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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第八章 勇躍の時(三)

 渾元暦194年。

 

 揚州の州都、寿春じゅしゅんにて……


「おっと、見送りはここまででいいぜ。張昭ちょうしょう


 金髪の青年が、よく通る声で後ろに控える一団に告げる。

 ざんばらにした美しい金髪に、白い肌に碧い瞳を持つ美青年だ。

 青い着物の上に、白い外套マントを羽織っている。


 孫策そんさく、字は伯符はくふ


 今は亡き“江東の虎”、孫堅の遺児で、孫家の嫡男である。

 現在は19歳で、少年から青年に成長する過渡期にあった。

 父親譲りの高貴な美貌の持ち主だが、その表情にはどこか親しみやすい明るさが伴っている。


 簡潔に形容すれば、太陽のような笑顔を持つ青年だった。


 その孫策に対し、こちらは一点の綻びも無い冷たい顔をして返す。


「わかりました。護衛は一人に限る……それが袁術からの命令ならば是非もありません」


 返答を返した人物は、黒いおかっぱ頭に大きく丸い眼鏡をかけ、黄色い着物を着た若者の姿をしていた。

 その顔立ちはどこか女性らしいが、厳しく引き締まった顔からは、柔らかさの欠片も感じられない。

 どこか不機嫌そうな顔をしており、それが全く崩れないのは、常日頃、そんな顔をしているからか。


「今一度念を押しておきますが……くれぐれも袁術を怒らせないようにお願いします。

 如何なる挑発、誹謗、中傷、暴言にも、決して激してはなりません。

 貴方はまだ、彼の庇護の下生きているという自覚を忘れないように、

 へりくだりとうやまいの気持ちを持って彼に接してください」

「またそれかよ……一体何回繰り返したと思っているんだよ!」

「昨日までに四十六回。本日は、これで九回目になります」

「それだけ言えばもう十分だろうが……」


 聞きようによっては、主から不敬を咎められたにも関わらず、彼は一歩も引かない。


「いえ、失礼ながら孫策様には、後千五百三十八回繰り返したところで納得していただけるか不安に感じております」

「千五百て……か、勘弁してくれ……」


 あくまで慇懃に、されども自分の本心をズバズバとぶつけてくるこの男に、孫策はたじたじになる。



 張昭ちょうしょう、字は子布しふ


 亡き父の将兵を、悉く袁術に奪われた孫策が、新たに迎えた参謀である。

 不老年齢は21歳。武力の類は持たないが、政治能力に長けた優秀な文官だ。

 加えて、相手が主君だろうと、自分が信じたことは怖れず発言する意志の強さ。

 それも、張昭の優れた点の一つと孫策は認識している。


 父の死から約三年……

 あれから孫策は、袁術の下で多くの武功を挙げ、めきめきと頭角を現していった。

 一部には、既に“江東の虎”の再来を謳う者もいる。


 だが、自分はまだ19歳。

 若く、未熟者だということは、孫策自身が一番よく解っている。

 それゆえに、張昭のような、過ちを迷わず指摘してくれる副官が必要なのだ。


 地蔵のような穏やかな佇まいでありながら、やたらとくどく、しつこい物言いには辟易するが、

