第七章 徐州大虐殺(三)
「ヒャハハハハハハ――――ッ!!」
方天画戟が唸りを上げ、敵将の首を刎ね飛ばす。
「お見事でございます、将軍」
呂布の目の覚めるような活躍に、軍の士気は高まっていく。
高順も、感服しきった面持ちで賛辞を送る。
長安出立時には五十余りだった呂布の軍勢は、今や数万に膨れ上がっていた。
彼の圧倒的な強さに恐れをなし、あるいは憧れた将兵達が、次々と呂布の下に降った為だ。
今日もまた、黒山賊の頭領を討ち取った。
これで、黒山賊の残党も全て呂布に降伏するだろう。
弱肉強食の世界を生きてきた彼らにとって、強者に服従することこそ摂理だからだ。
「おら、喰え、赤兎」
赤兎馬から下馬する呂布。
赤兎は身を屈めると、頭領の死体に近寄り、そのまま食べ始める。
呂布が討ち取った武将の肉が、彼の主食である。
現在の呂布は、董卓戦での傷跡が残る額に、鬼の角を模した額当てを付け、
身体を赤い軽装で多い、両肩には牙の生えた鬼の髑髏を模した肩当てを装備している。
ますます、悪鬼羅刹を髣髴とさせる装束であるが、味方からすればこれほど頼もしい存在はいない。
呂布は近くの岩の上に無造作に腰を下ろす。
「で、次はどいつと殺り合う?」
呂奉先は、勝利の実感に酔い痴れることなど無い。
敵を屠るたびに考えるのは、次なる敵のことばかりである。
戦で火照った体は、すぐにも新たな敵を求めて疼き出す。
そのことを、高順ら側近はよく理解していた。
「はい……揚州の袁術か、遠州の曹操か……
曹操は、新興ながらも三十万の青州兵を傘下に置く大勢力で、
虎牢関の戦では、あの董卓に深手を負わせたこともあるとか……」
「ああ、そういやそんなこともあったな」
すっかり忘れていたように言う呂布。
しかし、董卓を傷つけたという男に、新たな興味が沸き上がっていた。
「一方、袁術は数だけは多いですが、これといって秀でた将はおりませぬ。
あの男の器量からすれば、当然のことでありますが……」
高順は苦笑する。
「まずは袁術を討ち、その兵を奪い取った上で
曹操に戦を仕掛けるのが上策と存じますが、いかがいたしましょう?」
「ハッ……んなもん決まってんだろ」
呂布は方天画戟を手に取り勢いよく立ち上がる。
「曹操を潰す」
自分の意見が却下されたにも関わらず、高順は笑みを浮かべている。
いつもこうだ。高順が、自軍に有利な戦略を提案すれば、
呂布は必ずと言っていいほどその真逆の案を採用するのだ。
呂布にとって、確実に勝てる戦いなど何の面白味もない。
あえて自分を不利に追い込んでこそ、ひりつくような緊張感を味わえるのだ。
最も、これまでどれだけ不利な戦局でも、呂布は苦戦したことなど一度も無い。
如何なる苦境も、全て圧倒的な武力で粉砕してきた。
自分を阻む障害など存在しないと言わんばかりに……
その神がかった強さに、将兵達は畏敬の念を更に強める。
好んで危険を求める呂布は、一軍を率いる将として失格かもしれない。
それでも、敢えて危難に立ち向かい、物ともせずに突破する彼の姿は、
高順を初めとする武人達の羨望を一身に集めている。
そのような男だからこそ、彼らは真の武人として尊敬し、呂布と共に燎原を駆けるのだ。
「ほう……次の標的は曹操か……」
「誰だ!!」
聞き覚えの無い声に、高順は誰何する。
見慣れない容貌の男が、いつの間にか軍の中に混じっていた。
褐色の肌に縮れた黒髪、狡猾そうな三白眼、異民族風の衣装。
明らかな異分子にも拘らず、何故か男の存在感は希薄だった。
将軍の中に混ざっていても、ずっと気づかれないほどに……
男は笑みを浮かべながら、呂布の前へと歩を進める。
