第七章 徐州大虐殺(二)
徐州に侵入した曹操軍。
開戦早々に城を落とし、陶謙のいる下丕城に向けて進軍する。
その途中立ち寄った村で……彼らは凄惨な光景を目の当たりにすることとなる。
「何だこりゃあ……」
夏侯惇は眉を顰める。
村には、幾つもの死体が転がっていた。
そのどれもが、腹部を裂かれたり、喉笛を噛み千切られていたり、猛獣に食い殺されたような有様だった。
「んあ〜〜狼の群れにでも襲われただか?」
「妙だな……」
曹操は、この惨状に対し冷静に違和感を抱く。
その疑問を、傍らの程旻が代弁した。
「はい……民家の数に比べて、死体の数が少なすぎます。
他の住民は何処へ行ったのか……」
周辺の調査を始めようとした時、黒い影が曹操の下に馳せ参じる。
「于禁! 貴様また勝手に……」
叱り付ける夏侯惇には取り合わず、于禁は覆面越しに笑みを浮かべて告げる。
「来てみろ……面白いものが見られるぞ」
「これは……」
于禁に導かれた先で、曹操軍が目にした者は、まさしくこの世の地獄だった。
目の色を獣のように輝かせ、牙と爪を生やした村人が、大勢で群れを成し、同じ村人を襲っているのだ。
男も女も、老人も子供も関係なく、人の肉を喰らう喰人鬼へと変貌していた。
餓えた狼のように……いや、それ以上の獰猛さで同胞を殺し、その肉を喰らっていく。
夏侯惇を初め、皆がその光景に呆然となる中で……最も早く声を上げたのは、曹操だった。
「全軍に告ぐ! あの喰人鬼を残らず殲滅せよ!!」
曹操の命令に、皆が唖然となる中で……最も早く動いたのは、許楮だった。
「んあ〜〜」
左腕の鉄球を振り回し、喰人鬼と化した村人を潰し殺す。
まだ虫の息の被害者もいたが、荒ぶる鉄球はお構いなく圧死の洗礼を与えていく。
「孟徳……お前は……!」
やや遅れて、夏侯惇も大鎌を手に切り込んでいく。
迷っていた兵士達も、彼の行動を見て後に続く。
喰人鬼は、百姓の身なりでありながら高い身体能力を持ち、一般兵はかなり梃子摺っていた。
しかし、夏侯兄弟や許楮ら一騎当千の将の敵ではない。
瞬く間に殲滅され、辺りは村人の死体で埋め尽くされる。
喰人鬼の餌食になった村人の中で、生き残った者はいなかった。
そして、喰人鬼もまた、死ねばただの百姓にしか見えない。
止むを得なかったとはいえ、村人を手にかけたことに、夏侯惇らは強い罪悪感を覚えていた。
「胸糞悪ぃ……一体どうなってんだ!?」
その異常な状況に思いを馳せる暇もなく……またも先行していた于禁から、戦慄すべき報告がもたらされる。
「次はあちらだ。どうやらこの辺一帯の農村で、同じことが起こっているようだな」
「何だと……」
この先の村にいる住民の殆どは、既に喰人鬼と化していた。
彼らは餌……即ち人間を求めて、徐々に勢力圏を拡大しているという。
何か、人智を越えた現象が起こっているのは間違いない。皆が動揺を受け、どう動いていいか分からぬ中で……
「進軍を止めるな。目に付く喰人鬼は、全て駆逐せよ」
曹操はまたも冷然と命令を発する。
夏侯惇は、たまらず声を張り上げる。
「孟徳!これはどう考えてもおかしいぜ!
