第一章 董卓の暴政(一)
漢王朝末期……
人心は乱れ、大地は荒れ果て、国家は腐りきっていた。
宦官の専横により始まった中央腐敗は、政治の機能を麻痺させ、国家の凋落へと繋がっていった。
やがて積もりに積もった民衆の不満は、太平道の教祖・張角主導の下、黄巾の乱という形で爆発する。
しかし……相手は腐っても漢王朝、その戦力はあまりにも強大に過ぎた。
さらに黄巾賊討伐に、各地の群雄が名乗りを上げ、彼らの活躍もあり、黄巾軍は劣勢に追い込まれていく。
統率の行き届かぬ反乱軍は次第に暴走を始め、各地で略奪や殺戮を繰り広げるようになる。
そんな事情もあってか、反乱軍は瓦解を始め、主導人物たる導師・張角の病死もあって、次第に終息していく。
だが、この叛乱は、確実に中華に争乱の火をつけていた。
渾元暦189年、中平六年。
時の天子、霊帝が崩御。
専横を強める宦官に対し、時の大将軍・何進は、宦官の討滅を画策。
しかし、この計画は宦官達に見抜かれ、何進大将軍は殺害されてしまう。
これを機に、名門袁家の当主・袁紹は、
宮中に兵を入れ宦官の掃討を開始する……
漢王朝の首都・洛陽。
幾つもの建物が密集し、赤い灯が夜の都に光を点している。
名実ともに中華の中心であり、王朝の栄華の象徴でもあるこの都では……
現在、粛清の嵐が吹き荒れていた。
「殺せ殺せ殺せぇーい!!
国家を腐らせる逆賊どもを、残らず血祭りに上げるのだぁ!!」
手にした豪奢な剣を掲げ、男は声を張り上げる。
彼の名は袁紹。漢王朝の名門貴族・袁家の当主で、字は本初と言う。
袁家は四世三公……即ち四代に渡って司徒、大尉、司空の三公という名誉職を排出した名門中の名門である。
多くの建物が立ち並ぶ漢の都の中で、一際目立つ赤く塗られた豪奢な宮殿……
時の最高権力者・漢王朝の皇帝が住まう居城である。
本来、侵すべからず神聖な場所であるはずの宮殿前は、血塗られた死屍累々の惨状と化していた。
宮殿から逃げ出す宦官たちを、袁紹軍の将兵が次々と血の海に沈めていく。
袁紹自らも剣を取り、ある宦官の心臓を一突きにする。
「わはははははははは!!!
病んだ国を再生するには、まずは膿を残らず搾り出さねばならん!!
貴様らこそその膿だ!!
己の分も弁えず権力に溺れ国を腐らせた
下賎で卑しく狡猾で姑息な身の程知らずの愚物どもめ!!
我が袁家の威光が、貴様ら獅子身中の蛆虫を残らず廃滅してくれようぞ!!
誅滅!討滅!撃滅!滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅
滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅ゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」
一息もつかずに一気にまくし立てると、袁紹は再び剣を取り宦官の殺戮に加わる。
次々と増えていく死体の山。
その血生臭い光景を、少し離れた位置で手を叩きながら観賞する者がいた。
「ぶひゃひゃひゃひゃ!中々壮観な光景でちゅねぇ!!