「お久しぶりです、呂布将軍。ご健勝のようで何よりです。
かつて董卓軍にいた者ですが……覚えておられますか?」
「知らねぇ」
興味無さそうに即答する呂布。
董卓軍にいた頃は、ひたすら戦に明け暮れるばかりで人の顔など覚えようとしなかった。
また、進んで呂布に近づこうとする者もまずいなかった。
そんな事情を知っているのか、男はさして気分を害した様子も無い。
素っ気無い呂布と違い、高順は用心深く男に接する。
「貴様……一体何をしに来た?」
「なぁに……曹操を攻めるなら、是非ご一緒させていただきたいと思いましてね……」
男は口許を歪めると、ククク……と不敵な笑みを漏らした。
徐州……
陶謙の居城、下丕城に到着した劉備は、陶謙との会見もそこそこに曹操軍への対応に乗り出す。
既に先遣隊と思しき部隊が城の前に到着している。
劉備軍が到着して、ほんの数分後のことだ。
「連中、進路上の城は全部落としながら移動してるってのに……何て速さだ」
真っ直ぐ下丕城に向かった劉備だが、後少しでも遅れていれば既に下丕城は陥落していたかもしれない。
曹操軍の進軍速度に、劉備は改めて舌を巻く。
城の大窓から、城の前に展開する曹操軍へと目をやる。
(あれはまだ、ただの先遣隊のはず……
なのに、まるで曹操自身が率いているみたいじゃねぇか……)
曹操の戦は、虎牢関で一度見ただけだが、
熾烈でありながら全てが合理的に統率されており、底知れぬ凄味を感じたものだ。
眼下の軍にもそれと同じ感覚を覚える。
曹孟徳は、軍の末端にまで自分の存在を溶け込ませることが出来る男なのか。
まだ見積もりが甘かったかもしれない。
あれだけの強さならば、虐殺による悪名など物ともせず、
全ての敵を潰滅せしめ、天下への道を駆け上がるだろう。
(そうはさせるかよ)
心中でそう呟いたところで、劣勢は明らかだ。
他の諸侯は動く様子を見せず、城に集まるのは曹操から逃げ延びて来た飢民ばかり。
下丕城の命運は、今や風前の灯と言っていい。
それにしても……あの見事に統率された軍を見る度、何故曹操があのような蛮行に走ったのか理解できない。
狂気と合理は必ずしも相反するものではないが、今回の虐殺にはおよそなすべき利点が見つからない。
三日も山村に留まったせいで、進軍速度は大きく鈍った。
陶謙軍を怯えさせるだけなら、もっと他にやりようがあったはずだ。
不思議と、父を殺された逆恨みが理由ではないと確信していた。
“アレ”は、そんな小さい理由で動くような器ではない。
もしそうなら、どれだけやりやすいことか……
「ち……やめだやめだ」
いくら考えたところで、答えが出るはずもない。
今は、間もなく到着する曹操の本隊を相手に、どう城を守り切るかを考えるべきだ。
あるいは、眼下に見える先遣隊は囮で、本隊は既に近くに隠れ潜んでいるのかもしれない。
そんな予断を抱かせてしまうことが、曹操の恐ろしさだ。
思いつく限りの可能性を考慮し、対策をひり出す。
勿論その中には、“城を捨てて逃げる”という選択肢も入っているのだが。
「劉備殿……」
か細い声で呼ばれ、後ろを振り向くと、そこには陶謙がいた。
側頭部に灰色の髪を残す禿頭の男で、小動物のような瞳をしている。
眼を不規則に動かし、体を小刻みに震わせている。
その怯えきった様子は、とても一州の主とは思えない。
しかし、全ては曹操への恐怖が原因なのだろう。
彼と彼の民が被った災難は、幾ら同情してもし足りないぐらいだ。
彼とて不老の将であるはずなのに、精神的な疲れで酷く老けて見える。
「どしたい、陶謙さん」
劉備は、そんな陶謙を落ち着かせるように、気さくに返事をする。