こいつら全員、元はただの村人だ!きっと裏に何か……」
「何かがあろうが無かろうが」
曹操に代わって言葉を紡いだのは、同じく苦渋の表情をしている夏侯淵だ。
「このまま喰人鬼を放置しておけば、被害はますます広がる一方だ。
ならば、可能な限り迅速に、一人残らず殲滅する……
それが最も死者を抑える手段なのだ」
「……っ! 分かってる……だけどよぉ……」
この村人達の死体を見て、人々はどう思うだろうか。
きっと、曹操が父親を殺された報復として、民百姓までも巻き込んだ虐殺に走ったと考えるに違いない。
これにより、奸雄の悪名は、決して拭えぬことなく後世まで残る。
夏侯惇には、それが何よりも耐え難いことだった。
だが、彼は迷いで脚を止めはしなかった。
馬を走らせ、次なる戦場へ向かう。
曹孟徳の命は絶対……それがどんなに耐え切れないことであっても、彼の命令ならば従うまでだ。
曹操は、無言で倚天の剣を抜き放とうとするが……
「孟徳様、お止めください。貴方が手を下す必要はございません」
「………………」
「御自身もまた、民を殺めることで罪を背負おうとしておられるのでしょうが、そのような気遣いは無用です。
我々は、貴方の罪も全て引き受ける覚悟を決めた上で、ここにいるのですから」
そんな夏侯淵の言葉を、曹操はにべも無く拒絶する。
「淵、それこそ無用な気遣いというものだ」
淵の制止を振り切って、曹操は馬を走らせる。
「孟徳様!」
「余、自らが手を汚さずして、どうして兵は余に従おう。
青州黄巾の民を真に余の臣下とするには、余自身が覚悟を示さねばならぬ。
この戦、試されているのは余の方なのだ!」
曹操の悲壮な決意に、夏侯淵は胸を打たれる。
一方で、自身が手を汚すことすら手段として捉えている計算高さに、改めて慄然となる。
彼の胸の内を知ることは、他の誰にも叶わない。
曹操自身さえ、完全には理解していないかもしれない。
それでも、曹孟徳は突き進む。
己の信じる理の為に、如何な汚名を被ろうとも、駆け抜ける脚を止めないのだ。
村人全てが喰人鬼と化した村の数は、およそ二十数箇所に及んだ。
村落の人口は、平均して約五百人……一万人以上が喰人鬼に変わった計算になる。
彼らは集落を出て、近隣の村を襲い、各地に被害を拡大していった。
しかし、曹操軍はそれ以上の恐るべき速さで展開し、曹操、程旻の指揮の下、最速で喰人鬼を殲滅していった。
掃討戦は夜を徹して続けられ……僅かな生き残りも残さぬよう、殺戮は徹底された。
こうして……一部を除いて、誰もその災禍の原因を知らぬまま……
数万規模の犠牲を払った殲滅戦は、僅か三日で終わりを告げた。
曹操軍による、村人の大量虐殺という結果だけを残して……
「曹孟徳……よくもここまでやってくれたね」
完全に人の死に絶えた村落を、陳宮は魏続、宋憲を伴って歩く。
辺りには、かつて村人だった喰人鬼の亡骸が、所狭しと打ち捨てられている。
彼の眼には、彼らに対する哀れみの色は無く、ただ残念そうな表情をしている。
「彼らは、人を食べれば食べるほど力を増す。
この徐州を僕の人間牧場にして、じっくり戦力を蓄えるつもりだったけど……」
予想外の、曹操軍による徐州侵攻。
これにより、喰人鬼はその真価を発揮する前に、尽く殲滅されてしまった。
喰人鬼と化した人間は、身体能力が大きく上乗せされる。
それをこうも一方的に虐殺してしまうとは……
やはり噂に違わず、曹操軍の戦力は阿修羅の如しである。
「やっぱり素体がただの民草だと、幾ら強化してもたかが知れているか。
役に立たない民を兵器として有効活用する……悪くない案だと思ったんだけどなぁ」