 それでも彼の諫言に間違いがあったことは、未だかつて無い。



「周瑜、どうか……」

「わかっています。伯符は私がしっかり見ていますから、安心してください」

「たく、お前は俺のお守りかよ、公瑾こうきん


 穏やかな口調で話したのは、真ん中で分けた長い黒髪を背中まで伸ばし、青い衣装に身を包んだ青年だった。

 眉目秀麗、面長の顔に整った目鼻立ち、真珠のように滑らかな純白の肌。

 ただ立っているだけで醸しだされる、蕩けるような風情……

 女性が見れば誰もが魅了されるだろう。


 周瑜しゅうゆ、字は公瑾こうきん


 孫策の親友である彼もまた、凛々しい青年へと成長し、第一の臣下として友を支えていた。

 かつての神童は成長し、今や智勇兼備の逸材となっていた。


 孫策、周瑜、張昭……

 孫堅の急死で崩壊するかと思われた孫家の御旗は、彼ら三人によって守られてきた。



 周瑜の言葉に対し、張昭は緩やかに首を振る。


「違いますよ。私は、貴方も心配なのです」

「………………」


 はっきりと言ってのける張昭。


 周瑜は孫堅によって孫策と兄弟同然に育てられ、実の親以上の恩義を感じているはずだ。

 袁術にあらぬことを言われ、普段の冷静さをかなぐり捨ててしまいかねない。

 この一見冷静な優男が、実は激しい情熱を秘めていることを、張昭は早くに見抜いていた。


「貴方の事ですから、そのぐらい自分で解っていると思いますが……」

「はい……」


 頷く周瑜。その後ろで、孫策が何やら騒いでいる。


「おいおい! 俺にはあれだけ説教しておいて、公瑾はそれだけで免除かよ!」

「必要な対応をしているまでのことです」


 これまた、主君の抗議を平然と受け流す張昭。


 確かに周瑜には幾許かの不安要素がある。

 それでも尚、護衛に選抜したのは他に人材がいないからだ。

 

 袁術は明らかに孫策に対し不信の念を抱いている。

 そんな状況で彼の居城に乗り込めば、何をされるかわからない。

 

 その際、孫策を無事守りきれる武勇を持ち、冷静な思考と判断力を備えているのは、周公瑾以外にありえなかった。


「じゃ、今度こそ行って来るぜ。これ以上説教は御免だからな、行くぜ、公瑾」


 周瑜を伴い、張昭らに背を向けて歩み出す孫策。

 その時……



「“お前の父親は、負け犬だ”」



 自分の中の線が切れる。

 血管を流れる血が、急激に沸き立つ。

 全身の神経が昂ぶり、体中を殺気が包んでいく。

 獰猛な爪牙を備えた“ソレ”が、今にも殻を破りかけたところで……

 


「……っ! どうだ張昭……これなら文句ねぇだろ?」


 今にも駆け出しそうになるのを、ギリギリで踏み止まった孫策は、張昭に笑顔を向ける。

 その笑顔が、相当に引きつっていたのを、張昭は見逃さない。


「やはり……まだまだ不安ですね。ですが、格段の進歩があったのは認めましょう」

 

 少し前ならば、そのまま張昭に飛び掛り、頭から一刀両断にしかねなかった。


「そうですね、三十七点を差し上げましょう」

「何点満点で!?」

「とりあえず、ギリギリで平均点以上というところです。

 では孫策様、行ってらっしゃいませ」


 張昭は手を合わせ、背後の部下と共に深々と一礼した。


「たくよ……」

 

