第八章 勇躍の時(一)
渾元暦194年、遠州……
「これでも喰らうだ〜〜!」
許楮の左腕が唸り、鎖鉄球が空を飛ぶ。
「ヒャハハハハハハハハ―――――ッ!!」
呂布は方天画戟を放ち、大質量の鉄球を正面から弾き返す。
間髪入れず、左側から銅色の甲冑が迫り来る。
両肩の砲門が火を吹く。篭手や腰からも、幾つもの弾頭が発射される。
火薬の臭いを敏感に嗅ぎとった赤兎馬は、その身を前方へ跳躍させる。
断続する爆発音。だがこれも布石に過ぎない。
再び鉄球を繰り出す許楮と五本の手全てに斧を握って突撃する典韋。
だが、呂布の余裕は崩れない。
「ヒャハッ!! 来なァ!!」
赤兎馬は、地面を蹴って急激な回転をかける。
呂布の方天画戟は体ごと旋回し、典韋の斧を打ち払い、許楮の鉄球を切り付ける。
鉄球の表面には、一文字の亀裂が走っている。
遠心力に赤兎馬の力が加わったとはいえ、強力自慢の二人を一度に吹き飛ばすとは、やはり呂布の腕力は並外れている。
しかも、左腕は依然赤い包帯で巻かれて服に固定されている。
右腕だけであの力なのだ。
仰向けに倒れる典韋と、空中で大きくよろめく許楮。
だが、許楮はその衝撃を自身への勢いに転換する。
拳を握り締めて放つのは……利き腕である、右腕の一撃。
「だあぁぁぁぁぁぁっ!!!」
肌を削るような圧力を感じた呂布は、赤兎馬を後ろへ飛び跳ねさせる。
許楮の拳は空を切り……地面へと炸裂する。
瞬間、地面は陥没し、典韋の大砲にも勝る規模の破壊を引き起こした。
「ヒャハハハハハ!! やるな小僧ぉ! あの董卓と同等以上かぁ!!」
やはり曹操軍との戦は最高だ。
戦うたびに、新しい喜びを実感させてくれる。
そんな中……
曹操軍の居城の方面から、太鼓の音が鳴り響いた。
「お、そろそろ時間だな」
許楮は、起き上がった典韋に飛び乗る。
「戻るだよ、典韋!」
「………………」
典韋は背中から炎を噴かし、全速力で戦線を離脱する。
他の兵士達も同様に、撤退を開始している。
すぐに追跡しようとする呂布だが、入れ替わりに耳に響くのは、刃を擦りあわすような羽音……
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン…………
まさに雲霞のごとく迫る、鋸蝗の大群。
密集した数億の羽虫は、あたかも黒い巨獣のようだ。
呂布軍の将兵は、慌てて退却を始める。
アレに呑み込まれたら最後、全身を切り刻まれて食い殺されるしかない。
だが、呂布だけは挑戦的な目つきで蝗の大群を睨みつけていた。
「ヒャハハハハハハッ!! 次はてめぇらか、蝗どもぉ!!」
ただ一人、真っ向から蝗の群れに飛び込んでいく呂布。
方天画戟を振るって蝗を刻み潰す。赤兎馬の突進は、蝗の群れに風穴を開けて行く。
曹操軍以外にも、この蝗達も良き興奮を与えてくれる。
呂布にとっては、自然現象もまた挑み、戦い、殺す、快楽の糧でしかないのだ。
遠州を襲う、鋸蝗の大災害。
内に呂布軍という毒虫を抱えた中で、曹操は思い切った決断を下す。
それは、三十万の青州兵のうち、二十万を田畑の防備に当てることだった。
青州兵は、各地の田野に配置され、鉄の網で田畑を覆い、蝗の襲来を防いだ。
さらに、李典が開発した、油を使って炎を放射する装置“李典火炎砲”を使い、鋸蝗の駆逐に当たった。
かつて、遠州の民は鋸蝗に対し、何の対策も打てず、作物が食い荒らされるのを手をこまねいてみているしかなかった。
田畑は壊滅し、多くの民が凶作に飢えて死んでいった。
だが、曹操は彼らに抗う力を与えた。
彼らは自分達の生活を守る為、必死になって鋸蝗に立ち向かった。
