第七章 徐州大虐殺(五)
突如乱入してきた五十名ほどの道化の一団は、呂布の周囲を取り囲む。
「あはははははは!! 貴方が世に名高き呂布ですかぁ?
思ったより可愛いらしい美少年ですねぇ!!」
彼らを率いる覆面の男は、針金のように細い剣で手を叩きつつ、
常に殺気の篭った仏頂面か、狂った笑い声を上げている呂布をそんな風に表現したのは彼が始めてだ。
「何だてめぇらは……」
そして、呂布は前者の強張った顔で男を睨みつける。
精強で知られる呂布軍の将兵でも震え上がる視線だが、男は、全く臆さず、余裕を見せ付けている。
「おおおっと! 自己紹介が遅れました!!
私の名は郭嘉、郭奉孝でございまぁす!!」
男は、この瞬間が楽しくてたまらないといった風に、意気揚々と名乗った。
「そして、後ろに控えるは、我が郭嘉雑技団の面々でぇございます!
以後、お見知り置き置きを!」
「郭嘉……」
荀或は突如として現れた奇人の名前を反芻する。
「大丈夫かい、荀或殿……」
そんな中、先に起き上がった李典が肩を貸してくれる。
「李典……よかった、貴方も無事だったんですね」
身体の痛みを堪えて、起き上がる荀或。
そう……いつまでも自失してはいられない。
呂布の目は、あの郭嘉に注がれている。
今のうちに、軍に正しい指揮を取り戻さなければ……
荀或は、己を強く叱咤し、軍師としてあるべき姿へと立ち直った。
「で……てめぇ俺様に何のようだ?」
少々不機嫌そうに問う呂布。その原因は、郭嘉の自由奔放な態度ではない。
今は楽しい戦の最中なのだ。
その時間を邪魔することは、何人たりとも許されない。
問いかけながら、すぐにでも惨殺してやろうと殺気を高めていく。
「いえいえ、私、曹孟徳様に仕官しようと思いまして、
どうせなら手土産の一つや二つ持参したかったのですか、
これと言って満足していただけそうなものが見つかりませんでしてねぇ……」
ここで、郭嘉は口許を三日月形に歪める。
その口から飛び出したのは、誰もが耳を疑うような発言だった。
「ですが……飛将軍・呂奉先の首ならば、
申し分の無い手土産になると思いましてまして」
「ほぉ……」
呂布の顔が、喜色に染まっていく。
完全な宣戦布告と取れる発言に、呂布は怒るよりも喜んだ。
そういうことならば話は別だ。
「なら道化……早速俺を、愉しませろやァ!!!」
方天画戟を振るう呂布。
誰もが、瞬時に郭嘉らは血の柘榴に変わると思った。
だが……
「あはははははははは! あぁぁぶないですねぇ!!」
奇怪な現象が起こっていた。
郭嘉と彼の率いる面々は、驚くべき速さで呂布の間合いから逃れていたのだ。
「ああ!?」
しかし、呂布は一度きりのまぐれで動きを止めるような甘い敵ではない。
一度闘争心に火がつけば、相手を屠りつくすまで止まらない。
地面を蹴り、俊敏な獣の如く集団へ飛び掛る呂布。
だが、彼らは逸早く散開し、振り下ろされる戟を回避する。
「おぉやおや! 何処を狙っておられますかますか?」
郭嘉はまるで余裕を崩さぬまま、手にした細剣をかざす。
瞬間、道化の兵士達が、一斉に弩弓を射掛けた。
勿論呂布は軽々と方天画戟で弾き、反撃に移るが……
やはり、その時には敵は間合いの外に逃れてしまう。
「さぁさぁさぁ! 郭嘉雑技団の妙技の数々、満開全開でお送りしまぁす!」
時には馬から馬へ飛び跳ね、空高く飛び上がったり、時に矢を射って牽制する。
まさに曲芸でもしているかのような華麗な動きで戦場を立ち回る郭嘉雑技団。
見ようによっては呂布を挑発しているようだが、彼の方天画戟は先ほどから掠りもしない。
あの呂布をいい様に翻弄する彼らに、高順も、呂布軍も、そして曹操軍も驚きを隠せない。
彼らは……郭嘉とやらは、それほどまでに強いのか?