村人が喰人鬼と化した元凶……それは、陳宮が食糧の中に混ぜてばら撒いた薬品にある。
とある病原菌を保有する幻獣の血を抽出し、改良を加えた上で錬成したものだ。
この薬の効果は、人間の細胞を変異させ、獰猛な喰人鬼へと変貌させる。
ちなみに、この薬は武将には使えない。
彼らの強すぎる免疫力は、容易く病原菌を除去してしまうからだ。
董卓は、この計画をいたく気に入り、いずれは中華全土に広げようと考えていた。
陳宮としては、何故このあまり生産性の見込めない計画が気に入られたのか理解できなかったが……何ということはない。
董卓が欲していたのは、成果よりもこの薬によって引き起こされる人々の苦しみにあったからだ。
自分の実験で数万人が死んだにも関わらず……陳宮に罪悪感など欠片もない。
彼にとって、この世の全ては実験体であり、数に関係なく消耗品でしかない。
厭うべきは“無駄な犠牲”であり、何らかの成果を残せたならばそれは“犠牲”ではなく“消費”となる。
彼が目指すのは、あくまで生体改造による人類の進化と、それにより己の才能を誇示することにある。
董卓のような虐待が目的ではない。
しかし、ゆえに彼は、どれだけの死者が出ようとも己を“悪”だとは思わない。
実験による死者は、全て必要な消費だったと考えているのだ。
だからこそ、彼は決して止まらない。
そればかりか……
「僕の実験を妨害した曹操……彼にはいずれお返しをしてやらないといけないね。
勿論、その時はこんな脆弱な喰人鬼どもじゃなく、
僕の知能の粋を結集した改造兵士で相手してあげるよ」
実験を阻まれることを何よりも厭う彼は、曹操に対して個人的な確執を抱き始めていた……
数万規模の民百姓を、平然と虐殺した曹操の軍勢……
彼らの修羅の所業を見せ付けられた徐州の将兵達は震え上がった。
民も兵士達も、戦意を失い曹操が近づくだけで逃げ出していく。
曹操軍に降る者達も続出し、軍の規模は侵攻開始時より更に膨れ上がっていた。
陶謙による和平の申し出も、曹操は耳を貸さなかった。
次々と城を陥落させ、下丕城へ迫る曹操軍。
追い詰められた陶謙は、曹操の悪行を訴え、群雄に救援を求めた。
それに応じた軍の中には、幽州を離れた劉備の軍勢もいた。
「こ、こいつは……」
張飛は、目の前に光景に絶句する。
関羽は、唇を噛み締めて体を震わせている。
劉備は、俯いたまま一言も発しない。
赤黒く染まった幾つもの死体。
擦り切れた簡素な衣服は、明らかにただの非戦闘員のものだ。
原野を流れる河は……堆く積もれた死体によって塞き止められている。
一体どれだけの人間を殺したのか。
曹操軍の殺戮は、地形さえも変えてしまったのだ。
「ここまでやる必要があるのかよ……おい!!」
理解を超えた殺戮に、完全に狼狽する張飛。
関羽は血を流すほど唇を噛み締め、憤怒のあまり灼熱の溶岩のような顔色になる。
「これが……貴様の覇業とやらか……曹操ォ!!」
死体の山を前に、関羽は慟哭する。
董卓軍を相手に、自分達と共に最前線で戦った曹操。
彼もまた、董卓と同じ残虐な征服者に過ぎなかったというのか。
憤怒や悔恨、失望を全て塗りこめて、関羽は吼えた。
「はっ……はははっ!」
そんな中……劉備は唇を歪め、あろうことかこの惨状を笑い飛ばした。
「こいつは都合がいい……これで曹操の奴は天下の極悪人確定だ。
正直、あいつが良い子ちゃんのままでいるのが一番やり辛かったが……
ようやくボロを出してくれた。
これで、正義の御旗を抱える俺達も、戦い易くなるってもんだ」
劉備の発言は、誰もが耳を疑うものだった。
この殺戮を、自分にとって都合のいいことと正当化したも同然の発言だ。
今までの劉備を知る者が聞けば、顰蹙を通り越して憤激するのは間違いない。