ボクちゃん達を差し置いて、調子に乗ってるから天罰が下ったんでちゅよ!」
黄色い装束、ぎょろりとした大きな目、垂れ下がった顎を持つ猿のような顔立ち……
名は袁術、字は公路。袁紹の従兄弟で、彼も名門袁家の一員である。
「こら袁術!貴様も袁家の一員ならば、見ているだけではなく手を貸さんか!!」
「え〜〜めんどくちゃ〜〜い」
頬を膨らませる袁術。
彼は離れた位置でこの惨状を観賞しているだけで何もしようとしなかった。
「ま、ボクちゃんも少しはお仕事するかにゃ。はいはい、武器ちょ〜〜だい!」
傍に侍っている部下が、袁術に大型の弩を渡す。
金色に輝くそれは、渾沌時代の科学力で創られた兵器である。
ただの一射で、無数の矢が放たれる仕組みになっている。
『袁家謹製・黄金弩弓(ゴールデン・DQN)』である。
「しょーじゅんちぇ〜〜っと!ほれ、いっけぇ!!!」
袁術が引き金を引くと、弩から一斉に十数の矢が放たれる。
炸裂した矢は宦官達に命中し、バタバタと倒れていく。
しかし、その内の一本が、袁紹の鼻先を掠めた。
袁紹は激昂して、袁術を怒鳴りつける。
「うおっ!袁術!もっとよく狙わんか!!」
「えひぇひぇひぇ〜〜ごめんなちゃ〜〜い」
両手を頭に付け、腕で丸を描き、全く悪びれた様子も無く謝る袁術。
しかし、驚いては見せたものの袁紹には矢をかわすのは容易い事だった。
袁紹は“武将”である。
武将とは、人間から進化した上位の種族。
この世界の支配階級でもある。
彼らは人間を遥かに上回る超人的な身体能力を有し、素手で剣をへし折り、飛んでくる矢が緩慢に見える。
先ほど軽々と弩を射った袁術だが、ただの人間ならば引き金が重すぎて、とても一人で発射できるものではない。
さらに、彼らには老いによる力の衰えが存在しない。
武将はある一定の年齢から年を取らなくなり、袁紹は27歳、袁術は20歳の時から、全く老化していない。
これを『不老年齢』と呼ぶ。
弓矢よりも、銃器よりも、武将の反応速度のほうが遥かに速い。
武将を殺せるのは、同じ武将による攻撃のみである。
「うへへへ・・・そんじゃ、第二射いっちゃうよ〜〜ん♪」
「やめんか!!やはり貴様は大人しくしていろ!!」
そう言いながら、袁紹の剣は宦官の首を刎ねる。
宮殿から逃げる者を手当たり次第に殺しているので、中には無関係の者も少なからずいたが、勿論彼らが気にする様子は無い。
名だたる名門が尽く没落した今の漢王朝において、袁家の勢力は絶大。
袁家の為す事が全て正義になってしまうほどの権勢だったのだ。
しかし、殺戮に興じる彼らはすっかり忘れ去っていた。
この混乱の中で、最も先に確保するべき人物の存在を……
「ひぃ、ひぃ……もう走れないよぉ……」
「しっかりしてください、兄上!」
混乱の洛陽を、二人きりで走る幼い兄弟……
兄と呼ばれた少年は、やや小太りで瞳にも生気が無い。
一方、弟は整った顔立ちをしており、言葉にも覇気が感じられる。
彼らこそ、漢王朝の最高権力者である皇族……前皇帝・霊帝の息子たちだった。
兄・劉弁は、現在の皇帝・少帝でもある。
しかし、才気のある弟・陳留王劉協に比べると、皇帝の座に据えるにはあまりにも頼りなかった。
歴史の常として、後継者争いが勃発する。
何進たち将軍は兄を、宦官たちは弟を擁立し、権力闘争に明け暮れた。
まだ幼い兄弟は、どす黒い政治の世界など知らない内から、敵味方に分かたれてしまった。
現在、二人は粛清が続く洛陽から脱出しようとしている。
否、宦官によって連れ去られるところだったのだ。
しかし、護衛としてついて来た者達は、混乱により皆逸れてしまった。
逃亡中、良からぬ事を企む輩が仕掛けてきて、その度に護衛が一人、また一人と脱落し、とうとう二人きりになってしまった。
劉協は挫けそうになる兄を励ましつつ、何とか味方を探していたが・・・