だが、誰よりも混乱しているのは、相手をしている呂布だった。
相手が速過ぎるからではない。逆だ。
まるで遅過ぎる。
傍目には俊敏に見えるだろうが、呂布の目にはまるで緩慢としか映らない。
だからこそ不可解なのだ。
動きの速い相手ならば、呂布はその速さも越えてやろうと闘争心を燃やす。
だが、この相手は違う……明らかに遅いのに、何故か攻撃が当たらない……
弱肉強食を絶対の摂理とする彼にとっては、まさにその摂理に反する状況。
こんな経験は、生まれて初めてのことだ。
初めて遭遇する異質な敵に、呂布はどう反応していいか迷っていた。
「おやおやおや! 惑っておられますか? 困っておられますか?
こんなにすっとろいのに何で当たらないんだ、と……」
呂布の心中を見透かしたように、郭嘉は言葉を投げかける。
その間にも、細剣を振るい、雑技団の面々を自在に操っている。
「答えは簡単簡単至極簡単! 聞けば感嘆必至な答えですよぉ!!」
郭嘉は、馬上に立ったまま、くるくると独楽のように回転を始めた。
「そ・れ・は! この郭奉孝が、天才を超えた超・天才だからなぁのです!!
時代を駆ける逸材! 乱世を終わらせる鬼才!
それがこの私! あははははははははははははははははは!!!」
戦場の誰もが、そんな答えを真面目に受け取らなかった。
これもまた、呂布に対する挑発の一環なのだろうと……
だが、この中でただ一人、荀或だけは……郭嘉の凄さに気づいていた。
郭嘉の言うことは、その物ずばり正解だったのだ。
呂布を翻弄しているのは、郭嘉の身体能力ではなく、その頭脳……
彼の脳髄は、目まぐるしく計算を繰り返し、方天画戟の間合いから呂布の次の攻撃まで、完璧に予測していた。
完璧……それはまさに、完璧と呼ぶに相応しい精度だった。
肉体の限界、呂布の精神状態、さらには微妙な成長速度すらも、完全に見抜いてしまっている。
その上で、攻撃を受けない配置を素早く算出し、指示を下す。
高速で走る馬の突進を避けることは、凡人には不可能だろう。
だが、その馬が百里の先から走ってくることが、あらかじめ解っていれば?
余裕を持って、別の場所に退避できるだろう。
郭嘉にとって、今の状況はそれと同じだ。
呂布が如何に致命の一撃を繰り出そうとな、その行動を完璧に予測出来るなら……回避するのは容易いこと。
それはまさに神々の叡智すら及ばぬ天賦の才であった。
呂布は、稲妻のごとき反射神経で、頭で考えるより速く体が動く。
多くの名将と呼ばれる武将達も、皆似たようなものだ。
だが、この郭嘉は……その反射神経すらも凌駕する、頭の回転の速さを備えていた。
それは、人間能力の常識すらも覆す、奇跡の能力である。
郭嘉は人差し指と中指を立てて、天高くかざす。
「二分間……貴方と私には……二分間の開きがあるのですよ!!
