きつけている。立派な武将だぜ」
「はっ……バカにバカ共が群がってるだけだっつーの!」
「じゃあ……お前も俺と言うバカについてくる気はねぇか?」
意外な展開に、太史慈は目を見開く。
「何……?」
「ここであんたを殺せば、あいつらは死に物狂いでかかって来るだろう。
俺としても、あんたとしても、そいつぁ気分が悪い」
確かにそうに。
あいつらが自分の敵討ちに孫軍に挑んだところで、皆殺しにされるのは眼に見えている。
それをさせたくない為に、自分だけで全ての落とし前をつけようと思ったのに……
「だから、俺の下に来てくれよ、太史慈。
あんたの両脚で、俺と共に天下を駆け抜けてくれねぇか?」
「へっ……てめぇにゃ、敵わねぇな……」
心を打つ“情”と、“理”に適った選択。
そして、孫策自身の“利”。
その全てを備えた孫策の提案は、天下を制する王者の資質を満たしている。
「俺は……あんたに負けた。この命、好きに使ってくれや」
脚絆から手を抜き、手を差し伸べる太史慈。
孫策も、剣を退けてその手を確りと握る。
男と男の絆の証である堅い握手を見て、孫策、太史慈の兵共に、感動の極地に達する。
ただ一人を除いては……
「孫策様…………」
実に無機質な……それでいて底冷えのするような声が、孫策の耳に響いた。
背中に寒気が走り、戦慄が全身を襲う。
戦で高まった熱情が、あっという間に引いていく。
顔面蒼白のまま、ゆっくりと首を曲げると……
果たして、一番恐ろしい男がそこにいた。
「ちょ、ちょ、張昭……」
張昭は、丸い眼鏡の奥から、孫策を睨みつけている。
眼鏡越しに見る瞳を直視するのが、恐ろしくて仕方が無い。
「貴方は……一体何をやっておられるのですか?」
丁寧であるが、その声には計り知れないほどの怒りが込められている。
戦いの汗とは全く違う、冷たい液体が頬を伝うのを感じる。
「報告も兼ねて、陣中見舞いに来たのですが……
まさか……まさかこのような行いを見せ付けられるとは夢にも思いませんでした。
孫策様も大軍を率いる身分になられ、
ご自分の立場をしかと自覚するようになられたと、
この張昭、主君の成長を心から喜んでおりましたが…………」
張昭の表情は、能面の如く動かない。
そのことが、逆に更なる恐怖を煽り立てる。
「それは所詮、この私の淡い幻想でしかなかったのですね。
孫策様………………」
そこで張昭は、一息ついて……
「総大将が自ら一騎打ちとは、何という愚かな真似をなさるのですか!!」
決して大きな声ではない張昭の怒号だが、孫策は完全に圧倒され、思わず退いてしまう。
「貴方はご自分の立場というものを理解しておられるのですか!?
貴方様は一軍を率いる将なのですよ?
貴方の身が危険に晒されれば、どれだけ軍が動揺するとお思いですか!
主君の危機は、臣下達の士気に悪影響を及ぼすばかりか
戦術や戦略を破綻させてしまうのです!
最悪の場合、主君が斃れれば、軍はたちまち瓦解します!
これまで必死の思いで積み上げてきたものが、全て無に帰すのですよ!
貴方は一時の感情に任せた軽率な行動で、この孫策軍の兵士全ての思いを台無しにしかけたのです!
その責任の重さを理解しておられますか?
総大将というものは、常に己を律し、沈着冷静を保ち、
配下を信頼して泰然自若とする心構えが求められるのです!それを貴方は……」
息もつかせぬ勢いでまくし立てる張昭。
完全に圧倒された孫策は、縋るように周瑜を見る。
彼の憐れむような眼は、こう告げていた。
「諦めろ。お前が悪い……」と……
だが、周瑜にも面白がっている余裕は無かった。
「周瑜!貴方もですよ!!」
その矛先は、周瑜にも向けられる。
「は、はっ……!」
「孫策様を補佐する身でありながら、何故主君の愚行を止めようとしないのですか!