「陛下!陛下ではございませんか!!」
進んだ道の先に、漢王朝の軍服を着た兵士の一団が現れる。
それを見て、劉協は目を輝かせる。
「兄上!味方です!味方が来ました!」
「た、助かったぁ〜〜〜〜」
安堵からか、劉弁は腰を抜かしてへたり込んだ。
「お二人ともいらっしゃるのか・・・」
兵士の隊長格と思しき男が現れる。
隊長と識別する為か、兜から二本の角を生やしていた。
隊長は、とても天子に向けるものではない冷酷な眼で、二人を見ると・・・
「よし、確保せよ・・・いや、弟のほうは殺せ」
「!!」
現れたのは将軍派、少帝派の手先だったのだ。
これを機に劉協を亡き者として・・・
劉弁の皇帝の地位を揺るぎ無きものとする考えなのだ。
兵士達は皆“武将”だった。
劉協もまた“武将”なのだが、やはり実戦慣れした他の武将と比べると遥かに劣る。
武将の強さにもピンからキリまであり、一番弱い武将で、武装した一般人五人分程度とされる。
劉弁も劉協も、そんな最弱の武将と大差無かった。
元より、剣を取り、弓を引く身分として生まれついていないのだ。
「あ……」
いくら才気煥発といえ、まだ幼い子供である。
突如として迫る死の恐怖に、言葉も出ない。
「やれい!!」
隊長の号令に、死を覚悟したその時……
「ぶぎゅ……」
何かが壁にぶつかり、肉がつぶれたような音が響く。
まだ自分は生きている。不可思議な現象が起こった。
隊長の姿が、突如として目の前から消えていたのだ。
恐る恐る、音が響いた方を見てみると……
壁には、原形を留めぬほどに潰れた隊長の肉塊がへばりついていた。
その凄惨な光景に恐怖を覚える暇もなく……
近くにいた兵士に、巨大な何かが振り下ろされる。
兵士の身体は、鎧兜ごと脳天から叩き潰され、路上の染みと化した。
「な、何だ貴様……ぎゃあああああああぁぁぁっ!!!?」
また一人、兵士の体が宙を舞う。
地面に落ちた時、その兵士が鼻から上が消し飛んでいた。
三人目の犠牲者が出た時点で……劉協はようやくそれを為した人物を瞳に捕らえる。
それは、あまりにも雄雄しく、逞しく……神々しささえ感じる巨体だった。
月夜にたなびく黒色の髪。
簡素な服装に包まれた、筋骨隆々の肉体。
兵士達の倍以上……三メートルを勇に越える巨躯。
一目で怪物と分かる存在が、兵士達の間に立っていた。
だが、そんな異形の容姿よりも、真っ先に劉協が目を奪われたのは、その真っ赤に染まる瞳だった。
あらゆる感情を凝縮し、かつ超越した、およそ人間の持ちえざる赤い瞳。
その眼光は、劉協を真っ直ぐに射抜いている。
恐怖も度を通り越すと感覚が麻痺すると言うが、今の劉協の心中はまさにそれだった。
今迄培った価値観を全て粉砕するかのような、桁違いの存在。
化け物という言葉ですら生ぬるい、破格の魔人の降臨だった。
「うぬが天子か……」
巨人は初めて人語を口にした。地の底から響くような、低く厳かな声だ。
兵士達は剣を抜き、巨人に立ち向かおうとする。
だが、巨人の圧倒的な存在感が生み出す恐怖は、
既に兵士達を自我崩壊寸前までに追いやっていた。
「我は董卓……」
巨人は名を名乗ると同時に、その腕を振るい、近くの兵士に叩きつけた。
巨大な鉄槌で殴られたかのように、兵士の体は吹っ飛び、血と臓物を撒き散らして倒れる。
董卓の拳は血で染まっていた。
先ほどの隊長たちも、このようにして拳で屠り去ったのだ。何の武器も使わずに。
巨人は黙々と殺戮を開始する。
ただ無造作に拳を振る。それだけで、兵士の体は吹っ飛び、砕けた肉塊と化して地面に転がる。
それは武でも技でもない・・・ただ純粋な暴力だった。
数秒後には、劉協抹殺を目論んだ兵士の一団は皆殺しにされていた。
董卓の両の拳から、血と臓物の混合液が雫となって零れ落ちる。
ある程度時が流れた為か、劉協はようやく我に返った。