それは即ち、天地の開きにも等しい、絶対的圧倒的驚異的な差なのですよぉ!!」
二分間……郭嘉は呂布の二分後の行動を、完全に読みきっている。
それだけの時間があれば、攻撃を受けぬ配置を実行するなど容易い。
呂布にはその意味が解らない。
ただ我武者羅に仕掛けるばかり……
だが、彼が本能に身を任せれば任せるほど、彼は郭嘉の仕掛けた蟻地獄に嵌まっていくのだった。
「呂布将軍!!」
「グロォォォォォォォォォン!!!」
見かねた高順と、遅れて復活した赤兎馬が、呂布への助太刀に入る。
呂布だけでも絶望的な状況なのに、この一人と一匹まで加わってしまっては……
高順は黒翼を投げ、赤兎馬は突撃し、呂布は方天画戟を振るう。
奇跡もこれまで。郭嘉と雑技団の面々は、ただ惨殺されるしかない……
と思われたが……
「ぐぉっ!!?」
「グロォォォォォォォォォン!!」
「!!?」
またも奇跡は繰り返された。
呂布と赤兎馬は正面から激突し、赤兎馬の体には黒翼が刺さり、高順の両肩には矢が刺さっている。
「い、一体何が!?」
奇怪極まる現象に、高順は動揺を隠せない。
郭嘉は、したり顔で笑みを浮かべている。
これもまた、郭嘉の計算の成果だった。
彼の計算は、呂布のみならず高順や赤兎馬にも及んでいた。
人数が多少増えたところで、彼の計算に狂いは生じない。
彼らの行動すらも、素早く計算に織り込んで解答を導き出す。
その結果が、眼前の光景だ。
雑技団の面々が射掛けた矢は、赤兎馬の蹄に弾かれ、
高順の投げた黒翼は呂布の方天画戟に弾かれた。
跳ね返った矢は高順に、黒翼は赤兎馬に刺さったのだ。
そして、赤兎馬は呂布の下へ……
この一連の流れは、全て郭嘉の計算の下に実行された同士討ちだった。
怪物三匹を軽々と手玉にとって見せる郭嘉に、荀或は驚倒の念を隠せない。
彼は、決して自分が天才だと自惚れたことはない。
だが、明らかに己を遥かに凌駕する、奇跡の才を見せ付けられ、荀或は激しく打ちのめされた。
世の中には、これほどの鬼才が存在するのか。
ならば、それより劣る自分の存在意義は一体……
自分は本当に、曹孟徳に仕えるに相応しい人間なのか?
「どぉですか! この郭奉孝の戦術遊戯、愉しんでいただけましたか?
あはははははははははは!!」
まるで遊びに興じているかのように哄笑する郭嘉。
しかし、こんなふざけた態度を取りながらも、彼はこれが命の削り合いであることを十分理解していた。
敵は、触れれば死ぬ殺戮の凶獣たち。
行動を完璧に予測できるといっても、僅かな計算の狂い、行動の誤り、刹那の時の遅れが即死に繋がる。
歯車が少しでも軋めば、自分達は瞬時に血まみれの肉片と化すだろう。
だが、生と死の極限でこそ、郭嘉は命を実感できる。
死が紙一重まで迫ってくるあの緊張感。
それは、怠惰な生だけでは決して得られない愉悦を与えてくれるのだ。
彼の生き方は、奇しくも今戦っている呂布によく似ていた。
智と武、謀と暴、両者規格外の才なれど、頼みとするものが違うだけで、死線を潜ることでしか快楽を得られない本質は酷似していた。
高順は焦っていた。
呂布と赤兎馬の三人がかりで仕掛けているのに、攻撃が掠りもしない。
それこそ、掠っただけで終わるはずなのに、当たらぬばかりか同士討ちを誘発され、こちらの損傷が増えていく始末……
まるで、当ての無い迷宮を彷徨っているかのようだ。
そんな中……
「がはははははは!! なめるな雑魚どもぉ!!」
曹仁の野太い声が聞こえる。
彼の戦斧は増援に現れた兵を次々に断裁していく。
曹洪の鞭も、華麗な線を描いて敵を切り刻む。
一旦は、賈栩の派遣した増援で優位に立ったと思われたが、曹仁、曹洪の二将を中心として、曹操軍は勢いを取り戻し始めていた。
張遼は、引き続き典韋に釘付けになっており、身動きが取れない。
このまま自分がここにいても、得るべきことは少ない。