「……私は、領主失格だ……」
「おいおい、何だよ藪から棒に……」
劉備は咄嗟に不快な表情を覆い隠す。
果たして、予想通り、長い陶謙の自虐が始まった。
「曹操を甘く見すぎていた……
あの裏切り者達のしでかしたことは確かに大罪だが、
心のどこかで、私の責任ではないとたかをくくっていた……
その結果、曹操を激怒させ、何の罪も無い民草を大勢死に至らしめてしまった……
もっと早く、私の首を差し出して詫び、
速やかに降伏していれば、少なくとも民に累が及ぶことは無かったものを……」
小鳥のような声で鬱屈と喋る陶謙。
今更そんなこと言われても……と劉備は思ったが、勿論顔には出さない。
「仕方がねぇ。あんなことは、誰にも予想できるわけが無い。
あんたは悪くないさ……」
「家臣達は、皆がそう言ってくれる……
だが、皆に慰められるたび、
私は何と情けない領主なのだろうとひたすら申し訳ない気持ちになって、
何かしようとは思うけど結局何も思いつかなくて、
ああ、私は駄目だ私は無能だ私は失格だ、
そんなことをだらだら考えている時点で
やはり私はどうしようもない愚図なんじゃないかと……」
(あーもうこいつ面倒くせー……)
「あ、済まない……私の気持ちなどどうでもいいことだね。
さぞかし鬱陶しい男だと思っているんだろう……」
心を読まれたのかと劉備は一瞬どきりとなるが、
これも陶謙の自虐の一環だと考えいる。
「まぁ、愚痴を長々と聞かせてもしょうがない……
そんなこと、君にはどうでもいいことだよね。
無駄な時間を取らせてしまって申し訳ない思いでいっぱいだ……
何かお詫びをしなければならないが、
お詫びそのものが君にとっては
余計なお世話なんじゃないかと私は怖くて仕方が無い……
何かいいお詫びの仕方はないだろうか、と君に聞いている時点で
私は人の心も読めない駄目な領主なんだと思って…………」
ひたすら自虐を続ける陶謙に、劉備もさすがにぶん殴りたくなってきた。
曹操を怒らせたのは、陶謙のこの態度のせいではないかと疑いたくなる。
それから更に自虐が続いた後、陶謙はようやく本題に入った。
「とにかく……だ。私は領主の器ではないとはっきり分かった。
だからね……劉備殿……君に、徐州の牧になって欲しいんだ……」
「俺に?」
一瞬……小躍りしそうになるのを強く律する。
「ああ! 済まない済まない!
いきなり本題に入ってしまって本当に申し訳ない!
まずはじっくり前置きしておくべきだった!」
(いや、もう前置きは十分すぎるぐらいやったっつーの)
どうにか陶謙をなだめて、続きを話させる。
「正直……城の者達は皆諦めていた……このまま私達は成す術も無く負け、
曹操に皆殺しにされるのだろうと恐怖に怯えていた。
だけど、劉備殿……君が来てから、城には希望の灯が点った」
「はっ、あんな少ない兵で、戦力の足しになったのかどうか……」
軽く自嘲してみる劉備。自分にも陶謙の癖が移ったのだろうかと考える。
「兵の数の問題ではないよ。劉備殿、全ては君の力だ。
城の者達と違って、君は全く曹操を恐れていない。関羽殿や張飛殿も同じことだ。
先頭に立って軍を引っ張り、皆を励ましながら、
曹操に断固立ち向かう姿勢を見せている。
君のその姿に、我々はどれだけ勇気付けられたことか……」
先頭に立つのは他にやる者がいないからだ。
兵舎を見回りして励ますのは、少しでも士気を上げる為だ。
形だけでも立ち向かう姿勢を見せておかねば、皆の戦意を維持できなくなる。
全ては戦に勝つ為、ひいては自分が生き残る為の計算ゆえの行動に過ぎない。
