第七章 徐州大虐殺(六)
それから……
激戦の末、曹操軍は呂布軍を濮陽城から撤退せしめた。
しかし、問題は依然山積みである。
遠州の各地で起こった謀反により、幾つかの城が落ち、叛乱軍は呂布の下に合流している。
呂布は、撤退後も彼らの手引きにより遠州に陣を構えている。
曹操は内に大きな敵を抱え込んでしまった。
更に、遂に活動を開始した鋸蝗への対策も考えなければならない。
あたかも先の大虐殺の報いであるかのように、曹操の前には次々と試練が立ちはだかった。
曹操は、陣内を歩いて激戦に疲れた将兵達を見舞う。
「惇、呂布はどうだった?」
すっかりボロボロのいでたちになった惇を見やる。
夏侯惇は、徐州にいた頃以上の不機嫌面で答える。
あの後、夏侯惇を初めとした曹操軍の武将が総がかりで呂布達に挑んだが、
大苦戦を強いられた末、最後は有耶無耶なまま取り逃がしてしまった。
いや、あれは見逃してもらったのかもしれない。
「けっ、てめぇも見てただろ。バケモンだよバケモン。
しかも、何も怪奇なところはねぇ、純粋な強さだ。
正真正銘、ただの武将……てめぇの倚天の剣は使えねぇぞ」
「ああ、そうだな」
曹操はいつも通りの微笑で答える。
倚天の剣は、あくまで幻術や妖術を使う相手への切り札。
純粋なる暴力を頼みにする呂布には役に立つまい。
かつて、董卓と戦った時、四天王が総攻撃を掛け、
倚天の剣を使用してようやく退けることができた。
だが、呂布はその董卓すら一対一で斃したという。
加えて、呂布には彼に匹敵する魔獣馬、赤兎馬がいる。
大砲の直撃にすら耐えた怪物・呂布……
どうやって斃せばいいのか、見当もつかないのが現状だった。
そんな不安はおくびにも出さず、曹操は歩を進める。
「そ、曹操様……」
曹操を見つけた荀或は、恐る恐る彼の前へと姿を見せた。
まるで捨てられた子犬のように瞳を潤ませ、体を震わせている。
一体何と言って詫びればいいのか。
遠州の謀反を許した上に、結局曹操の手を煩わせてしまった。
そして、本隊到着まで呂布を食い止めたのは、自分ではなく新参ですらない仕官希望者の郭嘉だった。
信頼を受けて留守を預かった者として、あるまじき失態だ。
「僕は……僕は……」
曹操を直視できない。
荀或は、目を下に向けて震え続けている。
この期に及んで、曹操と向かい合うのが怖いのか。
そんな弱い自分に対し、更に嫌悪感が募る。
残った僅かな勇気と責任感を振り絞って、前を向いた時……
曹操は、荀或を一瞥たりともせず、その横を通り過ぎていった。
後ろから響く足音が、あまりにも虚しく聞こえる。
荀或は自失したまま、呆然と立っていた。
曹操は、自分を見てはいなかった。
何も言わず、答えず、路傍の樹木の如く通り過ぎた。
もはや、自分には見る価値すらも無いというのか。
曹操の中では、自分など存在しないも同然なのか。
嫌だ―――
この時初めて、荀或の中で激しい感情のうねりが巻き起こった。
後ろを振り向き、曹操の背中に対して、声にならない叫びを上げる。
嫌だ! 嫌だ!
何か言ってください! 僕を見てください!
怒ってください! 叱ってください!
どれだけ罵倒されてもいい!
この場で首を刎ねられても構わない!