「呂布将軍! 私は右翼に戻ります!」
「ああ、好きにしろや。つか最初から邪魔なんだよてめーは」
「御武運を……」
邪険に扱われても気にすること無く、高順は素早く曹仁らのいる右翼へと戻る。
それを見送ることなく、呂布は口許に獰猛な笑みを浮かべた。
「ヒャハハハハ……! なるほど、こういう戦も悪くねぇなぁ、おい!」
これまで呂布が経験してきた、血の沼で這いずり回るような戦とは違う趣きに、呂布は新鮮味を感じ始めていた。
逃げ続ける敵を仕留めるという、一見つまらなさそうな戦いであるが、
ここまで徹底的に避けられるとなれば、これも一種の“強さ”と言っていいだろう。
そして、強者と相対する時、呂布の内から限りなき歓喜が湧き上がる。
やはり、ここに仕掛けてきて正解だった。
こいつらとの戦は、常に呂布に新しい刺激を与えてくれる……
「よぉし鬼ごっこの続きだ! もっともっと俺を愉しませろ!!」
「あははははは! 鬼ごっこですか! 貴方は見かけも鬼そのものですしねぇ!!」
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
「あははははははははははははははは!!!」
狂気の貌で叫ぶ呂布に、郭嘉もまた高笑いで返す。
そんな中、彼の耳がぴくりと動いた。
「んんっ! そろそろ時間ですねぇ……」
そう呟いた瞬間、郭嘉は赤兎馬の突撃をやり過ごし、突如馬首を返して後退する。
「おう!? 何だ何だぁ! 俺と遊ぶんじゃねーのかよ!!」
「あはははははは!! これも遊びの一環ですよ!」
そう言って、郭嘉は火のついた筒を投げつける。
火薬のたっぷり詰まった、筒型の炸裂弾だ。
巻き起こる爆風に、呂布と赤兎馬の速度が鈍る。
「曹操軍のみぃぃなさぁぁぁぁぁぁん!!!
急いで城の中へ引き返してくださぁぁぁぁぁい!!!」
全速で走りながら、曹操軍に呼びかける郭嘉。
常識で考えれば、突然現れた奇矯な人物の言うことなど、到底聞けるはずも無い。
だが……
「全軍! 彼の指示に従ってください!!」
そう叫んだのは、総司令官の荀或だ。
曹孟徳の代理である彼の命令ならば、兵士達は従順に聞き入れる。
「がぁ!? あいつまで何を……」
「総司令官の命令なら仕方ないわ……戻るわよ!」
「………………」
曹操軍の将兵達は、恐るべき速さで前線を離脱し、城門に向けて殺到する。
張遼も典韋を追おうとするが、馬を失った今の彼では、典韋の火を用いた加速には追いつけない。
荀或は、殆ど反射的に叫んでいた。
得体の知れない人物の采配に従うよう命じるなど、司令官のすることではない。
しかし、そんな戦の常識を越えた何かを、あの郭嘉から感じ取ったのだ。
その者の言うことを聞けば、必ず勝てるという安心感……
曹孟徳の言葉と似たような、揺ぎ無い確信。
自分が決して持ちえぬそれを彼が持っていることに、更なる敗北感を募らせるが、今は何より戦での勝利を優先せねばならない。
この戦に勝つためには、あの男の采配に従うしかない。
いかな確執があろうとも、荀或は軍師である以上、己の読みに従う他無かった。
やがて、曹操軍の将兵は全て城内に収まる。
呂布軍は、両翼の軍が合流し、呂布を筆頭に鏃型の陣形を組んで突撃してくる。
頑丈な城門は既に呂布に壊されている。
一応、弩弓隊が城門を固めており、一斉に狙い撃ちできるが……
その程度の策が通じる相手なら苦労はしない。
このままでは、呂布を相手に正面衝突という、極めて危険な戦を強いられてしまう。
しかもこちらは城門内にいるので思うように動きが取れない。
不利を知って、一かバチかの賭けにでたのか?
隣にいる郭嘉は、不敵な笑みを浮かべるばかりで心中は読めない。
だが……荀或は半ば確信していた。
この男が、そんな勝算の薄い賭けに出るはずがない、と。
「いやぁありがとうございますね! 君のお陰で私の作戦が成功しそうですよ!