最低限の振る舞いをして、多少士気を持ち直しただけだ。
それだけ、下丕城の絶望は深かったとも言える。
劉備は本音を漏らさず、陶謙の言葉に耳を傾けている。
「今となっては、皆私なんかより君を頼りにしている。
もっと言えば私なんかもういないも同然の扱いで、
君の下に作戦を相談しに往く文官や、
関羽殿や張飛殿の下に稽古をつけて貰いに往く将軍はいても、
私の事を気にかける家臣なんか誰もいない。
何だか透明人間にでもなってしまったような心境だよ。ははは……」
乾いた声で笑う陶謙の姿は、本当に透けているように見えた。
「それにね……実はもう私は長くないんだ。
もう十分すぎるほど生きたからね……」
陶謙の顔色が悪いのは、何も恐れの為だけではなかった。
不老の武将といえど、寿命は存在する。
肉体の衰えなどは無いが、ある程度の年齢に達すると、そのまま緩やかに死を迎えるのだ。
「正直に言えば……このまま寿命で死ねば、
曹操に捕まって酷い拷問を受けたりする心配も無いから
むしろ楽でいいなぁと思っているんだけど、
民があれだけ苦しんで死んでいっているのに
自分は楽に死ねて嬉しいなんて、
また私はなんて性根の腐った酷い領主なんだろうと思うばかりで、
でも、もうこれ以上領主としての重荷に耐え切れない自分もいて……」
ようやく本筋に入ったと思ったら、また長い自虐である。
今度も劉備は、根気強く聞いてやる。
何せ、今は一番大事な……
そう、“この徐州を訪れた本来の目的”に関わる時なのだ。
「だから……私が死んだ後、徐州の牧の地位を引き継いでもらいたい。
民も臣下も、誰一人異論はないだろう。劉備殿、この話……受けてもらえるかな?」
陶謙の申し出に対し、劉備は……
「陶謙さん、この劉玄徳の最もいいところを教えてやろうか?」
「それは……」
「人から貰えるものは、何でも快く貰ってあげることさ!!」
劉備は朗らかな声で答えた。その答えに、陶謙は目を輝かせる。
「で、では、引き受けてくれるのかい!?」
「ああ、任せときな。この徐州の地は、この劉玄徳が守って見せるぜ!」
「あああ……ありがとう!ありがとう劉備殿!
こんなどうしようもない私の頼みを聴いてくれて……
ああ、今酷く安心した自分がいる……まだ私は領主のままだというのに……
やっぱり私は領主失格だ……失格だ……」
喜びから一転、欝に入った陶謙の言葉など、もう劉備の耳には届かない。
流浪すること数年、ようやく確かな拠点を手に入れられたのだ。
しかも、一州の牧ともなれば、諸侯の仲間入りが出来る。
各地で鎬を削る群雄達の争いに、ようやく対等の立場で介入することが出来るのだ。
形勢不利を知りつつ徐州の救援に訪れたのは、全てこのためだ。
勿論、陶謙が寿命でもうすぐ死ぬことも既に知っていた。
彼や下丕城の者の信頼を得て、牧の地位を譲り受ける計画は、これでほぼ成功したようなものだ。
最も……“ほぼ”以外の部分が、一番の難題なのだが。
曹孟徳の悪鬼の軍勢を、如何にして凌ぎきるか。
彼の約束された地位は、実は波間に揺れる小船のごとく危ういものなのだ。
(やるしかねぇ……やるしかねぇよなぁ、劉備よぉ……)
形を取り繕っているだけで、内心の不安は陶謙とさして変わらない。
それでも劉備は、何より確かな己を支えとして、決して戦意を崩しはしなかった。
「ほう、下丕城に劉備が救援に訪れたとな」
進軍中の曹操は、興味深そうな顔でその報を受け取る。
数万単位の虐殺をしたにも関わらず、彼の顔は実に穏やかなものだ。
徐州占領という本来の目的を果たすまで、彼は決して揺らぎはしないだろう。
「はい……ですが、兵の数はたかが知れています。