だから……
だから、僕を……
僕を見捨てないで――――
大粒の涙を湛え、荀或は膝を折り、その場に崩れ落ちた。
「郭嘉、と申したな」
曹操は、自分の前に跪く道化の一団、その頭目に話しかける。
郭嘉は帽子を脱ぎ、赤い覆面も取り去って、曹操の前に膝を突いている。
戦闘中でのふざけた言動からは想像しづらい、完全な臣従の礼だった。
「面を上げよ。此度の勝利はそなたの功績だ。見事であった」
郭嘉は首を上げると、瞳を輝かせて曹操を見つめる。
「あああああ! なぁ〜〜んと勿体無きお言葉!
この郭奉孝、感謝感激雨霰でございます!!」
いつもの早口言葉で語る郭嘉。
曹操は、一切気分を害することなく続ける。
「余に仕えたいそうだな」
「はいはいはい! 曹孟徳様、私は貴方様こそ、
中華の乱を制し、天下の覇に至る人物と確信しております!!
私の脳髄は、真に優れた君主の下で奇想を生み出す時を欲しているのです!!
どうか、この私めを、貴方様の覇業に役立てていただけませんか!?」
郭嘉は額を指で突きながら、熱烈に訴える。
興奮するあまり、まともな敬語を使うことも忘れている。
曹操は、嬉しそうに笑って、手を差し伸べる。
「よかろう、郭嘉よ。
余が為にその才気、存分に振るうが良い。
そなたの奇想湧き出る泉を、涸れ果てるまで汲み出してくれようぞ」
「あああああ! ありがたき幸せ!!」
神でも崇めるような顔で、曹操を見上げる郭嘉。
「この曹操の覇業に服従する限り、如何なる僭越も許す。
あらゆる価値観の壁を越え、至高の軍略を編み出すが良い!!」
「ははぁ――――っ!!!」
郭嘉に続いて、雑技団の面々も一斉に平伏する。
これは、実質郭嘉を自分に次ぐ者として認めたも同然の発言だ。
曹操は、最強の青州兵に加え、今また最高の頭脳を掌中に収めた。
彼の瞳に、これから始まる長い戦への不安など微塵も無かった。
濮陽城から撤退した呂布軍は、賈栩率いる軍と合流していた。
呂布は陣に戻ると早々に、赤兎馬の足下の地面に仰向けになる。
実に満足のいく戦が出来たのか、彼の顔は喜びに綻んでいる。
たった一度の戦であれだけの昂揚感が得られた。
こんな面白い軍には今まで出会ったことが無い。
それに、曹操軍にはまだ多くの武将がいる。
彼らの力を、一人一人限界まで引き出して戦う。
それを当面の目的としよう。楽しみは長引けば長引くほどいい。
そんなことを考えながら、呂布は瞳を閉じ、眠りにつく。
「やれやれ……寝顔だけ見ると、とても中華最強の悪鬼とは思えんな」
年相応の少年らしい顔を見ながら、賈栩は呟く。
一応総大将とはいえ、呂布がすることなど何も無い。
軍の編成や細かい調整は、全て高順と張遼が行っている。
陣に戻ってやることといえば、それこそ寝るぐらいしかない。
「しかし鋸蝗とは……お前達もついていないな」
太平楽な呂布と違って、高順達は呑気にしていられない。
鋸蝗によって、呂布の軍は大打撃を被ったのだ。
これから急いで戦力を立て直さなければならない。
「運が悪かった……としか言い様が無い。
せめて、敵が城に引き揚げる前に現れれば、同等の被害を与えられたのだが……」
「ククククク……それは無意味な仮定だな。
連中はきっと、蝗が来ることを事前に知っていたぞ」
「何だと……?」
そう問い返してみるが、今思えばあの時の後退は出来すぎていた。
賈栩の言うとおり、蝗の襲来を予期して軍を退けた……そう考えれば、彼らの一連の動きにも説明がつく。
(郭嘉だったか……その軍師の名は……
奴は間違いなく蝗の襲来を予測していた。でなければあんな策は打てない。
荀或坊やに借りを返したつもりでいたが……
ククク……この戦、どうやらお互い負けのようだな)
郭嘉の才能は、賈栩でさえも驚嘆に値する領域だった。
戦況の予測は、軍師にとって最も重要な能力であるが……