 ぼやきながら、袁術の居城へと向かう孫策と、無言で付き従う周瑜。


「………………」


 張昭は見逃さなかった。

 あの時……ギリギリで踏み止まった孫策よりも、

 一切の反応を返さなかった周瑜の方が、膨れ上がる殺気は遙かに大きかったことに。




「孫伯符様、周公瑾様ですね?」

「おう」


 門衛と言葉を交わし、持っていた武器を預ける二人。

 執拗な身体検査を受け、入城を許可される。


「あんたらが女だったら良かったのにな。

 いや、それだと公瑾の顔見て鼻血吹いて、仕事にならないか!」 


 孫策の軽口に対し、周瑜は苦笑するに留める。


 門衛達によって、やたらと豪勢な門が開かれる。

 門の上には、袁術と思しき金色のレリーフが彫られていた。

 袁術が長く手を伸ばしており、それがそのまま門のアーチになっている。


 城壁の中に入り、彼らは遂に袁術の城の全景を見渡す。


 見ているだけで口の中が甘くなるような、琥珀色の城が眼に飛び込んでくる。

 城というよりは、宮殿というべき形状の建物で、屋根の上には、袁術の顔をした巨大な蜜蜂の彫像が立っている。



 ここが袁術の居城、通称“蜂蜜宮殿ハニーテンプル”であった……



 袁術の兵士に前と後ろを挟まれ、孫策と周瑜は蜂蜜宮殿へと向かう。

 彼らは黄色と黒の甲冑を着込み、兜からは触角らしきものが生えている。

 見れば、尻の辺りが妙に膨らんでいる。

 どうも蜜蜂を意識した衣装らしい。

 手にしている槍も、蜜蜂の針のように見えてくる。


 宮殿へと続く道には、様々な動物の彫像が並んでいる。

 犬、猫、鳥、牛、馬、羊、獅子、虎、鹿、象、虫、魚……


 その全てが、袁術の顔をしている。

 奇怪な人面獣達の歓迎に、孫策は眩暈がした。


「伯符、あれを……」

「ああ、あれがかの悪名……いや、有名な“蜂蜜農場”か……」


 庭の大部分を占めているのが、布で囲んだ四角い建物だった。

 袁術は、蜜蜂の飼育に力を入れており、領民達を使って蜂蜜を大量生産させている。


 理由はただ一つ。


「ボクちゃんは蜂蜜はちみちゅだ〜いちゅき!

 蜂蜜山ほど作って、一生ぺろぺろしたいみゃ〜〜〜」


 そんな領主の個人的な嗜好を満たす為だけに、領民達はあの箱の中で働かされているのである。

 これは強制労働で、拒むことは許されない。

 幾らかの報酬はあるとはいえ、貴重な労働力を奪われては、農家の収穫に大きな狂いが生じる。

 比較的豊かな揚州だが、袁術のこの馬鹿げた政策によって民は苦しめられていた。


(蜂蜜幾ら作ったって、大した金になるわけじゃねーのによ……)


 せめて、もっと収益性のあるものを生産すればいいと思うのだが、袁術にそんな脳はあるまい。



 こんなふざけた領主でよく統治が成り立つものだと思ったが、その点をいつか周瑜が説明してくれた。


「奴の権力は、袁術一人の力じゃない。他の有力者達が、揃って袁術に組しているからだ」


 袁術は単純で御しやすく、おだててその気にさせれば、甘い汁を啜ることは容易い。

 名門袁家の一員という袁術の立場は、表に立てるのに都合が良かった。

 彼のおこぼれに預かろうと、有力者達が一斉に袁術の下に集った結果、このいびつな支配体系は確立した。

 袁術が表向きどんな馬鹿げた政策をしようとも……発生した富は“彼ら”の舌を潤す蜜となる。

 民を苦しめてでも袁術の機嫌をとって、自分達の役に立つ政策を実行させるのだ。

 癒着は長年に渡って続けられ、既に決して拭えぬ闇となって揚州を包んでいる。

 それは……漢王朝における、霊帝と宦官の関係に等しかった。



 袁術軍の正体とは、袁術という道化に群がった、揚州に巣食う黒い権力の亡者達なのだ。



 その中で、唯一袁術の言いなりにならなかったのが、孫策の父、孫堅である。

 袁術と、彼を支援する権力者たちは孫堅を危険視した。

 だからこそ、兵糧を打ち切るなどしてその戦力を削ごうと考えたのだ。


 自分は、その孫堅の血を引いている。

 袁術は最大限の警戒を払ってくるだろう。

 そんな敵意渦巻く宮殿へと、自分は脚を踏み入れるのだ。


 蜂蜜のようにねっとりと絡みつく危機感を覚えながら、孫策は身震いする。


 


 