練度においても青州兵の敵ではありますまい」
落ち着いた口調で語る程旻。
「こちらには、そなたもついておるしの。しかし……」
「関羽に張飛……あの二将の力は、決して侮れませぬ」
「奴ら二人は、俺と淵で抑える。これで問題解決だ!」
自信たっぷりに語る夏侯惇。
好まぬ虐殺をした為なのか、今の彼は酷く機嫌が悪い。
後味の悪さを少しでも払拭するには、名のある武将と真っ向勝負をするに限る。
ただでさえ、これまでの戦は相手が弱すぎて鬱憤がたまっていたのだ。
「惇兄の思惑はさておき、私も異論はありません。
劉備に過ぎたる将……ここで潰しておけば、後の不安要素を取り除けます」
義兄の意見に夏侯淵も同意する。
曹操は相変わらず考えが読めない顔をしていたが……
「急報! 急報―――ッ!!」
雷鳴のごとき速さで、曹操の下へと馬を走らせる伝令兵。
顔色からして只事ではない。
「何があった……」
程旻の問いに、伝令は息せき切って答えた。
「りょ、呂布が! 呂布が遠州に攻め入ったとの報が!!」
「呂布だとぉ!?」
呂布の名に、声を張り上げる夏侯惇と、冷静に問う夏侯淵。
「兵の数は?」
「およそ、一万ほど……」
それを聞いて、夏侯惇は鼻を鳴らした。
「ふん、一万か! あっちには二十万の青州兵が残ってんだ!
それに、そいつらを率いるのは俺達曹操軍の神童、荀或だ!!」
「んあ〜〜典韋や曹仁、曹洪ねーさんもいるだよ」
いずれも、信頼篤き曹操軍の勇者達。
惇や許楮の言葉を聞いて、皆大丈夫だろうと安堵する。
しかし……
「全軍後退せよ。直ちに遠州へ帰還する」
馬を止めた曹操は、馬首を返しながら全軍に命じる。
俄かに信じがたい命令であっても、曹操軍の将兵は皆それに従う。
そうするよう鍛錬されているからだ。
それでも、内心では到底納得していない。
「お、おい孟徳! 下丕城は眼と鼻の先だぜ!
速攻で城を落としてから戻っても……」
「遠州が呂布の手に落ちれば全て終わりだ。
故に最速で戻る。それだけのことだ」
「……負けるってのか荀或が……」
数万の犠牲を払い、後一歩のところまで迫った徐州占領。
それを平然と投げ出して帰還を選ぶ。
余人には真似の出来ぬ、切り替えの早さ、執着の薄さはまさしく曹孟徳だ。
だがそれ以上に……信頼しているはずの荀或を疑うかのような態度に、夏侯惇は衝撃を受けた。
(荀或……あやつは呂布の旗揚げを聞いてから、ずっと呂布への対策を練ってきた。
今頃は慌てることなく、必殺の策を用意していよう)
そこまではいい。だが……
(だが、荀或は呂布を完全に理解してはいまい。
あやつは呂布をただ強いだけの将と思っている。
強さに、強さ以上の価値を見出せない人間だ。
だからこそ……あやつは解っておらぬ……
純粋無垢なる“ただの強さ”が、どれだけ人の心を狂わせるかということを。
あやつはこの曹孟徳を盲信している。
それ故に、呂布を曹操と同じ土俵に立てて考えることが出来ぬのだ……)
呂布の強さは、呂布だけのものではない。
もしも荀或がそれを侮るようならば……確実に負ける。そして死ぬ。
今の曹操に、徐州を捨てることへの後悔は微塵も無い。
彼の琥珀色の瞳は、迷わず勝利だけを見据えているのだ。
「なぁ益徳……こういう時どう反応すればいいと思う?」
「笑えばいいんじゃねーか?」
すぐ傍まで迫っていた曹操軍の本隊が、突如として撤収したという報に、誰もが動揺を隠せなかった。
城門前に展開していた先遣隊も、影も形も無い。
曹操による罠の可能性も疑う意見も続出したが、あれから何の動きも無い。
まるで、潮が引いてしまった海岸のように穏やかだ。