窮地を救われたとはいえ、目の前の怪物が味方であると決まったわけでは無いのだ。
その拳が次は劉協を襲わないとも限らない。
しかし、逃げようとしても……
魂に刻み付けられた恐怖が、劉協の身体を縛って動かさなかった。
巨人がゆっくりと、こちらに歩を進める。
真紅の瞳は、劉協を睨みつけたままだ。
影でよく見えなかったその顔が、月明かりに照らされて露になる。
彫りが深く、巌のような質感を持つ顔は、まさに地獄の悪鬼そのものだった。
悪鬼が再び口を開く。
「ほう……うぬ、この塵芥どもに襲われた時も、
一度も目を閉じなかったな……それに比べて……ふん」
董卓は劉弁に目をやる。劉弁は、ずっと壁の隅で蹲り、頭を抱えて泣いていた。
「あ、貴方は……」
改めて董卓は名を名乗る。
「我は董卓。字は仲穎」
そう言うと、董卓は劉協に手を伸ばす。
その瞬間、劉協は兵士達に襲われた時以上の恐怖を覚えるが、董卓は、劉協の肩を摘んで持ち上げる。
蟻を潰さないように、最低限の力だけを込めて。
劉弁も、もう片方の手で同じように持ち上げた。
「喜べ、天子よ……我がうぬらを宮殿に連れて行ってやろう」
この時、劉弁ではなく劉協を天子と呼んだのには、
この先の未来を見据えていたのだろうか・・・
劉協は声も出ない。董卓はそれ以上何も言わず、宮殿に向けて歩を進めた。
やがて、董卓の周囲に何人もの武装した兵士が集まってくる。
漢王朝では無い、獣の姿をあしらった装束……
これは西方・涼州の将兵たちのものだ。
彼らは董卓を中心として集まり、やがて軍団と呼ばれる規模にまで膨れ上がる。
董卓はただの怪物ではなく……一軍を統率する将だというのか。
巨人と二人の皇族、そして獣兵の行軍は、足音を鳴らして宮殿へと進軍する。
「ふん、大方片付いたか」
そんな事は露知らず、袁紹たちは宦官の殺戮を続けていた。
しかしそれもようやく終局を迎え、現在は殺した宦官達の顔を、兵士に命じて検分させている最中だった。
そんな中……二頭の馬の足音が、こちらに近づいてくる。
「ほほう、また随分と派手にやったものだのう」
声は袁紹の知る人物のものだった。
馬上にいるのは、耳の辺りで揃えた黒髪に、琥珀色の瞳をした小柄な少年だった。
声はまだ少年らしさを残しているが、古風な口調には相応の威厳が込められている。
口許には笑みを浮かべており、見た目に似合わぬ余裕を感じさせる。
「曹操……」
彼の名は曹操。字は孟徳。
袁紹の幼馴染みで、昔は何かとつるんでおり、今も行動を共にする事が多い所謂腐れ縁でもある。
彼もまた武将なのだが、不老年齢が15歳と若く、少年のままで成長が止まっている。
これでも実年齢は袁紹と同年代である。
「何進殿が殺されたと聞いて急いで戻ってきたが……
既に宦官は殲滅した後であったか」
積み重なった宦官の死体の山を、全く表情を変えずに言う。
「ふん、遅いわ。国家を腐らせる蛆虫どもは、この袁本初が粛清した!!
曹操!貴様の出る幕は遥か遠い昔に終わっておるわ!!」
「ほう」
「この袁本初は速さにおいても中華最上!!
何故ならば我が袁家は武勇、知略、軍勢、才能、財産、気品、格調、礼節、学問、芸術、
ありとあらゆる分野において頂点を極め、時代の最先端を行く一族なのだ!!
速さごときはとうの昔に極めておるわ!
袁家にしてみればその程度、食卓の作法を身に付ける程度に当然の事なのだ!!」
いつものように一気にまくし立てる袁紹。
その後ろから、黄色い影がぴょこぴょこと飛び出てくる。
「ボクちゃんも忘れるにゃよ!!曹操!!」
「おや、黄色い腰巾着も一緒であったか。てっきり家で震えておるのかと思ったぞ」
珍獣でも見るような目で袁術を見る曹操。
その言い草に、袁術は顔を真っ赤にして怒り出す。
「むっきゅ―――――!宦官のガキのくちぇにえらちょーに!!
へへん!!いい気になってるのも今のうちでしゅ!