軍や将兵の動きのみならず、自然現象にまで予測の範囲を及ぼせるとは。
稀代の天才という言葉でさえ生ぬるいだろう。
「まぁ、今は態勢を立て直すことに専念するのだな。
もうじき、俺が手配した軍勢がお前達の下に合流する」
「またか……感謝するが、そんな軍勢を一体どこから……」
「なぁに……遠州だけじゃなくて、お隣の予州の方も突っついておいたのさ。
いずれ、この遠州を取り囲む形で、反曹操連合が出来上がるだろうよ」
郭嘉の確定予測は驚異的だが、賈栩の根回しの才能も侮れない。
彼は巧みに人を煽動し、自分の思うがままに操る術に長けている。
呂布軍にいるのも、いずれ利用する為なのは明白……
ゆえに、高順はこの男に決して気を許していない。
(青州兵の降伏に、徐州の大虐殺……
今、天下の諸侯は曹操に怯えて、すぐに消えて欲しいと願っている。
そんな奴らの恐れを刺激してやれば、寝返らせるなど容易いこと……
曹孟徳、お前は悪目立ちし過ぎたんだよ)
そこまで考えて、賈栩の中では別の思考も渦巻いていた。
(それとも何か……?
曹操、お前はこの叛乱も見越して、派手な行動を取ったのか?
叛乱分子を全てあぶり出し、後顧の憂いを残らず断つ為に……)
あえて敵を増やそうなどとは正気の沙汰ではない。
しかし、それら全てを相手にしても勝てる自信があるならば……
(俺のこの行動も、お前の期待通りだというのか? 曹操……)
そんな中、呂布軍の本営に、ある人物が訪れた。
彼は呂布とは旧知の中であり、赤兎馬の元の持ち主だと名乗った。
背後に巨漢二人を従え、陳宮は奥の方に進んでいく。
「よぉ……陳宮じゃないか」
最初に声をかけたのは賈栩だった。
「やぁ、こんばんは。昔董卓軍にいた人だよね、名前覚えてないけど」
笑顔で失礼千万な口を叩く陳宮。
賈栩は僅かに憮然となるが、自分の知名度など元よりそんなものだろうと考え直す。
高順は、白衣を着たこの少年を、最大限警戒しながら接する。
この少年からは大した武を感じないが、後ろに控えた二人は見た目通りの強者だ。
「陳宮殿、貴方は一体何故ここに? 赤兎馬の持ち主だそうだが……」
「うん、そうだよ。正確には、持ち主というか生みの親……ってとこかな」
そう言って、呂布の寝ている場所に目をやる。
「あはっ、赤兎馬も呂布殿もいるじゃない。
いい、見ていてね……」
彼は眼鏡を光らせると、短く言葉を紡ぐ。
「赤兎馬、来い」
次の瞬間……赤兎馬の瞳が、何かに魅入られたように濁る。
そして、ゆっくりと陳宮の下まで歩いてきた。
「止まれ」
その声と共に、赤兎馬は四肢の膝を折り、陳宮の前に跪いた。
高順も張遼も、これには驚かされる。
今まで、呂布以外の者には決して従わなかった赤兎馬が、少年の命令にあっさりと応じたのだ。
呂布でさえ、暴力を持ってしか完全に制御できないというのに……
何ということはない。赤兎馬もまた、魏続や宋憲と同様陳宮の手により生み出された存在。
その際に脳改造を受け、陳宮の言葉には絶対服従するよう刷り込まれていた。
「えと、さっきの質問に戻るけど、一応赤兎馬の管理が僕の仕事だったんだ。
あの長安の混乱でしばらく各地を放浪してたんだけど、呂布殿の噂を聞きつけて、ここを訪ねたって訳さ。
で、折角だから、ここで仕官でもしようと思ってね。
一応、洛陽や長安ではちょっとは名の知れた科学者だったんだよ」
それでいて、自分の名を知っているのが賈栩だけだということに、陳宮は密かに苛立っていた。
勿論顔には出さず、笑顔を崩さずに話している。
「研究か……だが、我が軍には戦以外に使う費用など……」
「僕の研究は、戦にも役に立つよ。この赤兎馬のようにね。
ここで使っている軍馬を、赤兎馬級とは行かずともそれに次ぐ強さに改良する事だって出来る」
「何……?」
「後、費用が無いなら、敵から奪えばいいだけの話だろ?