偵察隊の報告では、わき目も振らず徐州を出て、本拠地遠州に戻っているという。
何でも、呂布軍の侵攻が原因らしいが……
目前の勝利を捨てて本拠地の防備に戻る。
将としてはこの上無く正しいかもしれないが、その迅速な決断はやはり怪物としか思えない。
「大したもんだぜ、曹操って奴は……その曹操を迷わず撤退させた呂布もな」
この場合、呂布のお陰で命拾いしたと思うべきだろうか。
実際、密かに期待していた通りの展開ではあるのだが、まさか本当にそうなるとは思わなかった。
だからといって、別に呂布に感謝するつもりはない。
それぞれの違う思惑が、ある者の利となり、ある者の不利となる。
数多の糸が絡み合った時代……それが乱世というものだ。
「劉備殿! 劉備殿ー!」
陶謙の兵士が叫ぶ声が聞こえる。
また何かあったのかと思いつつ、劉備は声のした方向へ向かう。
そこは、逃げ延びた徐州の民草が集められている場所だった。
その、兵士達が固まっている一画で……百姓の女が、血を流して倒れていた。
女は腰に槍を突き立てられ、既に絶命している。
「お、お前ら……!」
「ち、違います!
この百姓、突然隣の者に噛み付き、暴れ出したのです……それでやむなく……」
勘違いしかけた劉備に対し、慌てて説明する兵士。
そして、倒れた女の顔を見せる。
「な……!」
女の口には鋭い牙が生え、顔は地獄の餓鬼のような形相で固まっている。
牙には、噛み付いた人間の血が生々しく滴っている。
衝撃を受ける劉備だったが、彼の中ではある思考が高速で組み立てられていく。
「なぁ……この辺にいるのは確か、曹操が虐殺やらかした地区から流れてきたんだよな……」
兵士は首を縦に振る。
そんな中、一人の百姓が震えながら言葉を漏らす。
「お、同じだ……」
「同じ?」
「あの夜と同じ……突然、隣村の連中が、正気を失って押しかけてきて……
村のみんなを襲って、その肉を食べ始めたんだ。
俺はどうにか逃げられたが、まだここにも……」
そのまま、男は萎縮して一言も発さなくなる。
この男に追随するように、同じような話が各所から出た。
たちまち、場は喰人鬼と化した村人の話で湧き上がる。
彼らは曹操軍ではなく、喰人鬼から逃げ出してきたというのだ。
なお、曹操軍に襲われたと証言する村人は、誰もいなかった……
それは、曹操軍が目に付いた村人は全て皆殺しにしたからと思われていたのだが……
突然暴れ出す女、人を喰らう喰人鬼、曹操の大虐殺……
全ての情報が一つに繋がり始め、隠された真実が垣間見えてくる。
真実をほぼ手に掴みながらも……劉備は黙して、その場を後にする。
付き従う関羽は、思わず声を張り上げる。
「兄者! 今の話から考えると、曹操の虐殺は……」
「だから……何だ?」
さすがに関羽は賢いが、劉備は実に冷たく返す。
「あの虐殺が曹操のせいじゃなかったとして……一体俺に何の得があるんだ?」
劉備の冷たい言い回しには、どこかやるせなさが篭っているようだった。
そう……真実が明らかになったところで、誰も救われはしない。
起こってしまったことは、もう変えられない。
真実を掘り返して、明るみにすることに一体どれだけの意味があるのか。
この世で信じられるのは、常に大多数の人間が認識したことだというのに。
そんな偽善に浸るぐらいなら、自分のことだけを考えた方がまだ建設的だ。
過去を顧みるなど無駄なことだ。
所詮人間は、未来に向かって進むしかない……
いや、進むことしかできない生き物なのだから。
「兄者……」
無言で立ち去る劉玄徳の背中を見ながら、関羽は主の深い悲しみを感じ取るのだった。