青州兵による蝗の駆除は、一定の成果を上げ始めている。
だが、それによって兵力の大多数を割いてしまった。
反乱軍を取り込んだ呂布軍はおよそ七万……
兵力では有利だが、呂布、高順、張遼と言った武将の存在を考えれば、ほぼ互角の戦と見て良い。
「今年の収穫が失われれば、民は貧困に喘ぎ、求心力も低下する……
それはいずれ、軍全体にも波及して行く……」
食糧の確保は、民の生活のみならず、戦においても欠かせぬ要素だ。
「まずは収穫を確保することこそ最優先……
その点において、あの御方の判断は正しい……
だが、このような決断を下せる御方など、曹操様一人であろうな」
呂布軍は、数で押して圧倒できる相手では無い。
三十万の兵で七万を叩こうとしても、大半の兵力は無駄に終わる。
だから、その無駄な兵力を別の、もっと重要な仕事に割り当てる。
これだけ聞くと実に合理的で異の挟みようも無い。
しかし、このまるで敗北を恐れぬ采配は、やはり曹操以外には真似できまい。
曹操の敵は呂布だけではない。彼は、更に未来の敵も見据えて、土地を守ることを選択したのだ。
「ええ……そうですね」
力なく答える荀或。
程旻と荀或の二人は、現在田野の防衛に当たる青州兵の指揮を任されていた。
勿論これも重要な仕事であり、その点はよく理解しているが……やはり、前線から外されたしこりは残る。
最もそれは荀或だけで、隣で働く程旻にはそんな様子は欠片も感じられない。
彼ら二人を抑えて、現在曹操軍の参謀を務めているのは、濮陽城での戦で電撃的な初陣を飾った天才軍師、郭嘉だ。
彼の予知能力に近い神がかった智謀は、蝗の移動進路を完全に予測して、呂布軍にだけその被害を与えている。
それ以外にも、軍の配置から作戦の立案まで殆ど一人でこなし、その上で最上の戦果を挙げ続けている。
新参でありながら実質曹操に次ぐ地位に就いた彼だが、その結果の前には誰も異を挟めなかった。
他者の意見など、予測の妨げになる。
故に、自分達は前線より下げられた……と荀或は認識していた。
(実際……郭嘉がいれば僕なんていなくても……)
「……大丈夫か?」
欝に流れそうなところで、程旻が声をかけてくる。
彼はいつも鉄壁の如く表情を崩さないので、何を考えているか解らない。
年長者ということもあり、つい頼りたくなるが……
逆に、内心穏やかではないのかと邪推して遠慮してしまう。
「ええ、心配要りません。僕は僕の仕事に専念します」
そのことについて迷いは無い。
今も脳髄は、目の前の課題を解決する為に高速回転している。
あれだけ絶望の淵を味わったのに、まだ平然と己の職務をこなしている自分を、荀或は意外に感じた。
必要とされていようがそうでなかろうが、結局自分には、曹孟徳に仕える以外の生き方など無いのだろう……
「さぁてさて!! 森羅万象におはようございますます!!
本日快晴! 私絶好調!
今日も張り切って、勝ちまくっちゃいますよぉ〜〜〜!!」
郭嘉は席に着くと、左側に山と積まれた書類を高速で読み上げる。
見る見るうちに減って行く書類の山。
それだけではなく、右手は機敏に動き、陣図を書き上げていく。
この報告書には、敵や味方の配置は勿論、地形や気象、風の流れ、民家の位置など、詳細に記されていた。
この優れた調査能力も、大兵力を有する曹操軍の強みである。
郭嘉は、これらの情報を細大漏らさず脳に刷り込み、その上で鋸蝗の進路を割り出す。
そして、その被害を敵だけに与え、味方の損害を零にする軍略を、たちどころに組み立てるのだ。
「さぁさぁさぁ! 私の掌で踊り躍りなさい勝利の女神よ!!