宦官はボクちゃん達が皆ぶっ殺ちまちゅた!!
これでおまえの出世の道は断たれたもどーじぇんでしゅね!
泣いてくやちがりぇ!うきゃきゃきゃきゃ〜〜〜♪」
曹操の出自を持ち出して罵倒する袁術。
袁術の言う事は誤りで、宦官なのは曹操の祖父だ。
それでも、他の貴族たちから曹操が卑しい目で見られる要因となっているのには変わりない。
曹操の祖父は既に亡くなっているが、宦官による天下が終わりを告げれば、曹操の出世にも暗雲が立ち込めるだろう。
曹操が、出自によるコネのみを頼りにする男ならばの話だが。
「やめんか、袁術」
図に乗る袁術を睨みつける袁紹。
「うひゅっ!?」
その目が本気だと分かり、袁術はすぐに口を閉じる。
意外なことに、袁紹は曹操の出自を突くような真似はしなかった。
曹操は、全く気にした様子も無く微笑みを浮かべ続けている。
「で……天子はどうした?」
「……………………」
「あ……わちゅれ……」
次の瞬間、袁術の頭上に袁紹の拳骨が飛んだ。
泪を零し、飛び跳ねる袁術。
しかし全くその通りで、宦官殲滅に耽溺するあまり、天子のことなど忘却の彼方に追いやっていた。
「そんなことだろうと思ったわ……」
呆れて嘆息する曹操。袁紹は、
己の失態を取り繕おうと急いで弁をまくし立てる。
「ふ、ふん!どうという事は無い!
我が袁家は失態を揉み消す事においても頂点に立つ一族なのだ!!
我が袁家の広範にして多岐にわたる情報網を駆使して、有能で捜査能力にも優れた人員を大規模動員すれば、今からでも天子を確保……」
「遅いわ」
先ほど袁紹に言われた事をそのまま言い返す曹操。
「天子なら、既に宮殿に戻っておるわ」
「何……?」
「それより……貴様らが遊んでおる間に、とんでもない事になっておるぞ」
「とんでもない事だと……?」
「余もまだ早馬でしか知らぬ。
ゆえに、これから己の目で確かめにいくところだ。いくぞ、淵」
「かしこまりました。孟徳様」
慇懃に応えた武将の名は、夏侯淵。字は妙才。
曹操の従兄弟で、旗揚げ時期から行動を共にしている義兄弟でもある。
不老年齢は24歳程度。耳の辺りまで伸ばした黒髪が、目に覆い被さっている。
「貴様も興味があるなら来るが良い。速さ自慢の袁紹よ」
そんな台詞を残して、宮殿へと馬を走らせる。
「曹操ぉ〜〜〜!!」
小ばかにされた事に気づいた袁紹も、直ちに馬の尻を叩いて走らせる。
曹孟徳……
袁術の言う卑しい出自でありながら、名門の頂点に立つ身でありながら……
袁紹はずっと、あの非凡な幼馴染みに劣等感を抱いていた。
袁紹は名家の出自である事に、過度の誇りと驕りを抱いているが、
決して他人の能力が見極められないほど愚かでは無い。
一族の当主としても、非凡な能力を持っていると自負しているし、周囲も認めている。
何不自由ない身分に生まれつき、相応の才覚も備わりながら……
袁紹にとって、曹操の才能と存在は破格だった。
時代の流れを見通す先見性、こちらが思いもつかぬ事をやってのける革新性。
それらは全て、袁紹の二歩も三歩の先を行くものだった。
名家の跡取りとして生まれ、高貴なる血を引く者こそ優れた人間だと
信じきっていた袁紹にとって、曹操の破格の才は、己の信条を否定しかねないほどのものだった。
だが、袁術のようにそれを真っ向から否定するほどに、袁紹は愚かではなかった。
もしも曹操の本質から目を逸らすようならば、それは決定的な敗北を意味する……
袁紹はそれをよく理解していた。
(曹操!認めてやろう……貴様の才を!能力を!!
されど、この袁本初はそれすらも凌駕してみせるぞ!!)