王を補佐するということは、王の思うが侭にさせることとは違うのですよ!」
「じゅ、重々承知しております……」
痛いところを突かれて、周瑜も狼狽するしかない。
「お、おい、張昭殿、この辺で……」
見かねた程普が口を挟もうとするが……
張昭の軽い一睨みだけで黙らされる。
そう……張昭の言っていることは何から何まで正しい。
彼の言うことは、心の中で密かに思っていたことなのだ。
口で張昭に勝てる人間など、この孫策軍には存在しない。
「ならば何故このような結果を招いたのですか。
やはり、貴方達は若すぎます!!
戦争の何たるか、主従の何たるかをまるで解っていない!
軍を率いる者としての心構えを、一から教える必要性を痛感いたしました」
孫策も周瑜も、等しく完膚なきまでに精神を打ちのめされていた。
頭を下げ、弱弱しく出た言葉は……
「ごめんなさい……」
「申し訳ありません……」
主君らに謝られ、さすがの張昭の舌鋒も押し留まる。
軽く咳払いをすると、やはり冷然とした眼のままでこう続ける。
「一応、反省の気持ちはお持ちのようで、やや安心致しました。
これより併合する軍の前でもありますので、今はこの程度で留めておきましょう。
続きはまた、あの城の中で再開することにいたしましょう」
(ま、また続くのかよ……)
「その際は、過去の英傑の軌跡や伝聞、
古の賢人の言葉などを引用いたしまして、孫策様に真の帝王学を教授いたします。
加えて、二度とこのような愚行に走らぬよう、お二方には、約一週間の集中講義を受けていただきます。
本来の実務に差し障り無きよう、余暇の時間を使わせていただきますのでご安心ください。
孫策様が勉学に集中できるように、
一部の余暇も残らぬ分単位の綿密なる予定を組んで御覧に入れましょう。
無論、それでも足りないようならば、期間の延長も有り得ます。
孫策様が帝王学を完全に修得されるまで、
この張昭、決して諦めずにお供することを約束いたします」
張昭の言うことは、孫策にとって絶望でしかなかった。
周瑜にとっては、勉学など物の数ではないが、自分にはただの拷問だ。
これから一週間……場合によってはそれ以上、自分は牢獄での生活を強いられるのだ。
(終わった……!)
早くも白く燃え尽きた孫策は、肩を落としてその場に膝を着いた。
あの孫策が、言葉だけで言いようにやり込められている。
その姿に、太史慈は呆然となっていたが……
「そして、そこの貴方!」
光を反射して白く輝く眼鏡が、今度は太史慈に向けられた。
「な、何だ……ですか?」
冷たく厳しい言葉に、身が縮こまり、自然と口調が敬語になってしまう。
「貴方も、火の点いた煙草をそのまま地面に投げ捨てるとは何事ですか!
ここが平原だったからいいものを、
もしも室内や草原ならば、大火災になる可能性があったのですよ!
煙草は嗜好品ですので、吸うこと自体は個人の自由です。
ですが、それで周囲の迷惑を省ず、一般的な常識も弁えないようならば話は別です!
個人の自由とは、常に他の自由を侵害しない事を前提として成り立っているのです。
もし孫策軍に入るならば、そのような不真面目な態度は決して許しません!」
張昭に一喝され、太史慈もまた孫策と同じ恐怖を味わった。
彼は、震える声で一言……
「は、はい…………」
「解ったのなら、貴方が捨てた煙草をすぐに拾いなさい!」
「は、はいぃぃぃぃ!!」
慌てて傍の煙草の吸殻を拾う太史慈。
孫策は、相変わらず魂魄が抜け出たような顔で呆けていた…………
渾元暦195年。
孫策は戦わずして劉遥の城を落とし、太史慈とその軍勢は孫策軍に吸収された。
曲阿の支配権を確保した孫策は、この地を拠点に更なる勢力の拡大を図るようになる……