お坊ちゃま、名前は何と仰いますますか?」
敬語だが、子ども扱いするような台詞に荀或は憮然となる。
「曹孟徳の臣で、名は荀或、字は文若と申します。
それと、僕は武将なのでもう大人です!」
「やぁやぁ、ではいずれ私の先輩になるお人なのですね!
これは失礼致し致しました!!」
そういう郭嘉の口調は、まるで悪びれた様子が無い。
「それより、貴方は何の考えでこんなことを……」
「しっ。そろそろ来ますよ。身を屈めて……できれば耳も塞いでおいた方がいい」
「?」
郭嘉の言葉の意味は……すぐに判明することとなる。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン…………
耳の中を掻き毟るような、不快な羽音と共に、“彼ら”は現れた。
「な!? や、奴らは!!」
その姿を目撃した高順は、血相を変えて叫ぶ。
地平線の彼方から、物凄い速さで迫ってくる、黒い雲。
いや……それは雲ではなく、無数の“奴ら”の集合体だった。
刃と刃を擦り合わせるような独特の羽音と、その猟奇的な形状を目に留め、張遼が叫ぶ。
「鋸蝗か……!!」
鋸蝗……
予州、遠州、徐州にかけて生息する蝗の一種。
体色はくすんだ緑色。体長はおよそ10センチ、大きいものでは30センチに達する中原最大の蝗。
その名の通り、彼らは翅や口腔部、発達した後脚が全て波打つような刃となっているのが特徴で、
頭部には鏃のような鋭利な刃が備わっている。
外見通りの荒々しい気性と凶暴性を持つ。
突然変異によって誕生した、幻獣の一種であるなど諸説あるが、
未だその根源は明らかになっておらず、中原に人が住むずっと前からこの地上を渡り歩いてきた。
基本的には草食で、田畑の作物などを食い荒らすが、移動の障害となるものは全て食い破るという習性を持つ。
彼らは常に、一万から一億、一兆とも言われる数で編隊を成して飛行する。
気性も獰猛で、近づく対象は、その鋭利な刃で切り刻み、噛み千切る。
彼らに一斉に襲い掛かられたら、武将級ですら一たまりも無い。
肉を食べる万や億の刃に襲われるようなもので、彼らの通る後には、荒らされた田畑のみならず、牛や人の白骨も転がる。
彼らは活動期間も特殊であり、活動する期間と休眠する期間がはっきり分かれている。
活動期間はおよそ一年で、その間に遠州を中心とした地域を休まず飛行し、食糧を摂取する。
その食欲は旺盛で、彼らの通るところ草の一本も残らない。
一年かけて存分に腹を膨らました後、長い長い休眠期に入る。
これがおよそ四、五年と言われ、彼らはその間に繁殖も行い、更に数を増やす。
鋸蝗の活動期間は、遠州の民にとって恐怖の一年であり、折角耕した田畑も殆どが食い荒らされてしまう。
運が悪ければ、蝗の編隊に遭遇し、命まで落とす危険もあるのだ。
彼らに出来ることは、ただ民家に閉じこもって危難が去るのを待つしかない。
遠州が、他の地域と比べて荒れ果てているのも、鋸蝗の活動が大きな要因である。
そして……この年は、丁度鋸蝗が永い眠りから覚め、活動を再開する年だったのだ。
億を越える鋸蝗の大群に、呂布軍は瞬く間に呑み込まれる。
無数の蝗が宙を飛び交い、視界は黒く染まる。
鋸蝗の鋭い羽は、兵士の体をズタズタに切り刻む。
運の悪い者は、顔面を水平に斬られて顔を真っ赤に染める。
兵士達は応戦しようとするが、あまりにも数が多すぎる。
全身を頭部の刃に刺され、無数の矢を浴びたように斃れ臥す。
呂布軍は、たちまち阿鼻叫喚の坩堝と化した。
「あ、貴方はこれを狙って……」
一方……城内に入った曹操軍に被害は皆無である。
濮陽城の周辺は、蝗の群れに包まれていた。
彼らは皆、城を無機物と見なし、方向を変えて飛行する。
蝗の進路は、西から東……城は門を北とする方向に立っていたので、開いた城門から蝗が入ってくる心配はない。
「さぁ、射撃開始です!!」
郭嘉は細剣をかざし、兵士達に指示を下す。
皆、今度は郭嘉の命令を素直に受け入れる。
蝗で混乱する呂布軍に向けて矢が放たれ、彼らの陣営を更に混乱に陥れる。
「あはははははは!! 狙い通り計算通り!!