しかし、それは、劉備にとって紛れも無く本音であった。
曹孟徳……彼は優れた統治力を持ち、人心を容易く掌握し、その上戦にも滅法強い。
その輝かしい才能と戦歴は、劉備にとって目の上のタンコブであった。
同じ“正統”を謳っても、真っ向から争えばあまりにも分が悪すぎる。
ただでさえ勢力と能力に歴然たる差があるというのに、その上世間の評判まで奪われては勝ち目が無い。
だが……
今回の虐殺で、曹操は非道な奸雄の名を確たるものとした。
その悪評は、正統派を自称する劉備にとって付け入る絶好の隙となる。
皆無に近かった勝機が、ようやく見えてきたのだ。
勿論……そんな姑息な考えを、目の前の二人が許容できるとは思えないが……
「兄貴……」
「……らしくないな、兄者」
「そうかい? 俺は元々こんな奴だぜ。今更失望したのか?」
関羽はゆっくりと首を振った。
見れば、張飛も怒るでもなく呆れるでもなく、憐れむような視線で見ている。
「違う。そんな本音をあえて口に出して語るのがらしくないと言っているんだ」
「…………!」
やはり義兄弟だ。
どれだけ卑劣漢を気取っても、この二人には顔だけで見抜かれてしまう……
劉備は二人に背を向け、俯いたまま沈黙する。
どうした?劉備――
まさかお前……あいつらが“かわいそう”だとか思っているんじゃないだろうな?
やめろ……そんなことを考えるな……
戦が起これば人が死ぬのは当然だ。
どんな善良な民であれ、どんな極悪人であれ、人は必ず死ぬ。
誰がいつ、何人、どんな形で死のうとおかしくないんだ。
そして、死んだら全てが終わりだ。何も残らない。
怒りも、悲しみも、喜びも、罪も……何もかもが全て。
そんなものは、遺された者の感傷でしかない。
劉備!
死人に引っ張られるな……!
死人に対して、“かわいそう”だとか、“仇を討ってやろう”とか考えるな!
俺たちは死人のために生きているんじゃない!
生きている人間のことだけを考えろ!
死人の仇討ちなど気取ったせいで、一体どれだけの血が流されてきたと思っている!
死者の想いなどという、ありもしないものに囚われるな!!
そうしなければ……いずれお前は取り返しのつかない過ちを犯す。
悲しみに囚われるあまり、本当に大切なものを見失ってしまうんだ……
死者の無念などただの幻想だ。そんなものは、人を利用する為の手段でしかない。
お前がそれに囚われていてどうする!?
揺らいだ心に喝を入れ、自分自身に強く戒める劉備。
自分にとって最大の敵は、曹孟徳ではない。
この、決して拭い去ることの出来ない“揺らぎ”だ。
本当に心地よく、されど容易く人を狂わせる“病毒”。
死を持ってしか癒せない難病。
自分は、生涯この病と戦いながら、夢に向かって進まねばならない。
どんな理由があれ、曹孟徳は、迷わず虐殺を敢行した。
“揺らぎ”など意に介さぬかのような決断力。
自分もかくあらねばならない。
冷徹に、非情に、曹操とは正反対の“善の道”を往くのだ。
迷わず、振り返らず……全てを利用する覚悟と共に。
直ちに、剥がれ掛けた仮面を修復する。
興奮を鎮め、昂揚を抑え、目の前の死体の山を、ただの“モノ”と見なす。
アレはただの礎だ。劉玄徳が曹孟徳を越えるための、死肉で築かれた踏み台。
大丈夫だ……自分はまだ、壊れはしない。
道を踏み外してはいない。
この程度の死者に感情的になるようでは、目指す“夢”など程遠い。
「往くぜ……こいつらの無念、俺たちが晴らしてやろうじゃねぇか!」
悲しみを湛えた“仮面”を被り、劉玄徳は徐州の原野を往く。
“夢”に向かって、内なる“病”に苦しみながらも、どこまでも真っ直ぐに――