 宮殿内部は、さらなる悪趣味の巣窟だった。


 まず門は、そのまま袁術の顔を模しており、彼の口の中に入るという非常に不愉快な体験を強要される。

 内部は、目の眩みそうな蜂蜜色で、あちこちに袁術の彫像や、絵画が飾られている。

 特に、彫刻の袁術の口から黄色い液体が溢れ出る泉などは、直視することすら吐き気を伴った。


「お、あれは……」


 一際大きな絵画を見上げる。

 かの有名な始皇帝……と思ったが、顔が袁術にすげ替えられている。


 他にも、劉邦、項羽、張良、光武帝、管仲、太公望、果ては孔子や老子まで、

 あらゆる歴史上の偉人の顔が、そのまま袁術になっているのである。


 自分は、彼ら史上の英傑、偉人に等しいと言いたいのだろうか。

 庭の人面獣に比べて、さらに笑えない芸術になっている。


 そして……袁術だらけの展示品を強制的に観賞させられるという拷問を潜り抜けて……

 ついに孫策は、袁術と対面を果たすのだった。





 謁見の間……


 巨大な袁術本人の肖像画が壁に掲げられ、

 両側には黄色い袁術の彫像が、阿吽の像の如く並んでいる。


 その真下に、この狂乱の城の主は座っていた。


「ぶひゃひゃひゃひゃ!!

 おいちいおいちい♪ やっぱり蜂蜜はちみちゅは最高でちゅね〜〜〜」


 管を通して壷の中の蜂蜜を啜る袁術の姿は、まさしく花の蜜を吸う紋白蝶もんしろちょうのようだ。

 いや、紋白蝶はあんなに醜い姿をしてはいないが。

 首に涎掛けを巻き、滴る涎と蜂蜜が白い布を汚す。


「ああ〜〜っ! 零れちゃいまちた。もっちゃい無いもっちゃい無い♪」


 そう言って、涎掛けの蜂蜜まで嘗め取る袁術。

 挙句の果てには、床に零れた蜂蜜まで舌を伸ばして嘗め回す。


 公の場でも、袁術の痴態は有名であったが、居城での醜態は孫策の想像を絶していた。

 もはや、失笑を通り越して空恐ろしくなる程の醜さに、声も出ない。

 傍に控える衛兵や家臣達は、厳粛な面持ちのままで顔を綻ばせることすらしない。


 痴態を晒す主君と、それを空気の如く無視する家臣達。

 袁術の玉座は、滑稽の極致と言うべき空間と化していた。



「ぐへへへへへ……え、えんじゅつざま…………」

 

 舌足らずな言葉で喋る大男が、袁術の傍に近寄ってくる。

 浅黒い肌をした、丸々と太った巨漢である。

 まるで、巨大な球に、首と手足が生えているようだ。

 藁のようなぼさぼさの黄色い髪、三白眼の丸い眼に、口内に並ぶ歯はところどころ欠けている。

 立つことも億劫なのか、床に寝そべったまま転がるように移動している。


「お、おでにも、はぢみつ、はちみづ……」


 親指で自分を指し、袁術の蜂蜜を物欲しそうに見る男。


「おお、紀霊きれい。お前も蜂蜜はちみちゅにゃめたいでしゅか!」


 袁術の顔が綻ぶ。彼は、匙で蜂蜜を掬い、紀霊と呼んだ大男に食べさせようとする。


「ほぉら、あ〜〜んしなちゃい♪」

「ぐへへへ〜〜……いだだぎまぁぁぁぁず!!」


 紀霊は、口を一杯に広げ、濃厚な蜂蜜にかぶりつく。

 袁術の差し出した匙ではなく、壷の方に。


「ぐへへへへへ!! うめぇ! うめぇ!

 あまぐでうめぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 壷を口に咥え、蜂蜜を飲み干していく紀霊。

 口の隙間から蜂蜜が零れ、彼の体を濡らしていく。


「まっちゃく紀霊! お前はぎょーぎが悪いでちゅね!! ぷんぷん!!」


 腕組をして口を膨らませる袁術。

 しかし、その眼は醜い者を侮蔑することへの歓喜で潤っている。


(こいつに言われたらお仕舞いだ……)


 孫策は心中でそう呟いた。

 だが、袁術がこの男を傍に侍らせているのは、それが理由なのかもしれない。

 自分より知能の低い者を傍に置くことで、優越感に浸りたいのだ。

 見れば、紀霊を叱りながらも袁術は実に嬉しそうな顔をしている。



 しかしこの紀霊……ただの袁術の愛玩動物ではない。

 愚鈍な姿からは想像もつかないが、袁術軍随一の猛将で、多くの敵を討ち取ってきた強者なのだ。

 三尖刀さんせんとうを振るい、本能の暴力で敵を血祭りにあげる戦場の魔獣。

 それでいて、袁術には絶対服従。

 何かと低く見られる袁術だが、この紀霊だけは周囲に怖れられていた。






「さて、と……そこのおみゃえら!!