ここまで来ると、自分の才能が怖くなっちゃいますねぇ!!
あはははははははははははははは!!!」
高笑いする郭嘉。
彼は全て読みきっていたのだ。
この地に、活動再開した鋸蝗の群れが押し寄せることも。
恐らく、ここに来る前に調査を済ませていたのだろう。
城の中に入っていれば被害を受ける心配が無く、呂布軍にだけ損害を与えられる。
それゆえの撤収命令。
彼は、蝗という人の思考の及ばぬ現象まで策に組み込んだのだ。
まさに人智を越えた御業と言っていいだろう。
荀或には、すぐ傍にいるはずの郭嘉は、遙か遠い存在に思えた。
「どけや、クソ蟲ども!!」
方天画戟を振るい、千以上の鋸蝗を瞬時に屠る呂布。
赤兎馬などは、襲い掛かってくる蝗を逆に食べている。
だが、一万、一億の前ではその程度の欠損はすぐに埋められてしまう。
どうにか蝗に対抗できているのは、呂布と赤兎馬の他には高順、張遼だけ……
他の武将は、鋸蝗の前に力尽き、一人、また一人と斃れていく。
耳を劈く羽音に、呂布は不快感を露にしていたが……
この時、杭が打ち込まれるような疼きを脳内に感じた。
何か……何かが近づいてくる。
呂布は、何気なく首を右に逸らす。
瞬間……一本の矢が、高速で飛んできた。
城門とは反対方向の一撃で、その勢いや速さは、一般兵のそれは比べ物にならない。
かつてない歓喜の予感が、呂布を刺激する。
獰猛な鋸蝗の群れは、やがて全て通過し終える。
彼らは武将を食べに着たのではなく、単にこの場所を通りかかっただけなのだ。
それでも……進路上にいた呂布軍の損害は無残なものだった。
立っているのは呂布、赤兎馬、高順、張遼を除けばほんの僅かしかいない。
後には、蝗に食い荒らされた死体が幾つも転がっている。
「よし、これなら……」
これで、呂布軍に壊滅的な損害を与えることができた。
残る将はいずれも強者揃いだが、兵力の差は歴然、このまま押し切れば……
「それに……時間稼ぎも完了しました」
「え…………」
そう言った郭嘉の顔は、いつもの陽気な顔ではなく、穏やかな微笑みを湛えていた。
その様子からは、どこか敬いの精神さえ感じられる。
郭嘉は地平線の彼方に向けて、規則正しく一礼する。
「お待ちしておりました。我が覇王よ」
「ようやく来やがったか……」
呂布は、開戦以来最も嬉しそうな笑顔を浮かべて、迫り来る砂塵を睨む。
先ほどこちらに矢を射った射手は、部隊の先頭に立っている。
近づいてくるたびに感じられる圧迫感。
軍勢の中央にいる、赤装束の少年は、琥珀色の瞳で“敵”を見据える。
「よくも人の庭で好き勝手やってくれたな。
相応の対価は払ってもらうぞ……呂布!!」
「待ちかねたぜ……曹操ぉぉぉぉぉぉッ!!!」
呂布は赤兎馬に跨り、敵の城を捨て置いて曹操軍の下へ向かう。
これまで散々味わった未知なる戦……その根源と思しき男との闘争。
それを思い描くだけで、呂布の心は歓喜で潤った。
乱世の奸雄と中華最強……
最強の軍と最強の武を有する者。
この戦を皮切りに始まった彼ら二人の争いは、今後五年以上の長きに渡って続けられることになる……