自分が曹操を上回る事で、名門の優位性を証明する。
袁家こそ至上。名門こそ最上。
袁紹のその愚直なまでの信念は、曹孟徳と言う稀代の好敵手を得た事で、ますます熱く燃え盛っていた。
「勝ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
諸手を上げて雄たけびを上げる袁紹。
あの後、急いで曹操を追った袁紹は、
宮殿にたどり着く直前で曹操を抜き去り、
宮殿に最初に到着した・・・彼らの中では。
「わははははははははははははは!!
どうだ曹操!!私が一番乗りだ!!私の勝ちだ!!
だがそれも当然の結果!!
この袁紹には袁家代々伝わる手綱捌きの妙技が備わっており、さらに馬の質も、貴様たちとは天と地ほどの開きがあるのだ!!
まぁ貴様もこれで理解するがいい、袁家の速さの優位性をな!!」
少し早く着いたぐらいで、子供のように有頂天になる袁紹を見て、曹操は苦笑する。
この時曹操が考えていたのは……
「この程度のことで何を威張っているのか」
「我々は元々遅れているんだからどの道一番乗りではない」
と言った事ではなく……
(ここに惇がおれば、きっとこやつの挑発に乗って競争しておっただろうな)
夏侯淵も同じことを考えていたのか、微かに笑いを漏らす。
惇とは夏侯惇の事で、曹操、夏侯淵の従兄弟で同じく義兄弟である。
沈着冷静な夏侯淵と比べて、短気で血の気が多い。
その為、今回は別の任務を言い渡してきた。
なお……実は曹操は別に本気で走っていたわけでは無いのだが、ここでそれを言うのは袁紹以上に子供らしいので黙っておいた。
「まぁよい……往くぞ」
「こら待て!簡単にあしらうな!!大人しく敗北を認めろ曹操!!」
曹操はうざったそうに、それでも決して不快では無さそうにこう言う。
「ああ、余の負けだ。それで満足か?」
「言ったな!負けと言ったな曹操!!
貴様は今!袁家に屈したのだ!!我が袁家の実力が、貴様を屈服させたのだ!!
わははははははははははははは!!!」
図に乗りまくる袁紹だったが……
彼の哄笑は、宮殿に脚を踏み入れた途端に終わりを告げる。
玉座は凍りついていた。
玉座には、劉弁と劉協……天子とその弟が無事戻っている。
劉協は絶句したまま動かず、劉弁は劉協にすがりつき、震えて泣いていた。
だが、居並ぶ臣下の目は、その前に聳え立つただ一人の男に向けられていた。
「天子は今、再び玉座に帰還した……だが」
天子と文武百官の間に仁王立ちしている巨漢……
その男が発する圧倒的な『気』に、その場の者達は全て飲まれていた。
(な、何だあいつは……)
(董卓……涼州の刺史だそうだが……)
そんな官職よりも、一言『魔王』と言った方が似つかわしい人物である。
曹操が聞いた噂も、皆そんな第一印象を裏付けるようなものばかりだ。
怯え竦む重臣達を見回し、董卓は一語一語威圧を込めて語る。
「斯様な事態を招いたのは、全てうぬらの無能が原因だ。
劣等な豚の分際で、政治に携わろうなどと笑止千万。
豚は豚らしく、管理されるのが相応しい」
とどめの一言には、重臣一同唖然となる。
「うぬら全員、この董卓の家畜となれ」
「ふ……」
そう叫びかけた袁紹の口を、曹操の掌が塞ぐ。
これから何が起こるのか、この時点で彼は見抜いていた。
「異を唱える事は許さぬ。
我に逆らう者がどのような末路を遂げるのか、うぬらの両の眼に、しかと刻みつけよ」
董卓がそう言うと、彼の兵によって一台の檻車が引かれて来る。
中には、数名の宦官達が入れられている。
(奴らは……十常侍!)