 よくきまちたね〜〜〜孫堅の子供の、ええっと……」


 いよいよ会談の時が来た、と孫策は気を引き締める。

 ここからは、戦と同様の緊張感を持って臨め……そう張昭に何度も言われてきた。

 

「孫策、字は伯符と申します!」

「私は周瑜、字は公瑾と申します!」

 

 孫策に続いて、周瑜も名乗りを上げる。

 さすがに彼は、孫策よりも表情を作るのが上手い。


 大声を出したのは、孫策と袁術の間が大きく離れているためだ。

 孫策達は、目の前に引かれた黄色い線から一歩でも先に進むことは許されない。

 その間には、何人もの武装した兵士が守りを固めている。

 全く信用していないと言わんばかりの態度だ。

 だが、このお茶らけているようで用心深い性格が、彼を揚州の主にまで押し上げた理由の一つなのかもしれない。



 武器を奪われ、完全な丸腰。

 間には多数の兵士が控え、袁術の傍には紀霊がいる。

 武器は敵から奪えばいいとして、この距離を一気に袁術の下まで駆け上がれるか……

 

 と、そこまで考えて、慌てて思考を打ち切る。

 今日はそんなことをしに来たのではない。何度も張昭に注意されたではないか。

 自分達は、話し合いをしに来たのだ。



「おうおう! 確かしょんな名前でちたね〜〜〜」


 寝そべる紀霊の体にもたれかかって、袁術は興味無さそうに言う。

 そして、下卑た笑みを浮かべたままこう続けた。 


陸康りくこうのぼけなちゅを捕らえて来たそうでしゅね!

 ボクちゃんが命令めーれーしてからあんにゃに早く……まっちゃく大した男でちゅ!」

「光栄至極に存じます!!」


 孫策は、よく通る声で礼を返す。


「何かご褒美をあげまちょうかね〜〜おみゃえ達も、それが欲しくて来たんでちょ?

 とりあえじゅ、何か言ってみなちゃい!!」


 いよいよ本題に入る時が来た。

 孫策は大きく息を吸い込んで叫ぶ。



「では、袁術殿!! 亡き父上の遺した軍を、私に還していただきとうございます!!」



 これが、この宮殿まで袁術に会見を申し出た理由だった。

 今は、孫堅軍の将兵は殆どが袁術軍に組み込まれているが、本来ならば跡継ぎである孫策に返還するのが道理。

 しかし、袁術は何度頼み込んでも耳を貸そうとはしなかった。


 だが、袁術に忠誠を誓い、それに見合う功績を上げた今ならば……



 それを聞いた袁術は、目をぱちくりさせていたが……


「なぁぁ〜〜〜〜んだ。そんなことでちゅか。何を言うかと思えば……」


 へらへら笑いながら手を振る袁術。そして彼は次に……



「やぁぁぁぁだぴょぉぉぉぉぉぉぉぉん!!!」



 舌を出して激しく振り、ベロベロバーをかます袁術。


「ぶひゃひゃひゃひゃ!! お前らガキンチョの浅知恵なんかお見通ちなんでちゅよ!!

 その軍を使って、ボクちゃんに謀反を起こすつもりなんでちょ!?

 そうはさせまちぇんよ!! ぶひゅひゅひゅひゅひゅ〜〜〜!!」


「そんなことはありません!!」


 真摯な表情で反駁するが、実際その通りなのであった。

 さすがに、兵を取り戻してすぐ……などと露骨なことをするつもりは無かったが。


「“あれ”はもうボクちゃんのものでちゅ!!