この郭奉孝の脳髄に、勝利の舞を捧げなさァい!!」
過剰な脳内物質の分泌は、郭嘉に幻覚を見せる。
だがその異常な昂ぶりが、更に彼の頭脳を活性化させていくのだ。
狂気と智謀の一体化……それが狂乱の軍師、郭嘉の真骨頂である。
呂布軍本営……
今日も呂布軍は、蝗に襲われてほうほうの体で戻ってきた。
呂布は、今もただ一人蝗相手に戦っており、その姿は見えない。
呂布ならば何の心配も要らない。だが、軍を預かる高順はそうはいかない。
「やはり賈栩の言うとおり、奴らは蝗の進路を全て把握している、か……」
呂布軍の者では、誰一人とてその法則性を割り出せない。
賈栩も匙を投げた。
あれは、円の面積を割り出す公式と同じく、人間の頭脳で導き出せることではない、と……
ちなみに、その賈栩は既に呂布軍にはいない。
簡潔な置手紙だけ残して、姿を消してしまった。
「随分困っているようだね、高順将軍」
代わりに呂布軍にいるのが、この得体の知れない科学者だ。
今日も、屈強な護衛二人を両側に侍らせている。
「でも、もう安心していいよ。あいつらのお株を奪う策を思いついたからさ」
「ほう?」
「策というか、まぁこれを使うんだけどね」
陳宮が取り出したのは、厳重に密閉された円柱状の入れ物だった。
「この間捕まえた蝗を調べて、ようやく完成したんだ。これを使えば……」
「か、郭嘉殿! 大変です! い、蝗が!!」
正確無比を誇る郭嘉の予測が、初めて外れた。
安全圏にいたはずの部隊が、蝗の襲来に巻き込まれて損害を受けたのだ。
「ほほぉ〜〜……」
それを聞いた郭嘉は、意外にも取り乱しはしなかった。
「おい! どういうことだよ郭嘉! お前の予測は百発百中じゃなかったのか?」
この戦は、郭嘉の読みへの信頼で成り立っている。
それが崩れれば、たちまち劣勢に引きずられかねない。
夏侯惇に怒鳴られても、郭嘉は何処吹く風と言った様子で、報告書に目を通している。
「なるほどなるほど、敵も色々やってきますねぇ」
自分の予測が外れたにも関わらず、郭嘉は笑みを浮かべている。
「現在、敵は風上に陣を取っています。そして、蝗に襲われた部隊がいたのは風下……
これだけ解れば十分ですよ……」
「いや、さっぱりわかんねーよ!!」
説明を促す夏侯惇。
郭嘉は、先ず一言で答えた。
「生理活性物質ですよ」
「ふ、ふえ?」
聞いたことの無い響きに、夏侯惇は舌が上手く回らない。
「敵は、鋸蝗の行動を刺激する物質を含んだ香りを、風下の我が軍に向けて放ったのです。
鋸蝗は、それに誘われて我が軍を襲ったのですよ。
しかし、鋸蝗のそれを生成するとは……敵方には、生物学に長けた科学者でもいるんですかねぇ?
まぁ、面白いのは確かですが」
郭嘉の不謹慎な態度に、夏侯惇は苛立ちを爆発させる。
「喜んでいる場合か!!」
「御安心を、真相が解れば、打ち崩すことは造作もありません」
そう言って、陣図のある箇所を大きく丸で囲う。
「風の流れ、敵の配置、被害を受けた場所から判断して、香りの発生源はこの付近に絞られると考えられます。
我が軍をあえて動かし、敵の動きを誘発しましょう。
そうすれば、敵は再び香りを用いた誘導策に出てくるでしょう。そこを叩くのです」
敵の手の内が読めれば、それは郭嘉の中で素早く計算の一要素に変わる。
彼の頭の中では、軍略が瞬く間に新たな形へと汲み上げられて行く。
「よし! 次は俺と淵で行くぜ!! いいな、郭嘉!!」
「ええ、私もお二人に行って貰うつもりでしたので……
行ってらっしゃいませませませ!!」
郭嘉の采配に従い、夏侯兄弟は出陣する。