十常侍とは、宦官の最高位に立つ集団で、霊帝に寵愛され、朝廷で絶大な権勢を振るった者達だ。
彼らの専横こそが、王朝腐敗の元凶と言ってもいい。
何人かは何進大将軍が仕留めたという。
袁紹は、残党も全て滅したと思っていたのだが……
(ま、まだ残っていたのか……)
(袁紹よ。どうやらお前たちが殺したのは、皆宦官の下っ端ばかりだったようだぞ)
(何ぃ……)
「こやつらは……無能の分際で過ぎたる権力を求めた愚物ども。
我の治める国に、そのような塵芥は要らぬ」
兵士が檻車を開き、手枷を嵌められた十常侍が降ろされる。
そして、董卓の巨腕が、先頭にいた十常侍に伸び……
鷲掴みにした後、問答無用で握り潰した。
握り潰された肉体から滴る血が、玉座の間を赤く染める。
居並ぶ文武百官から、悲鳴のさざ波が沸き起こった。
そんな重臣たちの恐怖など気にも留められず、惨劇は続く。
董卓は怯える十常侍達を先頭から次々に握り潰す。
本来は、天子の無事を祝うはずの場は、たちまち血生臭い公開処刑場と化した。
(何と言う奴だ……)
自分たちも、つい先ほどまでは同じことをしていたが、
文字通り自らの手だけで宦官を虐殺していく董卓には、袁紹も畏怖を禁じえなかった。
(どうやら相当の芝居好きのようだのう。あの董卓という奴は)
(芝居だと……)
(それも、観る方ではなく作る方だ。
天子を救出し、逆賊十常侍を重臣たちの目の前で処刑する……
これで奴の権勢は揺るぎ無いものとなろう)
そんな簡単に……と思ったが、
重臣達の恐怖に凍りついた顔を見ていれば、それもありうると考える袁紹だった。
(この演出のために、既に十常侍を捕らえていたのだ。
それ以外の雑魚は、適当に泳がせて、天子から目を離す囮にすればいい……
袁紹よ。お前はまんまとそれに引っかかったというわけだ)
(わ、私が踊らされていたというのか!この袁本初が!)
(これだけ用意周到に準備を整えていたのだ。
恐らくは、乱が起こる前から巧妙に計算された策……
将軍と宦官の対立を煽り、天子を掌中に収め、
最終的には権力を一手に掌握する為に……
一連の争乱は、全て董卓の作った脚本通りに動いていたのだよ)
袁紹は唇を噛み締めて黙っていた。
利用された屈辱だけでは無い。
漢王朝の者達を尽く操って見せた、董卓の冷徹な智謀と実行力に、驚きと畏怖を禁じえなかったのだ。
加えて……
悪鬼羅刹の如き董卓の所業を見ても、
その意図を冷静に見抜いてみせた曹操……
改めて、彼の破格の才を実感する。
一方、曹操にとっては董卓の意図を察するなど容易い事だった。
なぜならば……
(もし朝廷を乗っ取ろうと思うなら、余も同じ手を使ったであろうからな)
最も、今の曹操には董卓のような暴威も、
彼のような精強な軍団も持ち合わせていなかったが……
「そうれ、いよいよ最終幕のようだぞ?」
最後に檻車から出されたのは、十常侍の長・張譲である。
阿鼻叫喚の地獄絵図を見せられ、
更に次は自分がその対象になると知り、彼の恐怖は極限まで達していた。
「良いか豚ども。今日という日を忘れるな。
こやつらが受けた裁きは、
いつお前たちの身に降りかかるやもしれぬ事を忘れるな」
最後の張譲に対しては、握り潰すのではなく、頭を摘んで持ち上げた。
続けて、もう一方の手で両の脚を摘む。
そして……そのまま力を込めて、雑巾でも絞るかのように捻じ切った。
「ぎぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
張譲の断末魔が玉座に木霊する。
縄のように絞られた張譲からは、血と臓物の混合液が滴っている。
「恐怖を抱いて生きよ!!
家畜まみれのこの都は……
これより、この董仲穎によって調教されるのだ!!」
ここに中華最悪の魔王が、権力の頂に君臨した。
これが、漢王朝最大の悪夢と言うべき董卓の暴政の始まりであった。
場にいるすべての官僚たちは、皆恐怖で絶句している。
袁紹もその例外では無い。
だが、ただ一人……曹孟徳だけは、
薄っすらと笑みすら浮かべたまま、琥珀色の瞳を輝かせていた。