 能無しの孫堅が犬死したせいで、ぶじゃまに負けて逃げてきたのをボクちゃんが保護してあげたんでしゅよ!?

 その恩を忘れるつもりでしゅかぁ!?」


 父を侮辱する発言に、孫策の身体の血が熱くなる。

 張昭の言葉を思い出し、必死に自分を律する。


「全く孫堅もとんだ役立たずだったでちゅ!!

 ボクちゃんが目をかけてやったのに、あんなにあっさり死ぬにゃんて、弱すぎでしゅ!!

 知ってまちゅか? あいちゅの死にじゃま

 調子ちょーしに乗って一人で突撃したとこりょを、矢で狙い撃ちにされたそうじゃないでしゅか!

 軍をあじゅかる者が単騎ちゃんき特攻とっきょーなんて、とんでもない大バカでしゅ!!

 虎と呼ばれていい気になったまちたが、どうやら頭の出来も虎並みみたいだったでしゅねぇ!!

 ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」

 

 可笑しくて仕方が無いと言った様子で爆笑する袁術。


 孫策は、その言葉を全て耳から耳へと聞き流す。

 聞いた端から即座に忘れる。

 そう努めなければ、今にも袁術に飛び掛りそうになるのを抑えられそうも無い。

 いや、実際既に限界に達している。


 震える体を必死で鎮めて、大声で叫ぶ。


「公瑾!!」

「はっ!!」


 周瑜は、懐から何かを取り出す。

 袁術は、その行動に危機感を覚え、何かあればすぐに衛兵を飛び掛らせようとする。



 しかし、周瑜が床の上に置いたのは、武器の類ではなく四角い包みだった。

 周瑜がその包みを開くと、黄金の輝きが袁術の眼に入った。


「みゅみゅっ! そ、そりぇは……」


 五匹の龍の彫刻が施された、金色に輝く印鑑。

 袁術とて名門の一員、それが何なのか、説明されずともわかる。


「で、伝国の玉璽!!」


「はい、その通りでございます!!」

「き、紀霊!!」

「ぐああ?」


 袁術はたちまち必死な形相になり、寝ていた紀霊を叩き起こす。

 そして、紀霊の背中の上に乗ると、孫策のそばまで近寄る。


 孫策は恭しく玉璽を掲げる。

 袁術はそれを手にとって、ためつすがめつ、嘗めるように見つめる。


「みゅみゅっ! みゅみゅみゅみゅみゅ!!!」


 間違いない。

 『受命于天 既寿永昌』の印字といい、本物に相違ない。


(そーいえば、孫堅が死んでから、あいちゅが洛陽から玉璽を見ちゅけたって噂が流れまちたね……)


 黄金の輝きが、袁術の心を魅了する。


(これを手にした者が天下を治みぇる、皇帝こーてーの証……

 ボ、ボクちゃんが、皇帝に!?)


 袁術の中で、夢想だにしなかった欲望が広がっていく。

 皇帝となって、中華を支配する自分の姿を想像するのに、時間を要さなかった。

 彼の心は、巨大な欲望によって一瞬のうちに塗り潰されたのだ。



「袁術殿!! その玉璽と比べても、亡き父の兵は釣り合いませんでしょうか!?」


 孫策の言葉を聞き……袁術はかつて無い大爆笑を広間に響かせる。

 


「ぶひゃ……ぶひゃひゃひゃひゃひゃ!!!

 ぶひゃひゃひゃははははははははははははははははは!!!!」


 

 孫堅の兵?

 そんなゴミの集まりと引き換えに、この玉璽を渡すと言うのか!

 何という物の価値のわからぬ愚か者だろう。


 いいだろう……くれてやる。

 そんなモノよりも、自分はさらに大きなモノ……この中華そのものを手に入れるのだから。



「よぉし!! いいでしゅよ!!