その為に軍があるんじゃない」
平然と言ってのける陳宮。
その顔には、隠し切れぬ侮蔑の色が浮かんでいた。
やがてそれは、暗い憎しみの色へと変わる。
「それに……曹操にはちょっとした借りがあってね……
是非とも一泡吹かせてやりたいのさ」
高順は黙って考える。この男にはどこか危険な香りが付き纏っている。
武門一辺倒で生きてきた、彼のような男には想像もつかない心の闇。
その正体を見極められないで、この男を迎えていいものか……
「いいじゃないか、入れてやれば」
「賈栩……」
「俺とていつまでもここにいるわけじゃない。少しは文官らしい奴がいた方がいいだろう」
「………………」
「まぁ、そもそも君が決めることじゃないよね。
呂布将軍が起きるまで、ここに居させてもらうよ」
そう言って、陳宮は折り畳み椅子を取り出してそこに腰掛ける。
彼の前には、二人の大男が油断なく護衛についている。
確かに……最終的には呂布が決めることだ。
そして、あの将軍ならば何を言うか、容易に想像がついた。
ああ、いたけりゃ勝手にしろ……
(清濁併せ呑むも、“最強”の器……ならば、私ごときが気を回す必要も無い、か……)
次々と奇策を繰り出してくる曹操軍に対抗するには、このような異端の才も必要なのではないか。
そう自分を納得させつつも、高順はこの陳宮に対し不信の念を掻き消すことが出来なかった。
(これでよし。戦しか知らないこいつらは、扱いやすい“駒”になりそうだ。
それに、呂布将軍……僕の夢を実現するには、貴方の存在が必要不可欠だからね……)
一方、全く起きる気配を見せない呂布を、陳宮は煌く好奇の瞳で見つめるのだった。
郭嘉と陳宮。
奇しくもこの日、稀代の天才二人が曹、呂の両軍に加わった。
翌、渾元暦194年。
徐州牧、陶謙病死……
彼の遺言に従い、劉備は徐州牧の地位につく。
塗炭の苦しみを味わった徐州の民は、劉備を熱狂的に支持した。
彼こそが、この乱世の惨禍から自分達を守ってくれる、救世主なのだと。
歓声を上げる徐州の民を、城の上から見下ろす劉備。
足下から呑み込まれそうになる大歓声。
幽州の侠賊から始まり、これまで数千の兵しか率いたことの無かった劉備は、一気に一州の主となったのだ。
劉備は沸きあがる民を眺めながら、呆然と立ち尽くしている。
「どーしたよ兄貴? まだ実感が沸かねーのか?」
冷やかすように言う張飛。
彼らだけではない。あの地平線の彼方……
徐州にいる全ての民の命運を、双肩に預けられたのだ。
その責任の重さを、全て理解した上で……
「足りねぇ……」
劉備は、ぼそりと呟いた。
「まだまだだ……こんなもんじゃ、まだ足りねぇよ」
関羽は改めて、長兄の器の大きさを思い知る。
天下を呑み込もうとする劉玄徳にとっては、徐州の牧ですらその足がかりに過ぎない。
彼が見据えているのは、徐州を越えて、遙か中華の大地全てなのだから。
劉玄徳、徐州の民に戴かれ、ついに己が旗を中原に翻す――
<第七章 徐州大虐殺 完>