 お前達の兵を還してやりまちゅ!!」


「ありがたき幸せに存じます!!」


 孫策と周瑜は一斉に平伏する。

 袁術は、玉璽を懐に抱いて、夢心地に浸っている。

 彼の頭の中には、自分が皇帝になった後の世界しか浮かんでこなかった……





 しかし……それでも袁術は狡猾な部分だけは残していた。

 孫軍の返還を約束しながらも、孫策に還した兵はたったの千……

 元々、袁術軍に吸収された時から両軍の境界は曖昧になっていた。

 そこに付け込み、何かと理由をつけて千の兵しか還さなかった。

 それでも孫策は表向き感謝しつつ、この取引を終えた……





「だぁぁぁぁぁぁ!! あの蜂蜜キチガイのクサレ生ゴミ野郎がぁぁぁぁぁぁ!!

 死に晒せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」


 それから……蜂蜜宮殿を去った後、孫策は積もりに積もった鬱憤を庭の岩を相手に発散していた。

 先ほどから三十分以上も、剣を振るって岩を刻み続けている。

 岩を袁術に見立てて、その恨みを全てぶつけんばかりに。

 口から出るのは袁術への罵詈雑言の嵐である。

 どれだけこの言葉を、あいつに叩きつけてやりたかったことか。


 やがて……身の丈ほどもあった岩は破片も見えないほど粉々に砕き散らされる。

 孫策は剣を降ろし、荒い息を吐く。


「気は済んだか、伯符」

「公瑾……しばらく寝ている俺に近づくな。

 あいつを夢に見て、眠ったまま斬りかかるかもしれん」


 げっそりした顔つきで、冗談とも本気ともつかぬように言う孫策。

 元々、感情を表に出し自由奔放に生きる性分である。

 誰よりも尊敬する父を侮辱され、黙って耐えていることが、どれだけの抑圧だったことか。

 同じ境遇の周瑜は、孫策のことを良く理解していた。


「とにかく……これで私達の目的は達せられた」

「ああ……父上の兵がたったの一千とは、最後の最後までムカつくことしやがる野郎だがな」


 皇帝の玉璽を引き渡したことを後悔する様子は微塵も無い。

 彼らは、あれをただの取引材料としか見なしていなかった。


 孫堅は、漢王朝に忠義を捧げた人物だった。

 この行為は、父上の遺志に背くことになったかもしれない。


 だが……父を尊敬しつつも、孫策は、父とは違う道を歩むと決めていた。

 漢王朝に囚われず、自分達の力で天下の覇権を握る。

 孫伯符は孫伯符、決して、孫文台にはなれない。

 一人の男として、己の信じる道を進むのみ。

 孫策はこの年で既に、天下への展望を胸に抱いていた。



「だが……」

「ああ、千は千でも……この千は、最強の千だぜ」


 そう言って、彼の下に戻ってきた将軍達を見やる孫策。


「孫策様……」

 

 程普、黄蓋、韓当、朱治……

 父の信頼した、孫堅軍の核たる四将軍である。


「袁術の下で、屍のように使役されていた我らに、再び孫の旗の下に戦える日が来ようとは……

 これも、貴方様の尽力の結果。

 孫策様には、どれだけ感謝してもし足りませぬ!」


 程普は、体を震わせ、新たな主のはからいに感涙していた。


「…………感謝、感激」

「私達がいなくなって、どうなるか心配しておりましたが……こんなにも立派になられて……」

「大殿も、きっと天の上から喜んでおられます!!」


 あの韓当ですら、今にも大粒の涙を流しそうである。

 朱治、黄蓋も内なる感動を隠せない。


「我ら四将軍! 孫策様が為、粉骨砕身、尽くさせていただきます!!」

 

 程普の言葉と共に、四将軍は一斉に平伏する。


「おう!! 頼んだぜ、お前ら!!」


 威勢よくその礼を受ける孫策には、既に王者の覇気が漲っていた。

 その姿を見た四将軍は、彼の下で戦える喜びに満ち溢れている。


 孫策は剣を取り、遙か蒼天の彼方を指し示す。

 この先には……父の届かなかった、天下への道が続いている。

 


「さぁ往くぜ! 俺達の時代の始まりだ!!」



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